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龍蔵寺と志多見砂丘

「橋本弥喜智商店」を訪れた後は、とにかく昼食にしようということになりました。昼食は当然「うどん」と決めていましたので、後はどこで食べるかだけです。
とりあえず、次に向かう予定の「龍蔵寺」方向を目指しました。

徒歩橋「橋本弥喜智商店」の前の道を右折すると再び会の川をわたります。丁度「伝承 徒歩橋」という道標が橋の横に立っています。
この橋は江戸時代には龍蔵寺の参道の起点に位置していたので、馬に乗ったままの通行は無礼ということで禁止されていた為、この橋の手前で馬を降り歩いて渡らねばならなかったことからこの名が付いたそうです。


やぶそしてこの「徒歩橋」を渡ると二又の交差点の間に「やぶ」といううどんやがありました。お腹も空いていたことですので、今日はここで昼食をとることにしました。
「やぶ」という名前なので、元々は「そば」が主だったのかもしれませんが、名物「加須のうどん」の掛け声により方向を変えたのかもしれませんね。それ程古さとかはありませんが、こざっぱりとした建物です。


店内に入るとテーブル席と座敷があります。すでに1:30を過ぎていましたが5~6人の客がいましたが、結構広いので座敷に上がりました。座敷ではあるのですが、4卓あるうちの2卓はテーブルと椅子になっています。
これは落ち着いて楽できますね。
早速の注文ですが、私は「うどん天せいろう・芝えびかき揚げ」、家内は「うどん天せいろう・えび、カニ」を頼みました。

うどん天せいろう・芝えびかき揚げ出てきたのがこちらです。


まずはうどんをいただきます。手打ちで全体的にシコシコでしょうか、こちの強いうどんです。出汁は余り細工がなく辛くはないのですが、醤油ストレート(実際はありえませんが)のような味わいで、初めて味わうような気がする出汁です。これは「やぶ」系統だからでしょうか・・・、このところ「やぶ」系食べていないので味を覚えていない。 でも、出汁とうどんの食感が相まって結構美味しいです。家内はもう少し甘味というか旨味が欲しいようでしたが。
かき揚げは揚げ時間の長そうな、かなり揚げたかき揚げです。サクサクというよりは若干固めですが、香ばしい感じです。 通常、玉ねぎとかの間に海老が入っているのがかき揚げですが、これは海老と海老をつなげる為に野菜があるような感じで、どこから食べても海老というようなリッチなかき揚げです。これはこれで食べる価値ありかもしれません。
結構ボリュームもあり、やはり「加須のうどん」は美味かったです。

うどんパフェ最後に家内がデザートということもあり、とっても興味を引いたので「うどんパフェ」なるものを注文しました。
出てきたのがこれです。


まるで関西方面で物議をかもした「せん○くん」のような角は、うどんを揚げたものだそうです。これだけを食べてみると、結構しょっぱいです。ですがクリームやアイスをつけながらだとかなりいけることを発見しました。
また、以外や以外、上に載っているパイナップルと夕張メロンは缶詰ではなく生果物です。そしてアイスの下にはうどんチップスのようなもので、これしょっぱいのですが、アイスがとけ込んで良い味になりますが、食感は溶けたアイスでチップスからうどんに戻った感じで、これは好き好きでしょうが・・・
いずれにしてもこの「うどんパフェ」侮れませんよ。実に美味しいですし、何といっても350円はベリーリーズナブルですから。

お腹も満たされて、そこからすぐ先の「龍蔵寺」へ向かいます。あるいて2.3分の場所です。

龍蔵寺山門いきなり立派な朱の山門が表れます。仁王門でしょうか。
山門をくぐって境内に入ると左側に案内板があります。


龍蔵寺御朱印状
昭和34年6月 市指定
御朱印状とは、江戸幕府の将軍から神社・寺院が免税の土地等を与えられたことを証する御墨付きで、この書状に将軍の朱の印が用いられているところから、その名がある。将軍は朱の印を用い尊ばれ、将軍以外は絶対に朱印は使用できず大名といえども墨印を用いていた。龍蔵寺には慶安2年(1649)10月17日、三代将軍家光の御朱印状から代々あり、十四台将軍家茂までの即ち慶安・貞享・享保・延享・宝暦・天明・天保・安政・万延年間の九通がある。この中、慶安二年のものをあげると、

武蔵国埼玉郡三保村龍蔵寺領
同所之内弐拾弐石余事任先規寄附之訖
全可収納並寺中山林竹木諸役等
免許如有来永不可有違者也依如件
慶安二年十月十七日
家光

と記されている。
昭和57年11月 加須市教育委員会』

慶安2年が1649年で万延年間が1860年ですから200有余年にわたって朱印状を有していたといことは、如何に厚遇された寺院であったことをうかがわせます。
この近くにはやはり有名な不動ヶ岡不動尊の総願寺があるのですが、庶民の総願寺、幕府の龍蔵寺といったところでしょうか、そんな印象をうけます。

龍蔵寺大イチョウ境内の真ん中には大木がありこれが「龍蔵寺の大いちょう」です。


龍蔵寺の大いちょう
昭和51年5月 市指定文化財
樹齢約620年のいちょうの木は、樹周4.3メートル、樹高約50メートルで、市内では他にみられない大木である。また、いちょうは昭和50年4月に「市の木」に指定されている。
龍蔵寺縁起文によると「昔、この地に百丈の大白龍が棲息し、人々を悩ましたという。開山教蔵上人が白龍得度の際、白龍の首をもたげし地に龍蔵寺を創立、尾の止まりし地に弁天を勧請し、龍頭・龍尾のありし箇所におのおのいちょうを植えて形せり。」と記録されている。時に文和4年(1354)3月のことである。
おしいかな龍尾のあったという諏訪神社境内のものは、落雷にあい枯れている。
このいちょうは、春の新芽と秋の紅葉が特に美しい。
昭和53年4月 加須市教育委員会』

つまり白龍の頭が龍蔵寺あたりにあって、尻尾が諏訪神社あたりにあった。そして頭と尻尾の位置にいちょうを植え、その頭の位置のいちょうが龍蔵寺にあるということですか。
百丈と記載されていますので約300mくらいの白龍ですね。残念ながら諏訪神社にはよりませんでしたが、地図上で龍蔵寺と諏訪神社を直線距離で図るとおおよそ200mですから辻褄はあうようです。いずれにせよ龍蔵寺の創建は室町時代前ということになり、かなり由緒ある寺院ということになりますね。

伝承・龍水井戸ちょうどいちょうの木の前に井戸があり「伝承・龍水井戸」と案内が立っています。
説明によれば、昔この地に大きな白龍が住んでいて(上記の百丈の大白龍のことですね)、毎日のようにこの井戸で水を飲んでいたことから「龍水井戸」といわれるようになった井戸だそうで、檀家や信者はこの水を飲んで極楽往生を願っていたました。この周辺は水質が良かったので、昭和20年くらいまでは生活水として使われていたようです。現在井戸は蓋をされゴミの山と化していました。


龍蔵寺本堂後先になりましたが本堂に参拝です。この本堂も文化財のようです。


『有形文化財 龍蔵寺本堂
昭和52年6月指定
龍蔵寺本堂は、1835年(天保6年)の建造で加須市内における江戸時代の代表的な木造建築物です。
面積は、330平方メートルで市内でも数少ない大規模の建物です。
設計・建築は、羽生市川俣の工匠三村正利氏であり、氏は歴代名匠の家柄で当時北埼玉郡内の神社・仏閣を数多く建築しました。
堂内には、県の文化財に指定されている木造阿弥陀如来立像が○○して安置されています。
昭和55年8月 加須市教育委員会』

この工匠・三村正利氏とは確かに宮大工の名家で、初代は三村吉左衛門経治という人です。
そしてここで取り上げられている三村正利氏とは7代目だそうです。この日とは龍蔵寺のほかにも、不動尊本堂(加須市)、八幡神社拝殿・本殿(羽生市)、久伊豆神社拝殿(騎西町)などを手掛けていたそうです。
ちなみにこの三村一族の関わった神社・仏閣は、聖天貴惣門(熊谷市妻沼)、榛名神社(群馬県沼田市)、帝釈天仁王門(東京都柴又)、伝通院(東京都小石川)、日光東照宮の唐門(栃木県日光市)などがあります。

