草加松原

今回のテーマは【草加せんべい】なので、まずは草加市の産業を知る、ということで草加市文化会館内にある「伝統産業展示室」へ向かいました。

外環自動車道を草加で降りてまもなく国道4号線へ右折して草加方面を目指しますが、その前に立ち寄ったのが花栗交差点からすぐの獨協大学キャンパスです。かれこれ約30年以上前に通っていた母校で、実に約30年ぶりに訪れたのです。 基本的な配置などは当時のままですが、建物が違いました。
草加松原 草加松原 【獨協大学正門と中央棟】
中央に中央棟と呼ばれる本部や35周年記念棟、そして創立40周年を記念した天野貞祐記念館などがあり、やはり30年以上の隔世は懐かしさと共に時代の流れを感じさせてくれるものでした。

最もキャンパスの正門前を流れる伝右川や、松原団地は30年前のそのものではありましたが。 じっと眺めていると1日でも2日でもいられそうな気がしますが先に進むことにします。
草加松原 草加松原 【キャンパス前の伝右川と松原団地】
因みに俳優の柴俊夫氏やタレントの小倉知昭氏らは卒業生、女優のかたせ梨乃さんは当時学食で珠に見かけていました。また歌手の須藤薫さんはジャズとフォークの違いはあるが同じ軽音楽部で”歌バン”としてヴォーカルをしていただいた記憶があります。大学も当時はまだ創立して10数年しか経過していなかったので、あまり古臭い伝統や慣習がない分自由ではありましたが、如何にしても当時は外国語学部が主力とはいえ、場所的にイメージが今一でしたね。

思いで話はこれくらいにして、ここから草加市文化会館までは車でホンの10分程度です。 嘗て東武線を超える道は踏み切りで、県道34号線の踏み切りは常に渋滞していましたが、現在は立体交差になっており実にスムースに通れるようになっていました。
松原団地駅入口交差点を右折するとすぐ右側に草加市文化会館があり、「伝統産業展示室」に入りました。
草加市の中心となる産業は3つあり、「草加せんべい」のほかに、「皮革製品」と「本染めゆかた」があるそうです。
この産業はいずれも東京(江戸)から移転してきたことに端を発し、皮革産業は、皮革加工会社が昭和10年に移転してきたのを契機に、三河島周辺の皮革業者が次々に草加に進出してきたそうです。また、染色産業は、江戸時代中期の大火で焼け出された神田の紺屋(染め物屋)が、日光街道の宿場町だった草加周辺に住み着いたのが始まりといわれているようで、特に草加のゆかたは染め付けが有名で、草加で生み出される製品は“東京本染ゆかた”と呼ばれているそうです。

中に入ると、いきなり大きなせんべいのモニュメントがあり、せんべいに関する展示がされています。
草加松原 【伝統産業展示室】
その中に【草加せんべい】の由来を解説するコーナーがありました。

草加煎餅の由来
草加が奥州街道の宿場町として栄えていた頃、旅人相手の茶店が街道にあった。その茶店のおせんというお婆さんが作って売っていたお団子が非常においしく、当時往来の人達に大変親しまれていた。しかし、その日によっては売れ残りもあり、そういう時は前の川に捨てていた。
或る日、武者修行の侍がその様子を見て「おせんさん、お団子を捨てるとはもったいない。そのお団子をつぶして天日で乾かして焼餅として売っては?」と教えてくれた。
おせん婆さんは早速売り出して見たところ、お客様に好評で喜ばれ、日光街道に名物ができたのが、今の草加煎餅と伝えられている。』

ありがちな由来ですが、結構事実はそんな単純なことかもしれません。
ここには煎餅の製造工程や用具などが展示されており、一通りの知識を得ることができました。
このほかに先の二つの産業である皮製品やゆかたの展示・工程の説明などがあり、手っ取り早く草加市の産業を知るにはうってつけの場所です。

