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本多静六記念館

菖蒲町庁舎を出て、次なる「本多静六記念館」のある”菖蒲町役場 生涯学習文化センター”通称「アミーゴ」へ向かいます。
「アミーゴ」はスペイン語で「友達・友人・仲間」という意味で、町内外の仲間達に輪が広がり、気軽に利用できるようにという願いを込めて名付けられました。公募から最優秀作品として選ばれたネーミングだそうです。

アミーゴ外観「アミーゴ」は文字通り町民の生涯学習の拠点施設で、1Fが図書館、多目的室、2Fには500名収容のホール、展示室、そして「記念館」があり、3Fには会議室のあるかなり立派な施設です。
外観もどっしりとした重厚感とモダンなイメージを持ち合わせています。建物が見えたとき、家内が思わず「宗教関係の建物じゃないの?」と言ったくらい、若干らしくないともいえますね。


本多静六記念館入り口とりあえず中に入って案内を見ると、記念館のある2Fへあがります。
ちょっと変わった絵画の隣に「本多静六記念館」と書かれた入口がありますので中に入ると「記念館」の説明があります。


記念室のご案内
日本最初の林学博士として、日本の造林学・造園学など、林学の基礎を築いた本多静六博士は、東京の日比谷公園をはじめ、北は北海道の大沼公園、南は福岡県の大濠公園など、日本各地を代表する公園の設計に当った人物としても広く知られています。
本多博士は、慶応2年(1866)に菖蒲町大字河原井の折原家に生まれました。
生誕地である本町では、博士の偉業をたたえ長く後世に伝えるため、平成4年(1992)に名誉町民の称号を贈ると共に、生誕地記念園を整備しました。 更に博士の業績を多くの皆様に知っていただく為、「本多静六通信」を通して全国にPRしてきました。そうした情報発信をもとに全国から多くの貴重な資料を入手することができました。
本記念室は、こうして入手した資料と、本多家並びに折原家からご提供頂いた資料を基に、博士に関する資料を年代別、業績別に展示したものです。
一人でも多くの皆様にご覧いただき、博士の人柄や業績の一端をご理解いただければ幸いです。』

広さは6畳の部屋の2倍、12畳くらいでしょうかね、それ程広くはありませんが四方の壁に沿ってパネル展示や実物のショーケース展示がされています。

本多静六記念館年表最初のコーナー(壁)には、博士の年表をメインにダイジェスト的な各世代の写真や、新聞記事などの切り抜き、そして等身大のパネルも置かれていました。
特に大滝村での写真が多く、博士自身も楽しい思い出だったのではなかったのでしょうかね。


誕生から東京山林学校入学次のコーナーは博士誕生から東京山林学校入学までを紹介しています。


誕生から東京山林学校入学まで
●誕生/本多静六(旧姓折原)は、慶応2(1866)年7月2日、武蔵国埼玉郡河原井村(現菖蒲町大字河原井)の折原禄三郎(長左衛門)と母《やそ》の第6子として生まれました。
折原家は代々名役を務める家柄でしたが、同時に鳩ヶ谷の小谷三志を教祖とする不二道の高弟としても活躍していたため、当時から近在の多くの信者が出入りしていました。後年、博士が社会へ施した慈善事業も、こうした不二道の影響を大きく受けたものといえます。
●父の急死と苦学/明治5(1872)年8月の学制制定に伴い、河原井小学校に入学。同9年までは幸福寺の本堂が教室に使われました。
その後、9歳の時に父が急死し、それと共に多額の借金が舞い込み、家計の危機に直面します。家計を助けるための草刈や米搗き、馬糞拾い等が静六の日課となりました。「信心は余得で、学問は余力で」という祖父の言葉に従い、家事の余暇や夜間に勉強するようになりました。この頃の苦学の経験が、負けず嫌いの静六の好学心を刺激し、ついに14歳での東京行きを決意させるに至りました。上京後はかつて兄が教えを受けた島村泰氏のもとで、3年間勉学に励みました。しかしこの時も、農繁期の半年は帰省して農作業に励み、農閑期の間だけ上京し、書生生活を送るという変則的なものでした。
●山林学校への入学/明治17(1884)年3月、恩師島村氏の「半官費の学費の安い学校ができたから」という勧めに従い入学したのが東京山林学校でした。入学者50人中、50番目の成績というビリでの入学でしたが、静六の林学との出会いは、まさに偶然ともいえるものでした。
変則的な勉強が長かったため、入学した年の1学期の幾何と代数の試験に落第、これを悲観して自殺を図ったという逸話があります。
ところが落第を機に一念発起、勉強に励み、「エキス勉強方」という独自の勉強法を生み出し、幾何・代数を得意科目とするなど、翌年には学業優秀者に贈られる報奨金も授与されるようになりました。』

