青淵公園~渋沢栄一記念館

「青淵由来之跡」碑

「青淵由来之跡」碑

「中の家」を出てすぐ裏の青淵公園に出ました。
公園手前に渋沢栄一の雅号「青淵」の由来となった「上の淵」と呼ばれる青々とした深い淵(池)があったことから命名されたのですが、それを記念して昭和12年建立された「青淵由来之跡」碑が立っています。

青淵公園 青淵公園

青淵公園

その碑の左右に青淵公園が広がっています。
青淵公園は渋沢栄一の遺徳を偲ぶ公園で、生家「中の家」から渋沢栄一記念館までの清水川沿いの13.6ヘクタールに及ぶ公園です。
この公園プロジェクトは2005年~2009年度の5ケ年計画で整備されていて、特に桜の植樹が目玉となっていて2009年の完成までの100本以上の桜を植える予定であるとか。これは、渋沢栄一が晩年居を構えた桜の名所・飛鳥山公園(東京都北区)を目標に植樹していることだそうです。
川に沿った桜並木が近い将来、深谷の名所となるのかも知れませんね。

公園から一旦「中の家」に戻ってから渋沢栄一記念館を目指しました。
生家「中の家」から現在の薬師堂~青淵記念館~鹿島神社前を通って尾高惇忠生家までの約1.3Kmの道を「論語の道」といいます。これは栄一が幼少の頃から尾高惇忠に論語を習い通った道なのでいつしかこう呼ばれるようになったそうです。
さらにこの道の周辺に諏訪神社や渋沢栄一記念館、青淵由来之跡碑など栄一の所縁のある史跡などが数多く残されていて、それらを総称して「論語の里」と呼んでいるそうです。
今回は時間の都合もあって、青淵記念館、渋沢栄一記念館を訪ねる予定としました。

八墓公民館と青淵記念館

八墓公民館と青淵記念館

青淵記念館は深谷市八基公民館に併設されています。
もともと「渋沢栄一記念館」が出来るまでは、ここで”資料”が公開されていたそうです。現在も渋沢記念館に展示しきれない掛け軸などが展示されているそうですが、残念ながら土、日は閉館のため見学することが出来ませんでした。

渋沢記念館 渋沢記念館

渋沢記念館

「論語の道」から左折して50m位行くと渋沢栄一記念館があります。
大層立派な建物で、後に記念館内の館長の説明によるとバブル期だったので立派な建物が出来たそうで、現在なら建設することも難しいだろうし、もし建設されても5分の1くらいの大きさが精一杯ではないだろうかとおっしゃられていました。
ある意味パブル期の恩恵だったのでしょう。

館内のエントランスホールに入ると右手に事務所、左手が展示室となっています。さらに正面に多目的室が2Fの吹き抜けとなっています。2Fは談話室や研修室、図書室などがあり市民の憩いの場として利用されているようです。
ですから、「渋沢栄一記念館」とは栄一の資料館ではなく、栄一を記念した公的・多目的施設の中に栄一の資料が展示されていると言ったところでしょうか。 それで建物自体が立派だったのですね。

資料館内

渋沢記念館資料室

資料室に入ると記念館の館長がいらっしゃり、「ご案内しましょうか」と言われたので別の3名の方と一緒に説明を受けながら展示品を見て回りました。
*写真厳禁なのですが1枚だけ撮ってしまいました。お詫びいたします(筆者)

興味深いお話をいくつか列記します。
深谷時代のコーナー(特にはっきりと分かれているわけでは無いのですが、幼少から順番に展示されているので)には相撲の番付表が展示されていて、タイトルには”武州自慢鑑藍玉力競”と書かれてありました。
江戸時代、染料となる藍は重要な作物だったそうで、先の生地「中の家」でも藍を栽培している農家から藍を買い付けて造った藍玉(藍の葉を発酵・熟成させた染料である?(すくも)を突き固めて固形化したもの)を紺屋に販売していたそうです。
14歳の頃から藍の買い付けに同行し、藍葉の鑑定力を磨いたそうです。そしてその後県外にも買い付けに行き16歳の頃には農家の人からも一目置かれる存在だったそうです。 ですが、当時の藍玉は阿波藩のものが良質されていました。そこで栄一は阿波藩に負けない藍玉を作ろうと、良い藍を栽培した農家を順番に大関、関脇、小結・・・とした番付表を作りました。これが”武州自慢鑑藍玉力競”で栄一は行司役を務めていたそうです。
これによって「良い藍を作って来年は大関になろう」という、後年の栄一の一端を垣間見る資料でした。

