浦山歴史民俗資料館

秩父市街も朝早いということもあって渋滞も無くスムーズに抜けることが出来ました。 まだ、AM9:00少し前で、「そばまつり」もAM10:00からですので、まずは浦山ダム方面を目指します。
時期もちょうど紅葉の時期で、浦山ダム方面は紅葉の見ごろとのことですので、風景も十分堪能出来るのではないでしょうかね。
国道140号線を左折して県道73号線で浦山ダムに向かいます。

県道73号線を行くと途中右手に「浦山歴史民俗資料館」がありましたので立ち寄ることにしました。 到着が9:00頃でしたの資料館がオープンする時間とちょうど一緒でした。

浦山歴史民俗資料館建物は高窓風のついた意外といっては失礼ですが、立派な建物です。何か謂れがあるのでしょうかね。


ダムの模型建物に入ったロビーの左側にダムの模型があります。これは浦山ダムの建設中をあらわした模型ですが、模型ながらそこと無く迫力が伝わってきます。
ここ浦山はやはり浦山ダム無しには語れないようで、この資料館は浦山ダム建設に伴う水源地域整備事業によって、平成12年に建設されたそうで、地域の生活文化の復元と保存・伝承を目的としているそうです。


展示室のエントランス右手が展示室のエントランスです。


浦山の獅子舞展示室に入ると正面に獅子舞の衣装が展示されています。


獅子舞の由来と特徴
「浦山の獅子舞」の由来は、今を遡ること七百数十年前の西暦一四二五年の事です。
天皇の勅令で、下総の角兵衛という人が獅子舞(角兵衛獅子)を考案して、全国に広めました。「浦山の獅子舞」もこの角兵衛獅子の正統直伝の獅子舞として伝授されたもので、その証とする三巻の由来書とともに大切に守り伝えられております。
「浦山の獅子舞」の特徴は、他に類を見ないほどの勇壮活発な荒獅子であるということです。透き通る清流のような笛の音色、心も躍る太鼓の調子、天女の如く華やかな花笠、そして真剣を?えた勇ましい獅子、これらが一つに合わさり、荒々しくも優雅さのある、心に迫る舞を演じます。
また、役者の履き物は下駄やワラジ、大太鼓も背負ったままで演ずるなど、山深き土地の特色も随所に見られます。
その他、「悪魔払い」という独特の風習もあります。

「大日様のお祭り」の縁起
今から五百年ほど昔の、ある秋の早朝のこと。
麻の一重衣を身にまとい、藤のつるを杖代わりにした白髪の老人(丹生権現)がどこからともなく現れ、肩に乗せてきた大日如来像を、現在の大日堂の近くの岩の上に移されました。そして、お祈りを唱え続けていた丹生様は霞の中に消えて居なくなり、後には大日如来像だけが豊かにお座りになっていたそうです。
それからというもの、大日如来の効験あらたかな御利益の噂が広がり、遠郷近里から参拝者が訪れました。しかしながら、如来像の前には賽銭箱も置かれておりませんでした。そこで、当時の昌安寺住職と村人達が話し合い、西暦一五三三年の旧暦八月二五日(新暦十月一五日)に、めでたく大日堂の棟上が行われました。
こうしてこの日を御縁日として、大日如来の御徳守護のため、清らかな山紫水明の霊場である大日堂にて、祈願大願の例祭を挙行することとなり、今日に至っております。』(館内パンフレットより)

1425年とは室町時代であることから、相当歴史ある獅子舞だということが窺えます。先ほどの展示にもあったように真剣を使っているという迫力ある獅子舞のようです。
大日堂自体もかなりの由緒を持っているようで、毎年8月には昌安寺で獅子舞が行われ、10月の大日如来祭で祈祷獅子、悪魔払いなどが行われているそうです。
県指定の無形民俗文化財で、浦山大日堂獅子舞保存会は伝承しているそうです。浦山では大日様と獅子舞は大事な文化なのでしょうね。

暮らしの風景獅子舞展示の左側の最初のコーナーは「暮らしの風景」と題された写真展示で、「山の民の”伝統”」「焼畑の”記憶”」といわれるかつての浦山地区での生業であった林業と焼畑耕作を紹介しています。
かつて苦しい時代の生活を忘れるなといった戒め的なことでしょうね。


