世界無名戦士の墓から岡崎薬師

正法寺を出て更に道を登っていきます。舗装された車も十分通れる道なので歩きにくくは無いのですが、考えてみれば法恩寺からずっと上り坂を歩いているのですね。途中のアクシデントを含めて結構体力あるのかも知れません、私。
世界無名戦士の墓正法寺から多少きつくなった上り坂を10分くらい歩くと「世界無名戦士の墓」に到着しましたが、更に200段くらいありそうな階段があります。
若干疲労の色が濃くなったので休憩の意味で案内板に目を通します。


世界無名戦士の墓
所在地 所在地 越生町大字越生
世界無名戦士の墓は、昭和二十九年に建てられた慰霊塔であって、太平洋戦争で世界各地に散った戦没者の遺骨が土に埋もれているのを悲しみ、彼我がの別無く戦没者を供養するために建立されたもので、建立にあたっては越生町を中心に多くの人々の浄財が寄せられた。
塔の正面は東京を向いて建てられ、晴天には都心の高層ビル群や関東平野などを一望できる展望地となっているため、大観山とも呼ばれている。毎年五月十日に、慰霊祭が宗派を越えて行なわれ、多数の人々が参拝に訪れている。
また、この付近から西山国有林、大高取山にかけて「コシダの群落地」があり、これは埼玉県の天然記念物に指定されている。
昭和58年3月 埼玉県』

越生町の医師、長谷部秀邦氏(元埼玉県議会副議長)が発起人になって完成させたそうで、納骨堂には200柱以上の霊が眠っているそうです。合掌
天気も良いのでここから東京が・・・さすがに見れるわけはありませんが、見晴らしは良いです。ただちょうど木が邪魔になり越生町は逆に良く見えませんが。

越生の町並み長い階段を降りると来る時には気が付かなかった、ちょっとしたベンチがあります。その場所からは越生の町が一望でき、すでにお囃子の音も良く聞こえています。
時間もPM4:00をまわっていますので、お祭りもそろそろの頃ですね。


ここから五大尊つつじ園に回れるようですが、今日はここまでとして町に下りることにしました。
ちょうどここから下る道があるので、一気に越生町に戻ります。

さくらの山公園九十九折のやや細い道を行くと段々整備された区画となり、大きなモニュメントがあります。
ここは「さくらの山公園」で、越生町から大観山の無名戦士の墓の間の斜面を有効に利用した公園で、約600本のサクラが植生されているようで、越生町のサクラの名所のようです。


2.3月の梅に始まり、4月のサクラ、5月のツツジに、6.7月のアジサイ、そして秋の紅葉と、一年中花が楽しめる地としても観光に力を入れているのが良くわかりますね。
さくらの山公園の彫刻途中にはさすがに見るに耐えないアジサイがありますが、最盛期は大層綺麗だろうなと思われるアジサイです。また彫刻などもところどころに置かれていてそこはかとなくアカデミックな雰囲気が漂います。


中央公民館駐車場そうこうしていうる内に山を降りきり町に到着しましたが、ちょうど「中央公民館」の横に出てきました。ここは「越生まつり」のメインともいうべき6台の山車が揃ってヒッカワセが行なわれる場所です。
今はまだ嵐の前の静けさでしょうか、それぞれの山車の位置を定めた町会名の看板だけが、まつりの始まるのを待っているようです。


ここでやっと自動販売機があったので水分補給です。
夕方といえども今だ熱い気温のようで、一体今日の天気予報はどうなっているのやら、です。
「中央公民館」の前が「越生町役場」で左方向に「岡崎薬師、0.2Km」という道標があったので向かってみました。何のことは無い「中央公民館」の裏手に当たります。
岡崎薬師ちょうどここは「越生氏分家・岡崎氏館跡」という例の案内柱があります。


越生氏分家・岡崎氏館跡
鎌倉初期、岡崎有基が興した岡崎氏館跡。ここが当時の岡崎村の中心』

更に現地案内板の説明があります。

越生秋の七草めぐり フジバカマ
岡崎薬師の由来
平安朝末期から鎌倉初期にかけて、武蔵権守越生次郎家行の一族に越生新太夫有行という武士が当地にいた。
その子有弘、有瀬、有平の三兄弟があり、右馬允有弘は、越生氏を継ぎ、越生四郎有平の子有年は鳴瀬(成瀬)氏を、有光は黒岩氏を、有本は岡崎氏をそれぞれ興した。この岡崎四郎二郎有基が岡崎氏の始祖であり、岡崎薬師参道北側一帯が岡崎氏の館跡である。
そしてまた、この岡崎薬師が、鎌倉、南北朝時代に各地に転戦した越生氏一族の現存する唯一の遺跡である。
「承元二年(一二〇八)岡崎四郎二郎有基同所ニ居宅ヲ構え。一時キ守本尊ノ故ヲ以テ此処ニ安置スト云フ、其後不明也ト雖モ寛文八年(一六六八)企郡正法寺住職椿山再造ス」と堂庵明細帳に記述されている。また、同帳に云う本尊薬師如来、堂間口二間奥行二間半、境内地百六十四坪境外所有地四筆、境内三百三十七坪、信徒二百十五人(講中を含む)と。
本堂構築物中、須弥壇附近の蛙股、欄間、丸柱の形式からして、室町末期から江戸初期のものと推定出来、昭和初年の県調査の折、本尊の台座は鎌倉期の物といわれたことからして、前記堂庵明細帳の記述は正しく、享保一六年(一七三一年)作の厨子からしても、それ以前に堂宇の存在を意味し、元文元年(一七三六年)再造すとあるのは、須弥壇付近を残して本堂○郭を改修したのが事実である。
平成一三年三月吉日 岡崎薬師信徒総代 新井正一郎 記』

話を整理してみます。
越生新太夫有行という武士が基本的に越生氏の始祖といわれているようで、有行の子である三兄弟の長男・有弘が越生氏を継承し、その子である有高が越生神社周辺に館を建てたと言われており、ちょうど商工会~絹会館あたりだと推定されているそうです。ちなみに高取山に築かれた高取山城跡は越生氏の活躍した頃のものではなく、室町後半から戦国期のものと見られているそうです。
長男を有弘とする三兄弟の三男の有平の子供がまた三兄弟で、長男の有年が鳴瀬(成瀬)氏を興したのです。当然本家は有弘の系列ですから分家となるわけです。
現在、この鳴瀬氏の館は特定できていないそうですが、”成瀬”という地名が残る地域で考えると、見正寺や弘法山観音あたりではないかと考えられているようです。
次にその三兄弟の次男である有光は黒岩氏を興したのですが、これは黒岩氏の館跡として五大尊明王付近の山麓一帯だそうです。これは件の案内柱もあるようなので間違いないのでしょう。このあたりも現在は黒岩という住所だそうですから。
そして、三男の有本が岡崎氏を興して、この場所(岡崎薬師から北側)を館としたようです。
このように越生神社周辺の越生氏館を拠点として、山をバックにして北に向かって、岡崎氏館、黒岩氏館、鳴瀬氏館というように続くわけです。 そしてその中で唯一現存するのが岡崎薬師ということですね。
その後、越生氏一族は室町幕府の将軍が足利義政のころの1480年代くらいまで記録に残っているそうですが、それ以降は定かでは無いようです。これもまた歴史の流れでしょうね。

話はそれますが、この案内板の冒頭に”越生秋の七草めぐり フジバカマ”とありますが、ということは七草めぐりというのがあるのですね、七福神と同じように。
調べてみると「越生の秋の七草めぐり」の場所は以下の通りだそうです。

1.萩(はぎ):如意輪観音
2.女郎花(おみなえし):龍台寺
3.藤袴(ふじばかま):岡崎薬師
4.尾花(おばな):大宮神社
5.桔梗(ききょう):虚空蔵尊
6.葛(くず):ゆうパークおごせ
7.撫子(なでしこ):東山神社

よくよく考えれば、七福神も七草めぐりにしても現在のスタンプラリーの元祖みたいなものですよね。これって結構1回嵌ると辞められない面白さはありますね、ホント。まあ、七草の場合咲くタイミングがあるのでジャスト1日で回れるかどうか難しいですよね。2年に分ければ出来るかもしれませんね。
今年の秋にチャレンジしてみますかね。

越生町郷土資料室岡崎薬師の斜め前には「越生町郷土資料室」がありますが、どうやら今日は閉館のようです。機会があれば一度みておきたいですが。


さて、こうして時刻もほぼ5:00近くになったので、まつりに向かうことにします。
どんな楽しみがあるのでしょうかね。

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