芭蕉と札場河岸

最初に見えたのが半円の石碑で”利根川百景 綾瀬川と松原”と刻まれています。
芭蕉と札場河岸 【利根川百景碑】
これは、そもそも利根川の工事の歴史と繋がっていて、明治33年(1900)、千葉県香取市(旧佐原市)での利根川第一期改修工事から平成12年(2000)がちょうど利根川工事100周年にあたることにより、利根川流域の8行政機関等からなる「利根川百年記念行事委員会」(昭和62年発足)が発足され、平成12年度に利根川近代治水百年記念行事の一環として制定されたのが”利根川百景”です。
この綾瀬川は利根川水系ということで昭和63年に百景の一つとして選ばれたようです。
いつの時代でもこういったものは選ばれたときは、華やかで晴れがましのですが、時が経つとまさに”一過性”でしか過ぎないイベントが多いものです。 イベントだから一過性だと言うことでしょうが、折角なのだから、せめてその功績なりを後世まで権威の或る物にしてもらいたいというのは難しいことでしょうかねえ。

次の石碑は”高浜虚子”の句碑です。
芭蕉と札場河岸 【高浜虚子句碑】
高浜虚子〔1874(明治7)年~1959(昭和34)年〕は、愛媛県松山市生まれのホトトギス派の俳人、小説家です。
松山中学時代から正岡子規に師事して俳句を学び、1894(明治27)年3月下旬、子規とともに草加を訪れ「巡礼や草加あたりを帰る雁」という句を残したそうです。さらに1895(明治28)年8月下旬にも再度、草加を訪れ「舟遊綾瀬の月を領しけり」という句を残しています。
この石碑は、「巡礼や草加あたりを帰る雁」の句碑で市民の寄付によって1997(平成9)年4月29日に建てられたものだそうです。やはり風光明媚なことと芭蕉の訪れた地ということで、草加松原は俳人には人気スポットなのでしょう。

ここでいよいよ芭蕉との出会いです。
芭蕉の像が際立って見えます。まさに草加松原のシンボル的存在ですね。
芭蕉と札場河岸 【芭蕉ブロンズ像】


「道しるべ」の解説板で芭蕉が説明されています。

松尾芭蕉
1689年(元禄2)3月27日、46歳の松尾芭蕉は、門人の曽良を伴い、奥州に向けて江戸深川を旅立ちました。深川から千住宿まで舟で行き、そこで見送りの人々に別れを告げて歩み始めたのでした。
この旅は、草加から、日光、白河の関から松島、平泉、象潟、出雲崎、金沢、敦賀と、東北・北陸の名所旧跡を巡り、美濃国大垣に至る600里(2,400Km)、150日間の壮大なものでした。この旅を叙したものが、日本三大古典に数えられる『おくのほそ道』です。

「月日は百代の遇客にして、行きかふ年も又旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口をとらへて老をむかふる者は、日々旅にして、旅を栖とす・・・・・・」

あまりにも有名なその書き出しは、「予もいづれの年よりか、片雲の風に誘われて漂泊の思ひやまず・・・」と続き、旅は日光道中第2の宿駅の叙述に進みます。

「もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう早加(草加)という宿にたどり着きにけり」

芭蕉は、肩に掛かる荷物の重さに苦しみながら2里8町(8.8Km)を歩き、草加にたどり着きました。前途多難なこの旅への思いを吐露したのが「草加の条」です。『おくのほそ道』の旅は、この後草加から東北へと拡がっていくことになります。
この松尾芭蕉像は、『おくのほそ道』旅立ち300年を記念して制作されたブロンズ像です。像の製作者は、彫刻家・麦倉忠彦氏。像は、友人や門弟たちの残る江戸への名残りを惜しむかのように、見返りの旅姿をしています。台座側面には、芭蕉研究者の第一人者・尾形仂氏による芭蕉と『おくのほそ道』に関する一文が刻まれています。

●松尾芭蕉 《1644(正保元)~1694(元禄7)》
江戸前期の俳人。伊賀上野の城東、赤坂で生まれた。父は松尾与左衛門。幼名は金作。のち、藤七郎、忠右衛門、甚七郎と称した。
俳名は宗房(そうぼう)、桃青(とうせい)を経て、芭蕉を名乗る。』

芭蕉や『おくのほそ道』については特に語るべきものは有りません。サイト上で芭蕉や草加などなど、調べれば色々なことがわかるものです。因みに下のサイトは特に理解しやすいサイトです。

参考:【俳聖 松尾芭蕉・芭蕉庵ドットコム】  http://www.bashouan.com/index.htm

因みに芭蕉研究者の第一人者・尾形仂氏とは先のドナルド・キーン氏と同様に、奥の細道の旅立ち300年、市制30周年にあたる昭和63年から開催されている文化事業での奥の細道文学賞の選考委員だそうで、講演などを行われているようです。

それはともかくとして、この芭蕉像の前の石畳に記された《Om》は何を意味するのでしょうか。
芭蕉と札場河岸 芭蕉と札場河岸 芭蕉と札場河岸 【謎の0m刻印と花の絵】
解説板にある、”この旅は、草加から、日光、白河の関から松島・・・(中略)・・・美濃国大垣に至る600里(2,400Km)、150日間の壮大なもの・・・”とあるように草加を基点とする意味での《Om》なのでしょうか。ならば《0里》の方が語呂は良いでしょうし。更に《Om》の上にあるマークというか絵は”松”と”おそらく菊?”の花の絵でしょうが《Om》とどう関係があるのか・・・良く判りませんね。

さてここから先が「札場河岸公園」です。
芭蕉と札場河岸 【札場河岸公園標柱】


札場河岸公園と彫られた標石柱のある階段を上がると五角形の「望楼」があります。「道しるべ」の解説板です。

望楼
望楼とは、遠くを見渡すための櫓(やぐら)のことをいいます。常に見張りを置いてまちなかの火事発生の発見に努めるための施設でした。
この望楼は、石垣の上に埼玉県産のスギ、ヒノキを使った木造の五角形の建築物で、高さは11.1mあり、内部は螺旋階段になっています。午前9時から午後5時までの間は、自由に内部に入ることができ、草加市を一望することができます。

●草加宿
当時の日光道中の千住と越谷の間は沼地が多く、大きく迂回して通らなければなりませんでした。そこで、宿篠葉村(現・松江)の大川図書という人物が村民と共に、茅野を開き、沼を埋め立て、それまで大きく東に迂回していた奥州街道をまっすぐにする新道を開いたといわれています。1606年(慶長11)のことです。この時、沼地の造成に沢山の草が用いられたことから「草加」と呼ばれるようになりました。その後、直線となった千住・越谷間に宿駅を設けることが幕府によって命じられ、1630年(寛永7)に中間宿として、新たに草加宿が日光道中第2の宿駅として指定されました。
開宿当時の草加宿は、戸数84戸、旅籠屋(旅館)が5~6軒、他の店舗は豆腐屋、塩・油屋、湯屋(銭湯)、髪結床(床屋)、団子屋、餅屋が1軒ずつ軒を並べる程度の小規模な宿場町でした。それから約150年後、1843年(天保14)の調査によると戸数723戸、人口3,619人と南北12町(1.3Km)にわたって家々が軒を接し、本陣・脇本陣各1軒、旅籠屋は67軒まで増加しました。城下町を除くと、日光道中では千住、越谷、幸手に次ぐ規模にまで賑わいを見せるようになりました。』

30年前の学生時代、学校帰りに飲みに行くのは大抵、北千住でした。勿論飲み屋も多かったのですが、べらぼうに安いのが魅力でした。なんせ暇はたっぷりあるが、金の無いのが学生でしたから。
松原団地から草加を通り過ぎて北千住のA提灯が決まりのパターンでしたから、「やはり第2の宿駅だった」と訳の判らない解釈をしています。

それにしてもこの望楼、当時もこのような立派なものだったのでしょうかね。
内部の螺旋階段も美しいデザインで結構なのですが、一つ残念なのは”草加市が一望できない!”ってことでしょうか。
現代にしてみればこの高さでは当然仕方の無いことですが、モニュメントとして見れば、どこぞの訳の判らないモニュメントより余程気が利いているのは間違いないところです。
芭蕉と札場河岸 芭蕉と札場河岸 【望楼と望楼内部螺旋階段】


先に進むとこの公園の名前ともなった「札場河岸」です。
芭蕉と札場河岸 【札場河岸】
例により「道しるべ」の解説板の説明。

札場河岸(ふだばがし)
河岸とは川を利用した舟運に使われていた船から荷駄を積卸しする場所のことをいいます。
札場河岸はもともと甚左衛門河岸といい、野口甚左衛門家が特定な者に請け負わせて運営にあたる私河岸でした。野口甚左衛門家の屋号が「札場」であり、安政大地震により甚左衛門河岸脇へ移転したことから、やがて札場河岸と呼ばれるようになったものです。
文政年間(1818~1830)の取り決めでは、①運賃収入の多少に関わらず1か年に金12両を甚左衛門方に納入すること、②船の破損は請負人が修復すること、③ただし河岸から谷古宇土橋までの堤防約70間(約126m)は、甚左衛門方で修復することと定められていました。また、この河岸は草加宿や赤山領(現・新田地区の一部)の年貢米を積み出し、そのほかのさまざまな商品の船積み、荷揚げをしていました。
綾瀬川は、江戸時代の中期から、草加地域と江戸を結ぶ大切な運河として多くの船が行き交い、草加、越谷、粕壁(春日部)など流域各所に河岸が設置され、穀物等の集散地としてまちが発展しました。舟運は、明治、大正に至るまで発展を続けましたが、鉄道の開通など陸上交通が急速に発達したことで衰退し、昭和30年代には姿を消しました。
札場河岸は、綾瀬川の河川激甚災害対策特別緊急事業の終了を記念して、平成元年度から平成3年度にかけて整備されました。
平成4年度「手づくり郷土賞」を受賞しています。船着き場の石段を復元して当時の雰囲気を再現しています。
札場河岸のそばにある甚左衛門堰は、洪水時に綾瀬川から伝右川に逆流する水が田畑を侵すのを防ぐための堰で、かつては木造の堰でしたが、1895年(明治27)に煉瓦造りに改築されました。甚左衛門堰は建設当初の姿をよく残し、保存状況が極めてよいなどの理由から、1998(平成11)に埼玉県の指定文化財となりました。また、札場河岸のような河岸遺跡と煉瓦造水門が共存するところは、草加以外には見られません。』

少し噛み砕かないと分かりにですね。
まずは”私河岸”についてですが、当然”私”と言うくらいだから対をなすのは”公”、つまり”公河岸”というものが存在していたわけです。
これは、幕府(政府)から認可を受けて”公”の人や物を取り扱う舟着場をいうそうです。別名、水駅とも呼び、年貢米の舟運からといわれていますが、時代によって意味合いが違うそうです。
江戸時代初期では【栗橋関所】にも出てきたように、江戸の防衛のための「入り鉄砲と出女」を取締ることが第一のようで、そのために指定の場所以外の積み降ろしを禁じたのです。しかし江戸元禄期を過ぎると河岸を取り締まる理由は、江戸の防衛のためでなく、舟と商荷物に課税したことから脱税防止のためで、許認可制がしかれ明治、大正、昭和になっても同じだったそうです。
当時、綾瀬川沿いには藤助河岸、札場河岸、魚屋(ゆうや)河岸、半七河岸、高瀬河岸、二ツ橋河岸などがあり、中川沿いには音店(おとだな)河岸などの私河岸があったそうです。 しかし、1630(寛永7)年の草加宿開設から約10年後に綾瀬川の改修が完成したことで、幕府より魚屋(ゆうや)、札場、藤助河岸の公河岸開設が認められ、その内、当時最も規模が大きい河岸が魚屋河岸だったそうです。