次のコーナーでは「祈りの風景」と題して祭りと信仰をテーマとした展示です。

十二社神社神輿展示されているのは「十二社神社神輿」です。


十二社神社の祭り
十二社神社は、浦山の嶽耕地にあり、例大祭は毎年8月4日に行われています。
昭和55年まで行われていた川瀬祭では、神輿を十二社神社から約1000メートル離れた浦山川の権現淵まで急坂を担ぎおろし、もみ洗うものでした。乱打する大太鼓の音とともに勇壮な祭りであったといいます。(「埼玉の神社」要約)
十二社神社神輿
この神輿は、十二社神社例大祭の川瀬祭で使用されていたものです。
明治から大正時代に、浦山の嶽耕地の大越源内氏(旧姓:中山、細久保出身、昭和35年没)により製作されたと伝えられています。
大越源内氏は、大工・家具職人として腕を振るい、十二社神社神輿のほか若御子神社神輿・国掴八坂神社神輿も製作したといいます。
万燈
この万燈は、神輿とともに十二社神社例大祭の川瀬祭で使用されたものです。
万燈内部には、明治21年、大越源内氏により製作され、上林氏により奉納されたことが記されています。』(館内説明文より)

これを当時、1km担いでもみ洗ったのですから、確かに勇壮なお祭だったのでしょうね。

それはともかく、この十二社神社という聞きなれない名前の神社ですが、新宿区の十二社(じゅうにそう)の地名と何か関係があるのでしょうか。調べてみると「十二社神社」とは、「十二所神社」の別名だそうで「十二所神社」は特に珍しい神社ではなく全国に存在する神社だそうです。
この「十二所神社」はそもそも熊野三山の神を勧請したもので、明治の神仏分離までは「十二所権現社」などと呼ばれていたそうです。熊野三山には「熊野十二所権現」と称する12柱の神が祀られていて、この神を勧請して祀ったことから「十二所権現社」、そして現在では「十二所神社」や「十二社神社」と呼ばれる神社なのです。
そこで新宿区の十二社ですが、やはり新宿総鎮守としての熊野神社があることから、付近の地名が十二社となったようです。
やはり元は熊野神社で同じだったのですね。

花火筒神輿の横には大きな花火用の筒が展示されています。


花火筒
浦山の嶽耕地にある十二社神社の例大祭(毎年8月4日)で使用されていたものです。製作年代等詳細は不明です。』(館内説明文より)

神輿と花火で、かなり盛大だったのでしょうね。それにしても何故川瀬祭は終わってしまったのですかね。
ちょっと調べてみましたら現在でも行われているようですが、どういったことなのでしょうか。
秩父観光なびサイトを引用します。

『秩父川瀬祭は、12月3日の秩父夜祭と対比するお祭りです。夜祭に対して昼の祭り、冬に対して夏、大人に対して子供のお祭りです。
7月19日の宵祭りは絢爛豪華な8基の笠鉾・屋台が秩父屋台囃子のリズムに乗って曳き回されます。笠鉾・屋台の囃子手は子供達が務め、花笠を付けた曳き子はかわいらしく楽しい子供のお祭りです。 20日は秩父神社境内に集合した笠鉾・屋台が御神幸行列に先立ち出発します。午後2:30すぎ頃、重量約400kgもの白木造りの神輿がやがて荒川の清流の中へと入る「神輿洗いの儀式」が行われます。』

とうことで、現在の川瀬祭は秩父神社の祇園祭として行われているようですが、昭和56年以降十二社神社から秩父神社に移ったということでしょうが、そういったことはありえるのでしょうかね。
良く分かりませんね。

そして最後のコーナーの「浦山の自然」「浦山の歴史」です。

浦山中学校その中で一つ目を引いたのが「浦山中学校」と書かれた校名額です。
特に何も説明が無かったので、その時は意味が分からなかったのですが、調べてみると、この中学は廃校になった中学校だそうです。


昭和22年に開校し、昭和60年に影森中学校に統合されて廃校となったようです。もともと山深い里であった浦山がダム建設により過疎化が進み、多くの集落も廃村になったことからのようです。
今、八ツ場ダムについて議論されていますが、確かにダムの功罪はとてつもなく大きいのかもしれませんね。
いずれにしても浦山地区とは、是非は別としてダムそのものの町と言えるのでしょうね。
時期が時期だけに少し考えさせられましたが、それはそれとして散策を楽しむだけです。

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