隣にその木造阿弥陀如来立像の案内があります。

木造阿弥陀如来立像
昭和39年2月指定
この阿弥陀如来立像は像高1メートルの寄木造り、螺髪(仏像の頭髪)で玉眼入り、来迎印を結び近郷稀な鎌倉時代の在銘仏で、昭和12年12月24日重要美術品として国の認定をうけ、その後昭和39年2月埼玉県有形文化財の指定をうけた。
像内背部に、永仁元年(1293)発巳11月28日の墨色銘があり、胸部には、奉造立阿弥陀如来一体、大勧進性信上人御門弟別当唯進・仏師武州慈恩寺大進、画匠上野国江田明信、画工上野国板倉信証とあるように、親鸞上人の直弟子性信上人の門弟が勧進したものである。
巳年の11月28日は、親鸞上人の御命日であることから真宗教団に関係のあったことがわかる。
これによって仏師は、南埼玉郡慈恩寺村(現在の岩槻市)、画工は、群馬県の板倉町にいたことがわかる。
昭和54年3月 加須市教育委員会』

岩槻の慈恩寺といえば三蔵法師の墓のあることで有名なところですね。まだ行ったことはありませんが。

龍蔵寺アジサイ境内にはアジサイも盛りのようで綺麗に咲き誇っています。よく考えると寺社には結構アジサイの名所多いですよね。あんまり手入れしなくても良いかでしょうかね。
でも食用にしてはいけませんよ、アジサイには毒があるようなので。


見どころの多い「龍蔵寺」を後にして一旦市民プラザの駐車場に戻りました。

最後に125号線を北に10分くらい行く「志多見砂丘」と呼ばれるところに向かいました。
ちょうど立正佼成会の裏手当たりがそうらしいので、立正佼成会の近くに車を停めて歩いて向かうと、突き当たりに案内板があります。

加須市志多見東県自然環境保全地域
昭和51年3月30日指定 指定面積4.46ヘクタール
本地域は、加須市の西部にあり、東流する「会の川」沿いに形成された河畔砂丘です。
この砂丘は、かつて利根川が広大な関東平野を蛇行しながら流下したとき、その袂状部に堆積された砂が赤城颪によって飛ばされ、利根川の分流であった「会の川」の自然堤防上に集積してできたものと考えられています。
このような内陸砂丘は、広大な平野の少ない日本では例の少ないもので、志多見砂丘は規模も大きく、いまだに当初の形をとどめているたいへん貴重なものです。
そのため、特異な地形と自然現象を有する本地域を隣接する志多見中央、西地域とともに県自然環境保全地域に指定し、保全を図っています。
昭和62年3月 埼玉県』

志多見砂丘龍蔵寺アジサイ道に沿って歩いてみました。右手は立正佼成会の敷地で、左側が・・・立正佼成会の敷地です、ずっと。
ま、とにかく歩いてみましたが、何か砂丘っぽくないのですね。結構草木が繁っているので、どうも砂丘には見えませんね。
【右:杭の間隔だけ立正佼成会の土地ではないのですが、立ち入り禁止となっています】


志多見砂丘ところどころ砂地のようなところもありますが、確かに言われないとここが砂丘だって絶対に素人にはわからないと思いますね。冬にでも来れば草木がなきなってもう少しわかりやすくなるのかもしれませんが。


一般的に鳥取砂丘などは海岸砂丘と呼ばれるそうで、日本では島国の為にこの海岸砂丘が多いそうです。それでもこの内陸砂丘はここのほか、春日部や鷲宮、越谷などにもあって結構埼玉県は宝庫みたいですね。
「月の砂漠」というより「薮蚊の多い砂漠」の様子ですが、貴重な環境ということで、貴重な経験をしました。

今回で3度目の加須でしたが、今回は歴史のみならず、環境や文化、自然に産業などなど様々な角度から見ることができ、実に充実した散策だったような気がします。
次に訪れる機会があるかどうかわかりませんが、うどんくらいは食べに来るかもしれませんね。 そのときを楽しみにしておきます。

2009.06.27記

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