紙すきの村

紙すきの村「埼玉伝統工芸会館」を出て国道254号線を西に5分ほど進んだ右側に「紙すきの村」の看板が見えます。
ここは「久保昌太郎和紙工房」というところで、実際に小川和紙をビジネスとして営んでいるところです。
実際の工房といわれるところが一体どのようなところなのか興味津々です。


久保昌太郎和紙工房

紙すきの村建物の前に車を止めてまずはこの工房に向かいます。
工房の前に「国指定重要文化財 細川紙 技術保持者・久保昌太郎」という立て札があります。


小川和紙の歴史
小川町を中心とするこの地方の和紙産業の歴史は、古いものであるが、大きな発展を遂げたのは、江戸時代の寛永期(1624~)以降のことと考えられ、当時の江戸の紙の需要を一手に引き受けていたといわれている。
武蔵国郡村誌によると、明治初期の和紙の生産は、竹沢村(小川町)、大河原村(東秩父村)、明覚村(都畿川村)など広域にわたって行われており、すき家の数も千戸を越えていたといわれている。
その後技術導入、製法の改良などが行われ、ますます発展が続いたが、戦後に至り洋紙に押され、転廃業するものが続出する時期があった。しかし、本物の和紙の良さが見直され始め、生産量も回復しつつある。
最近は、機械化が進み行程も簡略されてきたが、古い技術を保存するため地元の技術者のたゆまない努力が、続けられており、この地区を始めとし、腰越、古寺、青山、大塚等の外、東秩父村には、埼玉県指定無形文化財「細川紙」の技術保持者がいる。
昭和59年3月 埼玉県・小川町』(現地案内看板説明文より)

先の「埼玉伝統工芸会館」で少し説明がありましたが、もう少し「細川紙」について掘り下げてみます。
細川紙とはもともと和歌山県伊都郡高野町細川にある紀伊高野山麓の紙漉き場、細川村において漉かれていた細川奉書紙でしたが、江戸開府のころ細川村から来た僧侶がその製法を伝授し、江戸に近い武州比企・秩父・男衾の3郡で漉かれ、定着・発展し、それとともに本家・細川村の細川紙は対照的に衰退していくことになったのです。
そしてその技術は1978年に国の重要無形文化財に指定され、このような優れた技術の保存と伝承のため、小川町と東秩父村で細川紙技術者協会が結成され、その保持団体に認定されるに至ったのです。
細川紙の特性は前述したとおりですが、細川紙には更に細かい定義があるようで、久保昌太郎和紙工房のオフィシャルサイトに説明があるので引用します。

細川紙の定義
現在小川和紙の代名詞ともなっている、最高品質の和紙が国産の楮を使用し、もっとも伝統的な製法で作られる「細川紙」です。
1978(昭和53)年、その歴史と伝統が評価された細川紙は「国の重要無形文化財」に指定され、細川紙技術者協会がその技術保時団体として認定されました。当工房は単一の工房では最多となる3名の職人が協会に加盟し、その技法を現在に伝えています。
なお、細川紙の認定基準は下記のとおりです。
1.原料は国産楮のみであること。
つまり、タイ楮や雁皮、三椏の紙は「細川紙」ではありません。もちろん、パルプの添加も認めていません。また、厳密には「白皮楮」の使用が規定されていますが、高知楮は六分挽き程度でも「白皮楮」となっているようです。
2.伝統的な製法と製紙用具によること。
伝統的製法とは下記のとおり
●煮熟は草木灰、石灰、ソーダ灰を使用すること。(苛性ソーダは使用不可)
●薬品漂白は行わないこと。(天日晒しなどは可、塩素などは不可)
●叩解は、手打ちまたはこれに準じた方法(打解機、ビーター)で行うこと。
●抄造は、「ネリ」にとろろあおいを用い、竹簀による流し漉きであること。
●板干し又は鉄板による乾燥であること。
3.伝統的な細川紙の色沢、地合等の特質を保持すること。
この点に関しては曖昧ですが、チリが入っていないことや、しっかりと叩解してあること、平らに漉いてあること、といったことです。』(久保昌太郎和紙工房オフィシャルサイト)

参考:【久保昌太郎和紙工房】http://homepage2.nifty.com/ogawa_washi/index.htm

細かい定義があるようですが、このまま読んでもよく理解できませんので、実際に工房を見学すれば少しは理解できるかもしれません。

中に入って見学を申し出ると、ちょうど1:00を過ぎたところなので手漉きが始まっているとのこと。快く見学を受けていただきました。 紙すきの村ただし、工房はここではなくちょっと離れた場所にあるそうで、先に見える鉄塔のそばであると案内していただきました。
一見遠そうですが、昼下がりの長閑な時間に散歩がてらに腹ごなしも悪くないでしょう。
水路沿いにといわれたので、さすがに和紙の里だけあって綺麗な水が水路で引かれている…などと情緒を感じそうでしたが、単なる下水道でした。

紙すきの村ゆっくり歩いていくと「紙すきの村・工房入口」の看板が見つかりました。 裏口のほうから表に廻るとかなり広い敷地に建物が幾つかあるようです。

紙すきの村正面のタンクのある建物に行ってみると、まさしく紙すきが行われていました。
ことわりをしてして中を見学させていただきました。


工房内技術は国の重要無形文化財といっても、建物のなか自体は決して美麗ではありません。ですが、そこのところがまた伝統工芸の極みなのかもしれません。

入口のところに和紙の作られるまでの行程が説明されていたので、その順にしたがって見ることにします。

1.かず(楮のこと)煮:3日程水に浸した皮をソーダ灰や苛性ソーダ(アルカリ性の薬品)を入れた釜で2~3時間煮る。
かず煮用釜この「かず煮」を行うのが工房の左奥にあるこの大きな釜です。大釜でグツグツ煮込む様は何となく神話や童話の世界観かもしれませんが、やはりこちらは生活観があります。


2.あくぬき(ちり取り):1.で煮た皮から出たあくを水でよく洗いぬく。次にゴミやかたい部分を取り除く。
あくぬきイメージ特にその行程場は良く分からないので、説明文に添えてあった妙に可愛いあくぬき絵を掲載しておきましょう。


3.かず打ち(打解):2.の皮の水をよくしぼり打解機で30分ほど打ち皮状のせんいを分解する。
かず打ち2本の木の棒でボコンボコン打つのでしょうね。何となくストレス発散によいのかも…。


4.ビーター(叩解):3.の皮を水のはったビーター(ミキサーに似た機械)に入れ叩解し綿状のせんいにする。
ビータービーターと呼ばれる機械がこれです。写真では判りにくいですが流れるプールの縮小版の様な形状です。
中の叩解された繊維は多少薄気味悪い物体です。


5.紙漉き:漉き舟に井戸水と4.の原料を入れ、よくかき混ぜる。トロロアオイの粘液(ねり)を加え、竹すきを使い1枚ずつ漉いて積み重ねていく。
ビーターから取り出しまさに手漉き和紙の醍醐味といっても良い場面です。粘液を加えて漉く方法はまさに「流漉」です。
ちょうど紙漉きの水槽の紙が少なくなったようで、先ほどのビーターから原料の叩かれた楮を取り出しています。

トロロアオイそして先の説明にあった「トロロアオイ」のちょっとドロッとした液体を取り出します。

撹拌とりだされた原料と「とろろあおい」を水槽にいれて撹拌しています。撹拌は自動で行われます。

流漉そして撹拌された後、竹すきによって漉かれています。これはお馴染みの光景です。

流漉そして「流漉」された紙は簀をはずされて、このように1枚1枚積み重ねられていくのです。


6.かんだ(積み重なった紙のこと)搾り:1日分のかんだを板の間にはさみ、油圧ジャッキを使い脱水する。
かんだ搾り油圧ジャッキがこれです。これで一気に水分を切るのでしょうが、その際に漉かれた紙同士がくっつかないものなのですね。繊維質なのでくっついてしまうのかと思いました。


7.乾燥:6.を1枚ずつはがし、鉄板(蒸気乾燥)または張り板(天日干し)に刷毛を使って紙を張り乾燥する。
乾燥はさすがに外で行うのでしょう。

8.選別出荷:汚れやキズのある紙を取り除き荷造りして出荷する。

というのが一連の行程です。
勝手に工房の中を歩き回って観ていましたが、その間にも手を休めることもなく「流漉」をされているのは、若い女性の方です。
言葉を掛けづらいオーラがでているので、じっと見させていただきました。
それにしても大分水もぬるくなってきたとはいえ、かなり寒い状況で行われていて並大抵の覚悟ではできないでしょうね、きっと。

こうして一通り工房内を見学させていただき、外へ出てみました。
井戸敷地の中央には大きな水槽があります。原料に混ぜる井戸水なのでしょうが、当然ながら水も綺麗でないといけないのでしょう。

工房別棟ちょうどこの水槽を囲んで、工房と90度の角度で建物が続いています。


乾燥室鉄板乾燥一番工房よりの手前の部屋が7.の乾燥室のようです。まあ、今時天日干しだけでは効率悪いでしょうから、当然でしょう。
説明にあったように鉄板に貼り付けて乾燥させているようです。


原料倉庫その隣が「原料倉庫」と書かれており、束になった楮が積み上げられています。


「細川紙の定義」にもあったとおり「細川紙」自体が国産楮を使用しなければならないことから、当然楮しかないのでしょうが、ここでは原料について少し調べてみることにします。
和紙の原料として主に使用されているのは「楮(こうぞ)」「三椏(ミツマタ)」「雁皮(ガンピ)」だそうです。
「楮(こうぞ)」は1年に約3~4m成長するというのが特徴で、栽培がしやすく、たくさん作れ繊維も取り出しやすいことから、日本で一番多く使われている和紙原料です。 強靭な紙が出来上がることから、書き物のほか、障子紙・傘紙・版画用紙・本・提灯紙などの生活用具として使用される和紙のほとんどが「楮(こうぞ)」の紙なのです。
「三椏(ミツマタ)」は江戸時代前期(約400年前)から使われ始め、徳川家康が伊豆で「三椏(ミツマタ)」の紙すきを勧めたといわれていわれているそうです。 光沢のある平滑な紙に仕上がることから、現在ではお札・証券用紙・賞状用紙などに使われています。
「雁皮(ガンピ)」は奈良時代(約1300年前)ごろから「楮(こうぞ)」に混ぜ使われはじめ、トロロを加えはじめてから専用の原料になったと考えられているようです。 栽培が難しいため、野生のものを採取するため、出来上がった紙に害虫が付きにくいという特徴を持っていて、日本画用紙・版画用紙・襖紙などに使われているそうです。
基本的に植物なら何でも原料になるのですが、当然向き不向きがありますので、古からの経験からこの3種が代表種となったのでしょう。

工房では「かず煮」が最初の行程となっていましたが、実際には採取した楮をいきなり「かず煮」するわけではないようです。
この間の行程は大抵農閑期の12月~1月に行われるそうです。

行程1.「かずかしき」:採取した楮を70cm前後に切り分け、束にした楮を約2時間蒸し、蒸しあがったら水で冷やして木から皮を剥がれやすいようにする行程です。
行程2.「かずむき」:蒸しあがった楮から外皮を剥ぎ取ります。剥ぎ取った皮を約3日間天日干しして乾燥させます。残った木の芯は「かずから棒」と呼ばれ、焚き木として使用されるのだそうです。
行程3.「かずひき」:楮の皮には外皮の内側から順に「黒皮」「甘皮」「白皮」という3層からなり、「白皮」が紙の原料となる繊維を多く含んでいます。したがって作る紙によってこの3層を削っていくのを「かずひき」というのです。
因みに削り具合によっても楮は分類されるそうです。
●黒皮が残った状態のもの:黒皮楮
●黒皮を落とした状態のもの:なぜ皮楮
●黒皮を落とし、甘皮を少し残した状態のもの:六分びき楮
●黒皮、甘皮、すべて落とし、白皮だけの状態にしたもの:白皮楮
楮の削り分類というそうで、工房の説明の所に吊り下げられていた楮がその皮の種類なのかもしれません。多分にそれぞれ色が違っていますので。


ここまで加工した楮は再び乾燥され使用するまで保存されるようです。
したがってこの原料倉庫には原木や下準備された楮が保管されているというわけです。

さらし場そして一番奥に「さらし場」と書かれた一角があります。
ここには「かっつあし」と書かれた楮のあくぬきとちりとりを行う場所のようで、工房で説明されていた2.のあくぬきを行っているのです。多少大きめの風呂のような水槽の中に楮が浸されていました。


楮畑そしてこの「さらし場」から敷地中央の水槽をはさんで反対側が楮畑になっているようです。
これは刈り取られた後なのでしょうね。栽培から出荷まですべてを一貫して行っている伝統の工房というわけでしょう。


見学しているほうは単に伝統的工芸といって感心していればよいのですが、やはり生産者にとっては大変な作業なのではないでしょうかね。
水の冷たさだけでも私は遠慮しておきます、絶対…。

お礼を言って和紙工房を後にしました。
工芸会館から和紙工房と実に貴重な経験でした。
若干仕事柄紙に関係もしていますので、よい勉強にもなり実に有意義な時間を過ごせました。

大聖寺

今日はこれにて帰路につく予定で国道254号線を戻りましたが、途中「国指定重要文化財…」とやらの案内板が目に付いたので寄ってみることにしました。
何となく最近は文化財と聞くと見ないと損するような錯覚に襲われます。よい傾向なのか、不吉なのか、よく判りませんがそれもひとつの楽しみとなっているようです。
さて到着したのは「大聖寺」という寺院です。
ちょうど駐車場に案内板がありました。

大聖寺
所在地 比企郡小川町大字下里
大聖寺は、天台宗に属し暦応3年(1340)に、この地域の土豪と思われる貞義が希融法印を招請して開創したと伝えられ、本尊は如意輪観音である。
境内にある北家院には、国指定重要文化財の石造法華供養塔(六角石塔婆)が保存されている。六枚の緑泥片岩を組み合わせたもので、塔の高さは1.36メートルあり、康永3年(1344)の造立ときざまれている。
大聖寺は、「下里観音」あるいは、「子育観音」という名前で、一般に親しまれており、4月20日、10月20日の縁日には、たくさんの参詣者が訪れる。また江戸時代末期頃から戦前までは、数百組の観音講(女人講)があり、にぎわいをみせたそうである。
本堂奥の高台にある観音堂は、江戸時代末期の建物で天井の絵は、小川町中爪の細井竹翁の作と伝えられ、当時のこの付近の文化をしのばせるものである。 昭和59年3月 埼玉県・小川町』(現地案内板説明文より)

1340年開創とあるので、ちょうど室町幕府が誕生した直後からの歴史を持っているといえる古刹です。
崖に沿うようにして建てられた境内です。
鐘楼門駐車場から階段をあがると鐘楼門があります。一団高い斜面から突き出たような建て方です。この門自体は結構新しいのでしょうか、色彩が豊かな鐘楼門です。

本堂九十九折のように坂を上るとすぐ本堂です。こういっては失礼ですが、あまり本堂らしくない建物なのは、観音堂の方が中心となっているためかもしれません。


法華院本堂の並びに「法華院」とかかれた建物があります。どうやらここに文化財が保管されているようです。


『国指定重要文化財 石造法華経供養塔・板碑
この供養塔は、もと本堂裏の斜面中腹のわずかな平坦地にありましたが、風化が進んできたので、昭和54年に保存庫(法華院)を建設して移設しました。
供養塔は、台座上に長方形の6枚の緑泥片岩(下里岩)を六角筒形に組み立て、その上に六角と八角形の大小2枚の笠石を乗せています。本来は笠石の上に宝珠が乗せられていたと考えられますが、現在は欠損しています。
六角の各面には、蓮台上にキリーク(阿弥陀)の種子と、開山希融をはじめ51名の名前が刻まれています。正面には「開山希融平(源)貞義 祐仙 奉読誦法華経一千部供養・・・」とあり、その他の面には、「・・・康永3年庚申(1344)3月17日 一結之諸衆 敬白」の銘文が読みとれます。
昭和54年に追加指定された板碑によると、この六角塔婆の供養塔は、鎌倉時代滅亡に際し亡くなった主君・北陸使君禅儀の十三回忌に当り、大聖寺の開山希融や開祖の平(源)貞義らが法華経一千部を読誦し、供養した際に建てたと考えられます。銘文中の平貞義の平については源を改刻した可能性が高いようです。
平成3年3月 埼玉県教育委員会・小川町教育委員会・大聖寺』(現地案内板説明文より)

石造法華経供養塔拝観料を払うとこの文化財を見ることができるようですが、ちょうど後ろの社務所にはどなたもいらっしゃらないので、あえて呼びに行くほどのことも無いので、案内板の写真で済ませることにしました(って、安直…)。

石造法華経供養塔石碑昭和26年に文化財の指定基準が変更になる前は、この「石造法華経供養塔」は国宝だったのでしょう。横に立っている古い石碑に「国寶」と刻まれていましたから。

この類は結構多くて【聖徳太子立像と例大祭】で訪れた行田市の天州寺にある「木造聖徳太子立像」も元は国宝で、現在は国指定の重要文化財となっていますが、石碑はいまだ「国宝…」の石碑が残っています。
現実に立て替えるのも確かに費用がかかりますし、オフィシャルには「国宝」と謳っている訳でもないので、まあ、勘違いする人がいればラッキーといったところでしょうかね。

観音堂「法華院」の先へ進むと左手に結構長い階段があります。この上が「観音堂」のようです。勿論足腰の弱い方には迂回路もあるようで、健脚(!?…)の私は階段を、家内は迂回路であがってみました。

観音堂堂自体は結構古そうですが、まるでアルディージャオレンジのように鮮やかな色彩が施されています。彫刻なども結構凝っているようで、いかに信仰されているかをうかがい知ることができました。

小川町の田園風景ここまで昇ってくるとかなり見晴らしがよく、小川町の田園風景を眺めることができます。

芭蕉句碑また、観音堂の横には芭蕉の句碑も立っていて、実に風情のある「観音堂」です。その後、しばらく風景を眺めながら一休みし「大聖寺」を後にしました。


長閑な地と思っていたのが、ある意味都会的だったことは驚きでしたが、町を一歩外れるとやはりそこには自然と歴史があふれる都会と田舎を併せもったまさに「武蔵の小京都」で、老若男女が住みやすい珍しい町かも知れないと感じさせられました。
年取ってから暮らすのも悪くないかもしれません。

2010.4.8記

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