展示室をでて、いよいよ草加に向かいますが、これ幸いとばかりに車は文化会館の駐車場に停めさせていただき歩いて向かいました。
文化会館を出ると左手にすぐ松原大橋があり、その下を綾瀬川が流れています。
松原大橋に多くの人がいるので行ってみると遊歩道の方でなにやら警官らしき人が大勢います。たまたま自転車で来た御婦人が「凶器が見つかったみたいですよ」と聞きもしないのに教えてくれました。
そういえば1~2日前に殺人があったようなことをTVで放映していました。その捜査なのかもしれません。
松原大橋を渡ると遊歩道があり、その上に大きな太鼓橋が掛かっています。どうやら松原大橋から右側への遊歩道は通行禁止となっていました。まあ、草加方面への左側へ行くので問題ないですが結構こんなタイミングもあるのですね。

大きな太鼓橋の欄干に百代橋と書かれていましたが、そこでもっと珍しいものが見られました。 ・・・その、立ち入り禁止、所謂「KEEP OUT」の黄色いテープです。
2時間ドラマじゃありません、ホンマもんの「KEEP OUT」・・・埼玉県警仕様です。一般的になかなか見れるものではないですよね。
草加松原 【百代橋立ち入り禁止】
因みに2月9日現在犯人は逮捕されたようです。読売新聞記事です。

『ロシア人妻を殺害容疑、パキスタン人逮捕…ストーカー?
2月9日11時39分配信 読売新聞(- Yahoo!ニュース)
埼玉県草加市八幡町、ロシア人の無職アナスタシア・コルパチョワさん(23)が殺害された事件で、県警は9日、逮捕状を取って行方を追っていたパキスタン人の同県越谷市南町、工員モハマド・アラム容疑者(38)を殺人容疑で逮捕した。
アラム容疑者は9日未明、群馬県館林市内で発見された。調べに、「私がやった。コルパチョワさんと付き合っていた」と供述している。
発表によると、アラム容疑者は6日昼、草加市中根の遊歩道で、コルパチョワさんの首を刃物で刺して殺害した疑い。
県警幹部によると、遊歩道の南約20メートルの綾瀬川下流で、凶器とみられる包丁が見つかった。
コルパチョワさんは殺害される直前の6日午前、草加署の交番に夫と訪れ、「アラム容疑者からストーカー被害を受けている」などと相談していた。 』

そんなこんなの珍しい体験をした現場を後にして遊歩道を進むと百代橋のそばに解説板がありました。
草加松原についての解説です。

草加松原

●草加松原の今昔
草加松原は、日光道中綾瀬川沿い約1.5Kmの松並木です。江戸時代より「草加松原」「千本松原」と呼ばれ、うっそうとした松並木が緑のトンネルを形成し、日光の杉並木と肩を並べる名所になっていました。
松の植樹時期は定かではありません。一説では、天和年間(1681~1684)に関東郡代伊奈半左衛門が綾瀬川を開削したときにあわせて日光道中を改修した際に植えられたといわれています。しかし、1751年(寛延4)成立の『増補工程記』(盛岡藩士清水秋全筆)には松並木は描かれていません。記録によると、1792年(寛政4)に1230本の苗木を植えたということが記されています。1806年(文化3)完成の『日光道中分間延絵図』には街道の東西に数多くの松が描かれています。
1870年(明治2)の調査では485本、1879年(明治10)には補植されて806本あったといわれます。1928年(昭和3)発行の埼玉県の調査報告書によると、「距離延長約14町(約1.5Km)、樹数778本、道路の東側390本、西側388本、大きさ通常目通周囲約4.5尺、高さ7~8間、最大なるもの目通周囲約8尺、高さ12間」とあります。
しかし、昭和40年代には、自動車通行量の増加による排気ガスの影響で、成木は60数本にまで減少しました。1971年(昭和46)、草加市は「松の枯死の原因究明と対策」を検討し、松原再生に着手しました。松並木保存会による保護・補植、県道足立・越谷線の西側移設などにより、現在約600本まで回復しています。1986年(昭和61)、草加松原は「日本の道100選」に選ばれています。