当時の河原井村といえば恐らく野山や一面の田畑などと想像し、そういった環境からてっきり林学を目指したのかと思っていましたが、結構以外でしたね。安かったから入学したとは。
しかしこの偶然を、ある意味チャンスをきちんとものにするところは、やはり人並み以上の何かを持っていたのでしょうね。しかも大抵苦学生は精神的にも強いですからね。

更に少年時代の逸話についても掲出されていました。

青少年時代の苦学を物語る逸話の数々
■腕白の暴れん坊、成績は2番
学問嫌いの私は、腕白で学問には物臭さを極めていたので、成績は芳しくなかったが、それでも不思議なことに2番だった。いつも一番なのは2つ年上の傘屋の関根文吉君(後の三箇小学校初代校長)だった。この人は成績がよかったので、ついに15歳で学校の助教に採用され、月給7円をもらった。負けず嫌いで強情な私だったが、とても学問では文吉君にはかなわなかった。(「本多静六体験八十五年」より)
■米搗きは静六にかぎる
家の手伝いは、1日の分量を決めた請負制度にしてもらったが、懸命に働いた後は、疲れて思うように勉強ができなかった。そこで米搗きを専門にすることにした。初めのうちはうまく搗けなかったが、本を読みながら米搗きができるような工夫をしたところ、いつしか米搗きもうまくなり、難しい本も「読書百遍意自ずから通ず」で、意味も分かるようになってきた。ついには夢中になって搗くようになり、米搗きは静六にかぎるとまで褒められるに至った。(「本多静六体験八十五年」より)
■天丼一杯の思い出
苦学生時代、生まれて初めて一杯の天丼をご馳走になった。その旨さに驚嘆し、日記に「願ワクバ時来ッテ天丼二杯食べラレルヨウニ」と記した。後年、念願かなって天丼二杯を試みたが、とても食べ切れなかったし、思いのほか旨くもなかった。そのとき、何事もその時の境遇が、その人なりの快楽をもたらすという「天丼哲学」の道を発見した。そしてこの時の天丼が病みつきとなり、生涯、天麩羅が大好物となり、自宅でも人を招いてはよく天麩羅会を催した。(「私の財産告白」より
■欠食して浮かしたお金を小遣いに
実家で出してくれるお金は1ヶ年50円で、学校の月謝と寄宿舎費を前納してしまえば、あとはもう1銭も残らなかった。それ故私は、日曜日ごとに欠食届を出して、朝早く四里(16Km) ほど離れた四谷の島村先生のところへ行き、庭や畑の手入れ、障子張り、使い走りなどの仕事をして三度の食事をさせてもらった。そして欠食して払い戻された1ヶ月50銭のお金を自分の小遣いにした。(「本多静六体験八十五年」より)』

恐らく苦学生ゆえに或いは貧乏故に汗水たらして働くと、一般的な暮らしができるでしょう。ですが、頭を使って働く人は一旗あげられるのでしょう。やはり頭の良い人には敵いません。(って、ほぼ自分の体験談から!)
それにしても文吉君、何となくカッコイイですね。

ドイツ留学そして次のコーナーは「ドイツ留学」時代です。説明パネルです。


初の渡航とドイツ留学
海外への旅行手段を船のみに頼っていた時代、本多博士は生涯に19回もの海外視察を体験し、欧米各国の進んだ学問・文化を身につけると共に、林学以外の先進的なことがらについても貴重な情報を日本にもたらし、近代日本の発展に大きく貢献しました。
その初の渡航が、憧れのドイツ留学でした。明治23(1890)年3月23日、日本を発った博士は38日間の渡海を経て、フランス・マルセイユに到着。パリ、ベルリンを経て、渡航から47日目の5月8日、留学先のターラントに到着しました。渡海は、各国の港に寄港しながらのもので、行く先々で珍しい光景に出会いました。
ドイツでの留学は、初めの半年間はターラント山林学校で学びました。日本出航からターラントで夏休みを迎えるまでの、約半年間の生活の様子は、「洋行日誌」に詳しく記されています。
また、ターラント山林学校で学んだ後はミュンヘンへ移り、約1年半にわたってミュンヘン大学で経済学を学び、「ドクトル・エコノミー」の学位を取得しました。
2年間にわたる留学を終えた博士は、カナダやアメリカなどの先進国の様子を視察して日本へ帰ってきました。本多博士にとってドイツ留学の体験は、その後の考え方や生活スタイルの原点となりました。』

