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法恩寺から県道沿い

時間はPM1:30を回った頃なので、そろそろ空腹になってきたので一旦駅方面に戻ります。
OTIC線路を渡り越生駅前のまっすぐな道を行くと右手に観光センターがあります。正式には「越生町インフォメーションセンター」略して”OTIC"です。
ちょっとここで情報収集をと入って、いくつかのパンフレットをもらい後にしました。お土産などもあるのですが、今回はお土産は無しと勝手に決めていますので。


ちょうどその前の道と左右に走る県道30号線の交差点が越生駅前の交差点です。今回のこの越生まつりは、県道30号線沿いで行なわれるようで、時間が来ればもっと賑やかになるのでしょうね。
法恩寺山門前の準備中の山車この三叉路の越生駅前の交差点のは「法恩寺」というお寺があります。ちょうどお寺の参道にはシートをかぶった山車が出されていて、どうやら準備中のようです。山車には”本町”と書かれた提灯が下がっています。そういえば6基の山車が出るのですね。
折角なので「法恩寺」に入ってみました。


法恩寺黒門越生警察署跡・標柱 山車の脇をすり抜けると山門があり、これは正式には”黒門”といわれています。
そして黒門の少し手前の左側に案内柱が立っています。


越生警察署跡(Ⅰ)
明治8年~明治36年迄、当時の建物はハイカラな洋館であった。』

ⅠがあるのですからⅡもあるのでしょう、どこかに。恐らくこの石垣がその名残だったとか・・・

法恩寺中門参道を進むと更にもう一つ山門があり、その手前に案内板があります。こちらの山門は正式には”中門”というそうです。


法恩寺
所在地 越生町大字越生
法恩寺は、天平10年(738)、僧行基が東国遊行の折、五彩の雲の棚引く所を見つけ、雲の湧き立つ金明、銀明の泉より、大日、釈迦、弥陀、薬師、観音の五体の像を発見し、これを祀った霊場が起こりと伝えられている。
その後、幾度か修築を重ねたが、保元、平治の乱(1156~1159)の時に寺は荒廃し、名のみ残る有様となったが、文治年間(1185~1190)に、時の領主倉田孫四郎基行きは自ら出家して、源頼朝に法恩寺再興を願い出た。源頼朝は建久元年(1190)に、越生次郎家行に命じて堂塔を建立させ、八町四方の寺領を賜ると共に源家の繁栄の祈祷所に定めた。後、室町時代になり真言宗の寺となり松渓山と号したという。
天正19年(1591)には、徳川家康から寺領二十石を賜り、更に寛永16年(1639)には兵火によって焼失していた客殿を再建して、新義真言11箇壇林の格式を持つ、密教道場となった。
しかし、明治34年(1901)の火災で鐘楼、山門のみを残して焼失してしまったが、大正12年(1923)本堂を建立、昭和にかけて客殿、庫裏等の諸堂を整えた。
当時の指定文化財
1.釈迦三尊像(国指定重要文化財)
2.高野丹生明神像(同上)
3.法恩寺年譜録(町指定文化財) 4.本尊大日如来像(同上)
昭和58年3月 埼玉県』

指定文化財についてはオフィシャルサイトに詳しく掲載されていました。

参考:【法恩寺】 http://www.ogose-houonji.or.jp/index.html

この中門は鐘楼と共に正徳4年(1714)ですから、江戸時代中期でこの後の元号が改革で有名な享保年間です。したがって中門も鐘楼も既に300年近く経過しているということですが、今日はお祭りとあって一団と美しく見えるのかもしれません。
法恩寺鐘楼中門をくぐるとその鐘楼が左手にあります。鐘楼というのは結構似た形が多いのでしょうか、【岩槻の時の鐘】や 【忍城址の復元鐘楼】などが似ていますね。やはり300年という歴史の重さを感じないわけにはいかないでしょう。
正式には中門は正徳元年(1711)、鐘楼は享保6年(1721)の建立で越生町最古のものだそうです。


法恩寺阿弥陀堂鐘楼の斜め前には阿弥陀堂があります。サイトには以下のように記載されています。


『法恩寺年譜元禄12年(1699)に次の記事があります。「右大将源頼朝公之建立観音堂、火災を恐れて堂地を三十三間余移す也、この堂の本尊は上宮(聖徳)皇太子御正作の十一面観世音の立像也、16世秀弁の時、何日か化失して無くし、是非無く新仏彌陀如来を安置す、これより観音堂を呼ぶに彌陀堂と号すこと年久し」。』

由緒あるものなのですね。
法恩寺本堂正面に本堂があり参拝いたします。境内の規模や歴史に比べてそれ程大きな本堂ではありませんが、それなりの風格があります。


法恩寺庫裏の七福神恵比須天本堂の右側に庫裏があり、ここに七福神の恵比寿神が祀られています。
ここは越生七福神のうちの一つで、以前越生梅林に来た時に訪れた最勝寺の福禄寿に続く2番目の寺でした。


境内を一回りして法恩寺を出ることにしましたが、越生は歴史的には侮れない町であることを今回も実感させられましたね。

さて、さすがにお腹も空いたので県道30号線を越生町役場方面に歩いてみました。
徐々に露天の屋台やお囃子の会所なども準備が進んでいるようです。しばらく歩いていると左側に手打そばの看板がありましたので、ここで昼食をとることにしました。

そば処 よしひろ「そば処 よしひろ」というお店です。外見からは結構大きなお店に見えますし、駐車場も広いようです。


そば処 よしひろ店内中に入るとかつては土間だったのではないかと思われるような、奥に仕切りの無い座敷が見え、手前には10人くらいかけられる大きなテーブルと壁伝いに4人掛けテーブルが並んでいます。
既に2:00少し前ですのでお客もそれ程多くはありませんが、お昼時の混雑の余韻を残すかのような感じです(って、どんな感じ?)


