かな女の功績

石の上にも3年ではなく、浦和の上に20年ですか…。もしかしたら石よりも辛かったのでしょうかね。
などと言ってもやはり創作の世界では、さまざまな苦労もそれがテーマかのように、創作の力は当然ながら衰えることもなく逆に強まっていったようにも思えます。
昭和3年に浦和に住んでからの残りの半生をどのように過ごしていたのかが気になりますね。

創作活動

昭和3年の浦和移転後、翌年の昭和4年には新たな活動を始めています。
それはかな女の第1の句集である「膽龍(りんどう)」の発表でした。「膽龍」の自序では「句集が出来て一番よろこぶ人はもう居りませぬ」「自然を知ることを生涯のつとめとこゝろがけた零余子のあとを辿つて私も俳句のなかに生きて死んでまゐります」と記されているそうで、俳句を続けていくことこそ零余子の意思であるかのようなことを思っていたのでしょうかね。

そうした中の昭和5年、かつての「枯野」を改題し経営も移った「ぬかご」のなかで、かな女擁立論が起き、沢本知水氏のより9月、かな女主幹の俳誌「水明」が誕生しました。
俳人である沢本知水は本名和夫で福井県生まれです。当時、東京電燈会社主張所長の役職を投げ出し、この「水明」発刊に尽力し、終生かな女を支えることが出来たのは、夫人が女医であったことで経済的な裏づけがあったということでしょう。
ちなみに沢本知水の三女が秋子といい、かな女の息子、博の妻となり、後かな女亡き後の「水明」を継ぐことになるのです。
この「水明」の沢本知水の発刊の言葉は「向日葵は燃えている。粗末な一本の洋傘を抱えて果もない悠久の旅に私は立つのです。行程も準備もない不用意なこの旅出に…云々。」と独特のユーモアあふれる書き方がされています。
また、主幹のかな女は「零余子の拓きかけた道の奥を究めたき願、自分にふさわしからぬ大それた仕事であることを承知しながら水明主幹として皆様にお目にかかります。」とあり、どちらも複雑な気持ちを匂わしながらも並々ならぬ決意であったようです。
こうしてスタートした「水明」は旧枯野の有力作家が集まったこともあり、順調なスタートとなり、以降、戦時中の紙不足時代の1年を休刊しただけで現在も続いている歴史ある俳誌となったのです。
そして「膽龍」以降の句集も多く出しています。
昭和9年「かな女句集」、昭和14年「雨月」、昭和22年「かな女句集」、昭和30年「胡笛」、昭和38年「川の灯」、昭和39年「定本かな女句集」、昭和44年「牟良佐伎」。
更に先にも一部出てきた「雨月抄」「加賀の千代」「随筆小雪」「続小雪」などの随筆も残されています。

これらの句集の中には埼玉県内の地が読み込まれている句があります。
「警策に散る木犀の大樹かな」(野火止平林寺)
「手織縞着て新茶汲む紙漉婆」「紙船の大雪の灯をあつめゐて」(小川紙漉場)
「初燕わが町ながら鮮らしく」「一の鳥居入りて松蝉二の鳥居」(大宮氷川神社)
「黍畑をまたぎ今日だけの万国旗吊る」「聖火通るを駈け出しもせず粟垂るる」(浦和に聖火が来る時を詠む))
「伊勢菖蒲偽紫の茎つよし」(川口グリーンセンター)
このような創作活動の中でいくつか面白いエピソードがあります。
昭和10年頃「水明」の経済的苦労を、友人の手紙の中で「まだシジミ売りまでしていませんが…」と語り、嫁の秋子には「貧乏くさい俳句はつくらない方がいいわよ。」と苦しいながらもプライドを保っているいる姿が浮かび上がります。
また、弟子の一人が貧困に喘いでいると、ポンと当時3ヶ月分の燃料代となる3千円を送っているという、気風のよさも垣間見えます。
更に句会や日々の生活の中では、日々ウィットに富んでいたそうですが、時折きついジョークもとばしていた女性だったようです。
いずれにしても、日本橋生まれもあって生涯歯切れのよい下町言葉を使い、着物もラメ入りなどは嫌い渋い本物志向だったという、かな女の性格や生活がうかがえるエピソードです。

このような永年の創作活動に対する様々な功績が認められました。
まず、前述した調神社に昭和28年(1953)句碑が建立されました。
生前に立てられたものですので、かな女自身が随筆「続小雪」に詳述しています。

『11月3日には浦和調宮神社境内に建った句碑の除幕式が行われた。松の花句会古橋桂花氏の発起で全国の水明人の御厚意で出来たもので、放し亀の沢山泳いでいる池を前にした梅の一樹の下に建った長方形の伊豆石の面が磨き出されているので境内に多い椿を青く映していた。
お宮に縁のある俳句をと思ったが、浦和を生涯の地と決めているのでそれを刻むことにした』

ここでやっと浦和の地に生涯住んでいこうと踏ん切りがついたのでしょう。

更に昭和36年(1961)には浦和の別所沼にも句碑が建立されました。これは「水明」の松の花会と浦和ロータリークラブが立てたもので、「曼珠沙華あつまり丘をうかせけり」という句集「胡笛」の1句が刻まれています。
この句は、敗戦直後の別所沼付近を詠んだものだそうで、曼珠沙華の真っ赤な姿を見て、生命や人生を象徴する花のように思ったのではないかと言われてる句ですが、もともと句集「胡笛」では「曼珠沙華あつまり丘をうかしけり」と詠われていたそうです。 これはある日、かな女が加須市在住の俳人・落合水尾氏に「『うかしけり』と『うかせけり』と、どちらがいいと思います?」と尋ねたので、落合氏は「『うかせけり』の方が、曼珠沙華の生命力が鮮やかに浮かぶと思います」と答えたことから、その後、この公園内の句碑は「曼珠沙華あつまり丘をうかせけり」と彫られたエピソードがあるそうです。
また、この句碑もまたかな女の生前に立てられた句碑で、それについてもかな女自身「続小雪」に当時のことを記述しています。

『公園を歩く人々が足を止めて句碑を見て行く。斯うしてこれから何十年何百年この公園に来る人々に親しまれて行く句碑なのだろう。胸がせまった。多数の真心の集りになった句碑であって自分一人のものではない』

あくまで控えめで謙虚な性格がにじみ出ているのでしょう。

別所沼その浦和の別所沼には2009年12月6日に行ってみました。
まだ、紅葉が見頃で沼に移る紅葉の美しさを堪能できました。

別所沼の句碑かな女の句碑は別所沼公園の入口を入って管理事務所のすぐ前に立っています。意外とすっきりした句碑ですが、シンプルでありながら上部の曲線が女性のエレガントを醸し出しているといったら穿ちすぎでしょうか。
句碑が建立されてからすでに50年ほど経過しています。この先もまたふと足を止める人は大勢いるのでしょう。


折角なので余談ながら少し別所沼公園を散策します。
公園ながら、ここにはかな女の句碑を始めとして、様々な石碑や彫刻・建造物などがあります。さすがに学芸都市・浦和の面目躍如といったところでしょうか。

神保光太郎の詩碑神保光太郎の詩碑
山形県生まれの神保光太郎は昭和10年別所沼の近くに移り住みました。詩人であり日大の教授として地域の芸術文化の向上発展に寄与されたそうです。


彫刻「掛けた女」彫刻「掛けた女」
彫刻家・中野四郎作。1960年第9回創型会展出作品がこの公園に建てられたものです。


ヒヤシンスハウスヒヤシンスハウス
詩人で建築家の立原道造は神保光太郎と親交を結び、たびたび別所沼を訪れ、その当時としては珍しいワンルームの住宅を建てる構想を持っていましたが、24歳の若さで亡くなった為実現しませんでしたが、「ヒアシンスハウスをつくる会」により遺された設計図を元に公園内に建てられたものです。


浦和うなこちゃん「浦和うなこちゃん」
お馴染みのやなせたかし氏作の浦和のうなぎのキャラクター。【浦和のうなぎ】で訪れた浦和駅前にも立っています。


「風の神」エヘーカトル・ケッツアルコアトル「風の神」エヘーカトル・ケッツアルコアトル


『この像は、トルーカ盆地のカリストラワカで発掘された石像の複製品であり、エヘーカトル・ケッツアルコアトル、即ち風の神を現しています。
この風の神は、健康、豊作及び知恵を市民にもたらす恵みの神といわれています。
兄弟である埼玉県民の皆様、我々の祖先の文化を象徴するこの像を、埼玉県民とメキシコ州民の絶えざる友好と親善の願いをこめてここに贈ります。
1980年10月2日 メキシコ州知事 ホルベ・ヒメネス・カントウ』(現地案内板より)

鈴木幸輔 歌碑鈴木幸輔 歌碑鈴木幸輔 歌碑
鈴木幸輔氏は昭和10年北原白秋に師事し、秋田出身ですが旧浦和市に住んでいた歌人です。
その歌碑なのですが、建立日が2010.4.1になっているのは何故でしょうか。