更に「洋行日誌」からの抜粋が記されています。

「洋行日誌」から見たターラント
●町の様子/人口は2千人位だが、ドレスデンにも近く日本の東京のようである。町の中央には川が流れ、市街は山麓に沿って広がっている。人々は質朴にして温厚で、気取ったところがない。この時期(5月下旬)は林檎や梨が花盛りで、草花も咲き乱れ景色が美しい。夏になると諸国から避暑客が集まるということで、健康にもよいところである。
●山林学校の様子/学生は全部で70人程。いずれも20歳以上である。ロシア政府から5人、オーストリアから数人、その他の国からも来ているが、アジアからは私1人である。この学校は欧州でも最も評判のよい学校なのでたくさんの学生がいる。学生達は皆温厚で、喜んで私を迎えてくれた。衣服に気をつかう必要もなく、誠によい風俗のところである。
●下宿先の様子/部屋の広さは15畳位あり、寝室は隣の部屋にある。机や椅子も上等で建物もきれいである。部屋からは私の行く学校が見える。この家は2階建ての料理屋で、学校の教師や学生がよく訪れるところである。その2階が私の住むところである。
●普段の食事の様子/朝6時にパンとコーヒー、牛乳で朝食をとる。昼食は近所の料理屋でスープと野菜がついた1日の内で一番上等な食事をとる。夕食は7時にまた料理屋へ出かけ、ジャガ芋にビーフステーキ位な簡単な食事をとる。昼食が1マルク、夜はその半分くらいである。』

実に恵まれた状況と環境の中で暮らしていけるのも、苦学の上での苦労が稔ったというところでしょう。
明治時代ですから日本の庶民では考えられない暮らしです。今でも日本ではじゃが芋にビーフステーキは簡単な食事ではないような気がしますが。
このような見聞が後に様々な偉業を成し遂げる原動力となったのが理解できるようです。
ちなみにターラントは現在ドイツのザクセン州にある街で、中世の頃から時代と共に、ザクセン公国、ザクセン王国、ドイツ帝国、ヴァイマル共和国、東ドイツを経て1990年ドイツ再統一によって加盟した「新連邦州」のひとつで、ドイツの東端にあります。
更に当時の山林学校は現在ドレスデン工科大学林学科として残っているそうです。

パネル前展示この「誕生から留学まで」のパネル展示の前にはガラスケースの展示品と博士の像が置かれています。


本多静六記念館本多静六記念館展示品には明治神宮完成後、初参拝の際に着用したといわれる木ぐつや正装用のシルクハット、自筆の手紙や日誌、東京山林学校時代の博士自筆の学習帳、本多静六奨学金10周年記念品の花瓶、松島公園経営竣功記念品の観音大士など所縁の品々が展示されています。


博士の業績次のコーナーは「博士の業績」についてのコーナーです。同じようにパネル説明があります。


日本最初の林学博士としての業績の数々
本多博士は、明治25(1892)年ドイツ・ミュンヘン大学において経済学を学び、ドクトル・エコノミーの学位を取得した後、同年7月母校である東京農科大学の助教授に就任しました。同32(1899)年3月に学位論文「森林植物帯論」により日本で最初の「林学博士」の学位を取得した後、翌33(1900)年に教授に就任、昭和2(1927)年に東京帝国大学を定年退職するまで、林学の教育研究に当たりました。
担当講座は、林学第2講座(造林学)でしたが、造林学はもとより、林政学を始め数多くの林学分野の専門書を著述し、林学の基礎固めと発展に貢献しました。
また造園の分野では、大正5(1930)に「景園学」と称した東京大学における初めての造園に関する講義を開講し、更に同9(1920)年には「造園学」と命名した農学部での正式な講義を開講し、幾多の専門家の指導育成に尽力しました。
博士は、造林学研究のため大学独自の演習林の必要性を説き、日本初の大学演習林である千葉演習林の設置に尽力すると共に、演習林からあがる収益をもって退官教職者の退職金を賄うという画期的な手法により、大学経営にも貢献しました。
その他、国立公園の創設、水源林の保全、鉄道防雪林の造成、震災後の都市復興、地域の特質を活かした観光振興などをはじめ、日比谷公園を代表とする全国各地の公園の設計・改良などに携わるなど多彩な活動を繰り広げました。』

千葉演習林は正式には「東京大学大学院農学生命科学研究科・附属科学の森研究センター・千葉演習林」という名称です。
当然ながら、かなり広い敷地をゆうしていて、一部は千葉県鴨川市にあるのですが、個人的に鴨川市に何度も行っていたにも関わらず全く知りませんでしたね。

参考:【千葉演習林】http://www.uf.a.u-tokyo.ac.jp/chiba/index.html

また、埼玉県比企郡嵐山町の嵐山渓谷も、それまで地形的な特徴が長瀞と似ているので「武蔵長瀞」と呼ばれていたこの渓谷を、昭和3年にこの地を訪れた本多博士が京都の嵐山に似ているということで「武蔵嵐山」と名付けられ、以来多くの観光客が訪れるようになり、町名の嵐山町もこれに由来するそうです。
確かに観光振興などにもひと役買っているようで、林学とは別に経済学などの知識を有しているからこそなのでしょうね。
所謂、単なる学者バカではないということでしょうが。

処世の秘訣そして、林学とは別な、その後の人生哲学とでもいう退官後の説明が次のコーナーです。


わが処世の秘訣と成功の秘訣
財テク名人、処世の達人として一世を風びした本多博士は、自らの著書でその秘訣を披露し、多くの人の反響を呼びました。多額の資産を残し、そのほとんどを公共のために寄附したという本多博士。埼玉県で行っている本多博士奨学金制度も、苦学を経験した博士が、育英事業の実施を条件に、県へ山林を寄附したことに始まるものです。
自らの経験を生かして著した「処世の秘訣」「成功の秘訣」「社交生活の秘訣」「蓄財の秘訣」等の著書は、今なお再販が繰り返され、多くの人に読み親しまれています。
そうしたなか、博士が処世の秘訣として常に心掛けてきたこととして、次の3つをあげることができます。
1.職業の道楽化/人生の最大幸福は、その職業の道楽化にある。富も名誉も美衣美食も、職業の道楽の愉快さには遠く及ばない。職業を道楽化する方法は、ただ一つ努力にある。
2.生活の単純化/日本人ほど見え坊はいない。住宅等もムダな部屋や不要なものが多い。従来の生活様式を単純化し、家族を本位とする内容充実の生活を送ることが秘訣である。
3.富の精神的享楽/己の富を物質的・肉体的享楽の為に過ぎて使えば身に害を及ぼすが、公益のためにいくら金を使っても身に害はなく、精神的快楽を増し自分も人をも幸福にする。』

確かに深い話ですが、2,30年前に知っていれば人生変わったかもしれませんね。今や時すでに遅し・・・
更に成功のための戒めが記されています。

成功の秘訣12ヵ条
「既に適当な学問を修め、良友を得た上は、それぞれ職業について独立成功の域に進まなければならない。次の12ヵ条は、私がこれまで実行してきたところであるが、何人にも容易に、かつ直ちに応用し得るべきことと思う。」
(「わが処世の秘訣」より)
①常に心を快活に保つ(健康の基) ②専心その業に励む(仕事は成功する基) ③功は人に譲り責は自ら負う(人に長たる道) ④善を称し悪を問わず(社交の秘訣) ⑤本業に妨げなき好機はいやしくも逸せず(積極的活動) ⑥常に収入の四分の一を貯蓄する(至富の基) ⑦人事を尽くして時節を待つ(安心の法) ⑧嫉視の敵に注意せよ ⑨働学併進を楽しめ ⑩希望と自身をいだけ ⑪恩を忘れるな ⑫名利(名誉と利益)を慎め』

これは今からでも実践できそうなところはありますね。ただ、⑧だけは否に生臭い教訓ですが、いやな思いがあったのでしょうかね。

大礼服このコーナーの前には、博士が着られた「大礼服」が展示されています。


本多博士の公園設計そして最後のコーナーは「公園」についてです。


本多博士の公園設計
博士は明治34(1901)年の日比谷公園の設計を最初に、明治・大正・昭和と約35年間にわたって、全国各地の公園の設計・改良に携わりました。その数は大小数百ともいわれていますが、これらの業績を整理すると次のようになります。
①公園の必要性が社会一般に認識されていなかった明治・大正期に、その必要性を説き、普及に尽力したこと。
②公園設計の第一人者として、今日のわが国における公園設計の技術・手法を確立したこと。
③公園の整備を通じて、地域の発展や観光振興に大きく貢献したこと。
④荒廃しつつあった史跡や名勝地を公園として整備することにより、今日の観光拠点に発展させたこと。
⑤植栽計画を中心とした公園設計が、今日の環境保全に大きく役立っていること、等をあげることができます。
まさに、日本の公園の父と呼ぶに相応しい活躍といえます。
後年、博士は公園設計のポリシーを「独立自強」と「健康第一主義」の二つの言葉に代表するようになりました。「各々が人の世話にならず、自分で働いて生きていくこと、そのためには健康が一番大切である」という考え方によるものです。』

