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白久の串人形芝居

140号線沿いの小野原稲荷神社はちょうど秩父鉄道の武州日野駅と白久駅の中間あたりです。とはいっても140号線を更に西に向かってホンの5.6分です。140号線を左折して白久駅方面に向かうと、お囃子の音が聞こえます。線路沿いに出ると大きな幟が立っていて、その前の道路には結構路上駐車されていたあたりに車を停め、会場である豆早原区(ずさばらく)公会堂へ向かいます。
確かに資料館の係りの方が言ってたように、豆早原区公会堂には駐車場はありませんが、「殆ど路上駐車できるから大丈夫です」と言われた通りでした。(これ言っちゃまずかったですかね)

線路沿いの道に大きな幟が建っていて、その横には”県指定文化財白久の串人形芝居発祥の地”碑と串人形芝居の説明板がありますが、歴史館の説明とほぼ一緒ですので資料に載っていなかった事柄だけ引用します。
白久の串人形芝居 白久の串人形芝居 白久の串人形芝居 【左:入り口の幟 中:”串人形芝居発祥の地”碑 右:人形の組み立てと操法図】


人形の組み立てと操法
●主使いは低い姿勢で右手で篠竹の下部を持ち、指を引き栓にかけて首、目、眉を動かす。
●手使いは主使いの後で重なり合うようにして、主使いの振りに合わせて、人形の手さばきをつける。』

と説明があり、横に串人形の絵が書かれていました。これを見ると手と胴についた竹串を操ることから串人形といわれた由来が理解できますね。

白久の串人形芝居 路地をまっすぐ進むと豆早原区公会堂です。はっきり言うと”公会堂”というよりは”公民館”といった方が理解しやすいかもしれません。それ程大きな会場ではありません。


当然ながら会場の準備はできているようで、テント張りの中に受付があります。
白久の串人形芝居 【会場の豆早原区公会堂】


特に入場料はない様ですが、寄付ということで募金箱に気持ち程度入れさせていただきました。その際、白久串人形のペナントとハンカチでしょうか頂きました。 かえって恐縮してしまいそうな気持ちです。ありがたく頂戴しました。
地元の方は皆さん募金ではなくお祝いとして包んでいらっしゃいましたね。2千円とか5千円とか・・・大きい金額はよく社寺であるような半紙に金額と名前書かれて張り出されていました。まあ、これも寄付扱いでしょうね。
白久の串人形芝居 【いただいたペナントとハンカチ】


すぐ左手に舞台裏が見えます。奥行を持たせて遠近感で芝居を見せるのでしょう。
白久の串人形芝居 【舞台裏です】


その舞台に向かって座布団が敷かれて居るところが観客席です。まだ開演まで若干時間がありますので、3割程度の入りでしょうか。それに比べるとカメラマンの多いこと。プロもアマチュアも居るのでしょうが、恰好の被写体なのかもしれませんね、文化財でもあるし。
白久の串人形芝居 【まだ人の少ない客席】
観客はあまり増えないのでこちらが心配するほどでしたが、開演20分くらい前には例のハイキング関連の方でしょうか、ドドドッと4.50人の方がやっていらして、一気に立ち見まで出るような有様でした。
こうして会場は賑わって居るのは結構なのですが、人の多さと直射日光と風が無い為かかなり暑くなっています。

そんな中でいよいよ開演です。まずはMC・・・この場合は進行役といったほうが似つかわしいかも・・・からこの白久串人形芝居に長年貢献された荒川歴史民俗資料館の山田館長(確か・・・お名前間違っていたらごめんなさい)が退任されるということで労をねぎらい花束の贈呈、そして新館長のご紹介がありました。それで資料館にはどなたも居られなかったのですね。
白久の串人形芝居 【花束の贈呈式】


そんなセレモニーの途中にSLの汽笛と走る音が聞こえてきました。これが秩父鉄道のSLバイオエクスプレス号ですね。残念ながら撮影はできませんでしたが、音と煙でほんの少しのSL旅情に触れました。
セレモニーが終わり、今回の公演では本邦初公開の演目である「壺坂観音霊験記」のあらましが披露されました。
最近は実に物忘れがひどいため、ここで聞いたあらましをあまり憶えていないので、あえてストーリーなどを調べてみました。
白久の串人形芝居 【ストーリーの説明】


この芝居のテーマは単純明快、ずばり”夫婦愛”。
白久の串人形芝居 【今回の芝居の台本】


江戸時代、大和の国に目の不自由な”沢市”と彼を献身的に支える女房”お里”という夫婦がおり、女房の”お里”は夫の目を治したい一心で壺坂寺の観音様に願を掛け、その信心によって”沢市”の目が見えるようになったという、あらまし。
単純で愛にあふれたハッピーエンドな芝居だからこそ、多くの人から人気を博したようです。穿った見方をすれば「霊験新たかな壺坂寺へ皆さんでお参りに来てください」的なPRとも言えないこともないのですが、PRやアドバタイジングは社寺といえども今や集客には当然のように活用されていますので、メディアのない時代に芝居をPR化したところで別段悪いことではないでしょうね。
そもそもこれは壺坂寺(真言宗壺坂山南法華寺)の本尊(十一面観音)の霊験を記した「壺坂寺由来記」を基にした「観音霊場記」という作者不詳の浄瑠璃があり、これに増補・脚色したのが『壺坂霊験記』だそうです。そしてそれに曲をつけて歌舞伎として上演されたのが明治21年といわれています。

ストーリーは、美人でその上、夫思いの妻の鏡のように評判の”お里”が結婚してから3年間、どうも夜明け前に家を抜け出して男と会っているらしいとの噂を夫の”沢市"が聞きつける。
"沢市"は盲目の上に子供の頃の疱瘡による病気わずらいで、どちらかといえばブッサイクで120%イケメンではない。こんな自分だから仕方ないと思いつつも、やはり悔しさはあふれある日”お里”に問いただす。
そこで”お里”は「バカいってんじゃないよ・・・♪」などと逆三年目の浮気ではないけれども、「ああ無情」とばかりに語りだします。この辺が芝居では一番の見せ所だそうです。
夫婦となればたとえ火の中、水の中。「どこまでもついていきまっせ」とばかり結婚してからずっと毎日”沢市”の目が治るようにと午前四時に起き出して壺坂の観音様に願をかけに行っていたと説明します。そして”お里”は一緒に壺坂に行こうと誘い二人して壺坂の観音参りに向かうのです。
壺坂に着くと”沢市”は3日間の断食を理由に”お里”を帰します。
”お里”を疑った自分を恥じながら、”沢市”は自分の目はもう治る見込みもなく、これ以上”お里”に面倒を掛けたくない。”お里”の幸せのためにと”沢市”は断崖から投身自殺をするのでした。
「胸騒ぎの腰付き・・・♪」の”お里”は引き返し、”沢市”の姿を見て自分も後追い自殺を図るのでした。そして辛い現世を抜け出してあの世で仲良く暮らしましたとさ、めでたしめでたし・・・って訳ないでしょ。これじゃPRにならない。
そこで現れるのが観音様。観音様のご利益で「あっと驚く為・・・・」(死語!)、二人は生き返り、しかも”沢市”の目が治っている。
二人は初対面の挨拶を交わすというベタな演出で笑いを誘って、歓喜の舞でハッピーエンドとアウトラインはこんなところです。

現在、歌舞伎ではこのストーリーの馬鹿馬鹿しさと出演者が少なく地味だということで、大劇場での公演機会が少ないそうです。
それでもかなり前の話ですが、平成3年7月には大阪中座の花形歌舞伎公演で十八代目・中村勘三郎(当時、五代目・中村勘九郎)の沢市、九代目中村福助(当時、五代目・中村児太郎)のお里という配役により”沢市開眼三三0年記念”と銘打って「壷坂霊験記」が上演されました。因みに現在の六代目・中村児太郎の初お目見得は1999年歌舞伎座での「壷坂霊験記」だったそうです。
歌舞伎界では大芝居ではないけれども、地道な人気があるのでしょうね。

このようなストーリーでいよいよ開演です・・・って、始まらない。
ということで進行役再び登場して一言。「機材の調子が悪くて音が出ません。しばらくお待ち下さい」と。その間にスタッフーーーが木の上にあるスピーカーを点検。スピーカーに以上は内容で・・・異常は無い様で、ソースの問題かな?
白久の串人形芝居 【以上は内容なスピーカー】


進行役再び、「テープを巻き戻していなかったようで。まあ、語りや音楽は生で行いたいが、東京からスタッフーーーを連れてくると30万掛かるんです」と。とてもそんな予算はないので仕方なくテープでやっているそうです。
「まあ、これも手づくりの芝居だからこそ有る故障ですので、これも一興と楽しんでください」とナイスフォローで笑いを誘っています。
そして「機械は故障しましたが、芝居は絶対に良いものをお見せしますから」と拍手モンの司会進行振りでした。流石に年の功だけありますね。

こうして10分押しで緞帳が引かれました。
白久の串人形芝居 【緞帳も人形が引きます】


始めは”沢市”と”お里”の語りの一幕でしょうね。と言いつつ浄瑠璃だか歌舞伎調だかの語り方はかなり意味がわかりません。ここは仕方なく雰囲気で理解しなければならないでしょうね。
その後、”沢市”が”お里”に引かれて歩いているには、おそらく壺坂寺に向かっているのでしょう。途中”沢市”の上半身の着物を脱ぎ赤い着物に変化していますが、何か意味があるのかないのか、ここは検討がつきません。
白久の串人形芝居 【お里に導かれる沢市】


と言っていると坂道を登っていく”沢市”が崖から飛び降りました。これ投身自殺ですね。ライブではてっきり落ちたのかと思いましたが。
白久の串人形芝居 【前半のヤマ場、沢市、投身自殺を図る】


そして半狂乱のように叫び沢市を探す”お里”
ちょうどその場面を裏手から撮影しました。2人ずつが一体を操作しています。決して狭くはない舞台裏ですが、流石に大変そうですね。
白久の串人形芝居 白久の串人形芝居 【沢市を探すお里とそれを操る舞台裏】


反対側へ行くとここはPA席になっています。奥がPAスタッフーーーで手前が・・・音響さん!?
いわゆる拍子木を打っています。語りなどは人形が合わせるのでしょうが、拍子はさすがに人形に合わせるのでしょうから、どうしてもライブで必要なのでしょうね。
白久の串人形芝居 【音響スタッフーーー】


ただ、あとで調べたら歌舞伎などの演劇の場合などは拍子木の2本を合わせて打つのではなく、床に置いた板に打付けて使用することが多いそうで、これは「ツケ」と呼ばれるそうです。確かにここでもテーブルの上においた板の上を叩いていましたね。

観衆はカメラマン含めて会場一杯です。
白久の串人形芝居 【会場一杯の観客とカメラマン】


あちこち撮影している間に芝居はクライマックスを迎えそうです。舞台ではジュディ・オング(古い古いエーゲ海の物語かと)が・・・ではなくて観音様が現れました。
白久の串人形芝居 【後半のクライマックス、観音様登場】


霊験あらたかな観音様が現れ、あら不思議とばかりに”沢市”と”お里”が生き返ります。生きかえったばかりか目まで見えるようになって「お前は誰だい?」と・・・
「あたしですよお前さん」と言ったかどうかよく判りませんが、そんな会話があって会場の観客がドドどーーっとまではいかなくても「クスッ」とくらいの笑いが起こって・・・
そして最後にハッピーエンドの踊りで無事終了と相成りました。大きな拍手とともに第一の演目の終了です。
白久の串人形芝居 【音響スッタフーーーも立ち上がったエンディング】


ちょうど隣に一座の方がおられたので記念に台本を撮らせていただきました。本邦初公開とあって緊張されていたのでしょうか、何処となくほっとしたような感じを受けました。
舞台の袖では終わられた一座の方が人形の撮影を受けられていたので、こちらも撮らせていただきました。
主役の”沢市”と”お里”です。残念ながら観音様は我々下々のものにはそう簡単に姿を見せることはできないので、撮影はできませんでした。
白久の串人形芝居 白久の串人形芝居 白久の串人形芝居 【疱瘡の痕もある沢市とお里人形】


そして公会堂の方からは次の演目の主役でしょうか人形が登場してきました。おそらく国定忠治のようですので、次は「赤城の子守唄」でしょうかね。
白久の串人形芝居 【国定忠治人形】


舞台裏でも次の演目の準備がされています。今日は3:00くらいまでだそうなので、あと1.2演目上演されるのでしょう。
白久の串人形芝居 【次の演目のセッティングに追われています】


そのまま以降の演目を見ようと思いましたが、かなりの暑さで家内の体調がよく無さそうなので、今日はこれで引き上げることしました。
1演目だけでしたが、結構堪能しました。

現在、様々な意味でエンターテイメントには事欠かない時代です。そしてそれを伝えるメディアも沢山あります。
その中でこのような芝居が存続していくと言うのは、ひとえに文化財であると言うことは大きな理由の一つでしょう。ですがそれだけでは片付かない何か心意気のようなものを感じます。
それは偏に村の伝統と言うより文化だからではないでしょうか。文化=生きざま、つまり串人形は白久の生きざまそのものなのです。ですからきっと幾度かの危機にもそれを乗り越えるパワーが生まれてきたのではないでしょうか。
そういった意味では、現代のエンターテイメントとしては見過ごされがちなものです。しかし江戸時代~明治・大正期においてはこの串人形芝居は一大エンターテイメントだったはずです。
そのような目で見ると、この白久の串人形芝居は村人達の生きざまを見る機会であるような気がします。
これからも白久の生きざま・・・文化を守られていくのでしょう。実にさいたまの自慢の一つとして見直されるべきモノかもしれませんね。

若干の”後ろ髪引かれ隊”ではありますが帰路に着きました。
炎天下で水分補強をしていないので、一旦「道の駅」へ戻り休憩を取ってから帰宅することにしました。秩父鉄道沿いの裏道を東に進みます。

白久の串人形芝居 道の途中に道標があります。
「歴史の道・秩父甲州往還道」 -日野を経て白久に至る- と書かれています。

秩父甲州往還道とは現在の国道140号線に沿った古街道です。現在の国道140号線は埼玉県熊谷市から秩父市、雁坂トンネルを経由して山梨県南巨摩郡増穂町に至る一般国道ですが、秩父甲州往還道は厳密の言うと秩父大宮(秩父市)から荒川渓谷沿いに秩父盆地を横断し、雁坂峠を越えて甲州に入り甲府に至る街道を言うそうです。

『古くから甲斐国、武蔵国両国間の往来に利用され、秩父巡礼や富士登山、身延参詣など信仰の道として利用され、戦国時代には甲斐国守護武田氏の行った金山経営も秩父方面に及んだため往来に利用され、武田氏の北武蔵侵攻路の一つにもなった。近世には埼玉県側の秩父市(旧大滝村)の栃本と山梨県側の甲州市(旧塩山市)にそれぞれ口留番所が設置され、牛馬による米穀や繭の輸送に利用された。明治初期には山梨県の主用産業となった生糸の輸出路として着目され、山梨県令藤村紫朗の主導した道路改修がなされるが、雁坂峠は1998年に雁坂トンネルが完成するまで長く未整備のままであった。』

この解説の中の”口留番所”とはいわゆる関所のことで、現在このあたりの埼玉県秩父市(旧大滝村)栃本の0.7kmが日本の道100選に選定されています。
現在、埼玉県側の別名は”彩甲斐街道”と命名されていますが、かつては秩父地方が絹織物(秩父銘仙)の産地だったことから”絹の道”・・・ってシルクロード!? ・・・と呼ばれていたこともあったそうです。
そのような古の道から歴史の道として顕彰されたのでしょう。

この道標から間もなく再び「道の駅あらかわ」を訪れました。
この「道の駅あらかわ」は埼玉県では第1号の道の駅として1993(平成5)年4月22日に道の駅に登録されました。愛称は”農園村役場”と呼ばれているそうです。以前は「道の駅荒川村」だったのですが、荒川村が秩父市に編入したことから現在の名称になったそうです。
白久の串人形芝居 【道の駅あらかわ】


まずは水分補給と言いながらちゃっかりソフトクリームを食しました。
家内はストロベリー、私はブルーベリーですが本物の果物が載っているソフトクリームです。久々に食べましたが、サッパリとした甘味で結構美味しかったです。休息と水分を取ってこれにて帰宅します。
白久の串人形芝居 【ソフトクリームといっても侮ってはいけない】


今回の散歩は随分と私的に偶然が重なり合っていました。
歴史館の「算額」でも記したように現在読んでいる「霊験お初捕物控」は、逆の意味で観音様がキーワードになるストーリー。もののけが観音様に化けるという設定です。奇妙な偶然もあるものです。
また、2年前に角膜移植、1年前に白内障の2度の手術を受けた私は、ほぼ直ったとは言え若干の後遺症に今だクリニック通いが続いています。
そんなところに目の病に良いと言う壺坂寺-真言宗壺坂山南法華寺の話ですから、一度参拝に行こうかしらと思うほどでした。
有る意味私は白久に呼ばれたのかもしれませんね(なあ事は無いわね)。
色々あった秩父荒川は実に印象深く私の記憶に残る処となったようです。また、蕎麦の季節に間違いなく訪れます。

2009.04.25記

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