河岸については多少理解できたので、次は野口甚左衛門なる人物を調べてみました。
草加市のサイトに掲載されていました。

《見かゑればやゝ程遠し松のかげ》甚左衛門
この句は、元治元年(一八六四)四月十一日草加宿六丁目在住の野口甚左エ門が、宿場仲間と連れ立って日光見物に出掛けた折に綴(つづ)った「日光山道中日記」という旅日記の中の句である。
草加を出発して松並木を過ぎたあたりでの句である。野口家は、宿場の重立(十六人衆という宿役人)のひとりで、屋号を「伊勢甚(いせじん)」といい、代々甚左エ門を襲名(同じ名前を名乗る)している。本名は梅治郎。
野口家は、享保六年(一七二一)頃より綾瀬川の河岸(甚左エ門河岸)を経営していたが、安政二年(一八五五)の大地震により綾瀬川川端に移住した。家の前には、高札場があった事から「札場(ふだば)の家」といわれており、移住した年から甚左エ門河岸を「札場河岸(ふだばがし)」と改称した。野口家は、草加市の水害に対し、激甚災害に指定された昭和五十九年の激特(げきとく)事業により「札場河岸公園」や「神明排水ポンプ場」などの設置に協力するため、先祖伝来のこの地を去った。この「札場河岸跡」は今も歴史遺産として公園内に残されている。(後略)』

ちょっと解説板とはニュアンスが違う気もするのですが、先祖伝来の土地を寄付したのでしょうかね。であれば天晴れでしょう・・・
それはさておき、折角復元された石段なのに写真を撮るのを忘れました。まあ、色々なサイトに出ていますんで。

公園の最後に解説板にも記載されていた「甚左衛門堰」へ向かいます。
芭蕉と札場河岸 【甚左衛門堰】
ちょうど神明排水ポンプ場の先で、別の案内板が掲出されていました。

『埼玉県指定文化財
平成十一年三月十九日指定  草加市神明二丁目一四五番一ほか 草加市
甚左衛門堰 一基

明治二十七年から昭和五十八年までの約九十年間使用された二連アーチ型の煉瓦造水門。煉瓦は、横黒煉瓦(鼻黒・両面焼き煉瓦ともいう)を使用している。煉瓦の寸法は、約21cmX10cmX6cm。煉瓦の積み方は段ごとに長平面と小口面が交互に現れる積み方で、「オランダ積」あるいは「イギリス積」と呼ばれる技法を用いている。
煉瓦造水門『甚左衛門堰』は、古いタイプの横黒煉瓦を使用しており、建設年代から見てもこの種の煉瓦を使った最後期を代表する遺構である。また、煉瓦で出来た美しい水門は、周囲の景観にとけ込み、デザイン的にも優れたものであり、建設当初の姿を保ち、保存状態が極めて良く、農業土木技術史・窒業技術史上でも貴重な建造物である。
平成十四年三月 草加市教育委員会』

昭和58年とはまだ20余年前間では使用されていたわけで、当然、私の学生時代も現役の堰では合った訳ですね。
ということは私が現役の頃、台風か何かでキャンパス前の伝右川が一度だけ氾濫した経験があるけれども、その頃はさすがに機能が衰えていたと言うことでしょうか。それから数年後には新しいポンプ場が出来たのですから。まあ、そういう意味では貴重な洪水の経験だったのですかね。

これにて「札場河岸公園」も見終り、いよいよ本題の草加宿へ向かうために、一旦、望楼付近に戻りますが、もどり途中、札場河岸の反対側に石碑を見つけました。
芭蕉と札場河岸 【正岡子規句碑】


高浜虚子の句碑があり、子規と一緒に訪れたとあったので子規の句碑があるのは必然です。
正岡子規については特に言うべきことも無いでしょう。
句碑の句は、「梅を見て野を見て行きぬ草加迄」という句で、他に「鰤(ぶり)くふや草加の宿の梅の花」「煎餌干す日影短し冬の町」という2句を残していたそうです。
今年11月からのスペシャル大河で町興しなど・・・ちょっと無理かあ。
などと思いつつ煎餅の町へ向かいます。

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks