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川越まつり会館

いよいよ「川越まつり」の開催です。
蔵造り資料館をでると、所謂、厳かに神幸祭、御神幸の行列が通ります。雅楽奏者、神馬、白馬に乗った宮司、御輿、古式装束の神職や巫女の行列、そして最後に山車が連なっています。

神幸祭01 神幸祭02 神幸祭03

厳かにそして華やかに始まった神幸祭行列-1


神幸祭04 神幸祭05 神幸祭06

神幸祭行列-2


「川越まつり」言われると迫力ある山車が街を練り歩く様子や曳っかわせ、にぎやかなお囃子などを思い浮かべるのが一般的でしょうが、もともとは川越総鎮守である氷川神社の祭礼行事として始まったものだそうです。
その起源は慶安年間の初頭、当時の川越城主、松平信綱が、川越氷川神社の例大祭(神威を仰ぐ祭)を祝い神輿(みこし)、獅子頭、太鼓といった祭礼道具を神社に寄進、祭礼を奨励したことが始まりと伝えられています。
以来、行われてきた「神幸祭(じんこうさい)」は、神輿行列が氏子の町内を巡り、川越城城主の上覧を受けてきました。やがて、氏子である10カ町の山車、踊り屋台、お囃子などが随行するようになり、華麗な行列に発展を遂げてきたということで、これが現在に続く山車行事の起源となり、もともと山車行事主体であった江戸天下祭の様式を色濃く残しているそうです。
それ故、「川越まつり」の正式名称が「川越氷川祭の山車行事」なのだそうです。
残念ながら、今回は行列しか見ることが出来ませんでしたが、一度は神幸祭をじっくり見たいものだと思わされました。ある意味、神幸祭と山車やお囃子などを両方見ることに寄って、川越まつりの更なる魅力が発見できるのかもしれません。

参考:【川越氷川神社】 http://www.hikawa.or.jp/jinja/index.html

まつり会館 まつり会館チケット

まつり会館外観とチケット

御神幸の行列を見送ってから「川越まつり会館」へ向かい、チケットを購入して入館します。

路地 唐桟

中々良い雰囲気の路地のイメージと唐桟

最初に”まつりに向かう路地”をイメージした通路を通ります。これは蔵作りが立ち並ぶ川越をイメージしているそうですが、それを川越唐桟(とうざん)という布にイラストで紹介しています。

「唐桟」とは、江戸時代、東南アジアからもたらされた縞木綿のことで、エキゾチックな縦縞の「唐桟」は、粋で、人気を博したそうです。しかし、それは大変に値段が高かったそうです。当時、国内では紡げなかった極めて細い木綿糸が、産業革命以来の欧米諸国から安価に輸入できるようになると、当時、絹織物の産地として栄えていた川越の機屋に「唐桟」を織らせました。これが川越唐桟のはじまりです。それは、良質で安価だったため、爆発的に売れ、「唐桟」といえば「川越」と言われ、川越唐桟には「川唐」(かわとう)の愛称まで生まれたそうです。

このような粋なコンセプトと凝った造りで、仕事柄このアプローチ展示は、かなり高いクオリティの展示ではないかなと感じました。

再現された会所

再現された会所

この路地を通り抜けると会所の再現とまつりでの人々の様子を表したコーナーに着きます。ここに前述の会所の設営の説明が張られていました。

次に市内にある29台の山車写真と山車の構造・曳行編成図などを紹介しています。
山車の構造はいわゆる二層の鉾と人形からなる江戸型です。四ツ車あるいは三ツ車といわれる車輪を持った台座(せいご台)の上に二重のあんどん(鉾)を組み、上層に出る部分と人形はそれぞれ小田巻による迫り上げ式エレベーター構造で、祭りの状況、山車のいる位置などに応じて、上げ下げを行います。もともとは城の門をくぐるために伸び縮み出来るようにした仕掛けだそうです。
鉾の前に唐破風か欄間を乗せた舞台(囃子台)があり、ここで踊りと囃子が披露されます。多くの山車はせいご台の上で前後左右に360度の水平回転する周り舞台になっています。
この仕組みは、明治後期に川越で改良され、各町内の会所へのあいさつ、他町の山車と出会った時などに、すぐに山車の正面を向けられるようにと、工夫されたのだといわれています。
昔からの山車は、黒や赤の漆で塗ってあり、金箔も使われています。勾蘭や腰周りの彫刻はけやき材ではめ込み式です。精巧な仕上がりは見事の一言でしょう。さらに上、下の鉾には金銀の彩りもあざやかな刺繍仕上げの幕を張ります。これらの幕類も彫刻と同じように、山車の主題である人形にちなんだデザイン仕上げとなっているものが多いそうです。
同じように見える山車でも、良く見ると微妙な違いがあり職人の精巧な技の数々が盛り込まれています。
これが豪華絢爛と形容される江戸系川越型山車の特徴です。今回は全山車29台中15台が参加するそうです。