そば処 よしひろ天ざる今日は極々一般的に「天ざるそば」を注文しました。
秩父産の地粉をメインとしたそばだそうで、香は結構強いかもしれません。ちょっと太目のそばですが、若干コシの強さが足らないような感じです。汁は若干甘めでしょうか、好みの味です。
天ぷらはエビのほかに野菜天がありこちらはさくさくで美味です。これで1,050円ですから贅沢言っちゃいけませんかね。


そういえば食べている途中に、私の前に座っているご婦人方の一人の方が、かつて越生に住まわれていてこのお店の主人(らしき人)と昔話をされていましたが、その中でこの店は彼是150年くらい経っているとのこと。
そもそもは旅館として営業されていたそうですが、いつの頃からかは判りませんが、蕎麦屋も始めるようになったそうです。現在も旅館業の免許はそのまま有効だそうですが、現実的な経営としてはどうなんでしょうか、はっきりとは聞けませんでしたから。
外観、内装ともにそれ程古い感じがないので、それ程古くない時代にたてかえたのでしょうかね。
それにしても、ここでも侮れない越生町がありましたね。

さて、お腹も満たされたことでまたしばらく散策を続けようと思い、また一旦法恩寺の方向へもどり、今回の主役とも言うべき「越生神社」をめざしました。
人間の感覚や集中力などは得てしていい加減なもので、空腹の際は食事どころばかりを気にするのですが、一旦満たされると別なものに興味が沸きます。
ホンの3~40前に通った道(県道30号線)に様々な文化財がありました。

案内柱向かって(越生駅に)左手に二本の案内柱があります。
これは越生町商工会が平成9年に埼玉県商工団体パワーアップ支援事業の一環として立てられたものらしいです。法恩寺にあったものと同じものですね。


和田横丁
当町西和田に通じる道。当時は和田村であったので人々は和田横丁と呼んだ』

二・七の市跡の街
江戸中期頃から越生今市村では二と七の日を市の日と決め、この辺一帯が二・七の市として賑わった。』

恐らく相当賑わっていて、和田横丁といわれるほど商店等が多かったのではないかと推測されます。現在私の住んでいる家の前の通りも江戸時代には「三・八の六斎市」(月6回開催)といわれた市場町ですので、こういった通り沿いには必ず蔵つくりの家とか”広庭”を持った家などがあるはずですがね。
越生町道路元標更にこの案内柱の横には道標があります。


越生町道路元標
大正11年内務省令により全国主要市町村に建立された一つです。 越生町』

この道路元標はこのとき全国で12000余り設置されたそうで、使い方は、例えば上尾市から越生町までの距離や行きかたなどを探す場合、それぞれの市町村の起点をこの道路元標にしたということだそうです。
現在は昭和27年の新道路法によって何の法的根拠を持たないものとなったいるそうです。参考に以下のサイトを掲出しておきますが、道路元標でこれだけ盛りだくさんの情報が記載できるとは、それ自体が驚きです。道路元標侮る無かれ、ってとこです。

参考:【TTS Road Explorer 】 http://explorer.road.jp/

高札場跡・案内柱先に進むと今度は右側に案内柱があります。


高札場跡
江戸期~明治初年迄の越生今市村高札場跡。江戸末期の領主は黒田豊前守。』

高札場とは現在の「官報掲示板」で、幕府が庶民に対し禁制や法度などを示したところです。市が開かれ高札場もあり、道路元標も設置されていることから、江戸~大正くらいまでの越生の中心はこのあたりだったのでしょうね。

蔵作りの家その先に進むと確かにありました、蔵作りの家が。
道路の左手に歴史を感じさせる蔵作りの住宅です。家の隅に「登録有形文化財・第11-0121-0122号」というプレートが掲げられています。間口はそれ程大きくありませんが3階建てです。これはあまり見かけませんね。
これについて特に案内がなかったので調べて見ますと、文化財の登録内容がサイトにありましたので掲載しておきます。


岡野家住宅店蔵
岡野家住宅店蔵は、県道飯能寄居線沿いにある土蔵造3階建の建物で、現在は、住居兼事務所として利用されています。越生町の絹織物産業の繁栄を今に伝える建物です。棟木に「大正四年四月拾六日」、「棟梁 大野喜作」と記され、大正4年に建築されたことがわかります。屋根は切妻造桟瓦葺で、桁行3間半、梁間3間半、正面に奥行1間の下屋が付いています。現在の外壁は、現代風の吹付材で修理されていますが、当初は黒漆喰で仕上げられていたと言われています。1階戸袋には亀甲崩しの文様が銅板で作られ、軒が出桁造で各階の軒下のデザインを変えるなど、意匠性に富んだ建物です。

岡野家住宅土蔵
岡野家住宅土蔵は、岡野家住宅店蔵の東側、敷地奥手に建てられた建物です。東西棟の切妻造妻入桟瓦葺、桁行6.3m、梁間3.6m、西面に庇を掛けて、出入り口が設けられています。壁は白漆喰仕上げです。入口の西南に東西棟の切妻屋根を付け、桁行3.3m、梁間1.6mの湯殿が増築されています。建築年代を確定する資料はありませんが、建物の特徴から、少なくとも明治期に遡るものと推測されています。』

ということで、何だか知らぬうちに色々見て歩けました。やはり何気に侮れませんね、越生。

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