越生神社と正法寺

茹だるような暑さとはこのことで、大した距離でもないのですが越生神社が遠い遠い。それでも何とかたどり着こうとするのですが、今一場所が良くわからないのです。
越生神社社号標と参道絹会館の前をまっすぐ進めばよいのだろうと高をくくっていると、正方禅寺入口と道標があり、左手は大宮神社方面と道標があり、右手は岡崎薬師との道標。一体全体どこへいけば良いのかと暫し路頭に迷いながら、近隣の方に聞けば「すぐ後ろだよ」といわれて、結局正方寺のほうに向かっていくと途中に「越生神社」とかかれた社号標がありました。


越生神社二の鳥居越生神社拝殿社号票を左折し”く”の字に曲がった参道を行くと鳥居があり、そこを超えると拝殿です。
まずは参拝し、案内板を確認します。


高取山と越生神社
所在地 越生町大字越生
越生神社の奥の院高取山は、戦乱に備えた越生氏の砦跡で、越生氏の館は山麓の越生神社一帯であった。高取山には、今も古木が茂り、二重三重の空掘り、土塁が残され、古城の面影を残している。
越生神社は、源頼朝の命により法恩寺再興をした越生次郎家行の氏神として祀ったものであるが、社殿は、八幡社を中心に明治四十二年に造営されたものである。
祭礼は1月7日の初市まつりのほか、7月24日、25日の祇園まつりがある。
初市まつりは、このあたりで最後の酉の市として参拝者が大勢訪れている。また、祇園まつりには江戸神田祭の流れを汲む山車が引き出され、賑やかに祭りが繰り広げられている。
昭和58年3月 埼玉県』

このまつりは1804~1830年の文化・文政の頃、夏の悪病退散を祈願して始められたのが起源だそうで、牛頭天王を祀る新宿と黒岩の八坂神社(祇園社)の祭りとして、旧暦6月15日に行われていましたが、これ等近在の小社が合祀さて越生神社として明治42年に造営されたのを機に、7月24・25日に執り行われるようになったそうです。そして現在町制100年を迎えて名称を「祇園まつり」から「越生まつり」と改称し、7月の第四土・日曜日と決められたそうです。

越生神社ポスターこのように「越生神社」の祭礼ながら、神社自体のこの静けさは何なのでしょうか。静かなのもともかく飾り付け等も何も無く、唯一「越生まつり」のポスターがポツンと貼られているだけとは一体・・・
まあ、ともかくも参拝をすませます。摂末社として「日吉神社」と「稲荷社」があります。
どちらにしても静まり返った境内で、一人佇んでいるのもさまにならないので、案内にある高取山に向かってみることにしました。


高取山道標越生神社の横の舗装道路を先に進むと「高取山」と書かれた道標があり、左に曲がると階段の上に石碑があります。


富士講?「富士一山」と刻まれた石碑ですが富士講とかに関係のあるものでしょうか・・・


ハイキングコースそして、その横にハイキングコースと書かれたて札があったので進んでみました。後から考えればこれが運命の分かれ道だったのでしょうね。徐々に人が一人通れるくらいの狭い道幅になって行き、徐々に不安を覚えながらも先に進みます。恐らく今日未明くらいまで雨が降っていたので(埼玉県はほぼそうだったようで)、現在晴れていても鬱蒼とした木々の中では日の光も余り入り込むことも無いので、多少道がぬかるんだ状態です。特に山登るための用意などしていませんので、場所によっては大層すべる場所もあり、注意しながら進まなければなりません。
更に極度に湿度が高くまるでサウナ状態です(若干大げさ)。


そして何にもまして辛いのが薮蚊です。常に耳のあたりで「ブンブン」となり、ちょっとでも歩行を緩めるとすぐたかられます。腕に止まられたので、叩くと同時に3匹叩き潰しましたが、こんな経験は初めてのことで、如何に薮蚊が多いかがわかります。
そんなこんなでも進むと、西高取山、とか大高取山とかの道標にでくわします。特にきちんとした地図を持っているわけでもないので、とにかく適当に歩きやすそうな方に向かいました。
彼是20分ぐらい歩くと更に西高取山とか書かれた道標にあたり、これはもしかしたら間違えれいるのではないだろうかと、戻ることにしました。

