かな女の経歴

埼玉県の誇る偉人ですから基本的にはさいたま市浦和区(旧浦和市)がその舞台となるわけです。 約半年前の5月30日、浦和で【浦和のうなぎ】で「浦和うなぎ祭り」に出かけた際に寄った神社が調神社でした。
かな女句碑調神社自体に歴史も伝統もある神社でしたが、その境内にあったのが長谷川かな女の句碑でした。

サイトの中のかな女の碑の説明では、なんと”長谷川かな女については別途100選に選定されていますので、別の機会に深く掘り下げたいと思います”などと知らないのを棚に上げて先送りしていました。 だからといって今は何でも知っているのかと問われれば、答えはノーですが、それでは進歩がないと調べてみれば、この句碑は昭和28年にかな女が主宰していた俳句雑誌「水明」の松の花会が建立したものだそうで、句碑そのものは高さが75cm、幅約110cmとあまり大きなものではありませんが、立派な台石にすえられている句碑です。

さて肝心なのはこの句碑に刻まれている句です。
これは昭和25年の作だそうですが、刻まれている「生涯の影ある秋の天地かな」とはいったいどんな意味があるのでしょうか。
”秋の天地”とは人生の苦難悲哀をすべて包み込んだ、澄み切って晴れ上がった大地のことのようです。そして”生涯の影”とは、明るく無限に広がる世界(時間や空間)という人生を生きていこうとする気持ちです。 つまり、幾多の困難を経て辿りついた境地が”秋の天地”でまさに「浦和」にその”秋の天地”を見出し、生涯の地としてこの「浦和」に住んで行こうという気持ちを表しているそうです。
一体かな女の生い立ちに何があって、このような句を詠ませたのかを知ることが、かな女を知る手がかりの一つかもしれません。

かな女の生い立ち

長谷川かな女「長谷川かな女」(本名「長谷川カナ」)は明治20年10月22日、東京市日本橋区本石町(現在中央区日本橋本石町)で生まれました。


明治期の日本橋かな女は終生日本橋で生まれ育ったことが自慢であったそうです。それは当時の日本橋の歴史を見ると理解できます。
《写真:c 長崎大学附属図書館 幕末・明治期日本古写真メタデータ・データベース》

江戸時代本石町は江戸開府と共に最初の町割が行われた地といわれる江戸の城下町の基礎をなす場所であったようです。そして金貨を鋳造する金座が置かれた場所で当時から有名な場所であったのです。更に将軍の通る通りがあり、誠にしきたりの喧しい場所でもあったようです。
このような背景の下、特に呉服商業地区として指定されていたこともあり、所謂、商人にとっては江戸で一番の、というくらいの憧れの場所だったそうです。
華麗なる繁栄は明治期も続いていたそうです。そんな華やかな場所を誇りに思うのも無理からぬ話でしょうね。

かな女の父は長谷川福太郎といい埼玉県出身で、当時日本橋の老舗森岡鉄店に勤務していました。鉄店というくらいですから材料などを扱っていたのではないでしょうかね。
母は東京市ヶ谷で代々名主をつとめた家の出で島田孝といい、生っ粋の江戸ッ子下町風の人で、妹が一人いたようですが、八歳で夭折したそうです。
明治27年私立松原小学校に入学し、明治33年小学校を卒業した後小松原塾で修業をし、16歳で小石川安藤坂上の三井家に行儀見習いにあがりました。
安藤坂の由来となったのが、ここにあった安藤飛騨守の上屋敷があったからですが、明治維新後これらの屋敷の大半を三井家が取得し、東京における三井家の拠点ともなった地だそうで、所謂、あの有名な三井家です。
ちなみに三井家邸の西隣に川口松太郎・三益愛子の終の棲家になった川口アパートがあります。何かの仕事の折に一度だけ川口アパートに行ったことがありましたが…
ということで、当時としてはやはり小学校に女性が通うのは、珍しい頃なのでしょうか分かりませんが、三井家に行儀見習いに上がれるというのは、それなりの家柄でなければやはり無理なのではないのかなと思います。
そう考えると、かな女の生家は比較的恵まれてた家庭と考えてよいのでしょうね。