●街道と松並木
徳川家康は、幕府開府に先立って五街道をはじめとする全国の街道の整備を命じています。日本橋を起点とした街道沿いには、箱根や日光のように、杉や松が多く植えられ並木として壮大な景観を今に伝えている場所があります。幕府が街道に並木を設けたのは、常緑の並木が夏は強い日差しを遮り、冬は防風にと参勤交代などで道ゆく旅人たちを守ること、街道の風致を求めたことにあったといわれています。』

大学に通学していたころがちょうど70年代の中頃でしたから、一番松の木が少なかった頃かもしれません。曖昧な記憶では確かにそれ程松並木は長くなかった様な気がしますが・・・車で通ることが多かったので。
それにしても凡そ40年で10倍ですから、さぞや維持・管理も大変だったことだと思われます。実際これ等を推進したのが「今様・草加宿」実行委員会といわれる組織だそうで、旧日光街道南側詰から綾瀬川左岸・松並木までの地域を、一つの都市再生軸「今様・草加宿」のまちづくりを考える組織として、平成15年9月に草加市の呼びかけにより組織されたそうです。
この実行委員会は、対象地域内の町会や自治会、地区まちづくり協議会、商店会、商工会議所、青年会議所などの役員と公募委員から成り立っており、旧日光街道草加宿の再生・復活をめざして、さまざまなまちづくり活動をおこなっているそうです。 したがって、この松並木と遊歩道も市民の手によって再生されたと言っても過言では無いのかもしれませんね。

因みにこの解説版内容はともかくとして、見た目になかなかグッドなサインです。統一ロゴと日本文・英文・点字で実に親切・丁寧なつくりです。
正式には「道しるべ」と呼んでいるそうで、平成17年~平成20年(恐らく-年度)に46ケ所、3400万円の予算を計上しているそうで、徹底した再生計画なのでしょう。
草加松原 【道しるべ解説板】


「道しるべ」の横に”石碑”と”標木柱”があります。
”標木柱”には『芭蕉シンポジウム記念ドナルド・キーン植樹の碑』と書かれています。
草加松原 【石碑”と”標木柱】


”ドナルド・キーン”・・・? まずはそれから。

『ドナルド・ローレンス・キーン(Donald Lawrence Keene, 1922年6月6日 - )は、アメリカの日本文学研究者、文芸評論家。勲等は勲二等。コロンビア大学名誉教授。日本文化を欧米へ紹介して数多くの業績を残した。称号は東京都北区名誉区民、ケンブリッジ大学、東北大学ほかから名誉博士。賞歴には全米文芸評論家賞受賞など。』(ウィキペディア)

芭蕉の研究にも長けている関係から芭蕉シンポジウムに訪れ、記念に植樹をしたということでしょう。 と言うことなら隣の石碑は芭蕉に関係するものなのでしょう。芭蕉に関係の無いところに植樹すると言うのもおかしな話ですから。
石碑には、「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」と刻まれています。
後に判ったことですが、これは《おくのほそ道》の書き出しで、百代橋の名前の元となったことから建てられた碑だそうで、芭蕉の影が色濃く残されている一つのシンボルなのでしょう。

さて、とりあえずここから遊歩道をぷらプラと歩きはじめます。勿論、草加方面へ向かいます。
道幅も広く、石畳と土の歩道は歩きやすく当然、松並木と綾瀬川の織り成す景観は素晴らしいです。もっとも実際に綾瀬川は2004年の調査で日本一汚れた川のレッテルを貼られたこともあるのですが、ここは目をつぶるとしましょうか。
草加松原 【草加松原遊歩道】
ちょうど松には”こも”が掛けられています。
草加松原 【松のこも巻き】
これは、松の枝葉に付いているマツクイムシやマツカレハなどの害虫が、越冬のために地中に潜る秋口に巻いて、虫が冬の寒さをしのぐため、こもの中を温かい土中と間違えて過ごす性質を利用した伝統的な害虫の駆除法だそうで、草加の冬の風物詩となっている「松のこも巻き」と言うそうです。
通常毎年11月に巻きつけて節分の時期(2月3日頃)には、はずして、こもを焼却するそうですが、今年は2月8日になってもまだ巻かれていました。
これが外されることが草加の町への春の訪れの一つなのだそうで、中々良い風情です。