同じ時代、子供の頃から渋沢栄一はいとこの尾高惇忠から大きな影響を受けています。
7歳の頃から尾高惇忠から論語をはじめとした学問を習い、次第に尊皇攘夷思想の影響を受けたそうです。17歳の頃、役人の傲慢さを肌に感じたのをきっかけに、幕政の悪さを批判し階級制度に疑問を持つと言った体制への反発が倒幕の意識に駆り立てたようです。
そして、栄一や尾高惇忠らの所謂、天皇制・鎖国主義を唱えるこの憂国の志士達は、高崎城を乗っ取り、その足で横浜の異人館を焼き払い、異国人を斬り殺し、徳川幕府を倒すという、とんでもない計画を立て、準備を始めました。
京都へ世の中の動きを探りに行っていた惇忠の弟、長七郎の帰りを待ち、1863(文久3)年10月29日尾高惇忠宅で最後の会議が持たれましたが、長七郎は自分の見聞からこの作戦に反対。あくまで実行を迫る栄一や喜作と大激論になりましたが、惇忠の仲裁で「時期早し」の結論に達し、中止されたそうです。
このときの計画が実施されていたら後の栄一は無かったかもしれませんが、やはり青年らしい熱い血が流れていたようです。

渋沢栄一渡航前後の写真

渋沢栄一渡航前後の写真

その後、一橋慶喜(後の15代将軍・徳川慶喜)に仕官し、1867(慶應3)年1月、慶喜の弟、徳川昭武の随員の一人として栄一はナポレオン三世の開催したフランス・パリの世界博覧会に一行29名で向かいました。
この時、栄一は28歳、19歳のとき尾高惇忠の妹でもある妻「ちよ」と結婚し3児の父でもありました。
勿論、パリでの経験がこの後の栄一の原動力ともなるのですが、面白いのがパリへ向かう前後の姿です。写真にあるようにたった1年間での変貌ですから誰しも驚くのですが、最も驚いたのが妻の「ちよ」だと言われています。

帰国(明治元年)後、日本で最初の合本(株式)組織「商法会所」を駿府(現在の静岡市)に設立し、翌年には、明治政府の高官、大隈重信の強い説得で大蔵省に出仕。明治政府初期の税制、貨幣、銀行などの国家財政の確立に取り組みました。
その後、大蔵省を4年で辞め、実業界へ転進。ヨーロッパで学んだ知識を生かし、第一国立銀行をはじめ営利企業約500社の設立に関与しました。
その時の有名なエピソードの一つが日本郵船にまつわる話です。
明治維新後、欧米系の船会社に握られていた日本の航海自主権を大規模な値下げで取り返したのが、当時の三菱の海運事業「郵便汽船三菱会社」でした。ですが一方では日本国内の中小船会社も追い出され、「郵便汽船三菱会社」は独占的地位を得、大幅運賃の値上げで大きな利益を上げていました。

三菱の独占と専横を快く思わない栄一や井上馨らが三菱に対抗できる海運会社の設立を画策、東京風帆船会社、北海道運輸会社、越中風帆船会社の三社が結集して1882年7月に三井系国策会社「共同運輸会社」を設立させました。
「郵便汽船三菱会社」と「共同運輸会社」すなわち、三菱VS三井の一騎打ちとなったのですが、やがて両者とも疲弊し始め、1885年、三菱の社長岩崎彌太郎が死去したことを契機に、政府が両者の仲介に乗りだし、共同運輸の社長を更迭し、両社を合併させ日本郵船が成立しました。
後日談として、合併当初は共同運輸色が濃かったものの、次第に三菱系が台頭し名実ともに共同運輸は消滅したということです。なお、日本郵船の有名な船舶に「氷川丸」があります。