大宮公園内の案内パネル展示パネルには全国各地の公園一覧と主な公園の説明がありますが、「大宮公園」を訪れた時の案内板を思い出しました。
【大宮公園内の案内パネル】


本多静六林学博士と氷川公園改良計画
日本の公園の父と称される本多静六博士(埼玉県菖蒲町生まれ)は、明治三十四年の日比谷公園の設計を最初に、全国各地の公園設計・改造に携わっています。
大宮公園も本多博士が手がけた公園の一つで、埼玉県の依頼に基づき大正十年五月に同僚の田村剛博士と「氷川公園改良計画案」を作成しています。
その内容は現在の公園の骨格を決めるもので、既存公園の割烹旅館の移転や桜の植栽を始め、向山(現百年の森付近)地区を拡張し、舟遊釣魚の池(現ボート池)や大運動場(現双輪場等)を整備する計画が提案されています。
昭和期になって本格的な公園整備が進められ、現在は双輪場、野球場、サッカー場等が建設され、本多博士が構想したスポーツの殿堂とアカマツとサクラの公園として、広く県民に親しまれています。
平成二十年三月 大宮公園事務所』

こうして記念館を見てくると、勿論林学としての博士の業績は素晴らしいことは明白ですが、それと同時に博士の「生きざま」自体が共感を呼んだり、リスペクトされたりしているのではないでしょうか。
渋沢栄一や後藤新平などとも親交があったそうなので、その辺りから林学以外の分野でも一過言をもてるようになったのではないかと推測できます。いずれにしても単なる「公園の父」ではないことは、しっかりと記憶にとどめた記念館でした。

アミーゴのレリーフ記念館を出ると2階ロビーには様々な絵画が飾られていました。そのなかにこのアミーゴの外壁にあるレリーフについての解説がありました。


シンボリックレリーフ「菖季」について
1.設置場所:アミーゴ正面出入口の上部(妻側部分)
2.デザイン:鐘馗と子供たち
3.解説:レリーフ中央の鐘馗は、疫病神を追い払い、魔を除くという神で、また手に持つ菖蒲は、邪気を払うという意味があり、いずれも「端午の節句」を軸に深く関わりがあります。一方、菖蒲という町名の由来は、室町時代の康生2年(1456)に城が築かれ、完成したのが5月5日の「端午の節句」であったことから、城の名を菖蒲城と称し、このあたり一帯を菖蒲と呼ぶようになったといわれています。
このように、「端午の節句」をキーワードとして、深く関わるのある鐘馗と菖蒲、そして子供達をモチーフに製作されたレリーフには、次世代を担う子供たちの健やかな成長と町民一人ひとりの幸福への願いが込められています。
なお、菖季という名称は、菖蒲の季節と鐘馗をあらわしたものです。
4.制作者:デザイン・絵本作家-吉田公麿氏、造形・彫刻家-荻野敏雄氏』

語りたい意図はよく理解できるのですが、若干こねくり回し気味ではないかという気もしないではないのですがね。

チャリティ食堂ここでPM12:30ころだったので、昼食をとることにしました。
家内が突然「ごまだれうどんで良い」と言い出したので聞いて見ると、1階にレストランがあってそこにあるメニューで目星しをつけておいたとか・・・
ということで1階に下りると、チャリティ食堂と書かれています。「チャリティするのか、されるのか」と訳の判らないことを考えていると、件の「ごまだれうどん」1日限定5食とあったので、こりゃ食べないわけにはいかんなと、注文すると、店のお姉さん、「天麩羅もどう?」と妙な商売っ気をだして。
といことで、”かき揚げごまだれうどんセット”ということで注文しました。


ごまだれうどんと天ぷらかき揚げ味はとりあえず可もなく不可もなくですが、500円という金額を考えればコストパフォーマンスはまずまずの部類でしょうね。 まあ、菖蒲町の名物の一つが”うどん”だそうなので、一応名物を賞味して「アミーゴ」を後にします。


「チャリティ食堂」から直接建物外へでると、「みどりの風のレストラン」というさわやかなお店の名前になっていました。何か珍しいお店ですね。

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