しばらく行くと左手に橋が現れます。ハープ橋という名で欄干にはハープのミニュチュアが付けられています。
これは平成元年以来、毎年11月に草加市で「国際ハープフェスティバル」が開催されていて、それに伴ってこの晩秋の頃には、市内の小中学校でのスクールコンサートや、駅コンコースでのコンサートなど、ハープを通じて音楽と文化の町つくりを推進していることからこの名前がつけられたそうです。
どうせなら橋自体をハープの形にすればとも思いますが、まあ、それほど予算も取れないでしょうからね。
遊歩道を歩いていると松のほかにもツツジやサクラが植えられています。暖かい季節になるとまた、違った景観が楽しめる趣向でしょう。
草加松原 【ハーブ橋】


そして2つ目の太鼓橋に到着します。
矢立橋という名で、”KEEP OUT”の百代橋と対をなす太鼓型の2つの歩道橋だそうです。
百代橋と同じような和風デザインで、周囲の景観にあわせたのでしょう。橋の長さは96.3m、幅員は4.14mで百代橋の1.5倍ほどの大きさだそうです。
百代橋は昭和61年11月に建設され、矢立橋は平成6年5月に建設されたのですが、橋名は百代橋と同じように《おくのほそ道》の「行く春や 鳥啼き魚の目は泪 これを矢立の初めとして行く道なほ進まず」という一説から引用されたようです。
草加松原 【矢立橋】


橋の頂点から今来た遊歩道を振り返ると、草加松原遊歩道の景観が又違った角度で楽しめます。
草加松原 【矢立橋からの景観】
しばし橋の頂点からの眺望を堪能し橋を降りると右手に大きな碑がありました。

『この顕彰碑は、埼玉県の県土を縮尺三七、〇〇〇分の一で形どり、顕彰プレートは、草加市の位置に設置してあります。
昭和六十二年十一月十五日 埼玉県』

との説明にあるとおり、まんま埼玉県のかたちをした石碑です。
草加松原 【日本の道100選碑】


真ん中に大きく”日光街道”と彫られており、確かに”道”と書かれたプレートが草加市あたりに取り付けられています。
この顕彰は日光街道が「日本の道百選」に選定された顕彰です。
この「日本の道百選」は、日本全国の特色のある道路を選定、表彰したもので、昭和61年に制定された「道の日(8月10日)」の記念事業の1つとして実施されました。選定に当っては建設省(現・国土交通省)と「道の日」実行委員会により選定されるものです。
埼玉県では、この日光街道と秩父郡大滝村の秩父往還道の2件が選定されていて、全国では、日光・杉並木、京都・哲学の道、天草パールラインなど104件が選定されています。

さてこの日光街道は草加市を南北に貫く道で、衆知のとおり江戸時代の五街道の1つです。千住から鉢石(はついし・栃木県)までの道中を言い、大部分が現在の一般国道4号と重なります。
江戸から宇都宮までは奥州街道と同じ道でしたが、元和3年(1617)日光東照宮が造営されて、江戸から日光までの公用通行が頻繁になるにつれて、奥州街道と重なる部分は日光街道(道中)と呼ばれるようになったそうです。
江戸・千住宿から今の埼玉県に入ると、草加、越ヶ谷、粕壁(春日部)、杉戸、幸手、栗橋の6つの宿が置かれ、房川関所(栗橋関所)を通って利根川を舟で渡ると、下総の中田宿に入ります。この後、古河、野木、間々田、小山、新田、小金井、石橋、雀宮をへて宇都宮へ。宇都宮で奥州街道と分岐して徳次郎、大沢、今市から鉢石に至る計21宿があったそうです。 ここでもまた、栗橋宿が出てきましたね。
このように家康の菩提としての東照宮によって一際重要な道となったのです。或る意味徳川家所縁の道のような感覚から松並木や杉並木などの通行と景観の面でより優れた街道が作られたのではないかと思われます。

ここから先は草加の一つのシンボルでもある芭蕉と河岸を彩る草加松原遊歩道の南端の札場河岸公園に入ります。

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