この様な実業家時代で一貫した栄一の考え方は、「私利を追わず公益を図る」という考えだったようです。そうした公共への奉仕が評価された結果が、三井高福・岩崎弥太郎・安田善次郎・住友友純・古河市兵衛・大倉喜八郎などといった他の財閥当主が軒並み男爵どまりなのに対し、渋沢一人は子爵を授かっているということに良くあらわされています。

一方、実業界では社会公共事業に最も熱心だった一人で、彼が関わった事業は600余に及ぶそうです。
孤児院などの養護施設や、学校などの実業教育などがありますが、特筆なのは「日本国際児童親善会」です。
当時アメリカとの関係修復を図るためニューヨークのギューリック博士から人形による国際交流の打診があり、栄一が外務省や文部省と連携して組織したのが「日本国際児童親善会」です。 ご存知の「青い目の人形」で、12.739体の人形が届いたそうですが、現在、埼玉県内の小学校などに12体(全国で270体余)が保存されているそうです。

青淵公園

青淵公園

記念館の裏側は「中の家」から続く「青淵公園」でその公園から遠く赤城山などの山並みは、当時、栄一も見ていた風景だそうです。
色々な貴重な説明を受けながら最後に案内していただいたのが、記念館の裏側にある栄一の銅像です。
渋沢栄一銅像

大きい渋沢栄一銅像

そして銅像を見るとなんとも大きい。4mもある銅像だそうです。
横に説明板があります。

澁澤栄一
本像はもと深谷駅頭にありき
昭和63年3月、有志千五百有余名の浄財をもとに駅前区画整理事業の完成と翁の顕彰を記念して建立せしものなり
平成7年10月、翁、生誕八基の地に澁澤栄一記念館の落成に伴い、ここにここに遷座し奉る
この地や、園日に渉り以て趣を成すの如く大いなる発展をとげしも、刀水は悠遠にして、翁、在世の昔も今の如し、上毛三山の遠望も又、今も昔もなし 翁没して65年、翁の像が故山の風物を眺めて起つは又美しき哉
平成8年11月吉日
深谷市長 福嶋健助

そう、もともとこの銅像は深谷駅前にあったそうですが、「生誕八基の地に澁澤栄一記念館の落成に伴い、ここにここに遷座し奉る」とあり、現在、深谷駅前には渋沢栄一の座っている姿の銅像があります。
実は、これにも裏の意味があるそうです。
銅像の写真を見て何を感じるでしょうか・・・一言で言ってしまえば「カッコ悪いんです、この銅像」。フロックコートを着ているのも一つの理由ですが、とにかく漫画のキャラクターのような2頭身・・・とは言わないまでも。 で、深谷市民として渋沢栄一の偉大さや郷土の誇りとしての偉業は認める、それゆえ、この銅像のカッコ悪さはどうにかならないか・・・との市民からのクレームにより銅像が変えられたのだそうです。
なんとも微笑ましいエピソードでしたが、これを最後に今年の4月1日から着任されたハリキリ館長の案内にお礼を言って記念館をあとにしました。

実に渋沢栄一で頭が一杯になる思いでした。
生誕から青年期を過ごした「論語の里」の見学は非常に有意義な大散歩でした。いづれ各地に残る栄一の所縁の場所や建物などまだまだ訪ねたいと思います。
手っ取り早く活躍の舞台となる東京・飛鳥山は後日訪ねて見たいと思います。

渋沢栄一の墓

谷中墓地内、渋沢栄一の墓(c)深谷市

渋沢栄一は、大いなるきっかけを掴んだフランス紀行の代表者の徳川昭武の兄、慶喜と同じ谷中墓地に眠っています。過日、慶喜の墓を見学したときに渋沢の墓も見てきました。

現在の世の中の基礎を作った栄一が、現在の社会を見たら何と思うのか興味深いことです。

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks