上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

荒川歴史民俗資料館

ちょうど秩父市の羊山公園の芝桜が見頃となり芝桜祭りが始まっていたので渋滞を懸念していたのですが、案の定、皆野寄居道路を降りてから国道140号線を再び走り出すとノロノロと渋滞が始まっていました。 まだ、PM10:00前くらいですが、流石に渋滞も早いです。GWはもっと恐ろしいことになるのでしょうね。
仕方がないので和銅大橋前で140号を左折して秩父ミューズパーク方面から抜けることにしました。
芝桜の羊山公園は渋滞対策から近辺に臨時駐車場を設けてそこからシャトルバス輸送をしているそうです。ミューズパークもその一つの駐車場だそうですが、こちらに来る車はそれ程多くはないようですので実にスムーズに進むことができました。

秩父市街、羊山公園をスルーして再び140号線に戻ってしばらく行くと、枝垂桜で有名な清雲寺のある奥秩父に入っていました。そそこから約10分程で「荒川歴史民俗資料館」に到着しました。
荒川歴史民俗資料館 【荒川歴史民俗資料館】
ここは地元の公民館や勤労センターなどが集まっている場所の一角にあります。
早速向かったのですが、入口には鍵がかかっています。休館かと思ったのですが、「御用の方は・・・」のインターホンがあったので聞いてみると、開けに来られるとのことで見学は出来るようです。
係りの方は公民館の管理者の方で、今日は白久の串人形があるので資料館の係りの方は全員そちらに行っている為クローズにしてあったそうです。

入館すると目の前に山車が置いてあります。近づくとかなり大きいいのが判ります。
横に説明パネルがあります。
荒川歴史民俗資料館 【1階から見た半縄の笠鉾】


半縄の笠鉾(歌舞伎笠鉾)
半縄の笠鉾が造られたのは、江戸時代天保5年(1834)ころといわれます。当時上田野村は215戸程で石原・栃久保・糀屋の組と越・事上・坂口半分の組み、半縄・船川・坂口半分の3組に分かれ、各組に名主がおかれていました。半縄のある組の戸数はおよそ70戸、そのうち半縄地区が35戸でした。
江戸時代浄瑠璃が盛んになり、上田野村でも、浄瑠璃歌舞伎への関心が高まり、やがて半縄地区35戸による歌舞伎のできる笠鉾の製作へと発展していきました。
この笠鉾の特徴は、中心にある3層の花笠をつけた標柱を後方にずらせて立てることにより、歌舞伎芝居ができる点にあります。このような構造は他に例がなく、後世文化的価値から歌舞伎笠鉾と名づけられました。
笠鉾は旧6月25日(新7月25日)の天王様(八坂神社)のお祭りに曳きまわされたもので、当時は他に娯楽もなく、祭りで歌舞伎芝居を見ることが唯一の楽しみであり、近郷近在の人々の語らいの場でもありました。
最後の曳きまわしは明治43年(1910)で、その後昭和22年(1947)武州中川駅前の広場に飾ったのが最後でした。』

まさに枝垂桜をイメージしているのでしょうか綺麗な山車です。かなり大きいために2階までを吹き抜けにしてあります。
もう50年以上使用されずに、大事に保存されているということですね。
荒川歴史民俗資料館 【かなり大きい半縄の笠鉾】


2階に上がると笠鉾の先端が見えます。八坂神社と書かれています。
荒川歴史民俗資料館 【2階の吹き抜けの尖塔】


階段の正面に白久の串人形芝居関係の展示がなされています。串人形に関するパネルやレプリカの展示などがあります。
荒川歴史民俗資料館 【白久串人形芝居展示コーナー】


また、昔の芝居の写真や頭の今昔写真なども展示されています。
荒川歴史民俗資料館 荒川歴史民俗資料館 【左:嘗て使用された太鼓など 右:現在は使用されていなし串人形】


ここで、今日これから見ることになる「白久の串人形芝居」について予備知識を得たいと思います。残念ながら案内していただいた方は公民館の方の方で、その方も申し訳無さそうに「詳しいことは・・・」と。無理もないことなので色々説明パネルなどを拝見させていただきました。
凡そのところは館内の解説パンフレットで理解できました。

『文化庁選択無形民俗文化財・埼玉県指定無形民俗文化財  白くの串人形芝居  白久串人形芝居保存会

1.特色
二人遣い・・・極めて例の少ない人形の操作法で、一人遣いの人形に長い支柱と手さばき用の差し串をつけ二人で遣うように工夫をしたものです。
徳島県と長野県小海及び群馬県前橋に類似した二人遣いがあります。白久の串人形以外は祭りの奉納として三番曳きを演じるに対して、白久の串人形では義太夫の節に合わせて芝居を演じるところに特徴があります。
ちなみに、人形の操作法は一人遣いが大部分をしめ、三人遣いに江戸系文楽人形、大阪系文楽があります

2.白久串人形の始まりの時期
江戸時代末期文久から元治の頃(1861~1864)といわれています。

3.創始者
白川村(現白久)豆早原の新井重太郎、新井宇市、新井藤蔵など。
新井宇市は芝居好きで、人形に振り付けをして色々な狂言の上演などにも多くの私財を投じました。

4.卵の殻から始まり江戸人形、そして人形の修復完成
・卵の頭を使った人形の時代
創始者達は、当時秩父郡内のあちこちで行われた芝居を見て歩き、それらを真似してお日侍などの酒席で卵のカラの頭、箸や腰の手拭を使って操りをしたのが始まりと伝えられています。
・私財を投じて江戸人形の購入
語りの節や操りの技術が進歩してくると、卵の殻を使った頭では物足りなくなりました。明治26年(1893)、秩父郡倉尾村(現小鹿野町)の竹本定太夫(義太夫語り)が持っていた江戸人形の頭22頭を7円50銭という当時の大金で譲り受け、自分達で衣装や舞台を作りました(一説には女頭6個、男頭32個、計38頭)。
この江戸人形は、早稲田大学教授河村繁俊博士によると宝暦時代(1854~1764)を起源とする文楽形態いの江戸豆人形とする鑑定があります。
・人形細工師による修復復元
明治期の購入時の作者不明の人形に、手作りの衣装をつけて使用していた人形も、昭和57年~58年人形細工師の手により見事に修復され、現在に至っています。

5.説教節で喜怒哀楽を表現
安政(1854~1859)の頃、三峰神社参詣のため秩父を訪れた説教節家元三世薩摩若太夫が、その帰路柴原鉱泉に滞在して地域の若者に説教節を手ほどきをしました。その中で坂本藤吉は太夫に従い江戸に上京し、修業の後太夫若登りとして帰郷し、弟子を集めて柴原で説教語りの手ほどきをしました。これが秩父地方の説教語りの始まりであるといわれています。
説教節の語りの様式は、新時代の花形として、おそらく今の流行歌のように猛烈な勢いで村から村へ、青年たちを通じて広がっていったと思われます。そしていち早く人形芝居の語りとして取り入れられていきました。
明治になって語り手が不足するようになると、新井宇市は義太夫を覚えて説教節と併用するようになりました。

6.上演場所
神明社や農家の広間などで村の娯楽に供したりしました。頼まれればどこでも公演しました。三峰神社にもしばしば奉納、浦山村(現秩父市浦山)大日堂の縁日に昌安寺で興行もいたしました。

7.最盛期
明治20年前後、新井孫市、新井為吉、新井六蔵、横田文作等の青年等により、「朝顔日記」「三代記」「弁慶上使の段」がよく上演されました。

8.衰退
大正初年以降、時代の変遷に抗しがたく、若い者から次第に敬遠されるようになりました。昭和7年神明社で1回、昭和10年若御子神社で興行、昭和13年札所30番の縁日に上演するのを最後に道具一切を神明社に奉納し串人形の活動を休止することになりました。

9.再興
昭和24年(1949)ロンドン大学東洋学部長チャールズ・ダン教授が秩父市・荒川村白久を訪問(同行秩父市写真家清水武甲氏。)戦後の混乱期の中で消滅しそうな運命にあった串人形に光を当て再び世に登場させるために尽力していただきました。
昭和27年(1952)地元の江田直蔵氏ら有志が文化遺産をよみがえらせようと白久串人形保存会を結成し串人形を復活させました。

10.文化財指定など
昭和28年3月26日 埼玉県指定無形民俗文化財
昭和48年11月5日 文化庁選択無形民俗文化財
昭和52年3月29日 埼玉県指定無形民俗文化財(指定替)

11.出し物
「傾城阿波鳴門巡礼歌之段」  「絵本太閤記十段目尼崎閑居之場」  「御所桜堀川夜討弁慶上使之段」  「浪曲入り赤城の子守唄」  「朝顔日記」  「壺坂観音霊験記」など

以上、秩父市立荒川歴史民俗資料館(パンフレット解説より)

主な出演記録(別パンフレットから抜粋)
国際民俗芸能大会(平成9年長野県)  国民文化祭文楽大会(平成11年岐阜県)  国民文化祭民俗芸能大会(平成16年福岡県)』

これに関して”わざをき通信”という興味深いサイトがありましたので引用させていただきます。

『埼玉県秩父郡荒川村の白久地区に伝承される串人形は二人遣いの人形である。秩父地方には3種類の人形芝居が伝承されており他に文楽式の3人使いの「出牛人形」一人遣いの「横瀬ふくさ人形」がある。』

確かに埼玉県は人形芝居としては結構重要なスタンスらしいです。資料館にあった資料です。

『埼玉の人形芝居の位置
埼玉は人形芝居の宝庫である。日本は人形芝居の盛んな国柄で、文楽のように世界に誇り得る芸術性の高い人形芝居を生み出したが、人形芝居の底辺を洗うと、人形芝居の無い県をさがし得ないほどである。しかし、数と種類の点から見ておのずと差はあり、徳島・長野・神奈川・東京・埼玉・群馬の都県は抜き出ている。
徳島・長野は三人遣いと呼ばれる人形芝居ばかりで、質は高いが種類の点からいうと単色で、神奈川も同様のことがいえるが、東京・埼玉・群馬は数と種類の両面からいって出色である。埼玉と群馬を大関と横綱格に数えてよいかも知れないが、その分布の在り方は山里から山間地帯に多く、その理由は養蚕などに関係があると思われるがまだ解明されていない。
日本の人形芝居の歴史は、平城京跡から板製の操り人形の出土を見たように非常に古く、平安期には傀儡(くぐつ)の名前で親しまれ、室町時代には能も演じ、その終わりごろには神仏の功徳を語る古浄瑠璃と結んでいよいよ演劇的になり、江戸時代の中頃義太夫節と提携して、さらにそれまでの一人遣いから三人遣いに改まって高度な芝居に成長したのである。その中心は大阪や江戸であったが、江戸では江戸中期から後期にかけて衰退の道を辿って地方に流出し、いわゆる鉄砲遣いと呼ばれる江戸系人形芝居が近隣地方へ分散することになったのである。特に文化・文政・天保(1804~1843)といったころに定着したようで、早くも文化年間には関東18座と称される座の成立を見ている。
これらは三人遣いの座であったが、再び方々で一人遣いの復興、誕生を見るようになっていった。三人遣いというのは、一体の人形を3人で遣うため一座が大人数になり、舞台も大仕掛けで簡単に楽しむわけにいかなかったから、より簡便にというので再び一人遣いの人形芝居の登場をみるようになったのである。古浄瑠璃時代の一人遣いには様々な機能と操法の工夫がなされて、多くの様式の出現をみたのである。』

これは国立劇場専門員・西角井正大氏(実践女子大学教授)が、第13回民俗芸能大会で講演されたものの引用です。
こういわれると埼玉県の人形芝居を見てみたい衝動に駆られるのは私だけではないでしょうね。
同じ資料に全国の現存する人形操りの分類一覧が資料館にありましたので参考にするとわかりやすいですが、これによると最低限、串人形以外に皆野の「出牛人形」、横瀬「ふくさ人形」、そして三芳町「竹間沢車人形」は見ておくべきなのでしょうね。

そして、”わざをき通信”ではさらに1976年4月の白久の串人形公演と題して、その当時の写真が掲載されていますので、約30年以上前のことです。

『公民館が出来るまでは白久の駅そばの江田家で4月に行われていた。晴れている時は縁側に舞台を組み、雨が降ると座敷に舞台を組んで公演した。このあと黒川能に偏って撮影していたが、再び訪れたとき、人形の頭がきれいに塗り直されていた。
義太夫語りの千代さんがなくなり、浪曲のテープで国定忠治を演じていたのには最初は驚いたが、最近はなれたせいか、これもありか、と思うようになった。』

ここに出てくる江田家というのが、江田直蔵氏直接かあるいはその身内の方を言うのでしょう。
江田家がどのような家柄なのかは知りませんが、どちらかといえば財力を持ちながらボランティア精神(結構こういう言い方でくくってしまうが・・・)あふれる方なのでしょう。こういった方がいない限り伝統や歴史を積み重ねていくということは何事においても難しいことです。煩悩ばかりの私には決してできない心意気です(もっとも財力も無いですがね・・・と,イジケル)。
更に当時はライブで語っていたのですね。最もそれが当たり前の世界だったのかもしれませんから。
こうして現在まで伝承され続けているということです。

参考:【わざをき通信】白久串人形のふたむかし写真館 http://www.asahi-net.or.jp/~TQ7K-WTNB/index.html

しばらく様々なパネルや写真を眺めていました。
荒川歴史民俗資料館
中には串人形の頭(かしら)今昔という写真パネルがあり、表情豊かな人形の写真を見ることが出来ました。
そうしているうちに先ほどの係りの方がわざわざ調べていただいたのか、今日の演目が「壺坂観音霊験記」だということと、この演目が今回初めて上演されるものでと教えていただきました。
我々のためにわざわざありがたいことです。そして本邦初という演目を観られるというちょっとラッキーな気分に浸りました。

白久串人形芝居については概略理解できたので、他の展示をサラッと見て出ようと思いましたが、妙に気を引く展示がありました。
「森玄黄斎 荒川村の生んだマルチ芸術家」というコピーが、まるで”奇天烈斎”(・・・一緒にするなとのお叱りも聞こえるようですが)を思わず想像してしまいます。
そこには続けて以下の通り書かれています。
荒川歴史民俗資料館 【森玄黄斎展示コーナー】


森玄黄斎 荒川村の生んだマルチ芸術家
荒川村白久山中家に誕生(文化4年1807)、幼名:山中庄吉、名:権左右衛門、雅名:竹貫(たけつら)、号:玄黄斎、舎号:清浄軒

玄黄斎の書画と将棋の駒(村指定有形文化財)
展示作品は玄黄斎生家山中正章氏所蔵の一部を写真展示しました。
玄黄斎の作品

1.彫刻(現在・確認されているもの)
・将棋の駒
・孔子とその弟子三千人(将軍家が英国王室に献上、大英博物館に展示されているという)ビワの種子に孔子とその弟子三千人を彫刻したもの。
・恵比寿大黒像・七福神像・木彫り山神像・獅子親子像・鐘馗像
・親子亀・布袋様・小木刀など
2.根付け
・布袋様、親子亀など
3.版画
・印籠譜(乾の巻、沖坤の巻の2冊)
玄黄斎が最も得意とする印籠に刻む図柄を、自ら版刻して木版
山水・人物・鳥獣・先人の名画の模写・三峰山・伊勢山・武甲山など
玄黄斎自画像など
4.絵画
・肖像画・鐘馗像・虎の絵・龍の絵・恵比寿大黒・七福神など
5.書文
・六枚大屏風「蘭亭序」書聖王義之の作品模写・神歌千八百余首
・神歌千首など
6.東洋の玄黄斎 印籠付根の写真展示
象牙(ゾウゲ)の彫刻 親子虎の図・虎の図
7.玄黄斎の作品の所在
荒川村、小鹿野町、両神村、その他国内外』

確かにマルチアーティストですね。横にプロフィールが書かれています。

秩父の彫刻家   森玄黄斎
森玄黄斎は、幼少より書画。彫刻に優れた才能を表しました。特に細密な彫刻を多く残したことで知られており、わずか1寸5分(4.5㎝)の印材に孔子の弟子三千余人を細刻して将軍家に献上したという話や昼間でも星を見ることができたという話が伝えられています。
■玄黄斎の生い立ち
玄黄斎は、文化4年(1807)白久村(荒川村)の旧家山中家に生まれ幼名を庄吉といい幼い時から利発であったといいます。4歳の時、母親が夕食の支度に稗の粉をこねていると、庄吉がむずかってしきりに泣くので、なだめるためこねた粉を持たせました。炊事を終えた母親がふと見ると庄吉はすでに泣き止み、稗の粉で小さな犬を作って遊んでいました。その犬の形が実に写実的であったという伝説が残されています。
5歳の時、千嶋軸雲の私塾で読み書きを習い、次いで信州出身の絵師墨渓に画を習い芸術に深い関心を示しはじめました。山中家には10歳の時に彫った将棋の駒が残され、玄黄斎の最も古い作品として知られ荒川村指定文化財に指定されています。
■芸術家への道
成人後、庄吉は名を金道、権衛と改め、雅号を竹貫、竹雅と称して彫刻や詩文の制作に あたり、25歳の時に下小鹿野奈倉の森家に入りました。森家は秩父絹を商い、当時の領主 松平氏の御用人格となり、江戸城本丸に出入りを許されたほどの豪商でした。当主の伊左衛門は、技芸に理解があり江戸の学者とも親交のある人物でした。玄黄斎は森家に入婿して以来、宿願である彫刻の技に打ち込むことができました。天保10年(1839)に江戸で出版した『印籠譜』は玄黄斎の名を不朽のものとした大作で、30歳の時から3年がかりで印刻されたものです。その序文は儒学者の亀田綾瀬が寄せており、玄黄斎を「技に神なる者」と褒め称えています。印籠に刻む画題を2巻にまとめ、武甲山など秩父の風景、七福神、恵比寿、大黒などの縁起物、犬、龍、虎などの動物を見事な彫法で表現しています。これらの画は森家に狩野探幽作の「虎図」が保存されていることなどから、狩野派の画風に私叔したとも考えられています。
玄黄斎は、詩文にも興味を持っていました。「世の中の人をよしのの花と見ば、色にも香にも隈なかるへし 高松左衛門 清浄園竹貫 号玄黄斎」や「秋の夜のあはれもあれど神奈月 もみぢちる夜ぞかなしき 秩父小鹿野村 伊勢山」などが知られています。玄黄斎の詩作については兄山中右膳の影響があったといわれます。右膳は大宮郷の代官所から百姓組頭格の役を与えられる程の人物で、和算・俳諧にもたけ、『算法諸学抄』『算法口伝抄』などの書物も著しています。右膳は農耕のかたわら、絹の仲買を営み、玄黄斎の技芸への良き理解者であるとともに資金面でも良き援助者でした。
■信抑への道
玄黄斎は、嘉永元年(1848)に妙見社薗田筑前に伴われ伊勢神宮に参拝しました。そのまま伊勢に留まり、神道を学んでいます。また、京に上り前宰相高松公祐の許に入門し和歌を学びました。
帰郷後は故郷の白久に伊勢神宮を勧請して自ら神職となり、神徳の宣伝に尽力しながら彫刻・絵画の制作を続けました。
晩年になってからは、白衣に白袴の姿で秩父郡中をはじめ東北地方などをめぐり歩くなど、風狂人としての振る舞いが多くなったといいます。明治17年(1884)の秩父事件の際には竹刀を腰にさした異装をとがめられ、誤って憲兵に捕らわれるという事件が起こりました。これがきっかけとなったのか健康を害し、明治19年(1886)1月4日に80歳で世を去りました。
(以下、参考文献などは省略)』

まあ、こういっては何ですが、「天才と・・・は紙一重」そのままかもしれません。勿論それによって人間的な評価が下がるわけでもなく、ましてや作品やその思考を疑問視することなどありえる話ではありません。
これ等のものが現在どのように評価されているかを調べてみました。当然これが全てではないですが、文化財指定を一つの評価バロメーターとすればその評価は以下の通りです。

