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かな女の人生

かな女は「ホトトギス」と共に順調に女流俳人としての地位を固めていき、大正4年からは「十句集」の幹事を一人で務めるようになるなど、「ホトトギス」内でも中核なる存在となりつつあったようです。
そんな順調な時代に転機が訪れるのですが、ここでは少し夫である零余子について知る必要がありそうです。

長谷川零余子

明治19年8月20日、群馬県多野郡鬼石町で生れる。
明治29年頃から俳句を趣味とし、富田翠邨と号して「秀才文壇」や「新体詩集」といったものに投句し機が熟するのを待っていたようです。
明治36年上京。東京神田の大学館という書店に勤めながら苦学しながら俳句に熱中し、この頃零余子と号するようになったようです。しかし零余子は俳人になろうと苦学したわけではなく、薬学の道へ進むため物理学校や正則英語学校に通っていたのです。そしてその合間に趣味として投句し、明治42年「国民新聞」俳壇(東洋城選)に句が入選したそうです。
その間、検定試験に合格し薬学専門学校に入学するも学費などの捻出に苦労し、長谷川かな女の家庭教師として長谷川家の援助を得て、薬学専門学校を卒業すると同時に、東京帝大薬学専科に進むことができたのは前述のとおりです。

明治44年、長谷川家の長女、かな女と結婚し長谷川家の養子となります。そして初志貫徹、明治45年東京帝大薬学専科を卒業し、品川の薬品研究所の研究員になったのですが、自分の目的が遂行出来て心に余裕が持てたのか、その頃から句作に一段と熱が加わり所々の句会に出席するようになり、そして「ホトトギス」の発行所に出入りするうち編集を手伝うようになったようです。
薬品研究所の研究員となった後、虚子より「二兎を追うものは一兎を得ず」を教えられ、俳句の道に生きることを決心し、ホトトギス発行所に通うようになりました。

大正3年から「ホトトギス」地方俳句欄の選考を担当し、同時に「電気と文芸」の俳壇選者、「東京日日新聞」の俳壇選者にもなっていました。
大正8年「ホトトギス」の選者、大正9年「小樽新聞」の俳壇選者となり、全国的に俳風を広げると共に影響力を強めていきました。
この頃から零余子は「俳句は自然観照の文学である」と標榜し、当時の「ホトトギス」の客観写生のあり方に飽き足らず、「物の分子はみな立体で成り立っているので、これを概念的に見てはいけない。人間の眼は不完全で物は立体に見えない。それ故、物を心眼で見なければならぬ」という「立体俳句論」を提唱し、俳人の夢である自己の俳誌「枯野」を大正10年10月創刊主宰し、「ホトトギス」を離れたのでした。
その後、「枯野」は「ホトトギス」と対抗する有力な俳誌となったのです。

人生の転機

そのような零余子の活動と前後して、虚子は大正7年に発表した「進むべき俳句の道」でホトトギス雑詠欄の作家を取り上げて評論しています。これは先の「客観の写生」の定着と弟子達の新境地開拓の重要性を説いたものだったそうで、その中で唯一女性で評論されたのがかな女でした。
その評論は現在のかな女の俳句を論じる際の原点としていまだに影響力のある評論だそうです。
1つはという句で、これは”女で無ければ実験することもしくは気のつかぬ事実の描写”の句であるとの評論。
2つ目は前述された「羽子板の重きが嬉し突かで立つ」で、”女でなければ感じ得ない情緒”の句。
そして3つ目が「切れ凧の敵地へ落ちて鳴り止まず」で、”女と思えない”と言わしめた句です。
これらを評した後、虚子は「婦人の作句はやうやく盛になろうとしている今日において、かな女君の如きはその先達として、定めて重い責任を自覚するであろう。ますます今後の奨励を望まざるを得ぬ」と結んでいて、かな女にかける期待を物語っていました。

こうした恵まれた環境の中、先の零余子の「枯野」創刊主宰にともなって妻であるかな女も「枯野」に俳句を発表し、ホトトギスを離脱したのでした。
「枯野」も順調に推移し、長谷川家も穏やかな日々を暮らしていた大正15年、かな女は浦和の親戚石関家から生後一年の博氏(後の日本交響楽団のフルート奏者)を養子に貰い、子煩悩な零余子は目に入れても痛くないほどの可愛がり様で、幼児を中心に笑顔が絶えずかな女の一番幸福な時期であったようです。
しかし、人生楽あれば苦ありで、幸せなときは長く続かないもので、昭和2年最愛の母を亡くしました。母孝は母は零余子・かな女のよき理解者であり、唯一の肉親でした。
「淡雪に母臨終の静かなる」「母思ふ二月の空に頬杖し」といった句を当時残しています。
更に不幸は続きます。
昭和3年6月、零余子は山陰の旅で病にかかり、チブスの疑が濃く7月21日に入院、翌日から脳症を併発し一週間後の7月27日に亡くなりました。
病に冒された零余子が夢うつつに「立体俳句の講演にゆく。袴と草履を揃えてくれ。」と云ったのが最後の言葉となったそうです。そのときに詠まれたのが、「消えし月に帰る家あるとおもほへず」「秋草に泣人形を泣かせたり」などです。
零余子享年42歳でした。

零余子の死去にともない「枯野」の存続ついても危ぶまれたのですが、この件については以下のようにかな女が語っています。
「僅か九年、命の火を燃しつづけて自分の業を成し遂げんとして、稍完成に近づいた時に倒れたのは、琴線子も口惜しかったろうが、それに連なる弟子達には最も非情な辛いことであった」 と零余子の立体俳句の火を消してはなら無いと昭和3年、「枯野」は9月号を追悼号として、10月よりかな女は「枯野」を「ぬかご」と改題し、経営は水野六山人に移り、かな女は雑詠選者となったのでした。こうして「枯野」の系譜は受継がれていく事となったのです。


