越生まつり #1

山車の出された保管庫河原町の打ち合わせ岡崎薬師から祭りのメインストリートである県道30号線に向う途中に、山車を保管する車庫がありました。
ここは「河原町」の山車でしょうか、扉は開かれ既に山車は引き出されているようです。ちょうど「河原町」の山車は県道沿いに引き出されて、関係者が集まって諸注意、連絡事項などを確認している最中のようで、いよいよ祭りの始まりを感じさせられます。


三叉路の角の越生神社(出張所!)三叉路の角の越生神社(出張所!)県道を南下すると、右折すると越生町役場および中央公民館に向かう三叉路にでます。その三叉路の間に「越生神社」の仮の社殿があります。
ここで参拝するとそのたびに太鼓が鳴らされて、なんとなくご利益がありそうな気もします… 
まあ、神社の出張所のようなもので、ここを「越生神社」として祭りが展開されるのでしょうね。


この神社から県道沿いに露天屋台が並び、その先には「越生東二」と書かれた堤燈の下がった山車、そしてその隣にお囃子台がありそれぞれ踊りとお囃子が始まっていました。
越生東二区囃子連この「越生東二」とは正式には「越生東二区囃子連」というそうで、平成5年頃に越生町本町から伝授された江戸神田囃子大橋流の連です。この山車は二重高欄、唐破風の屋根を持つ山車で、平成14年に地元の有志によって手作りされたそうです。
この山車は本日は動くことは無かったので、越生まつりとしては公認されていないとか…(!?…そんな制度あるのかどうかしりませんが)
上台区子供おはやし会隣の囃子は「上台区子供おはやし会」というそうで、流派は「越生東二」と同じ大橋流で、結成時期は不明で平成の頃からはじめられたそうです。
この二つのお囃子で”ひょっとこ”と”鬼”?がユーモラスに踊っていて祭りの雰囲気を盛り上げています。


里の駅おごせちょうどこの後ろが越生町の観光センターで「里の駅おごせ」という看板が掲げられています。
ここでは軽い食べ物やソフトドリンクや氷などが販売されていて、ちょうど越生まつりのポスター展が開催されていたので、休憩方々入ってみました。


越生まつりポスター展ずらりと掲げられたポスターに歴史を感じるのですが、地元の方や関係者にとっては懐かしいものでもあるのでしょうね。


山車ミニチュアポスターのほかにも山車のミニチュアなども展示されていました。
また各町会の山車の説明があります。

仲町
昭和二十九年、東京神田のだし鉄、山本正太郎と当町の棟梁長谷竹松氏の作で、二重高欄四つ車、唐破風付回り舞台の山車である。それまであった川越市志義町の屋台を入間市へ売却し、新調した。』

新宿町
大正十三年、今の青梅市小曾根から購入したと伝えられている。一本柱で屋根などを支える四つ車の屋台型で、屋根に大きな龍の彫刻をのせる。車軸の台木に文政十年丁亥六月吉祥日と墨書がある。』

本町
大正八年、東京神田町の亀屋清秀の作で二重高欄四つ車、唐破風付回り舞台の山車で彫刻付の腰板をもつ。人形は神武天皇をのせる。川越市松江町二丁目の県指定文化財、浦島の山車も同人の作。』

河原町
昭和十二年、東京神田の宮長の作で二重高欄四つ車、唐破風付の囃子台を持つ山車である。台車は明治から祭礼のときに引き回されていた花山車のものを利用しているため、一本柱を立てた跡がある。』

上町
大正八年、東京谷中初音町二丁目と上三崎町の山車として、日暮里の諏訪神社の祭礼に引き回されたものを購入した。二重高欄四つ車、欄間仕立ての出しで、人形は豊島佐衛門尉経泰をのせる。』

黒岩町
明治四十二年、今の熊谷市鎌倉町から購入した山車で三重高欄三つ車、唐破風付の囃子台をもつ。人形は巨大な素箋鳴尊をのせる。当町唯一の三重高欄の山車で、明治二十九年の作である。』

今までいくつかの埼玉の祭りを見てきましたが、山車はやはり東京の山車を購入しているのが圧倒的に多いです。これは東京での交通事情(高架や電線)などの影響で、東京の祭りが神輿に変わっていく中で、それまでの江戸の山車が東京郊外に流出した結果です。
下世話な話ですが、川越のまつり会館で知ったところ、川越まつりの山車1台を建造するのに約2億円かかるという話でした。
前提としてこの山車の歴史を知る必要がありますね。

始まりは1830(文政13)年頃から1904(明治37)年までは黒岩町を除く5町内には”い組”や”ほ組”などの組名が付けられ簡単な手作りの花山車を保有していたそうです。
そして1909(明治42)年、神社統合によって越生神社が造営され、まつりの日取りが7月24.25日と決定されてから各町会ごとに山車の購入が始まったのです。
元々花山車のなかった黒岩町が1909年その年に購入。1919(大正8)年、上町、本町が購入。1924(大正13)年、新宿町が購入。1937(昭和12)年 、河原町、そして1954(昭和29)年 仲町が購入して全ての町会が山車をそろえたわけです。

そのような歴史の中で河原町の山車は元々あった花山車を利用して、いわば改造型であるにも関わらず昭和12年の時代で約1000円掛かっていたそうです。この当時の1000円の価値は、アンパンが5銭、蕎麦10銭、大工の手間賃が2円20銭という時代ですから推して知るべしで、仮に現在アンパンが120円の場合2,400倍と言う事で現在で換算すると、おおよそ240万円の改造費ということになりますね。市町村レベルならそれ程のことはないのでしょうが、町会レベルですからかなり大変な価格となります。
もう一つ仲町の山車について検証してみます。
現在の山車を新調するまでの経緯をもう少し詳しく調べてみます。
もともと川越市志義町(現在の仲町)から譲渡された山車を当時の金額約65万円で入間市志茂町へ売却しました。更にそれとは別に元々所有していた花山車を毛呂山町に35,000円で売却し、都合68.5万円を元に140~150万円をかけて新調したのが昭和29年ということになります。
この当時の物価は先ほどの物品でいうと、アンパンが10円、蕎麦20円、大工の手間賃が640円で、同じように物価の倍率が12倍と言う事で、現在で換算すると約1,800万円の新調費用ということになります。川越などに比べればかなり格安ではありますが、自治体の規模が違いますからね。
しかし、よくよく見ればこの当時の金額で約70~80万円が不足していて、その資金を調達しなければならなかったはずです。 通常こういったものは寄附によって賄われるのが一般的ですが、当時よほど大きな額で寄附ではとても無理だと考えたのでしょう、強制的に町内会費の3年払いで完済したそうです。しかしこの時の町内会費は通年の3倍だったそうで、余りに厳しいため仲町に在住していながら隣の地区に年会費を納めていた人などが居たらしいそうで、いかに年会費の3倍が厳しいかが理解できます。
このようにお祭りといえども中々財政的に厳しいのは全般的な傾向で、川越や秩父などの全国区的なお祭りは別として、本庄市のように昨今は企業などの寄附もかなり減少しているようで、お祭り自体の存続も危ぶまれているようです。単に歴史や伝統だけではいかんともしがたい時代なのですね。

本町山車観光センターでアイスコーヒーを飲んでしばらく休憩していましたら、駅方面から本町の山車がやってきましたので外に出ることにしました。
堂々たる山車のお出ましとばかりに進んできました。PM5:00からが各地区の引き回しなのです。


ヒッカワセちょうど「越生東二区囃子連」と「上台区子供おはやし会」の前に来たときに山車の向きを変えてヒッカワセの始まりです。それぞれの囃子をここぞとばかり叩き上げ三者三様の盛り上がりを見せます。
そして「越生東二区囃子連」には鬼太郎のちゃんちゃんこを着たような鬼が、そして「上台区子供おはやし会」にはひょっとこが、更に本町の山車には裸の鬼が、それぞれ踊りまわっています。
鬼同士はじゃんけんでもしているのでしょうかね、結構盛り上がっています。しばらくヒッカワセが続き、やがて山車が進んでヒッカワセは終わります。


本町山車のお囃子奉納進んだ山車は「越生神社」(出張所)の前で止まりお囃子を奉納し、そして県道北方向に向って進んでいきました。


時刻はPM5:30頃になります。しばらくこの場に留まっていたのですが、その後山車が来る気配がありませんし、お囃子の音も聞こえません。
雲の子を散らすように山車も人もどこかに行ってしまったように閑散としてきました。今っておまつりだよね、とでも疑うような静けさです。仕方が無いのでこちらから道沿いを追ってみることにします。
駅方面に向って移動しました。

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