1..森玄黄斎の遺作品 10点 町指定有形文化財(絵画・彫刻)  昭和37年9月20日指定
「印籠譜」2冊、「恵比寿・大黒の木彫像」2点、「竹刀」1本、版木「三峰山」「八幡太神」、絵画「猛虎之図」「山水之図」「自画像」の10点。
2.森伊兵衛夫妻の像 2躯  町指定有形文化財(彫刻)  昭和51年9月24日指定
3.庚申塔  1基  町指定有形文化財(彫刻)  昭和51年9月24日指定
4.森玄黄斎の墓 1基   県指定旧跡  昭和36年9月1日指定
最後の1基はご愛嬌ですが、これだけのものが町指定になっているので、さしずめ「地元のスーパースター」って言うところでしょうかね。荒川村の偉人として考えても差し支えないくらいでしょう。今回は、こういった偉人を知ることだけでも、中々貴重な経験でした。

森玄黄斎のコーナーを終えて、ちょうど笠鉾の吹き抜けを一周する感じの展示ですので、最後のコーナーを廻って帰ろうとしたところ、最後の最後にも興味を引く展示がありました。
「算額」といわれるものです。解説を引用します。

『船川区寄託資料  千手観音奉納「算額」 資料未解読
江戸時代天保の頃、千手観音を信仰する和算家(数学者)笠原某氏が信願かない、お礼と実績をしたため絵馬にして奉納したものです。このような算額は貴重なものであり、このたび船川区のご好意により資料館で広く市民の皆様に、ご覧いただけることになりました。
この算額の文字は摩耗しており、全容を読み取ることは困難です。額の表面を処理しています。黄色の光を当てると浮かび上がって見える文字もあります。
古来千手観音に信願をかけ自己の精進に励む人々は多く、信願相撲の創始者として語り継がれる文政年間(1818)事上区出身の隅の江津雲という力士は信願がかない、出世力士になり千手観音の恩に報いるため、時の花籠親方より相撲の免許を受け、この地に関東三辻の一つとして土俵を設け、相撲道発展に尽くしました。これが現在も継承されている千手観音信願相撲です。その他、病気平癒、無病息災、家内安全、諸厄消徐、学業成就などお祈りしています。
算額の裏面に「為信願成就也」と墨書されています。算額奉納者の笠原某も千手観音に願をかけ、一心不乱に数学の研究に打ち込み、すばらしい発見ができたのだと思われます。
このような額 奉納の習わしは多彩で、武術家、芸術家などが神社、仏閣に奉納した額なども見られます。学力成就、入学試験合格など絵馬に願い事を書いて掲額する習わしも一般化しています。』

「算額」については偶然今読んでいる宮部みゆきの著書「霊験お初捕物控」で、いわゆる探偵役である”吉沢右京之介”が数学者を目指していて道行く社寺を巡り「算額」をながめているという件があって興味あるところでした。
この「算額」には右上隅に”奉納”、その左側に”絵馬”、更に”文章”、そして最後に”願主”と記載されているそうですが、確かにほとんど見えません。
手前にある矢印の方向から見るとかろうじて文字らしきものが見える程度ですが、逆にこういったものなので貴重なのかもしれません。
荒川歴史民俗資料館 荒川歴史民俗資料館 【千手観音「算額」、どちらにしても写真では文字は見えませんね】


「例題で知る日本の数学と算額」という書籍の付録資料に”現存および復元の算額一覧”というデータがあります。
それによると埼玉県の現存および復元の算額数は93面あるようです。その中で一番古いものは本庄市の正観寺にある算額で、享保11年(1726)のものです。このデータの中で千手観音の算額は12番目に古く天保5年(1834)と記載されており、そして出題者の笠原某氏は”笠原正二”氏となっています。
偶然とはいへ非常に興味深い展示にめぐり合って実にラッキーな気持ちでした。

参考:【森北出版㈱:例題で知る日本の数学と算額-付録-】 http://www.morikita.co.jp/soft/0164/

実に満腹感一杯の資料館でした。
2人だけのために長々と館を開けていてくださった係りの方に御礼を言い資料館を後にしました。
いよいよ白久の串人形芝居に向かいます。

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks


    上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。