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絹会館

県道30号線を法恩寺までもどり、法恩寺の手前の道を右折して「越生神社」をめざします。
かなり気温も高くなり、いつの間にやら真夏状態。こんなはずではなかったのですが、天気が悪くなるよりは良いでしょうね。

絹会館看板すこし歩くと右側に「越生絹会館」と書かれた繭の形を象った石看板が立っています。
更にその下には「生絹の故郷、越生繁栄の守護神 生絹稲荷」とものすごいことが書かれています。


絹会館越生生絹発祥之地大きな駐車場の先にはなにやら記念碑のようなものが立っていますので行ってみますと、石柱には「越生生絹発祥之地」と刻まれており、となりに案内板があります。


伝承壱千弐百年越生絹の由来
越生特産生絹の起源は今を去る壱千弐百有余年前の、元正天皇の御代霊亀2年(716)の頃に高麗人若光以下1799名がこの地に渡来し、農業と養蚕、機織りをこの山添いの村落に伝授されたのを起源としています。それからこの地より年々朝廷に貢物として生絹が献上されていたと伝えられています。
人皇四十五代聖武天皇が奈良東大寺大仏を建立された其の開眼供養の際に当越生村付近の小領飛鳥部虫麻呂と言う人が、正倉院に絹布を献上したといい今尚正倉院御物にこの記録があると伝わっております。
豊臣秀吉が絹を持ってオランダ国の砂糖と交換し、領内に菓子司を置き茶の湯の菓子を作らせ、その珍しき甘味を利用し、平和政治を図ったとも言われております。絹織物はこのように重要視され、奈良の昔より平安、鎌倉、室町、桃山、江戸時代の末期迄、この地では生絹をもって年貢にすることが、永年続いた訳であります。
時は移りて明治となり明治五年、上州富岡の官営富岡製糸場(世界遺産候補)を初めとし、蚕糸、絹業界は、外貨獲得の重要産業として我が国の基幹産業となり、政府の庇護のもと急速に近代化発展する。
当地においても蚕糸、絹業界、日を追って盛んとなり、生絹の取引を中心とする二・七の市の大盛況により、当越生は近隣に先駆け明治二十二年、町制施行を成し遂げ、日本一の生絹の生産地、生絹流通の中心地として「絹の都」埼玉・越生として全国に一世を風靡す。以後昭和五年までの約三十年間は越生町、越生絹も、繁栄を極め至福の全盛期となる。
この間、明治三十三年株式会社越生絹市場設立、この地に生絹市場平家建2棟を建築する。大正十三年、越生織物同業組合を設立。
昭和四年から昭和五年にかけて越生町・越生絹繁栄のシンボルとして織物会館を建設するも、昭和四年十月二十四日、ニューヨークの株の大暴落に始まる世界大恐慌の影響と、欧米各国の我が国軍事政権に対する経済封鎖のため、日本からの生糸・絹織物の輸出が停止となり、昭和五年から昭和六年にかけて、繭、生糸、絹の価格が半年で七分の一まで大暴落するという悲運に遭遇、我が国の蚕糸・絹業界は一瞬にして壊滅する。当地においても二・七の市は閉鎖され、全盛を誇った越生絹も取引不能となり、整理、廃業、破綻が相次ぎ、企業統制、戦時下の軍需産業への転換、終戦と昭和二十四年統制経済解除までの十八年間は越生町・越生絹関係者にとっては、まさに苦難の暗黒時代であった。
戦後の復興は昭和二十四年末、越生織物商工業協同組合の設立と共に始まり昭和三十年代、四十年代前半までは順調に生産量等も回復し、戦前の最盛期の三分の一程度に復興するも生活の洋風化、車社会の到来と共に着物需要は急減し越生絹の需要も激減する。この間幾多の変遷を経て昭和四十八年三月上旬インフレ先取り、狂乱糸価。わずか二週間で生糸・絹の価格が二倍となる。この大暴騰によりこれまで輸出国であった我が国が、繭・生糸・絹織物の輸入国となる一大転換期となり、以降韓国・中国よりの輸入品に業界全体が苦しむ事となる。
昭和四十九年、国内養蚕家擁護を大義名分とする一元化輸入制度が施工され、繭・生糸・絹織物の輸入は蚕糸価格安定事業団による国の管理となる。昭和五十二年、日米繊維交渉の結果、織機の買上げが進行。当地においても織物業者の整理廃業が進む。昭和五十九年十一月、蚕糸価格安定事業団、実質破綻(制度崩壊)、以降十五年間我が国、蚕糸・絹業界は整理廃業が進行する。
当地に於いても、伝承壱千弐百越生絹の歴史と伝統も時代の趨勢は如何ともしがたくここに終焉をむかえる。
今般の織物会館建て替えを機に本記念碑を建立し、古き越生町・越生絹の繁栄と日本の蚕糸・絹業界の終焉を記録しこれを後世に伝える。
平成二十年五月吉日 越生織物商工業協同組合』

ビジネス・・・否、歴史・・・否、というよりはまさに文化そのものですね。1200年流れていた文化が今、崩壊したといった壮大なスケールのロマンかもしれません。
その崩壊の象徴が、旧・越生絹織物会館の取り壊しでしょう。2008年5月24日の毎日新聞の記事によると。

