飯能市郷土館

一渡り眺めてまだ時間があったので、中央公民館(市立図書館)から観音寺の横の道を歩いて「飯能市郷土館」へ向かいます。途中左手に川とそれに架かる赤い橋がありました。後に調べたら「飯能河原」というところだそうです。
ズーム一杯でこれ、飯能河原 【ズーム一杯でこれ、飯能河原】
流れているのは入間川でその両岸は埼玉県を代表するバーベキュースポットだそうです。赤い割岩橋(われいわばし)の架かっている浅瀬は、子供たちの川遊びのポイントでイベントとか行われているそうですが、かつては、名栗川流域の良材(西川材)を筏に組んだところで、道上には筏宿が軒を連ねていたそうです。

飯能河原を見ながら5.6分も歩いていくと「飯能市郷土館」に到着です。あまりごてごてしていないシンプルながらもお洒落なデザインの建物です。
入り口を入るとすぐ、館員の方の事務所となっていましたが、ちょうど昼時とあって一人もいらっしゃいませんでした。何かのんびりとした情景は判りますが、いいのかなあ。
飯能市郷土館 【飯能市郷土館】
入り口から左側の展示側をみると、じゃなり大きな筏に乗った人の人形がありました。
この「筏に乗った人」は、この郷土館のシンボル展示だそうです。
郷土館のシンボル等身大筏模型 【郷土館のシンボル等身大筏模型】
キャプションにはこう書かれています。

『入間川の筏流し-
飯能市の名栗地区、原市場地区などの入間川上流の村々では、山から切り出した木材を筏に組み、江戸(東京)に盛んに流送していました。消費地である江戸から見ると「西の川筋から流されてくる木材」なので、『西川材(にしかわざい)』と呼ばれるようになったと言われています。
  筏流しがいつからおこなわれたか、はっきりしたことはわかりませんが、江戸時代中期ごろには盛んに筏が流されていたことが当時の文書からわかります。江戸時代の筏に関する文書は、ほとんどが筏の通行をめぐって下流の住民と対立した争論に関する記録です。下流の住民は入間川の水を田や水車に引くための堰をつくり、また、入間川を漁労場所などに利用していましたが、これらが川を下る筏の障害となったため、争いが絶えませんでした。
明治時代になっても筏流しはますます盛んで、その出荷量は「西川十万石(27,800立方メートル)」と呼ばれていたそうです。明治期で筏流しがもっとも盛んであったのは明治20年から40年にかけて、日清・日露戦争による木材需要が急増した時期だったといわれています。
  大正4年(1915)に飯能-池袋間に武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)が開通すると鉄道による木材輸送が始まりました。また、道路が整備され、山方から飯能まではトラックで木材運搬が行われるようになり、飯能駅周辺には材木業者が多く店を構え、製材や取引はここでおこなわれるようになりました。これにともない筏流しは減少し、大正末から昭和初めごろを境に完全に姿を消したといわれています。』

当地の材木が西川材と呼ばれたことから、このエリア一体を西川林業地帯と呼び、飯能市を中心に、越生町、毛呂山町、日高市のエリアに亘る地域を呼ぶようになったそうです。 また、江戸時代中期以降、筏が増加したのは、この頃から西川林業は自然林の伐採~計画的に植林する育成林業へ移り始めたことにより、飛躍的に生産が増えてきたものです。
明治中、後期からは本格的に育成林業が活発化し、1889(明治22)年、入間川、成木川筋の材木商人による「埼玉県西川材木商組合」が結成され、史料の上で「西川」という名称が初め出典したそうです。
そして、鉄道の開通により筏で平常5日かかるところを1日もかからずに出荷できるようになったことから、飯能の林業が飛躍的に発展を遂げたのです。 しかし、昭和の戦前では軍事用として、木材の統制や乱伐、人手不足などで山林は荒廃の一途をたどったようですが、戦後になると計画的な植林や戦後の復興景気によって飯能の林業も一旦活気を呈しました。
ですが、昭和30年代の高度経済成長期に入ると外国からの輸入材が大量に流通しはじめ、全国的に林業が低迷するようになり、山村の過疎化や林業家の高齢化も進み、林業経営が極めて難しい時代となり、今日に至っているのです。
そのような現状で、林業によって発展し、林業によって育てられた飯能市として、林業を別な形で活性化しようとする試みが”森林文化都市宣言”に繋がっていくのだということが理解できました。

更に、今回は特別展(企画展)「名栗の歴史」として様々な展示がありましたが、やはりイメージ展示の「筏」に案内板がありました。
筏と特別展案内 【筏と特別展案内】

『筏流しと名栗地域-
「郷土館」のシンボルとして展示している筏。筏は名栗地域と深い関係があります。
江戸時代中期以降、名栗地域の山々から切り出された材木は筏に組まれ、入間川を下がって江戸に送られていました。 名栗地域の材木商人の中には、自ら江戸に材木問屋を出していた者もいました。このような店との取引も含めて名栗地域からの筏流しはますます盛んになっていきました。
江戸向けの材木生産を主要な生業として、名栗地域の暮らしは成り立っていたとも言えます。名栗地域にとって筏はまさに生命線でした。』

やはり、名栗地区も林業の町として飯能と同じような歴史、文化を持っていたのでした。
そもそも、この特別展は、2005年飯能市に入間郡名栗村が編入・合併し、旧名栗村ではじめられた名栗村史編さん事業が飯能市に引き継がれ、間もなく完了を迎える編纂の過程で得られた成果をもとに、資料展示による歴史を紹介するという展示だそうです。 したがって学術的な色彩が濃く感じられ(私的には)、あまり興味が沸く内容ではなかったようです。
いずれ、何かで学習する機会もあるかなあ、と勝手なことを考えながら郷土館を後にいたしました。

参考:飯能市郷土館 http://www.city.hanno.saitama.jp/kyodo/

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks