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まちかど雛めぐり  #2 ~岩槻に過ぎたるものを見る~

市宿通りと駅前通り交差点をそのまま直進するとすぐ左手に「東玉大正館」があります。ウィンドウに由来書がありました。
岩槻大正館【岩槻大正館】


『登録有形文化財 「岩槻大正館」の由来
明治初期、いち早く埼玉県に進出した両替商中井新左衛門商店が、明治十六年に合名会社中井銀行に改組、岩槻出張所を開設しました。
その後、大正年間この地に現在の煉瓦造りの二階建て店舗を建てました。
昭和二年、金融恐慌の影響を受け、整理され昭和銀行となりました。
昭和十九年に安田銀行、さらに昭和二十七年に富士銀行となりました。
昭和三十五年、当時の富士銀行より故戸塚巌(東玉社長)が譲り受け、現在に引き継がれています。
岩槻地域においては西洋建築は極めて少なく、大正時代の建築意匠を、今に伝える貴重な建築物です。
平成十九年十二月五日、国の「登録有形文化財」として登録されました。』

イベント期間中はここも特別展示会場で「椿会・・・」とか言うグループの創作人形の展示会場となっています。
結構斬新な人形も多く、こういった機会でもなければ見ることはないでしょうね。ただ、根本的に男はダメです。家内は結構それぞれじっくり見ていますが、私のほうは一渡り見て待っている場合が多いですからね。それにどちらかといえば建造物の方に意識が向いてしまいますから。
創作人形展【創作人形展】
因みに「岩槻郷土資料館」も大正様式で同じ時期の建築ですが、「岩槻大正館」の方が古さというか傷み具合が少ない様に見えるのは官と民という使用者の違いから来るものなのでしょうか。

「岩槻大正館」からホンの10mほど戻って左折して「遷喬館」をめざします。2.3分あるいて三叉路の角に「カシワヤ」という服地のお店がありここでスタンプ”岩槻ひなめぐり”の「ひ」をゲットしました。

こちらのお店にも昭和初期というひな人形が飾られていて、結構多くのお客で賑わっていました。
服地のカシワヤのひな人形【「服地のカシワヤ」のひな人形】
やはりここからホンのちょっとで「遷喬館」に到着です。

入口に”裏小路”と刻まれた道標が立っています。横に説明があります。
裏小路道標【裏小路道標】


『岩槻城内侍屋敷の路名。
横町との境・裏小路口から渋江小路に至る。
江戸時代の終り頃、この小路に面する一画に児玉南柯が藩校・遷喬館を開いた。
平成元年七月一日 岩槻市教育委員会』

渋江小路はこの先突き当りの三叉路の通りですから、4~500mくらいの通りということでしょうか。
一歩入ると説明書があります。

岩槻藩遷喬館
遷喬館は、江戸時代後期の寛政十一年(一七九九)に岩槻藩の学者児玉南柯が青少年の教育のために創立した家塾で、後に藩校となりました。最盛期には梅林を伴った広大な敷地の中に、武芸稽古所、菅原道真を祭る管神廟(天神社)、南柯の自宅「梅亭」』、築山・池泉、展望台などが設けられていました。
現存する建物は、遷喬館の学舎(校舎)として使用されていたもので、十五畳と九畳からなる二間続きの教場を備えています。
江戸時代には全国に多くの藩校がありましたが、県内において保存されている藩校は、遷喬館は唯一のもので、昭和十四年三月三十一日に埼玉県の文化財(史跡)に指定されました。
平成一八年三月 さいたま市教育委員会』

藩校とは文字通り江戸時代に、諸藩が藩士の子弟を教育する為に設立した学校です。保存はされていませんが名前だけは残っているというのも埼玉県では他に下記の2ヶ所だけのようです。
1.関宿藩・教倫館(1824年)→名称を借り受けて教倫館小学校→現野田市立関宿小学校
2.忍藩・進修館(1824年)→名称を借り受けて埼玉県立進修館高等学校
2.の忍藩・進修館については先日行った行田市の忍城跡に門(だと思われる)だけが残されていました。 ですからとっても貴重なんですね。

この「遷喬館」という名前の由来は、パンフレットの記載されています。

『「遷喬館」という名前は、中国の書物「詩経」の「出自幽谷 遷于喬木」という一節に由来したものです。意味は「学問を欲し友を求める」ことを、「鳥が明るい場所を求めて暗い谷から高い木に飛び遷(移)る」姿にたとえたもので、この言葉は遷喬館の会約にも書かれています。「遷喬館」の名前には、「ここで学ぶ子どもたちに高い目標を持ってほしい」という南柯の願いがこめられているものと思われます。』

いつの時代でも子供の成長を願う気持ちは同じなんでしょうね。そしてそのために家塾として開設した学者・児玉南柯とは一体どのような人であったかは、同じパンフレットに書かれてありました。

『児玉南柯は甲府にいた豊島家の長男として生まれ、11歳で岩槻藩士児玉親繁の養子となりました。「南柯」は儒者としての名前で、本名は「」といいます。
16歳で藩主大岡忠喜の御中小姓となり、また向井一郎太の元で儒学を学びつつ、禅の修業なども積みました。18歳で神田一ツ橋に会った江戸藩邸詰めとなり、若殿忠要の素読相手を勤め、以降郡奉行、御側用人、御勝手向取締方など藩の要職を歴任しました。岩槻藩領であった房総千倉(千葉県南房総市)に清国の商船が漂着した時には、その処理にも当たっており、後にこの事件を回想した『漂客紀事)という本を刊行しています。
43歳の時、南柯は部下の不正の責任を取って職を辞しました。その後は藩主の侍読などを勤めながら、自身の研究や藩士の教育へと力を注いで生きます。その中で、寛政11年(1799)に私塾として開校したのがこの遷喬館です。
南柯は文政13年(1830)に85歳で病のため亡くなり、遷喬館近くの浄安寺に葬られました。南柯は生前日記を記しており、その日記が現在も残されています。』

児玉南柯は最初から最後まで岩槻と岩槻区民を思い尽くしたのでしょう。
そのことから「岩槻に過ぎたるものが二つある 児玉南柯と時の鐘」といわれる所以でしょう。それだけ岩槻では誇りを持っているということですね。 

入口には「遷喬館」の額が下がっていて屋根は瓦葺です。
遷喬館【遷喬館】


玄関をはいると、ここにもひな人形が置かれていました。古い時代の内裏雛です。中に入ると教場と呼ばれるところに7段くらいの立派なひな人形が飾られていて、部屋全体も綺麗に手入れがされていました。勿論、普段ひな人形などは置かれていないのでしょうが、当時はどうだったでしょうか。恐らく生徒は男の子だけでしょうから。
遷喬館内の教場とひな人形【遷喬館内の教場とひな人形】
全体の大きさは勿論、現在の学校とは比べようもありませんが、当時としては立派な藩校だったのでしょうが、「直角」(古い!)みたいな子供がいたのでしょうかね。

「遷喬館」を後にして、裏小路を歩いて渋江小路の方へ向かいます。途中”裏小路”と書かれた木の道標があり、”市宿通り”と同じ形態・材質から各通りにはこの道標が掲げられているのでしょう。
しばらく歩くと「日勝屋」という酒店が右側にありスタンプがあるので中に入りました。
店内には段飾りのひな人形が飾ってあり、そこの女将さんが説明してくれました。
日勝屋のひな人形【日勝屋のひな人形】
このひな人形は昭和10年のひな人形で、女将さんのお姉さんのものだそうです。 内裏雛は資料館で見たような御殿の中に置かれていました。当時としては非常に高価なものだそうで、通常、一般的なひな人形は屏風が立っているだけだそうです。
そういえば母のひな人形も昭和5年前後のものでしたがどうだったでしょうか、記憶がありません。もうかれこれ30~40年見ていませんから。
先ほどの服地屋でもそうでしたが、多くの店舗に全て何らかのひな人形が飾っているのは実に面白い趣向です。さらにその中には非常に貴重なものもあり、何気に置かれているという光景が見られるのですから。このイベントならではの趣でしょう。
すっかり話し込んでいて次のお客が入られたのを潮時にスタンプ"岩槻ひなめぐり”の「め」だけ押させてもらい店を出ました。

