能仁寺

「飯能市郷土館」を出て、ほんの2~3分で「能仁寺」の山門です。
能仁寺山門 【能仁寺山門】
比較的新しそうで立派な山門で、山門脇に能仁寺の案内板があります。

『能仁寺
武陽山能仁寺は曹洞宗の寺院で、文亀年間(1501年~3年)飯能の代表的武人、中山家勝が曹洞宗通幻派の名僧、釜屋文達師を招いて開いた禅道場がはじまりといわれ、また、中山家勝の子家範が本格的な寺院として創立したものといわれている。
家範の子照守、信吉の兄弟は徳川氏に仕え大いに繁栄し、家康は当寺に香華料を寄進して保護を加えた。
その後、数代を経て中山直張の子直邦が黒田氏をつぎ五代将軍綱吉公に仕えて信任を得以来当寺は厚く待遇され、元禄10年(1697年)8月25日、前天台座主一品公辨親王の額字を賜った。現在本堂に掲げてある「武陽山」の額がそれである。
宝永2年(1705年)12月27日、綱吉より50石の朱印状を賜り、当時は丹治一族の菩提寺として栄え、末寺も20か所を数えたという。
慶応4年5月23日の飯能戦争のときに振武軍の本陣となったために焼失し、現本堂は、昭和11年能仁寺29世萩野活道師が再建した。 
昭和55年3月 埼玉県』

歴史的な背景を持っていながら建造物が比較的綺麗で新しいのは飯能戦争によるものだそうです。おそらく戊辰戦争ではないかと想像します。
山門をくぐると凝った造りの参道を通って、まずは本堂に向かいます。 境内は広く、本堂もかなり立派です。残念ながら歴史的な重厚さはありませんが、何となくモダンで(寺社にしては)美しく感じます。境内には東屋風の休憩所もあり、何人かのご婦人が休まれていました。
本堂への参道 能仁寺本堂 【本堂への参道(左)と能仁寺本堂】
境内の左側に石碑があるので行ってみました。石碑と案内板があります。
飯能戦争石碑と案内板 【飯能戦争石碑と案内板】

『飯能戦争-
徳川15代将軍慶喜は、慶応3年大政を奉還し、翌4年江戸城を明け渡したが、家臣の中には江戸に残留して抗戦を続ける者も多かった。渋沢成一郎、尾高惇忠らと旗本天野八郎らは同志を集めて「彰義隊」を結成し、上野寛永寺にこもり、官軍との対決を叫んでいた。
しかし、内部では江戸市外で戦おうとする渋沢派と、江戸市内で決戦を主張する天野派との対立が生じ、渋沢派は彰義隊と分かれて「振武軍」を結成した。振武軍は江戸をはなれ上野の彰義隊の動静をうかがっていたが、慶応4年5月15日、官軍の総攻撃にあい、彰義隊壊滅の報を受けた。
そこで飯能に退き、本営を能仁寺に置き、近くの6か寺に兵を配置し、官軍との決戦に備えた。そのため飯能周辺の村々から軍用金や馬、兵糧などの調達を行った。
上野の戦いが終わると官軍は振武軍の追討に向かい、戦いは5月23日払暁、笹井河原での衝突をきっかけに両軍の決戦が開始され、夜明けとともに官軍の大砲が振武軍の立てこもった寺を次々と攻撃した。 ついに砲弾が本営能仁寺本堂の屋根に命中して火災を起こし、振武軍は圧倒的な勢いの官軍の攻撃にあい、決死の奮戦もむなしく惨敗した。
渋沢平九郎は顔振峠から黒山に逃れ、そこで官軍の兵士に包囲され、自刃した。
この戦闘は2日で終わったが、古刹能仁寺をはじめ4か寺が焼失、民家200戸以上を焼失した。
地元ではこれを飯能戦争と呼んでいる。
昭和55年3月 埼玉県」』

最後の能仁寺での戦いで、「振武軍」は軍勢500余名。武器は旧式のミニェー銃やエンフィルド銃を合わせた300挺と刀、槍だけでそうです。一方、官軍は総勢3000余名。武器は四斤砲や二十珊(サンチ)砲をはじめとする大小各種の砲に加え、シャープス、スナィドル、シャスポー、スペンサーなどといった後装旋条銃を兵のいずれもが手にしている状況。そして、政府軍は振武軍の本拠地である能仁寺に集結し総攻撃を開始しました。撃ちこむ砲声は一時に百雷の落ちるが如くで、能仁寺は忽ち火焔につつまれて、振武軍の将兵は命からがら裏山伝いや、谷間から各方面に敗走したそうです。
これが飯能戦争の終結でした。
なお、頭取・渋沢成一郎は渋沢栄一の従弟で、飯能を脱出した後、箱館で榎本武陽らと一緒に戦い降伏します。その後、赦免され東京商品取引所理事長、北海道製麻会社社長を勤めるなど実業界で活躍したそうです。 また、会計頭取の尾高惇忠は渋沢栄一の従兄弟で、飯能戦争以降は1870年民部省に出仕し、その後、官営富岡製糸工場初代場長や第一国立銀行盛岡支店長等を勤めた人です。
2人とも敗者ではありますが、幾分渋沢栄一の取り成しとか、配慮とかがあったのではないかと推測されます。

一渡り境内の中を散策した後、庭園を見に受付所に向かいました。
拝観料として300円を支払い、能仁寺のパンフレットいただき入館いたしました。てっきり裏口から出て庭園を散策できるのかと思っていたのですが、さにあらず靴を脱いで本堂内の廊下を歩き、恐らく本堂の裏手に当たるだろう場所に着いたときに、前面に綺麗な庭園が現れました。
絵に描いたような能仁寺庭園 【絵に描いたような能仁寺庭園】
所謂、ガラスの窓越しに庭園を眺める形式で、廊下の右手がガラス張り(大き目のガラス窓)になっていて、ちょうど廊下のガラス付近が一段下がっていて、10人くらいは腰掛けられるようになっていました。さすがに、お祭りの日に訪ねる人は少ないようで私一人でした。さすがに一人ということもあり、本堂の奥ということもあり静寂が私の周りを支配しています。これも中々の風情で、ぼんやり15分くらいいたでしょうか。確かに綺麗な庭園です。パンフレットに説明があります。

『能仁寺庭園-
能仁寺本堂北庭として保存されている「池泉鑑賞蓬菜庭園」。面積は324坪。
天覧山の南急斜面を巧みに取り入れて、背後に枯滝を組み、下部を池泉とした上下二段式庭園の典型的なもの。築山、亀島、鶴島、石橋、洞窟などを備え、幾多の傑出した手法や造形を見せていることで桃山時代の作庭と推定され、日本名園百選に入っており、東日本の代表的な名園と言われています。
市指定文化財(大正11年3月29日指定。名勝)。』

確かに奥行きはそれほど広くないので、どちらかといえば絵画鑑賞的なイメージでしょうか。若干早かったのか紅葉はまだ始まったばかり位でしたので、残念でしたが、恐らく紅葉の赤、樹木の緑、水の青などが揃うとさぞ綺麗だろうと思わされます。
一度は見ておいてもよろしいのではないかと思います。
ここで、気持ちも良くうっかり庭園を後にしたのですが、この庭園見学の廊下の先が本堂で、そこに「武陽山」の額があったとのことでしたが、すっかり見忘れました。
でも、お祭りの喧騒から一歩外れたところでの静寂、中々味わえない風情だと思います。

参考:能仁寺オフィシャルサイト http://noninji.com/

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