越生絹織物会館:往時伝える建築物 取り壊し作業進む
◇市民グループ、保存運動間に合わず
大正から昭和初期にかけ、絹産業で栄えた越生町の往時を伝えてきた建築物「越生絹織物会館」(同町越生)の取り壊し作業が進んでいる。市民グループ「越生織物会館の会」が保存を検討していたが断念。金子和宏代表(61)は「越生の象徴のような建物だっただけに悔しい」と残念がっている。
同会によると、この会館は「越生絹織物商工業組合」(金子猛雄理事長)が1930(昭和5)年に建設した。木造2階建てで、随所にモダンな意匠がこらされるなど、当時の繁栄ぶりがうかがわれる。1階は事務所に使われた。2階には大広間が設けられ、結婚式など町の社交場として愛された。
しかし、絹産業の衰退とともに、手入れも行き届かなくなり、ここ数年は老朽化が進行していた。組合は大規模な補修も検討したが、1億円以上かかるために挫折。町に買い取りと保存を要請したが財政難を理由に断られたため、同組合が取り壊しを決めた。
町の文化財保護委員でこの会館の隣家で生まれ育った金子代表が、先月末に会館の会を作って、建物を移動させる曳家(ひきや)による保存を検討したが、建築基準法による確認申請に時間がかかり、組合側の跡地利用計画に間に合わないため、断念した。取り壊し作業は今月末まで行われる。
今月1~11日に一般公開すると、約1000人が訪れた。同会は専門家による実測調査や、プロのカメラマンによる資料撮影も実施した。金子代表は「この歴史をどう伝えていくか考えたい」と話している。』

色々な議論や意見は多々あるのでしょうが、残せないものは残せないなりに、先の記念碑のような形での伝承もあるのではないでしょうか。あえて言うならせめて当時の建物や資料の一部でも良いので見られる場所があれば良いかなと思います。
それにしても、この記念碑は他には無い様な強いインパクトを感じます。
現在は絹会館として冠婚葬祭場として活用されているそうですが、現在では一番手堅い施設かもしれませんね。

参考:【森田光一の「気合だー!」】 http://blog.morita-k.com/?day=20080502

生絹稲荷神社さて、敷地内にはもう一つ「生絹稲荷」があるはずですが、果たして駐車場の隅にこじんまりと存在していました。
小さい稲荷社ですが、真新しい社です。ここにも案内板が置かれています。


二・七の市場と生絹稲荷
二・七の市場
この地(現在の越生町越生718)は江戸時代後期より明治・大正・昭和六年迄の約百年間毎月二日・七日・十二日・十七日・二十二日・二十七日の6日間生絹を主取引とした市が開催され、その中心地として大変な盛況を呈した。
(記念碑と同じ内容のため・・・中略)
昭和六年を境に盛況を誇った二・七の市も閉鎖され二度と開かれることはなかった。
生絹稲荷
当地周辺は古来より山村の集落のため養蚕地帯として、蚕作安定の稲荷信仰が盛んであった。二日・七日の市関係者により、幕末には稲荷宮が建立され、(常陸国・笠間・笠間稲荷神社より御分霊)市・開催日には数多くの参拝客があったという。市の閉鎖後も織物関係者により護持され戦後も昭和四十年代迄は稲荷講として織物組合関係者により相場の神様として崇敬され参拝が続けられた。
しかしながら絹織物産業衰退と共に放置され今日に至るも今般織物会館建替を機に社殿を建立整備し、古き越生町と越生絹の繁栄を後世に伝え、越生織物商工業協同組合の益々の発展と未来永劫の継承を祈念するものなり。』

越生絹市の写真当時の活況を伝える写真がありましたので勝手ながら掲載させてもらいました。
【当時の越生絹市の写真 (c)群馬県生涯学習センター】


参考:【群馬県生涯学習センター】http://www.manabi.pref.gunma.jp/kinu/sangyo/ryutu-gyo/saitama-urakinu/taira.htm

江戸時代の流行り言葉に「火事、喧嘩、伊勢屋、稲荷に犬の糞」という江戸に多い物を語った言葉です。これにもあるように稲荷社は当時爆発的なブームとも思えるような勢いで増えていったそうです。勿論広い意味で商売繁昌のような意味合いがあったから、非常に身近で信仰されたようです。
しかしながら時代を遡ると絹と稲荷社の関係というものが古くからあったようなことが伺われます。

記念碑にもあったように元正天皇の御代霊亀2年(716)の頃、高麗からの渡来人によって絹や織物がもたらされたとありますが、実際に渡来人はその2~300年前ほどからきており、それらの渡来および帰化系氏族の約三分の一をしめるのが秦氏で、 この秦氏族は絹織物の技に秀でており、時の朝廷に大いに役立つと共に厚遇されてもいたようです。
そして、この秦氏族は711(和銅4)年、稲荷山三ケ峰の平らな処に稲荷神を奉鎮し、山城盆地を中心にして御神威赫々たる大神を鼎立したといわれて、これが伏見稲荷大社の由来といわれています。
こういったことを考えると、絹織物の産地としての稲荷社は極当然のことかもしれませんね。

このような歴史の中でも実は埼玉県は現在でも繭の生産量は平成19年度では群馬県、福島県、栃木県に次いで全国第4位だそうです。
更に埼玉県内で見ると繭の年間生産量トップは秩父市で、2位:深谷市、3位:児玉郡美里町、4位:所沢市、5位:大里郡寄居町です。
そして埼玉県にはオリジナルの蚕がおり「いろどり」といそうです。
これは通常蚕は白い糸を吐いて繭を作るのですが、「いろどり」は笹色の糸を吐いて笹色の繭を作る品種だそうです。
この「いろどり」の特徴は1.染色すると発色が良い、2.糸のコシが強い、3.摩擦に強いという3つの特徴を持っていて、これ等の特徴を活かして現在布や和服の帯(西陣織)に使用されていて、それ以外にもショールや布団、さらに化粧品や健康食品などにも活用できるよう研究・開発がされているようです。なかなか面白いものですが、ここでもビックリするくらい侮れない歴史がありましたね。
大分時間を割いてしまいましたが、これから越生神社に向かいます。

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