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本多静六博士誕生の地

みちのオアシス菖蒲菖蒲町はかなり近い場所にあり3、40分程度で到着します。まずは博士所縁の地を訪れました。 国道122号線にある「みちのオアシス菖蒲」です。


耳慣れたような、耳にしたことの無いようなネーミングですが、この「道のオアシス」とは、「道の駅」制度が出来る前の整備経緯等の違いで2種類の施設があります。
1.ドライバーの休憩施設として、県有地を有効利用するため計画し整備した施設
2.「簡易パーキングエリア」として交通安全を目的に整備した施設
そして共通事項としては、県の道路管理者が整備した事・「道の駅」の登録要件にあっていない事だそうです。
これらをふまえて「道の駅」の登録概要に適合しない施設を「道のオアシス」として管理し、場合によって「道の駅」に変更登録されたケースもあったようです。
現在、この菖蒲は2のケースです、埼玉県では他に1のケースで児玉郡の「道のオアシス神川」と「道のオアシス神泉」がありますが、埼玉県では特に「道のオアシス事業」としての事業費は無いそうです。

みちのオアシス菖蒲モニュメント確かに「道の駅」のイメージとはかけ離れた、細長い敷地の小公園&パーキングと言ったところでしょうか。1995(平成7)年3月30日に造られたそうですが、とても綺麗に整備されています。
車を停めた駐車場の北側にはモニュメントがあります。パーツパーツは結構綺麗なモニュメントですが、全体を見るとやや奇怪な形状です。
ステンドグラス風のあやめとか、恐らく白鷺などは町のシンボルを表しているのでしょうが、アンテナ・・・?見たいな物も含めた形状の意味がよくわかりません。まあ、モニュメントですからそんなモンでしょうね。せめて説明があると嬉しいのですが。


生誕記念公園博士銅像南側の方に向かうと博士の銅像があります。銅像の解説です。


『わがふるさとの偉大な先人、菖蒲町名誉町民本多静六博士の偉業をたたえ、没後四十年目の今日、ここに生誕地記念園を整備しました。
博士は今、生誕の地河原井を背に、こよなく慈しまれた秩父の地に目を向けられております。そして今、博士が寄贈した大滝村中津川の県有林には森林の重要な意義をふえんするため「二十一世紀の森」が整備されつつあります。
博士は、慶応2年(1866)現在の菖蒲町大字河原井の折原家に生まれました。長じて本多家の養子となり、苦学を重ね東京農科大学(現東京大学)、さらにドイツのミュンヘン大学を卒業し、日本最初の林学博士となりました。博士は日本林学界の基礎を築くとともに、日比谷公園や大宮公園などの建設に携わりました。ちなみに日比谷公園に掲示されている「首かけいちょう」の逸話はよく知られているところです。また、博士の努力主義を旨とした処世の教訓は広く敬服されており、多くの著書や県の「本多静六博士育英事業」からもこれを窺い知ることができます。このような博士の業績と人柄はまさに郷土の誇りであり、ここに栄誉をたたえ永く後世に伝えるものです。
平成4年10月 菖蒲町』

ということは元々本多静六生誕地記念園としてできていたところを「みちのオアシス」としたのですね。
それにしても妙ですね。「博士は今、生誕の地河原井を背に、こよなく慈しまれた秩父の地に目を向けられております・・・」とはよっぽど故郷に戻りたくないのですかね。
幼少時代に苦労した、とか虐められたことにより自分の故郷は菖蒲町ではなく大好きな秩父の大滝村だった、・・・て、良いのですかね、こんなこと言って。まあ、本意は「背に、」と言っているので”バックボーン”という意味でしょうが、ちょっと天邪鬼の性格が出てしまいました。

重箱の隅をつつくようなことはやめて、本筋を理解しなければならないでしょう。
一つにはまず「こよなく慈しまれた秩父の地・・・」とある大滝村中津川県有林について知ることからはじめなければなりませんが、これを知るにはどうやら「処世の教訓」を知らなければならないようです。