時刻は間もなく1時頃になるので、これだけは当初から決めていた蕎麦を食べに向かいました。
お店は「彩の実」というお店です。
「日勝屋」からも5.6分程度で、「時の鐘」のちょうど道を挟んだ前でした。

趣のある門を抜け竹塀と生垣の細い通路を行くと、まさに民家の玄関がありました。恐らく民家を改築したのでしょう。
彩の実入り口【彩の実入り口】


玄関引戸を開けて中に入ると、内裏ひな人形が飾られていました。
彩の実のひな人形【彩の実のひな人形】
お店の方に聞くとこの日は予約が結構入っているようでしたが、ちょうど予約も終わったようなので、すんなりと入ることが出来ました。玄関口から左右に座敷があるようですが、私たちは左側の14.5人は入れるくらいの座敷に通されました。
二人座れるテーブルが三卓空いており、その一卓に案内されました。座敷からは小さいけれど中庭が見えて落ち着いた雰囲気です。
このイベント期間中は特別メニューの「さくら彩御膳」があるので注文しましたが、予約で一杯のため一時間はかかるとのことでしたので、今回はあきらめました。
そこで評判の天ぷらせいろと鴨汁せいろを注文しました。斜め後ろの席では三世代家族でしょうか、ビールなど飲まれて楽しまれているようです。
そうこうしている内に10分後くらいには、残りの二卓も埋まりどうやら、外で待っている人もいるようです。我々はちょうどラッキーな時間帯だったのですね。

そしてしばらく待って・・・待って・・・待っていると時間は既に30分以上たっています。普段忍耐強い家内もさすがに切れ気味になっています。そして私たちを一気に切れさせたのが、後の席の方に先に蕎麦が出されたことです。
それでも「まあ、忙しいからしょうがないのかねえ」などとじっと我慢していたのですが、天ぷらせいろとせいろ大盛りという私たちとと殆ど変わらない注文なのに、先に食べてしかも先に帰ってゆくではないですか。まだ私たちの注文したものは来ていなのに、です。
結局現時点で40分以上まっています。限界点を超え一気に文句を言うと「すいません」と一言。まあ、そりゃそうだ、と次の言葉を待っていると「お待ちください」と居なくなる。
オイオイオイと思っていると1分もしないうちに注文した品が出てくる。「舐めとんのかあ、われ」・・・とは言わずにグッとこらえましたが、もう平常心は失っていました。

ブツブツ細かく切れていて、コシの弱い蕎麦、只只、濃いだけのコクのない付け汁、やたらボリュームはあるが油っぽい天ぷら、何やら焦げ臭い鴨汁・・・はっきり言って味も素っ気も無いとはこのことでしょう。
天つきせいろ【天付せいろ】
味わうことが無理な心理状態でしたので、もし旨いものであってもそう感じることが出来なかったかもしれません。
そんなこんなで食べ終って速攻で出ることにしました。料金を支払いましたが、もう謝りの一言もありませんでした。
まあ、二度と行くことは無いので、別に謝っていただかなくても結構でしたけれど。

これを記載している現在は冷静な判断が出来るので付け加えますが、多分評判どおり美味しいのだろうと、今は思います。かなりの細麺でありながら適度なコシがあるのは間違いなく、若干細い故に細かく切れてしまうのが多少あるのはしかたのないことでしょう。しいて言えば若干太い方が私的には好きなのは確かですが、それを問題視しないくらい旨いのも確かです。
また、付け汁は私の好みではなかったです。余りにも濃い・・・ですがしょっぱすぎると言うのとも若干違う。言葉では表しにくいがまずくは無いが好みではないということ。
天ぷらについては、評判どおりの旨さでしょう。あれだけのボリュームがあれば、年寄りには誰だって油っぽいです。それを差し引いても野菜の天ぷらは種類の多さも含めて美味といえるでしょう。
鴨汁の焦げ臭さは、通常なら香ばしい香りとなるでしょう。目くじら立てるほどではないですね。
そう考えると趣、味、含めて本来は十分満足できるお店といえるでしょう。やはり一度行っても損は無いと思いますね。
まあ、お店もこんな人には来てもらいたくないでしょうし、流行っているお店だから相手にもしないでしょうが。

「彩の実」を出てすぐ前にある「時の鐘」に行きました。
まさに、「岩槻に過ぎたるものが二つある」、内の一つです。早咲きの桜でしょうか、綺麗に咲いていて鐘楼との風情も実に美しいものです。
時の鐘【川越にもあった時の鐘】
説明板の案内です。

『岩槻市指定文化財
指定年月日 昭和三十三年二月二十一日
指定の種類 有形文化財(工芸品)
所有者 岩槻市
時の鐘
岩槻城下の時の鐘は、寛文十一年(一六七一)、城主阿部正春の命令で鋳造されました。渋江口に設置された鐘の音は、城内や城下の人々に時を知らせていました。五十年後の享保五年(一七二〇)、鐘にひびが入ったため,時の城主永井直信(陳)が改鋳したものが現在の鐘です。鐘は一日三回撞かれたとも言われていますが、江戸時代後期には、一日十ニ回撞かれていたようです(新編武蔵国風土記稿ほか)。
鐘楼は、嘉永六年(一八五三)に岩槻藩より改建されており(棟札銘)、方十三、一m、高さニ、一mの塚の上に建っています。 』

また近くには岩槻について書かれた案内板が掲げられています。

城下町岩槻
鎌倉時代から室町時代頃の岩槻は、奥大道と呼ばれる鎌倉街道の一つが元荒川(当時は荒川の本流)を渡る地点にあたっていました。幹線道と水上交通路でもある大河が交差する岩槻の地には、城下町の成立以前に町場が形成されていた可能性があります。
戦国時代になると、交通の要衝でもある岩槻には岩槻城が築城され、城を中心とする都市形成が本格化しました。この頃には久保宿・富士宿・渋江宿などが文献資料に現れ、市町などの町場の形成が進んでいました。城下町岩槻の成立です。そして、戦国時代の末、天正15年(1587)頃には、城下町の周囲に大構と呼ばれる土塁と堀が築かれ、岩槻城と一体化し、城下町が確立しました。
江戸時代を迎えると、近世の身分秩序に基づき城下町が再編され、大手門外の一帯を中心に武家地(武家屋敷ゾーン)、街道沿いには町屋(商工業ゾーン)が配置されました。また、旧来の街道は日光御成道として整備され、城下町はその宿場ともなりました。
武家地内は諏訪小路・裏小路などの街路名で呼ばれ、生け垣や板塀で区画された広壮な武家住宅が形成されました。大溝の出入り口と、武家地・町家の出入り口は口と呼ばれ、門・木戸が設けられていました。時の鐘は、寛永11年(1671)、岩槻城主阿部正春が、渋江口に設置したものです。
町家では、「うなぎの寝床」などといわれる細長い区画に区分され、様々な業種の商家が通りに面して店を構えていました。町場の中心である市宿町では、戦国時代以来の六斎市(毎月六回開かれる定期市。市宿では一と六の付く日に開かれた)も開かれ、特産の岩槻木綿の取引などでにぎわいました。』

時の鐘については【川越の時の鐘】で記載しましたが、埼玉県で現存する時の鐘は川越とここ岩槻の2ヵ所だけです。
「時の鐘」には城で使われた城鐘、市中で使われた町鐘、寺で撞かれた寺鐘の3種類があり、この岩槻の時の鐘は川越と同じように城鐘です。 町自体が城下町ですから城鐘ではありながら町の鐘でもあったのでしょうね。
今日歩いてきた市宿通りから久保宿通りが町家のメインストリートで、それと並行する裏小路・天神小路、さらに交差する渋江小路・江戸小路・諏訪小路あたりが武家地であったということですね。
さらに町家の活気は八雲神社にもあったように”雑踏”という言い方がされていましたので相当賑わっていたのでしょう。
そのような町のシンボルとして、いかに時の鐘が当時の人々から親しまれたのかを窺い知ることが出来ます。そしてそれが現代までも受け継がれているということが、「岩槻の過ぎたるもの・・・」の所以でしょう。

市宿通りとは違った武家地を巡って、おおよそこれで半分くらいの行程です。
更に雛めぐりは続きます。

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