その間の明治30年、父の福太郎が心臓病で亡くなっているのですが、父譲りなのかかな女も心臓を悪くして三井家を辞したそうです。
それでも母孝は先進的な女性で、この時代には珍しい家庭教師を招いて英語を学ばせたそうです。この時の英語教師が生活に窮していた冨田諧三、後の長谷川零余子で、この後、かな女と結婚することとなるのです。ドラマ的に言えば運命の人ですね。
そして明治43年秋、住み慣れた日本橋を離れて当時の淀橋区柏木4丁目(現在の新宿区北新宿)に移り住みました。
このあたりまでが、かな女のエピローグでここからがかな女の本題となるのです。

ホトトギス

もともとかな女は明治42年の結婚前から俳句を趣味として始めていたのですが、友人らの勧めにより「毎日俳壇」に寄稿した《名月や崖にきはまる家二軒》が入選したそうです。これをきっかけとして高浜虚子の「ホトトギス」に投句し、明治44年《傘つくる宿に咲いたり白牡丹》が掲載され、その後研鑽を積んでいくことになるのです。
この頃、後の夫になる零余子も「ホトトギス」の発行所に出入りしていたようですが、まだ、東大薬学専科に通っていた時代でした。


さてこの「ホトトギス」ですが、この雑誌は明治30年(1897)正岡子規の友人で海南新聞社社員であった柳原極堂が松山で創刊した雑誌です。雑誌名は正岡の俳号「子規」にちなんだものだそうで、創刊時はひらがなで「ほとヽぎす」と付けられていたそうです。子規は勿論のこと、高濱虚子、河東碧梧桐、内藤鳴雪らが選者だったそうです。
高浜虚子鳴り物入りで誕生した「ほとヽぎす」ですが、この雑誌をビジネス的に成り立たせたのが高濱虚子だったようで、 明治31(1898)年、松山から東京に場所を移し、正式に高濱虚子が「ほとヽぎす」を継承することとなり、その後、明治34(1901)年、雑誌名を「ホトヽギス」とカタカナに変更しました。

吾輩は猫であるそして何よりもこの「ホトヽギス」を著名にし、かつビジネス的にも軌道に乗せたのが、明治38(1905)年に、その3年前の35年になくなった師である子規の友人、夏目漱石の《吾輩は猫である》の連載を開始したことにあります。

当初は漱石が推敲もせずに書いた原稿を、虚子が整理して掲載したという噂もあるそうですが、いずれにしてもこの小説が空前の大ヒットとなり、「ホトヽギス」の名は一般の人々にも知れ渡るようになり、掲載中は、俳句とは縁のない人までが書店で「ホトヽギス」を注文することとなり、一気に十倍の売り上げを上げたそうです。
この頃から虚子は小説に傾倒し、翌明治39(1906)年には、伊藤左千夫《野菊の墓》、漱石《坊っちゃん》などを初めとして小説を矢継ぎ早に発表したのでした。

師である子規と共に近代俳句を確立した優れた俳人であった虚子は、一方では優れた経営者でもあったのです。
こうして「ホトヽギス」の経営は安定し、世界的にも珍しいといわれる短詩専門誌の長期継続が実現したのでした。 そして、明治44(1911)年、雑誌名を現在の「ホトトギス」に改称したのでした。

台所雑詠

経済的基盤を得た「ホトトギス」の次なる戦略は俳句界の拡大でした。
アイディアマンでもある虚子はその戦術を女性の参加を募ることとにあると考えていたようでした。当時、女性の歌人は多くいたのですが、俳句は男性の領域とされ俳句を詠む女性は少ない時代だったのです。
女流俳人を育成するために虚子は大正2年6月号に新しく婦人ばかりの「つつじ十句集」なるものを掲載し、かな女等が幹事となったのでした。
これは句会ではなく回覧互選方式でしたがが、初めて女性の為の雑詠欄として画期的なものだったようです。名前は単に第1回の題が「つつじ」だったことから「つつじ十句集」と名付けられたようです。
当時「つつじ十句集」の虚子の前文にはこのように書かれていたそうです。