博士は1866(慶応2)年折原家の第6子として生まれ、少年時代はここ菖蒲町で過ごしたのですが、博士9歳の時に父親が急死したことによって多額の借金を背負い、文字通り貧困および苦学生となったことから始まっています。
そしてこの体験は留学中のミュンヘンでの教えによって博士自身の処世として確立したようです。それは「学者であっても、独立した生活ができるだけの財産をこしらえなければならない。そうしないと、金のために自由を奪われ、精神の独立も生活の独立もおぼつかないようになる」と。この教えから「経済の自立なくして、自己の確立(精神の確立)はありえない」という考えを持つようになったと言われています。
そしてこれを実行したのが「四分の一天引貯金」というものだそうです。
これもドイツ時代の教えで「財産をつくるための基本は勤倹貯蓄であり、貯金ができたらこれを有利な事業に投資しなければならない」というアドバイスに従って、貯めた金で株を買い、公共事業などへ積極的に投資したというものです。
この具体的な行動の一つが中津川県有林だったそうなのです。
「四分の一天引貯金」を実行して得た貯蓄で明治39年頃から数年間に8000ヘクタール余りの山林を買い入れて、その一部(3000ヘクタール余り)を母校東大農学部に譲り、その譲渡金で残った山林にヒノキ、サワラなどの植栽を行う経営に投入したそうです。

このあたりのことを時系列に整理してみます。
1892(明治25)年、ミュンヘン大学にて経済学を学び、ドクトル・エコノミーの 学位を取得。
同年5月西欧を視察のうえ帰国。7月、東京農科大学の助教授となる。
1893(明治26)年、「四分の一天引き貯金」と一日一頁の文章執筆を始める。
1900(明治33)年、東京帝国大学農科大学の教授となる
1906(明治39)年、「四分の一天引き貯金」の成果により利子が基本給与を上回るようになる。
1927(昭和2)年、大学教授を退官(文部省、内閣)。正三位勲ニ等に叙任。東京帝国大学名誉教授の名称を授けられる。
そして退官後も各方面での活動が盛んになるのです。
1928(昭和3)年、日本庭園協会の会長となる
1929(昭和4)年、国立公園協会の副会長となる(会長は細川護立)。東京震災記念事業協会の顧問となる(東京市)。渋谷町町議会議員に当選(一期4年勤務)。
1930(昭和5)年、国立公園調査会の委員となる(内閣)。
このような状況で勝手な推測ですが、より公人としての色合いが強くなったことや退官後も多忙であることで片手間で経営するほど甘くないと言ったところでしょうか、熟慮の末1930年、当時の埼玉県(秩父郡大滝村)に所有の山林を寄贈したようです。

そしてこの寄贈に当たっては寄附希望条件を提示しています。
《寄附希望条件》
1、本林中の一部中津川本流に沿いたる景勝地の森林は風致林として永く保存せられ且林道開さくその他により当地方の開発を図られたき事。
2、本林を経営の上純益の一半を積立て利殖し置き総額100万円に至りたる上は秀才教育の財団法人を組織せられたき事。
3、右財団は年々生ずる利子の4分の1以上を元資金に加えられたき事。
4、該財団の元資金より年々生ずる利子の4分の3以内を以って先ず苦学生中の秀才に補助し進で一般教育並びに学術研究の資に供せられたき事。
これが後の「本多静六博士奨学金」といわれる育英事業です。
寄付を受けた後、県は博士の趣旨に沿うべく森林管理を行い順調に年々収益が上がってきたそうです。この間県庁舎の火災による庁舎再建等の一部費用に当てられたりして県の貴重な隠れた財産としても存在意義は十二分にあったようです。
寄付を受けて23年後の昭和28年に目標積立額に到達し、育英事業が実施できるようになったのです。しかし残念ながら博士はその前年の昭和27年、静岡県で逝去いたしました。85歳だったそうです。
そして、昭和29年度に貸付けを開始して以来、現在までに1,640人(S29~H20)の利用実績があるそうで、単なる有名公園の設計者だけでない業績が残されていたのです。一人でも優秀な人材が育ってくれれば本望でしょうね。
ちなみに奨学金の額は、月額20,000円で、返済は貸付終了後1年間据え置いた後10年以内に均等月賦となっており無利子だそうです。

参考:【本多静六博士奨学金(埼玉県オフィシャルHP)】http://www.pref.saitama.lg.jp/A06/BG00/hondashogakukin/HondaShogakukinBoshu.html