やがてメインホールの展示ホールにたどり着きます。
写真などでおなじみの山車(実車)の展示が行われているところで、ここでは川越まつりの歴史や山車、囃子などの全般について案内をしていただけます。
建造中の山車もありました。

建造中の山車 ・・・川越市所有

建造中の山車

恐らくここでしか見られない建造中の展示山車

川越市が平成14年に市内今福の宇津木百氏から寄付を受けた建造中の山車。
亡夫で元川越市囃子連合会会長の清蔵氏が川越まつりの発展に寄与しようと手掛けたもので、構造や彫刻など現存する山車と遜色ないものとなっている

彫刻や回り舞台の構造も理解でき面白い演出でした。因みにこの山車は当然30基目で、この骨組みまで仕上げるのに約5000万円以上掛かっているそうです。さらに、これから幕やコーディングなど完成までに約2億円掛かるそうです。まあ、それを寄付でまかなうというのも豪勢な話ですが。それだけ川越市民のこの祭にかける情熱の強さの現れなんでしょうね。
また、ホールの上にはまつりを山車の目線で見られる映像もあり、これもまた一興でした。

絵巻複写

展示コーナーの説明と氷川祭礼絵巻複写

展示ホールを抜けると資料展示があります。「川越まつり」の歴史をまとめて知ることができます。
そもそも川越のまつりは、1648(慶安元)年から神輿が巡行するようになり、1652年に松平伊豆守から祭を仰付けられたといわれたところを起源としています。
その後、1698(元禄11)年に初めて踊り屋台が出て、これから年々数寄を好み風流の踊りを催したそうです。やがて上五ヵ町、下五ヵ町と列を定めて花山車、万度、練子、踊り屋台、山屋台、だんじり、唐人揃、竜人揃、造り物を出すようになって行ったのだそうです。

江野梅雪の描いた1826(文政9)年の氷川祭礼絵巻によると、
●上五ヵ町
  南町(現在は幸町雪塚会)、喜多町、高沢町(元町二丁目)、江戸町(大手町)、本町(元町一丁目)
●下五ヵ町
  鍛冶町(幸町金山会)、志多町、志義町(仲町)、多賀町、上松江町(松江町二丁目)
のように出番を定めて巡行しています。
この頃の山車は舁き山、一本柱の笠鉾、勾欄(二つ車、四つ車)、屋台と形式が一定していなかったことがわかるのですが、各町とも山車のほかにいわゆる附け祭のやり方には明らかに江戸の天下祭の影響があらわれているといわれています。
この江戸の天下祭とは、日枝神社の山王祭、神田神社(神田明神)の神田祭を指し、この天下祭は、江戸幕府の援助と規制を受け、江戸城内に祭り行列が参入し、将軍の上覧に供したことから上覧祭、御用祭とも呼ばれます。つまり、両祭の山車が江戸城に入って将軍に拝謁する事が許されていたということです。

天保年間末期の江戸では、山車のせり出し構造が考えられ、二重の鉾台を持つ出しが誕生しました。
川越でも1862(文久2)年にはじめて鴫町(志義町・現仲町)が二重鉾・四ッ車の羅陵王の山車に変更し、江戸、川越ともに祭りの主役は、二重の鉾台を備える山車が担っていくことになったのです。
このように華麗な装飾を競う山車を連ねての順行は、素晴らしい光景であったと伝えられていますが、黒船来航、開国、倒幕運動と続いた動乱の幕末、徐々に天下祭は衰えをみせ、1862(文久2)年(1862)の山王祭を最後に江戸城内への祭り行列の参入はなくなり、江戸幕府の影響下で行われる天下祭は終焉の時を迎えました。

明治時代には、氏子達の努力により祭りが復活しますが、急速な都市化の一途をたどった東京では電線や高架といった道路事情に加え、莫大な曳行費用と管理費がかかるといった台所事情等で維持が難しくなり、関東大震災、第2次世界大戦を経て山車を中心とした曳きまわしがなくなり、現在見られるような神輿が中心の祭りへと姿を変えていきました。
一方、川越では明治時代ではまだ電灯線なども少なく一杯にせり出した山車が曳かれていました。
大戦後は川越市の市域も広がったことにより続々山車が新調され、その中の10台は昭和43年に江戸の天下祭の伝統をもつ山車として埼玉県文化財の指定を受けたのです。
明治時代に必要の無くなった東京の山車の多くは東京近郊の市町村に売却されたため、東京は御輿のまつり、東京近郊では山車でのまつりとなっているそうです。

資料展示の最後にお囃子の聴き比べがありました。
川越まつりでの見所、聞き所といえば山車と囃子、一対でなければならないのです。幸町会所前の案内に、お囃子には「堤崎流」「王蔵流」「芝金杉流」の三大流派があると書かれていました。
資料展示コーナーでの解説です。

川越のお囃子
川越まつりのお囃子は、江戸の葛西囃子、神田囃子が源流だといわれています。文化・文政期に江戸から伝わり、祭りの発展とともに、独自の改良が加えられてきました。
大きく王蔵流、芝金杉流、堤崎流に分かれ、それぞれの町の山車には、昔から決まった流派の囃子連が乗ることになっています。
もともとは川越の中では、囃子を演奏する習慣はなく、関係のある近郷農村の囃子連が特定の町の山車に乗っていましたが、後継者の問題等から、今では町内でも独自に結成されています。
流派によってバチの使い方などリズム、テンポ、調子が違い、聴き所も違います。曳っかわせで華麗な演奏を見せるお囃子も、各町の特徴のひとつなのです。』

お囃子の曲目と舞
曲目には屋台、鎌倉、昇天、インバ(ニンバ)、四丁目(仕手舞)などがあります。だしの曳きだし、道中、神を迎えるとき、曳っかわせ、納めのときなど、場面に応じて演奏する曲目が笛のリードによって変化していきます。
「屋台」では「天狐」や「獅子」の舞、「鎌倉」では「モドキ」や「オカメ」の舞など、曲目によって舞いも変わります。
天狐の舞は五穀豊穣を、オカメの舞は家内安全や子孫繁栄を、獅子の舞は悪魔退散を祈願する舞なのです。』

三大流派
芝金杉流
六軒町の山車には今福の芝金杉流の囃子連がのる。
明治初期に調布で囃子を教えていた福岡仙松という師匠から教わる。仙松師匠が芝の金杉橋(東京都港区)のたもとで下駄屋を営んでいたことにちなんで芝金杉流と名乗ったと言われている。
「今福の囃子は寝てきけ」といわれるように、テンポがゆっくりで、バチ数が少なく、間を大切にしている囃子である。
堤崎流
幸町の山車には堤崎流の囃子連がのる。
堤崎のお囃子は、明治初期に上尾の堤崎で江戸囃子に複雑な技法を取り込んで発生した。昭和43年から安藤儀作らにより幸町へ堤崎の囃子・神楽が伝授され、幸町囃子会が継承している。
素朴な力強さの中で二つの小太鼓が複雑に叩き合う、多彩な「カラミ」が特徴。山車が氷川神社に参拝する折には山車神楽を演ずる。
王蔵流
仲町の山車には中台の王蔵流の囃子連がのる。
里神楽をもとに文政の頃、高井戸で笛の名手「笛角」に指導を受けて囃子の骨格ができた。さらに明治に入って当時日本一の囃子と評判だった「王蔵金」を招き、改良を重ねて新囃子「王蔵流」が完成した。
早いテンポの軽妙な囃子と情感ある舞の仕草が特徴で、かつて城主上覧の栄光から「上覧囃子」と言われている。』

この場所では、三大流派を聞き比べられる機械があります。3曲ありましが、「屋台」「鎌倉」「インバ」だったような記憶ですが間違っているかもしれません。
実際に視聴すると確かに違いがありますが、具体的に文章で表現するのは難しい。比較イメージとして敢えて言うなら、書体で言うところの”楷書”・”行書”・”草書”的な違いのような感じです。敢えて音楽で言うならJAZZの”ディキシーランド”・”スィング”・”ビバップ”的な違い・・・何れにしても判りにくいと思いますので、聞くのが一番でしょう。

その後、歴代ポスター展示(これが結構迫力があって良い感じです)やフォトコンテスト入賞者の展示や様々な情報発信などがあり、かなり盛りだくさんの川越まつり会館で、十分、祭りの情報と知識を得た思いです。祭りの日でなくても十分満足出来る内容です。

5基目の山車

山車揃いに向かう川越市役所交差点での5基目の山車

「まつり会館」を出たのがかれこれ2時過ぎで、かなりお腹もすいていたのですがとりあえず札の辻まで出て市役所方面を見ると、かなりな黒山の人だかり。さらに2基ほど山車が着いており、3基目がまさに川越市役所交差点を曲がろうとしているところでした。これが所謂、「山車揃い」か。
お腹のすいたのも忘れて急いで川越市役所に向かいました。

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