※この句集「ぬかご」の当時の経営者である水野六山人様のお孫様がオーナーの「万座温泉豊国館」において、当サイトの〝かな女〟の記事を豊国館内に展示していただきました。
万座温泉豊国館展示記事万座温泉豊国館展示記事《写真:展示していただいた豊国館内の写真》
大変ありがたいことです。そして、今でも所縁の方がいらっしゃるということは、歴史的にも何か嬉しくなってしまいます。
句集「ぬかご」また、句集「ぬかご」の写真もお送りいただいたので合わせて掲載しておきます。
仲介の労をいただいた観光温泉研究家の小澤様に感謝いたします。

参考:【万座温泉豊国館】 http://www.houkokukan.com/
参考:【おざわひとしの 温泉のことをもっと知ろう】 http://members3.jcom.home.ne.jp/hitoshiozawa526/index.html

2010.12.29加筆


しかし、不幸はとどまることを知りません。
悲しみの乾く間もない同年9月13日、深夜自宅から出火、お手伝いの美智さん、幼児の博氏と三人身一つで逃れたそうで、火事見舞に駈けつけた人々は、水に濡れた江戸錦絵を黙って一枚一枚干していたかな女の後姿の痛々しさが忘れられなかったと言っています。
そのときもれたのが、「芭蕉裂く風にいつまで耐ゆことぞ」という一句だったそうですが、全く僅か2年間の内にこのような不幸の連続に会いながらも、かな女は強く生きたようです。
そして、これを契機にいよいよここから舞台は新宿から浦和に移ることになるのです。

かな女と浦和

幾多の不幸の末、昭和3年11月東京を離れて浦和に地に移転します。これは養子の博の生家が浦和の三室だったという縁によるもので、岸町にあった生家石関家の貸家に移転し、移転した当時のことを自身の随筆「雨月抄」で述べています。
この随筆「雨月抄」は1948(昭和23)年に出版され、句集「雨月」に収めた句を自ら解説した随筆で、その「雨月抄」では、わざわざ”みやこ落ち”というサブタイトルをつけている位ですから、日本橋~新宿を経て、とんでもない辺鄙な土地に来てしまったというプライドの高さをまざまざと表していたと言えます。
その当時の岸町の様子をこう記しています。

「北風の 真直ぐに歩く 中仙道」 中仙道の浦和における位置は全く北に向かって雪国へ雪国へと走っていそうに思える。まだ近所には平屋の低い庇の下に赤い種、黒い種、白い種、蕪、小松菜、インゲン、牛蒡の種など、四角な箱にいっぱい並べた種物屋、その間に薄っぺらな洋風まがいの飾り窓に薄色のショールと色足袋を並べた雑貨店などが交じっている。』

さらに随筆「小雪」でも記載されています。

『浦和駅の東側はまだ水田が広がり、水田の先に小高い丘があって小さな稲荷神社などがあった。西側は仲仙道に通じる商店街があり、交叉路の突き当りに県庁があった。鎮守調神社と駅の真ン中辺にこれから住む家がぽつんと建っていた』

いかにも田舎に来てしまったという感がありありと伺えます。古くは江戸時代宿場町として拓け、明治9年に埼玉県庁に、そして明治16年には浦和駅が誕生しているのですから、昭和3年頃もそれなりに開発されていたと考えられるのですが、東京に比べると雲泥の差だったのでしょう。
実際、市制施行により浦和市となるのは昭和9年で、当時の全都道府県庁所在地で最も遅い市制施行だったそうですから。
そしてこのさびしさを詠ったものもあります。

「疲れ来て うすき膝なり 夏の宵」「虫とんで そのまま消えぬ 月の中」 「一人線路の近くに歩いていって、月を眺めた。お月さまと自分だけで何時まで佇んでいてもよかった。」(雨月抄)』

このように当初浦和でのかな女一番のお楽しみは月を眺めていることだったようで、特に興味を魅かれるものがなかったのでしょう。

そうしているうちに新しい浦和の地にも慣れて「紅提灯 三つ四つ盆の人通り」といった8月のお盆の精霊迎えをするようになったようです。
そして「埼玉に来て初めて大地、土を良く見たような気がした。少しずつ自分の句が変わってくるように覚えた。」とかな女自身が述べています。
昔は、調神社付近は公園と神社の区別もなく、すべて地面は平らな土で、近所の人たちが冬には落ち葉を焚く光景がしばしば見られ、こういった都会とは異なる風景を見て「冬ざれて 焚く火に 凹む大地かな」と詠むくらい、浦和に慣れ、興味もわきだしたようです。

このように家から近所にある調神社にはしばしば出かけていて、神社や公園付近を詠んだ句が結構あるようです。
「神の留守 句碑にあそべる子をとがめず」
「冷たき碑 あたため咲けり 白しろ山茶花さざんか」
「茅ち萱がや立てて 夏の神楽の始まりし」
「句碑の碑の 稚拙覆ふへり 散ちり銀杏いちょう」
などがあり、徐々に浦和の地を楽しむかのようになってきたと言ってもよいのかも知れません。
まあ、そう言っても冒頭に記述した「生涯の影ある秋の天地かな」と詠まれた句が昭和25年の作ですから、心から浦和の地を終の棲家と思えるまで20年以上かかっているということを考えると、如何にかな女がこの辺鄙な地をなかなか心から好きにはなれなかったということがうかがえます。

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