博士の銅像の左手には博士の手掛けた公園の一覧が掲載されています。
その上には「日比谷公園の首かけいちょう」についてのプレートが掛かっています。

『左の図は、東京・日比谷公園の重鎮といわれるイチョウの大木(松本楼南側)です。本多博士の逸話から「首かけイチョウ」と呼ばれています。
博士がこのイチョウの木を見掛けた時は、既に枝は落とされ長さ10m余りの棒状になっていたといいます。距離約500m、重さ75トン、直径2mにもおよぶ大木を25日間かけて移植したといいます。

首かけイチョウ(以下は日比谷公園「首かけイチョウ」案内板から)
この大イチョウは、日比谷公園開設までは、日比谷見附(現在の日比谷交差点脇)にあったものです。
明治32年頃、道路拡張のため、この大イチョウが伐採されようとしているのを見て驚いた日比谷公園生みの親、本多静六博士が東京都参事会の星亨議長に面会を求め、博士の進言により移植されました。
移植不可能とされていたものを、博士が「首にかけても移植させる」といって実行された木なので、この呼び名があります。』

日比谷公園には何度か行きましたが、このようなイチョウがあることは全く知りませんでした。まあ、博士としても何とか守りたかったのでしょうが、「首賭け・・・」が「首掛け・・・」にならなくて良かったですね。

そして銅像の右手には「首かけイチョウの分木」と題された案内板が立ててあります。

首かけイチョウの分木
このイチョウは、日比谷公園にある本多静六博士ゆかりの「首かけイチョウ」から分木したものです。
親木は、明治32年、日比谷見附にあった大イチョウで、道路拡張により伐採されることになりましたが、これを知って驚いた日比谷公園の生みの親本多静六博士が、東京市参事会の議長に強く進言し、現在の日比谷公園に移植したものです。
当時では、大木のイチョウは移植不可能との意見が多かったものを、博士が「自分の首をかけても移植させる。」といって実行された木なので、首かけイチョウの呼び名がつけられています。
日比谷公園でこの親木の大木をぜひご覧ください。』

日比谷公園首賭けイチョウ分木このプレートの左側、銅像の後ろにこの分木があります。確かにまだ小さいイチョウですがいずれ日比谷公園のイチョウのように大きくなるのでしょうが、恐らく見ることはできないでしょうね。それなら一度、日比谷公園の「首かけイチョウ」を見に行っておきますか。


公園内花壇銅像の先にはトイレ、あずまや、ベンチなどがあり小さいながらも小奇麗に造作されています。 歌壇には綺麗に花が咲いていて、町のシンボル的なラベンダーも植えられていました。
小さい施設ですが、ほっと一息には言い施設かもしれませんね「みちのオアシス」は。


幸福寺ここから少し南に戻って博士の生家の方へ向かいます。河原井という地名だけなのでよく場所はわかりませんが、とりあえず雰囲気でも味わえればと思っています。
細い道をまっすぐ進み、菖蒲バイパスの下を潜りしばらく行くと、左手に寺がみえます。
「幸福寺」というお寺で、文字通り幸せになれそうな寺です。


幸福寺サイカチこの「幸福寺」は、明治6年に博士が初めて入学した学校で、博士ゆかりの寺ともいえるそうです。
山門のところには、サイカチという大木がありますが、この大木は博士とも関係があり、子供の頃、近所の子ども達とよくこの木で遊んだといわれています。当時は幹に洞があり、中で子供が遊べるくらいのスペースがあっそうですが、現在は残念ながらないようです。案内板があります。


幸福寺の皀莢(さいかち)
この古木は「サイカチ」という。
「サイカチ」は豆科の落葉高木で、枝や幹にトゲがある。夏(6月)には、黄色の花を咲かせる。木の樹齢は凡そ四百年と言われ、最近まで幸福寺の山門の役割を果たしていました。
サイカチの花と根は漢方薬の一種で「五香湯」にも使われ、調合された「五香湯」は、ニンドウ・コウボウ・コウブシ・カンゾにサイカチの花と根をまぜたもので万病に効くといわれ大変評判がよかったと言われています。
幸福寺に残っている明治時代の「十方信者名簿」には、遠く東京府、浦和方面をはじめ県内各地から毎日「五香湯」を買い求めに来た名前・住所・病名が記録されています。
平成5年春建立 天徳山 幸福寺』

寺の縁起、由来はわかりませんが、サイカチの木が樹齢400年くらいとあるので、それなりの歴史はあるのでしょうが、確かに山門がありませんね。
この「サイカチ」は山門や漢方薬以外にも、建築や家具の木材として、そして嘗ては石鹸の代わりにも使われたようです。これはサポニンが多く含まれているので、莢を水につけて手で揉むとヌメリと泡が出てくるそうで、それを石鹸代わりに(石鹸がない時代)使用したのだそうです。更に芽を食用としたりかなり広範囲で使い勝手の良い木のようですね。
ちなみに樹齢数百年というサイカチは他にもあり、群馬県吾妻郡中之条町の「市城のサイカチ」や、山梨県北杜市(旧長坂町)の「鳥久保のサイカチ」などは県の天然記念物に指定されているそうです。

幸福寺六地蔵とサイカチこのように博士が慣れ親しんだ「サイカチ」の前には六地蔵が並んでいて、「五香湯」とともに庶民の暮らしを守っていたのかもしれません。でも、その割には六地蔵は比較的新しそうで、ちょっと歴史ロマンが・・・


幸福寺本堂それ程広い境内ではないので、すぐ目の前に本堂があります。本堂の壁にはなにやら飾りが施されています。鳥の絵でしょうかちょっと珍しい光景ですね。


木造不動明王坐像 そして参拝を済ませると、更に案内板があります。
【案内板の木造不動明王坐像写真】


菖蒲町指定有形文化財 木造不動明王坐像 一躯
指定年月日 平成4年11月30日
所在地 菖蒲町大字河原井137
所有者 幸福寺
幸福寺は、元亀2年(1571)の開山と伝えられる曹洞宗のお寺です。
この木造不動明王坐像は、縦割材の割り放した面に荒堀彫刻する特徴で有名な、江戸時代初期の異色の像仏僧、円空(1632~95)の製作によるものです。
この像は、35~40年ほどの杉丸太材を縦半割りにし、その割放ち面に簡潔・素朴に彫り出されています。髪は焔髪状で頭頂に宝髻状にものをいただき、左頬脇に弁髪を垂らしています。両眼を見開き、口に上下の牙をあらわした念怒の顔をしています。身には条帛・裳をまとい、左手に羂索、右手に剣を持って岩座に座る不動明王です。
像の背面は表皮を剥いだ木肌をそのまま残し、底には鋸の切断面を残しています。
この像は様式・技法からみて、円空晩年の作品で、天和・貞享から元禄年間(1681~95)頃の作とされています。
県内の円空仏は、東南部を中心に160体ほどが知られています。初めて、菖蒲町で円空仏が確認されたことは、貴重であるとともに、円空の行動範囲を考える上で重要なものとなっています。
総高 65.3センチメートル 像高 39.8センチメートル
平成6年3月15日 菖蒲町教育委員会』

ここに寺の縁起がありましたね。ほぼ「サイカチ」と同じような年代を経過しているようです。そして更に300年以上前の貴重な文化財や明治時代の件の「五香湯」といい、博士所縁以外に非常に興味深い寺なのがよく理解できたところで「幸福寺」を後にしました。

正一位稲荷大明神「幸福寺」の前には赤い鳥居のある神社があります。「正一位稲荷大明神」という神社です。
今まで随分と社寺を訪ねましたが結構様々なところで、神社と寺が隣り合わせっていうところが結構あるように感じるのですが、これっていうのは「神仏習合」と「神仏分離」による現象なのでしょうかね。
その土地に社寺があるのは一向に不思議でもないのですが、隣りあわせっていうのが何とも解せないのですね。


地蔵菩薩ちなみに境内の一角(現在は境内外)には結構大きな菩薩像があるのですが、これ等もこの影響なのでしょうか。


最後に博士の生家をと回ってみたのですが、結局よくわからないので残念ながらこの場を離れることにしました。
それにしても生家ってまだあるのですかね・・・

三箇小学校一度「みちのオアシス」に戻りそこから122号線を北上します。
少し行くと右手に博士の母校である「三箇小学校」があります。初めて入学した学校は「幸福寺」といっていたのですが、推測ですが校舎が「幸福寺」で、「三箇小学校」の前身だった、ということではないでしょうか。
土曜日なので当然休みです。


この学校では現在、博士の母校と言うこともあり、博士の残した業績・教訓・逸話などを教材化して、道徳の授業などに活かしたり、所縁の方から話を聞く時間を設けているそうです。 母校ならではの特色といえるのでしょうね。
これで生誕に纏わる地を巡りました。これからは記念館の方へ向かいます。

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