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斉藤与里記念公園

斉藤与里記念公園手子堀川をわたってしばらく川沿いを歩き途中に庚申塔などがありますが、その少し先の右手に水田を前に、大きな屋敷林が見えます。


斉藤与里記念公園門跡 ここが「斉藤与里記念公園」で、門の前に案内板があります。


斉藤与里生家跡
画家斉藤与里が、明治18年(1885)9月に生まれてから、私立埼玉中学校(現県立不動岡高等学校)時代のときまでと昭和20年以降晩年を過ごしたところです。
門をくぐると敷石が”草香居”と呼ばれた家まで続いていた。敷地内は、松や桜の大樹など種々の木が繁っていて、年中小鳥のさえずりが絶えなかった。
斉藤与里は、本名を与里冶といって、中学時代に京都に移り、浅井忠・鹿子木孟郎らに師事し、絵の勉強をした。同門には、梅原龍三郎・安井曽太郎がいた。明治39年(1906)パリに留学し、後期印象派、フォービズムの影響を受け、帰国後岸田劉生・高村光太郎らと「ヒュウザン会」を結成し、リーダーとして新美術運動を展開し、又一方「白樺」や「早稲田文学」等の文芸誌で後期印象派のセザンヌ・ゴーギャン・ゴッホなど新傾向の絵画を日本にはじめて紹介し、絵画史的な役割を果たした。大正5年(1916)文展に「収穫」を出品し特選となり、次々と、農村の四季シリーズ、労働篇四部作等を発表し、日本洋画壇に確固たる地位を築き、たびたび審査員を務めた。昭和7年(1932)熊岡美彦・高間惣七らと東光会を創立し、後進の指導に力を注ぎ洋画壇の巨匠として活躍した。昭和20年(1945)東京より生家に帰り、画業三昧の生活を過ごし、現在加須市立北中学校にある、極めて格調高い「晩秋の赤城山」をはじめ、牧歌的詩情豊かな、日本的洋画の完成をみせ、数々の傑作を発表し、人々に深い感銘をあたえた。昭和34年(1959)「夕焼けの天草」を絶筆として、74歳で生涯を終えた。
昭和33年(1958) 第1回埼玉文化賞受賞 埼玉新聞社  昭和34年(1959) 名誉市民第一号 加須市
昭和61年3月 加須市教育委員会』

斉藤与里という画家は今回の機会で初めて知りました。知名度は全国区ではないにしても様々な企画を仕掛けた画家といっても良いかもしれませんね。
若干肉付けをしながら、もう少し斉藤与里のプロフィールを明確にしてみたいと思います。

この場所で誕生したのですから生家は農家で斉藤春五郎・つねの次男として生まれ、埼玉中学校時代に水彩画に打ち込み、更に文学にも興味を持っていたようです。このあたりは次男の気安さから19歳の時に中学を中退し上京したこともあったそうです。
20歳の時に絵画研究の為、京都に移り、まず鹿子木孟郎の京都室町画塾に通い、その関係で聖護院洋画研究所に移り浅井忠に学びました。
明治39年からのパリ留学は鹿子木孟郎に伴われた渡仏で、アカデミー・ジュリアンというところで絵画を学びましたが、ソルボンヌ大学などでも聴講していたそうです。
そして22歳でスペイン、イタリア、スイス、などを巡り、23歳の時にベルギー、オランダ、イギリス経由で帰国し、一時郷里に滞在していましたが、与里24歳の明治42年からいよいよ日本でも活動を開始し、手始めにパリで影響を受けた後期印象派を『日本及日本人』に「絵画の新潮流と私見」というタイトルで紹介しました。
この年の3月に下谷区谷中(現・台東区谷中)に移り、6月、第7回太平洋画会展に滞欧作など10点を出品し、 明治43年25歳の時、「故荻原守衛君の作物に就いて」を『早稲田文学』に執筆し、7月、個展を開き帰国後の作品を25点出品するという活発な活動を展開していきます。
明治44年26歳で香川伏代と結婚し、雑司ヶ谷に住んでいます。
そして明治45年(大正元年)、27歳の時に上記の「ヒュウザン会」を結成しています。
この年の秋に第1回展を東京・銀座・読売新聞社三階で開催しました。与里・劉生・光太郎らの他に、木村荘八、万鉄五郎、硲伊之助、岡本帰一、それにイギリスの陶芸家バーナード・リーチらも参加し、彼等はいずれも10代後半から20代の謂わば新進気鋭の青年美術家たちでした。
この会の名称は”木炭”を意味するフランス語「フェザン」に由来しているそうです。発足当時は「ヒュウザン会」でしたが、まもなく「フュウザン会」に改称されました。雑誌「ヒュウザン」(後にフュウザンと改題)などの機関紙なども発行して活発な活動を行い、大正2年第2回展を開催しましたが、その後、岸田と斎藤の意見の対立から「フュウザン会」は解散、僅か2年の短命に終わりました。
しかし、彼等の新しい表現は若い画家達に刺激をあたえ、大正時代の先駆けに相応しい活動であったと評価されているようです。

その後も与里は活発に作品を発表します。
大正4年 30歳、第9回文展に《朝》を出品し、その後も文展に出品。
大正8年 34歳、第1回帝展に《一日》を出品し、こちらもその後出品。
昭和12年 52歳、明治、大正、昭和三聖代美術展に《収穫》を出品し、10月には、第1回新文展に《海辺秋景》を出品し、その後も出品。
昭和15年 55歳、紀元2600年奉祝美術展に《利根川》を出品。
昭和21年 61歳、第2回日展に出品、その後も出品。
精力的に作品を発表していきました。

また一方、与里の特徴とする絵画史的な活動も見逃せません。「フュウザン会」解散後の動きです。
大正5年 31歳、川上涼花らと日本美術家協会を設立。
大正10年 36歳、 大阪に赤松麟作らと自由美術研究所を開く。
大正13年 39歳、牧野虎雄らと槐樹社をつくる。
同年、矢野橋村に協力し大阪美術学校を設立する。
大正14年 41歳、『美術新論』を創刊する。
昭和6年 46歳、槐樹社解散。
昭和7年 47歳、 高間惣七らと東光会を創立し、その後なくなるまで出品する。

画家などをはじめとした所謂芸術家の一般的なイメージは「孤高の人・・・」的なイメージがあるのですが、どうも斉藤与里の場合はどうも「徒党を組んで・・・」的な意識が強いのでしょうか。決して悪い意味ではなく。
一人でいるよりも組織に存在している方が好ましいと感じていたのかも知れません。最も顕著な例として、大正8年 34歳の時に1年間ではあるのですが、大阪・大正日日新聞社に入社しているのです。当時のポジションや役割が判りませんが、所謂サラリーマンですからね。 そういった意味で自己の作品による無言の主張をするよりも、はっきりと主義主張を発表することに長けていたのかもしれません。
先の案内板の内容でも斉藤与里の業績は後期印象派やフォービズムの日本への最初の紹介者として、近代日本絵画史上画期的な意義を持ち、高く評価されているようですが、その一方で、与里はパリ留学時から「日本人は真に日本の絵画を創らねばならぬ」と主張していたそうで、昭和28年(1953)日展出品作「裏磐梯」や翌29年(1954)東光会に出品した「大野寺石仏」などにより、日本人の感性による表現を確立したそうです。
やはりどこか一本筋の通った気骨ある芸術家だったのかもしれませんね。
残念ながら実際の絵を見たことがありませんので、何とも言いようがないのですがさいたま市の近代美術館で常設展示されているようなので、機会があれば(って、いつも言うだけで終わっている気がしないでもないが・・・)見に行ってみようと思います。

公園内に入ります。
枯葉がそこここに集まられているので、清掃が入っているのでしょうが、若干殺伐とした感じが拭えません。生家跡といわれれば、ある意味史跡として理解はできますが、公園となれば今ひとつここで一休みしようという気が起きません。

斉藤与里記念公園内敷石斉藤与里記念公園内母屋跡の四阿史跡としては門からの敷石も残っていて、家屋跡も現在は四阿がありますが、ある程度イメージができます。庭の感じから言えばかなり大きな家だったのでしょうね。


斉藤与里記念公園内の池一面に水コケが浮いていますが、当時はきれいな池だったのでしょうか、水と石などの造形は美しい庭園をなしていたのかもしれませんね。


「斉藤与里記念公園」を後にして一旦「浮野の里」に戻ります。

石仏群帰りは手子堰の橋より1本上流の橋を渡ると石仏群があります。きちんとした祠に治められていますが、わかる範囲で「庚申塔」「観音像」「十九夜塔」「弁財天」などが治められています。嘗ては信仰の厚い地域だったのでしょうが、現在ではこれ等の石仏も景観資源の一つとして考えられているようです(決して不謹慎な意味ではありません)。


帰りものんびりと歩きながら、田圃のおたまじゃくしや蛙、偶然へびにも遭遇しました。また、水田の一角にキュウイの栽培棚があったり実に多彩な表情です。
そうしている内に「浮野の里」の四阿に戻ってきました。

時間はAM11:00少し過ぎです。休み無しで歩いていたので休憩です。
田舟の船着場は乗船客がかなり大勢待っています。よく見れば2艘の田舟が出ているようです。まあ、田舟も最後ですから込み合うでしょうね。

いがまんじゅう四阿で少し休むことにして、四阿の前のテントでやはり地元の方がいろいろなものを販売しているので覗いてみました。
丁度、小腹も空いたので我が家では既におなじみの加須名物「いがまんじゅう」を購入しました。3ケ1パックでしたので丁度1個半ずつです。
結構ずさんな「いがまんじゅう」です。意外と売れていたので販売しているお姉さん方が忙しいのはわかりますが、通常「いがまんじゅう」というのはまんじゅうを赤飯で包んでいる状態ですが、これは3ケのまんじゅうに赤飯をぶっ掛けた様な状態です。まあ、美味しいのですから目くじら立てても仕方ありません、ご愛嬌ということで。浮野名物「ぶっかけいがまん」という新種です。


最後に家内が地の「きゅうり」を買っていました。本当はトマトも買いたかったそうですが、残念ながら売り切れだそうです。
何故突然「きゅうり」を買うのかは謎ですが、それはそれで考えがあるのでしょう。

念願かなってやっと訪れることができた「浮野の里」は、思っていたよりもずっと奥の深い所でした。また初めて知った斉藤与里もちょっと違ったスタイルの古くて新しいアーティストを知る思いでした。
どちらも大変興味深く、楽しい散策ができたと思いながら、この地を後にすることにしました。
これで思い残すことはありませんね。次は加須駅本面です。

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