『私は此頃、自分の妻子の物事につき自分と趣味の隔絶してゐることを憤る前に、之に趣味教育を施すのを忘れてゐたことを思はずにはゐられ無い。何も教育せずに置いて憤られ見離される妻子は災いである。
私は取敢へず自分の妻子に俳句を作らせて見ることに思ひ至った。
其は直ぐ一般の女子に俳句を勧める信念と勇気とを呼び起こすのであった。
私は二人の姪にも勧めて見た。
既に女俳人として鎌倉の草庵に見えたことのある、かな女、蝶女、露女の三女史はいふ迄も無いことであった。其他蝶女の勧めの下にかづ子、勝代子、べん子の三女史が加はり、澄子の勧めの下にせつ子女史が加はり、其に今度事務員に採用せし下山の妻女豊子さんも加わって総勢十二人、其が新たに十句集を始めることとなった』

当時すでに「ホトトギス」の投句者で女流俳人のかな女、蝶女、露女は勿論のこと、虚子の妻子を初めとした家族・親族を中心にはじめた女流句会の企画だったようです。
当初は、高浜糸子、かな女、渡辺つゆ女の三人が交代で幹事を引き受け、時に正岡子規の母なども参加されたそうで、 最初虚子の鎌倉で開かれていましたが、やがて柏木(現・新宿)のかな女宅に会場を移し、毎月一回開かれることになったそうです。
その当時、「柏木には女で俳句をつくる人がいるそうだ」と家を覗きに来る人があって困ったとかな女のエピソードがあったくらい、珍しい存在だったのでしょう。

そしてその最初のテーマが「つつじ」で虚子が選んだのは次の十句でした。
「床几置く芝山丸くつつじかな」「山つつじ温泉宿の眺め夕なる」かな女、「まだ咲かぬつつじの岩や桜咲く」「かげも無く鳴く鶯や岩つつじ」てふ女、「つつじ咲いて早日傘見る日比谷かな」真砂女、「山と江に臨む長者のつつじかな」つゆ女、「つつじ生けて此の間明るくなりにけり」かめ女、「折つては捨又折つて捨つ山つつじ」勝代子、「停車場の柵に燃えたるつつじかな」すみ子、「西の窓一間へだてしつつじかな」かづ子
虚子の論評では、

『次回の『短夜』十句集はつつじ十句集よりも好成績のようすである。其の如くして是等の女流がやがて俳句の何物たるかを解し四季の景物他のものの上に趣味を見出し得るやうになったならば、其は趣味教育として存外の功果を収め得るかも知れないと考へられるのである。私は静かに其成行を見やうと思ふ』

と述べられているそうです。
女性中心の句会が持たれるという時代はまだまだ先ながら、女性俳人育成の第一歩として、この「十句集」は関東大震災によって中断されるまでの大正12年、116回続いたそうです。

この「十句集」の活況を受け虚子は、更に女性の投稿がしやすいようにと「ホトトギス」誌上で大正5年から”台所”にあるものを題材に俳句を作り、投稿できるようにした「台所雑詠欄」を展開しました。
より身近な話題で女性の誰でもが関心のもてるテーマでと考えた企画です。この企画はもくろみの通り多くの投稿を得て、阿部みどり女、杉田久女など多くの女流俳人が頭角をあらわしてきたようです。
そのとき投稿されたかな女の句の一つが有名な「羽子板の重きが嬉し突かで立つ」という句です。
この句は、上等な羽子板をもらった子が、こんな立派な羽子板を持つことが初めてなので、すぐには遊ばないでこの羽子板の重さ楽しんで立っている情景を映し出し、友達が見たらうらやましがられるだろうと、うれしいような恥ずかしいような気持ちを表したものだそうで、虚子は「女でなければ感じ得ない情緒の句」と推奨された初期の代表作となった作品でした。

このようにかな女は虚子のもとで、女流俳人としての力量をあげると共に、女流俳人の拡大そして地位向上に尽力したのでした。

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks