上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

焼き鳥について

「ミソだれやきとり」は東松山市の名物となっていて、市内でそのやきとりを扱う店はかなり多いようです。
本来はいくつかの店で食べ歩きし、様々なやきとりを食するのが相応しいのでしょうが、どちらかといえば今回はこちらが付け足しのようなものなので、とりあえず食してみた程度の感想しかないのは否めません。
ただし、耳学問だけはしっかりしておこうと、まずは「東松山のミソだれやきとり」を調べておきました。

焼き鳥の歴史

「東松山のミソだれやきとり」は確かに今やメジャーになりつつあるのかも知れませんが、何十年と親しんできた「やきとり」について一度根本的に知っておいてもよいのではないかと、まずは「焼き鳥」について調べてみました。
まずは「焼き鳥」の定義ですが、wikによると「焼き鳥(やきとり、ヤキトリ)」は、主に鶏肉などの肉を一口大に切ったものを、数個(1個から5個程度)竹串で刺し通し、調味してあぶり焼きした料理。のことを言うようです。
まずは「焼き鳥」の歴史を紐解いて見ます。

「焼き鳥」といえば文字通り「鶏肉」のことになるのですが、このいわゆる「ニワトリ」が歴史に登場した文献上での最初は「古事記」や「日本書紀」に出てくる有名な「天岩戸伝説」で、スサノオノミコトを天岩戸からおびきだす事に使われた「常世長鳴鶏」がその最初のようです。
そしてその後、農耕が盛んになるとともに狩猟も盛んに行われ、ニワトリ類を獲ることも盛んだったようです。平安時代に入ると仏教の影響から殺生の禁止が唱えられますが、キジや小鳥などとともに家鶏は例外として食べてもよいことになったようです。
当時の「ニワトリ」には2つの役割があり、一つは家鶏として時を告げることを役割とし、もう一つは闘鶏として競技の役割を持ったものでした。
ちょうど、この奈良時代あたりに養鶏されていた記述があるようですので、大分古くから「ニワトリ」は飼われていたということでしょう。
時代は過ぎて江戸時代に鶏は脚光を浴びるようになります。
それは闘鶏が庶民の間で盛んになったもので、この闘鶏に火をつけたのがシャムから亘ってきた軍鶏(シャモ)で闘鶏の花形となったようです。 そしてこの頃、養鶏業者も誕生し、おもに貧しい下級武士が家計の足しにと小規模な採卵養鶏から始まりまったそうです。
ただし、この時代はまだ鶏を食用とすることは一般的でなく、料理として使われるのは雉・鶉・鴨・雁・鴫・雀・鶫などが使われ、トリといえば雉、コトリといえば鶫を指したといわれています。
いわば、江戸時代は明治期から始まる鶏肉文化の準備期といえる時代だったようです。

そして明治維新は肉文化を導入しスキヤキが生まれた時代ですが、鶏料理は他の肉料理より高級な料理として珍重されていたそうです。
そのような高級な鶏料理を庶民の口にも入るようにと「焼き鳥屋」なる屋台が現れたのも明治期です。当然鶏は高級ですから、最初は鶏料理屋や他の飲食店から出るガラやスジ肉などが使われ、神社の参道や橋の袂、そして縁日の屋台として出店されていたようです。串を刺す方法は江戸時代に天ぷらやおでんなどの屋台で使われていたので、「焼き鳥屋台」もその方法がとられたものと考えられています。
そして先にも述べたとおり鶏は高級だったので、「焼き鳥屋台」で出されるものは鶏のスジ等に加えて牛の切り出しや馬肉の下等もの、さらには狗肉も混ざったりと、とにかく雑多なものが使われたそうなので、現在の「焼き鳥屋」に豚バラなど鶏以外のものが使用されても一括りで「焼き鳥」と呼ぶのは、このあたりの事情からのようです。
大正期になると関東では「焼トン」、関西では「串カツ」が人気を集めました。これが後の本格的な「焼き鳥」の登場の前触れだったようです。

第二次世界大戦は「焼き鳥屋」のみならず日本の産業自体が大打撃を受けたのですが、大戦後「焼き鳥屋」はヤミ市から復活しました。この時代は豚や牛の肉が殆どで、代用醤油とサッカリンで作られた甘いタレで焼かれたのですが、この味が現在の焼き鳥の味覚のルーツとも言われています。
そして米軍の駐留によってもたらされた恩恵がブロイラーでした。昭和40年以降には大いに普及し、大衆焼き鳥屋も現在のような「焼き鳥屋」と変らぬほどのレベルが上がったとともに、低価格化によって「焼き鳥」はまさしく居酒屋で欠かせないメニューとなったのです。
現在は地鶏ブームや専門店化、そして新しい感覚の「焼き鳥屋」などが出現し、新たな「焼き鳥」文化が始まろうとしているようなのです。

ミソだれやきとりのルーツ

こう言った「焼き鳥」の歴史の中で、東松山の「ミソだれやきとり」のルーツが一体何処にあるのかを調べます。
そもそも昭和23年頃から東松山市では駅周辺にリヤカー屋台が出現し始め、その後「焼き鳥屋」が誕生し始めたのが昭和30年代のようで、このあたりが東松山のやきとりのルーツのようです。
やはりこの時代、食糧難はまだ完全に癒えた頃ではなく、鶏肉はまだ少なく高い時代だったようで、最初は加工肉食品の材料に使用されていたホルモンなどが売られていたようです。
現在も営業している「大松屋」は昭和31年にホルモン焼の屋台を寄居町で開業し、この屋台で提供していたのは、この当時余り食べられていなかった白モツを焼いて甘い醤油タレで食べるものだったようです。
しかし、小腸を使っていた当時の白モツは、ゴムのような食感で噛み切れず食べずらかったようで、いまひとつ不人気だったそうです。
そこでホルモンに変るものを探し始めたようですが、安価な肉は早々簡単に手に入るわけではなかったのですが、ホルモンと同じ加工肉食品の材料に使われていた「カシラ肉」が安価だったためこれを使い始めたようです。
カシラ肉とは豚のほほとこめかみの部位で、1頭で約1.5Kgあり、余分な脂身を除いても約1.2Kgという効率のよい部位だったこともこの安価の理由の一つだったようです。

この「大松屋」はその後、昭和36年寄居町から東松山に移り、この地でカシラ肉の「焼き鳥屋」を開業したのです。
この「大松屋」は寄居町でホルモン焼をしている当時から、甘ダレの上から辛い味噌をホルモンにつけて食べていたそうです。これは「大松屋」の主人が韓国出身で豚肉に辛いタレをつけて食べていた味をもとにしたようです。
これを活かして唐辛子入りのみそだれと焼いたかしら肉を合わせたものが、「ミソだれやきとり」の始まりとなったようです。
当時のミソだれは現在のミソだれよりずっと緩く、ポタポタ落ちるようなものだったそうで、客がそのタレで洋服を汚すのを見た主人は、試行錯誤を重ねて現在の粘り気の在るミソだれに改良したそうです。
そして、これが評判となり、様々な人にこのミソだれの作り方を教え、そこから各店ごとの味が生まれたようで、白みそをベースに唐辛子やニンニク、ごま油、みりん、果物など10種類以上のスパイスをブレンドしてつくられた秘伝の味が各店舗ごとに楽しめるようになったとのことです。

全国7大やきとり

こうした背景の中で現在、東松山市では昭和37年、全国に先駆けて「焼鳥組合」が結成されました。
この組合は昭和30年代に肉の安定供給、値段の協定などを行うため、当時営業していた7店が集まり結成されたようです。
昭和35年当時の値段は1本5円で、その後10円刻みで値段は上がり、平成20年120円になるまでずっと20年間100円だったそうで,これらも組合の努力によって維持し続けることができたのでしょう。
そして様々なPR活動(埼玉100選もその一つでしょうが)により全国的なメジャーになりつつあるようで、その一つの表れが東松山が「日本7大やきとり」の街であるということです。
現在、全国では「日本7大やきとりの街」と称して、全国やきとり連絡協議会なるものがあるようで、その7大焼き鳥の街は、室蘭・美唄(北海道)、福島(東北)、東松山(関東)、今治(四国)、長門(中国)、久留米(九州)だそうです。

各地の特徴をみてみます。

■室蘭焼鳥
室蘭焼鳥室蘭に焼き鳥屋が始まったのは昭和のはじめ頃です。工場従事者の格好の食べ物として広まったそうです。
特徴は豚肩ロース肉と玉葱を串に刺したものをタレで焼き上げます。北海道が玉葱の産地ということからこのスタイルになったようです。
更に、食べるときには洋ガラシを付けて食べるそうで、辛味が豚肉の美味さを引き出すからのようです。


■美唄焼鳥
美唄焼鳥炭鉱の町として栄えた美唄は、その炭鉱従事者のくつろぎの場、そして栄養食として焼き鳥を楽しんだそうです。
特徴は様々な鶏の内臓肉を1本の串に刺したスタイルで「もつぐし」と呼ばれています。内臓肉を茹で、頭に肉、根元に皮を刺し、真中にきんかん、レバー、ハツ、砂肝などの内蔵肉と玉葱をはさんで焼き上げます。コショウを効かせた塩味で、茹でているため匂いも気にならず、さっぱり食べられるそうです。
北海道の開拓民時代に鶏は貴重で、死んでしまったときにはご馳走として内臓までも食べたのが、美唄やきとりの始まりのようです。


■福島焼鳥
福島焼鳥福島市に隣接する地域で伊達鶏・川俣シャモなどが名産であるため、鶏肉を中心とした炭火焼きのオーソドックスなやきとりです。
市制100周年の記念事業として全国やきとり連絡協議会の「第1回やきとリンピック」を開催し成功を収め、これを契機に焼き鳥店の連携が始まり焼き鳥による町の活性化という展開が注目されているようです。


■今治焼鳥
今治焼鳥造船が盛んだった今治では鉄板の調達はお手の物…、というわけでもないでしょうが、斜めにした厚い鉄板の上で鳥皮を焼き、しかも上から押さえつけながらギューギューと焼くのだそうです。余分な脂が出てカリッと香ばしく仕上がり箸で食べるのが今治流なのだそうです。
このように今治の焼鳥の特徴は、外はカリッと中はジューシーな〝鳥皮〟を串に刺さない全国でも珍しいやきとりです。
今治流焼鳥の食べ方は「皮で始まりせんざき(鳥の唐揚)で終る」というものだそうです。


■長門焼鳥
長門焼鳥大きな養鶏組合を背景に新鮮な鶏肉の提供が受けられることから30店舗以上の焼き鳥屋が営業しています。しかも殆どが女性経営者というのが特長です。
鶏肉は勿論のこと、豚の三枚肉や魚介類、野菜を使う串焼きで基本は塩味です。肉の間に挟むのは玉ねぎで比較的オーソドックスな焼鳥といえるでしょう。
他の地域と大きく異なるのは〝ガーリックパウダー〟の存在で、店舗には一味、七味と並んでガーリックパウダーが置かれているそうです。


■久留米焼鳥
久留米焼鳥戦後の高度経済成長期、福島の屋台文化の影響を受けて「やきとり屋台」が賑わいました。工業が盛んなこともありブルーカラーを中心に焼き鳥屋はずっと健在でした。
特徴は馬の小腸をダルム、大動脈をセンボコなどと呼ぶことで知られ、オリジナルなやきとりが多いことが有名だそうです。
何でも串に刺して「やきとり」にしてしまう意気込みこそが久留米のやきとり文化のようです。


勿論、これら以外にも特色在る焼き鳥は存在するのでしょうが、上記の6ヶ所を見ただけでもそれぞれの特色、そして文化が垣間見えます。そしてそうした「やきとり文化」を町興しとして地域の活性化を図っているのが各地の共通した特徴といえるでしょう。
そしてこの中の1つである東松山のミソだれやきとりも創意工夫から生まれ育てられた日本の「やきとり文化」の一つといえるのでしょう。

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks


    上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。