結局、往復40分くらい時間を無駄にし、更にそれ程多くない体力も随分と使ってしまったようです。そもそもハイキングはおろか登山なんて一度もしたことが無いくらいですから、体力は推して知るべしです。
兎にも角にも降り出しの「富士一山」の石碑にもどり、こちらの道を進んで見ました。こちらはハイキングコースに比べると若干坂もきつく、より滑りやすいです。更に薮蚊は同じように身体の周りをブンブン飛んでいます。 何とか頑張って(頑張らなければならないような状況まで体力は低下しています)九十九折のところまできましたが、ついに油断していて口のなかに薮蚊が突入したことで、気力も体力も萎えて戻ることにしました。途中立ち止まって休み休み登れれば、何とか上までいけたでしょうが、薮蚊によって立ち止まれないのは辛いです。
こうして高取山登頂(・・・な、大げさなものではないが)は断念ということになりました。ここだけはもう二度と来ません、薮蚊がトラウマになってしまいましたから。
後に地図で調べると、西高取山、とか大高取山というハイキングコースは越生梅林に通じる道だったのですね。あのまま行ったらとんでもないことになっていましたね。

休憩するところもないので、正法寺に向かいました。
越生神社からの舗装路を多少の坂道を登っていくと右手に「正法寺」があります。とにかくベンチがあったので休憩が先です。 全身汗まみれになっていて、「これなら蚊もたかるよなあ」などと思いながら日影で2~30分休んでしまいました。
当然のことながら、全身汗びっしょり状態など予想もしていないので、ミネラルウォーターなど用意するはずも無く、喉の渇きはもう少し我慢しなければならないでしょうね。
それでも休憩した甲斐があり、気力も体力も多少回復したので正法寺を巡ることにしました。 山門の後ろに案内板がありました。

大慈山正法寺
所在地 越生町大字越生
大慈山正法寺は、鎌倉建長寺の末寺で、足利尊氏の開基と伝えられている。代々建長寺の高僧の隠居寺とされ、特に活仏と言って、死期を悟った僧が生きながら食を断ち、仏となる聖地とされた。これを「入定」と言い、寺域は今も「入定場」という地名になっている。山門の後ろには、それを物語る「入定塔」も残され、建長寺の正法寺古図にも記されている。
明治四年、越生で初めての学校がここで開校され正法寺の学校と呼ばれた。この学校ではそれまでの寺子屋から一歩進んだ教育を行なっていたことが明治十年の卒業者名簿を刻んだ碑に記されている。
明治十七年に火災で堂塔を失い、その後、本堂を復旧した際、応永の戦乱(1399)で破壊されたと見られる多数の板碑の破片が出土している。 昭和58年8月3日 埼玉県』

鎌倉時代の「法恩寺」、南北朝時代の「越生神社」、そして室町時代の「正法寺」とは実に面白い取り合わせです。まさに時代の流れそのままと言っても過言ではないような、絵に描いた歴史教科書ですね、これは。

入定塔?山門の後ろにある「入定塔」がどれのことかが良くわかりませんでした。ただ古そうで妙な形をしている塔がありましたが、よく読めませんですが、これがそうなのでしょうかね。


これって・・・?学校の碑も良くわかりません。どれがどれだか・・・ 
しかも、こんなわけの判らないものもあって、どのように理解すれば良いのかさっぱりです。
でも、由緒ある寺院だということは理解できましたね。


正法寺本堂正法寺大黒天参拝に本堂に向かうと、本堂の左手に大黒天を祀った堂があります。そうここも越生七福神の一つ大黒天ですが、これで3ヶ所目ですね。


正法寺山門正法寺を一巡りして来たときとは別に、山門を通って出ることにしました。
山門の前には例の案内柱がありました。


山岡鉄舟献額の山門
旧幕臣、山岡鉄舟の山門。明治17年大火の折唯一残った伽藍。』

まさに当寺にとっては貴重なものでしょうね。
幕末の三舟といわれる一人ですが、個人的にこの人が評価されていることがどうも良くわからないのです。何となく幕末をウロウロして、結果として何となく幕末の賢人みたいなイメージで・・・ どうなのでしょうかね。
間にはアクシデントがありましたが、やはりここでも侮れない越生を見ることが出来ました。歴史の町・越生の面目躍如といったところでしょうかね。

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