※2010年7月8日にこの碑を建立された鈴木幸輔氏のご子息からご丁寧なメールを頂きました。
上記の建立日の件です。
元々この歌碑は、鈴木幸輔氏は1980年4月1日にお亡くなりになったことから、没後30年を期して長風短歌会がこの歌碑を建立することとなり、命日を建立の日に選ばれたそうです。
その命日の建立日にあわせて工事を進められたそうですが、予定より早く出来上がったために、当初はシートで覆い建立日を待っていたそうですが、公園を訪れた方からシートをかぶせたものは何かとの問い合わせが多かった為にシートをはずされたそうで、それが2010年4月1日以前となったためにこのようなことになったそうです。
ちょうどそのタイミングで私が見かけたということになるのです。こういったことがあると印象深く長く記憶に残る歌碑になりますね。
因みに2010年3月13日に除幕式が無事行われたそうで、お喜び申し上げます。
鈴木様ご連絡ありがとうございました。
2010年7月10日加筆

リュウゼツランリュウゼツラン余談ついでながらかな女の句碑のすぐ左側には「リュウゼツラン」が植えられています。


『竜舌蘭(リュウゼツラン) リュウゼツラン科アガベ属
アメリカ・メキシコを原産とする常緑多年草
和名は葉形を竜の舌にたとえたもので、学名はギリシャ語agauos{すばらしい」の意。50年に一度、生涯で1回の開花と言われた大変貴重なものです。
この別所沼公園の竜舌蘭は、2003年7月から8月にかけて開花しました。
葉は多数集まって生えて多肉で長さ1~2mになり、花は6~7mの茎を出して多数咲きます。
母株は開花後枯れますが、子株は多くできます。』(現地案内板より)

50年に一度咲いた花の写真が案内板に掲出されています。開花したときは大騒ぎだったのでしょうね、全く知りませんでした。

弁天島他にもこの公園内には弁天島等もあり、風景とともに1年を通して楽しめる公園かもしれません。


何はともあれかな女の足跡を知るうえで「別所沼」は重要な場所といえるでしょう。

そして栄誉は更に続き、昭和38年(1963)76歳、浦和市名誉市民賞受賞、昭和39年(1964)77歳、埼玉県文化功労賞受賞、昭和41年(1966)79歳、紫綬褒章受賞となります。

晩年は殆ど自宅に籠りっきりであったそうですが、大勢のお弟子さんが入れ替り立ち替り訪れ、身上相談までもちこまれ、身辺賑やかな幸せな晩年であったようです。。
かつて、高浜虚子が「女性の人柄ではかな女が最高だ。かな女を見習いなさい」と常に言っていた通り、才能ばかりではなく多くの人に愛された人格者であったともいえるのでしょう。
そして、昭和44年(1969)82歳で老衰で亡くなり、葬儀は浦和市民葬で行われました。絶句はさきに亡くなった安藤鶴夫の急逝を悲しんだ「初月を善知識とし鶴夫逝く」だそうです。
墓地は東京・杉並区堀之内・福相寺にあり、零余子と一緒に眠っています。
零余子と死別した昭和3年に浦和の地に来てから約40年。
半生を浦和で過ごし様々な功績を残したかな女はまさに浦和の偉人としてふさわしい人であると言えるでしょう。

このように様々な受賞も勿論ですが、浦和に2つあるかな女の句碑は、かな女の名声や人気をあらわす一つのバロメーターと考えられます。
芭蕉等はその最たるもので、全国的に句碑が残されているのですから。
そこで、浦和以外にあるかな女の句碑をしらべて見ました。

北海道美唄市西二条南1 中央公園内 市役所前方 (空知神社から移転)  「花蕗をわけて石狩川となれり」
栃木県那須塩原市塩原1330 「ホテル塩原ガーデン」前  「すこしの紅葉落ちてしまひぬ冬の雨」
栃木県那須塩原市塩原1330 「玉屋旅館」(塩の湯)玄関前  「蜩にとまりし玉屋冬近し」
群馬県藤岡市三波川 桜山  「竜胆枯れ叩く狐の尾がむらさき」
群馬県伊勢崎市三本木377 三名湖畔  「むさし野の鳥来る松の芯無限」
群馬県館林市 「城沼つゝじ緑道」 文学の小みち  「芦芽ぐむ沼の入江の光圓す」
東京都杉並区堀ノ内3-48-58 福相寺境内  「羽子板の重きが嬉しつかで立つ」
福井県三方上中郡若狭町(上中) 天徳寺近く 瓜割の名水公園内  「ねばりひきあろかと田向ふの初蛙」
兵庫県洲本市宇原 文学の森  「花しぐれ由良のしら浪忘れめや」
愛媛県新居浜市松原町9-48 合田正仁氏宅庭内  「羽子板の重きが嬉し突かで立つ」「鶴鳴くや桜はややに陽をふくみ」

それほど多くあるわけではないですが、遠く北海道や愛媛県にまであることを考えれば十分埼玉県の誇る偉人であることが窺えます。
そして最後に桶川市にある「さいたま文学館」を訪れました。

さいたま文学館

さいたま文学館桶川駅から約5分という近さの場所に「さいたま文学館」があります。
円形のいわゆるモダンなデザインのかなり大きな建造物です。

さいたま文学館ここは県民の文学活動奨励のための施設で、文芸講演会、文芸映画界、各種文学講座などが開催されている施設で、財団法人けやき文化財団が運営しており、桶川市が運営・管理する「響の森 桶川市民ホール」という700席ある多目的ホールとの複合施設なのです。

主な施設は座席数200席の文学ホールや講座室、研修室などのほか、図書館があります。そして文学展示室が今回の目的の場所です。
文学展示室には常設展示と企画展示があり、基本的に埼玉ゆかりの文学者を中心にして、文学の概要を理解できるよう多角的に、映像や音声を活用した展示が行われています。

さいたま文学館エントランスエントランスでは文学の種というオブジェが目に付きます。


1階展示コーナー1階展示コーナー1階展示コーナーでは埼玉県全域の文学作品をビデオや立体地図で紹介しており、地域ごとに関係の深い作家のプロフィールを知ることができます。


階段展示地下1階への展示室に向かう階段には、「万葉集」、「枕草子」、「伊勢物語」、「平家物語」、「草津道の記」、「奥の細道」など、古典に登場する埼玉県の名所を紹介しています。


田舎教師が愛した景色地下1階の企画展では「田舎教師が愛した景色」と題して田山花袋の企画展示が行われていました。 熊谷市の【妻沼聖天堂】を訪れた際に田山花袋のホンの一端の一端に触れましたが、特に小説は読んだこともないので良く分かりませんが、紀行文などは(1冊だけ図書館で借りた)それなりに馴染みの地名などでちょっと興味深いものがありました。


常設展では上記にあるとおり「埼玉ゆかりの文学者」が展示されています。展示文学者の19名の一覧です。
小説:田山花袋/武者小路実篤/三上於菟吉/大谷藤子/豊田三郎/中島敦/深沢七郎/安藤鶴夫/宇野信夫
詩:蔵原伸二郎/岡本潤/神保光太郎
短歌:前田夕暮/三ヶ島葭子/鹿児島壽藏
俳句:長谷川かな女/加藤楸邨
児童文学:北川千代/打木村治

永井荷風コレクションそしてこのコーナーでの目玉展示が「永井荷風コレクション」です。寄贈された約1,100点に及ぶコレクションの展示です。発禁処分となった「ふらんす物語」などかなり貴重なものが収蔵されているそうです。
私などは永井荷風に対して極々一般的な知識しか持ち合わせていない(ということはほとんど名前と代表作のタイトルを知っている程度)ので、それほどの驚きも無いのですが、意外に川口や戸田橋、大宮などの風景が表現されているところなどで、ちょっと引き込まれてしまうのはやはり埼玉土着民だからでしょうか。


映像化されたさいたま文学の世界また、この常設展のコーナーの奥には「映像化されたさいたま文学の世界」題されたミニコーナーがあり、「キューポラのある街」「人間の証明」他1点(不明)の3作品が映像と資料で展示されています。
「キューポラのある街」は内容的には今となっては問題作ですが、あくまで吉永小百合主演ということが重要と考えましょう。それにしても先日TV放映されていたのですが続編があったとは知りませんでした。
このようにある程度、文学の世界に詳しくなくてもちょっとディープな情報を収集できるといったところが、この文学館の特色かもしれません。


長谷川かな女長谷川かな女最後になりましたが、肝心の「長谷川かな女」の展示です。


『1887……HASEGAWA KANAJO……1969 長谷川かな女 ●はじめは俳誌「ホトトギス」などに投句しましたが、後に夫の長谷川零余子とともに俳誌「枯野」を創刊主宰しました。 昭和3年以来、浦和市に居住し、俳誌「水明」を創刊主宰しました。 冬 北風のますぐに歩く仲仙道 「雨月」 生涯の影 生涯の影ある秋の天地かな 「胡笛」』(館内展示パネルより)

そして様々な展示がされています。

「水明」第8巻第1号 昭和12年1月発行、「枯野」第3巻第9号 大正12年9月発行「水明」第8巻第1号 昭和12年1月発行、「枯野」第3巻第9号 大正12年9月発行


「かな女愛用の文具」「かな女と零余子夫婦写真」「夕顔の笛(句稿)」「かな女愛用の文具」「かな女と零余子夫婦写真」「夕顔の笛(句稿)」


「田山花袋に宛てた年賀状」「田山花袋に宛てた年賀状」


「かな女の書(短冊)」「かな女の書(短冊)」


「龍謄」 昭和4年発行「龍謄」 昭和4年発行 長谷川かな女の第一句集


数はそれ程多くありませんが、かな女の足跡を知るには十分貴重な展示品でした。
初めて知った長谷川かな女でしたが、台俳人としても、また一人の女性としても尊敬されるに値する女性だったようです。

2009.12.22記

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