川越まつり

川越市役所が近づくにつれて人は益々多くなり市役所交差点では早くも身動きが取れないほどの人だかりとなっていました。
既に4基の山車が市役所前に着いており、市役所交差点の近くに着いた時には、5基目の山車が交差点を曲がろうとしていたところでした。
何とか人を掻き分けながら、市役所前の太田道灌の銅像前に陣取った時には、四方人で溢れんばかりでした。

市役所前の太田道灌像

市役所前の太田道灌像

そして道灌銅像前からだとちょうど山車の斜め右後ろから眺めることになりますが、とき既に遅し、山車の前方に位置するなどは到底不可能な状況で山車が集まるのをじっと待つことにいたしました。まあ、道灌像の辺りはちょうど盛り上がったところなので、多少眺めるには良い場所かもしれません。

そう、そしていよいよ初日(18日)の「山車揃い」で、今日は8台揃うそうです。ですが山車が集まるまでまだ若干待たなければならないようです。
山車が集まるまでの間、太田道灌について触れなければならないようです。当然予習もしないで訪れていますので、何故道灌なのか。勿論、道灌は存じていますが、川越との関連とは。そして、何故、道灌の銅像が市役所前に・・・。

-道灌の生涯-
1432(永享4)年相模国に生まれる。室町中期の武将であり、歌人でもありす。
身は扇谷上杉定正の家臣で、家宰という、家中諸事を司る立場にありました。名は資長と言いますが、1458年には剃髪し、道灌と号しました。
築城・兵馬の法に長じ、江戸城(1457年)を始め川越・岩槻など諸城を築いたのは有名です。また、江戸城に文庫を設け、和歌を飛鳥井雅世に学び、歌集「慕景集」を残した。世に軍法師範と称される程の文武両道の英傑であったといわれていますが、その巨大な功績と才能は、主君扇谷定正に評価されることがなかったそうです。このことに関しては、「道灌状」といわれる文書が残っており、道灌の無念さを物語っています。
晩年には、扇谷・山内両上杉家の対立抗争に巻き込まれ、主君である扇谷定正に謀殺された。死ぬ間際に「当方滅亡」と言い残したという。自分が死ねば扇谷は滅びるということが道灌にはわかっていたという有名な言葉を残しています。
所謂、川越城を築城したのが太田道灌だったというわけです。
そこで市役所の銅像銘板を見てみます。

『川越は、古代から、この地方の文化の中心であった。
長禄元年(西暦1457年)に太田氏が川越城を築き、更に江戸城を築いて川越の文化を江戸に移したので、川越は江戸の母と呼ばれた。
明治以降も引き続き埼玉県第一の都府として、大正11年他に魁けて市制を施行した。
ここに市制50周年を迎えるに当たり市庁舎を新築し川越市開府の始祖とも仰ぐ太田道灌公の銅像を建て、古き歴史を偲びつつ新しき未来を開こうとするものである。昭和47年9月吉日 川越市長』

江戸の母とはさすがにビッグマウスですが、道灌を誇りに思うそれもまた結構なことで、小江戸・川越に相応しい銅像かも知れませんね。因みに、この道灌サンは、東京国際フォーラム(旧都庁より)とJR日暮里駅にもいらっしゃるようです。

市役所前の山車揃い

市役所前の山車揃い

そうこうしている内に山車も集合し「山車揃い」が始まるようです。
それでは到着順の左から(正面から見ると右から)紹介してみましょう

1.猩々の山車

猩々の山車(パンフレットより)

1.猩々の山車:川越市
平成2年に丸広百貨店が建造。同14年に川越市に寄贈。人形は能の祝福曲に取材した猩々。
山車は二重鉾の四ツ車、唐破風つきの囃子台。

2.頼光の山車

頼光の山車(パンフレットより)

2.頼光の山車:三久保町
明治30年代に石田地区で作った山車で、人形は昭和24年に源頼光となる。
山車は二重鉾の四ツ車、唐破風つきの囃子台で回り舞台。

3.重頼の山車

重頼の山車(パンフレットより)

3.重頼の山車:中原町
昭和23年に山車の原型が出来た。昭和57年に改造。川越にゆかり深い河越太郎重頼の人形を新調。
二重鉾の四ツ車、唐破風つきの囃子台で回り舞台。

4.鈿女(うずめ)の山車

鈿女の山車(パンフレットより)

4.鈿女(うずめ)の山車:大手町
もとの江戸町。人形は天鈿女命で明治5年に仲秀英の作。全体に前傾姿勢、牛に曳かせていた江戸型山車本来の面影を残す。
山車は二重鉾の三ツ車、欄間仕立ての囃子台。
県指定有形民俗文化財。

5.小狐丸(小鍛治)の山車

小狐丸の山車(パンフレットより)

5.小狐丸(小鍛治)の山車:幸町
もとの鍛冶町。宝剣の小狐丸を打つ小鍛治宗近の人形は原舟月の作で、天保6年に修理した記録がある。
二重鉾、四ツ車の山車は昭和3年に回り舞台に改造。欄間形式の囃子台には鳳凰の彫刻がある。
県指定有形民俗文化財。

6.牛若丸の山車

牛若丸の山車(パンフレットより)

6.牛若丸の山車:元町一丁目
もとは旧十ヵ町の本町で、昭和34年に山車が復活。牛若丸の人形は昭和44年に完成。
白木造りで二重鉾の四ツ車、唐破風つきの囃子台で回り舞台。

7.家康の山車

家康の山車(パンフレットより)

7.家康の山車:脇田町
人形は徳川家康。昭和57年に白木造り、さらに平成12年に彩色を施して完成。
山車は二重鉾の四ツ車、唐破風つきの囃子台で回り舞台。

8.秀郷の山車

秀郷の山車(パンフレットより)

8.秀郷の山車:喜多町
俵藤太秀郷の人形は鼠屋五兵衛の作で文政9年以前のもの。明治30年に神田明神前の小倉作兵衛父子によって完成。
山車は二重鉾の四ツ車、囃子台は唐破風つき。昭和13年に回り舞台に改造。
県指定有形民俗文化財。

以上の8基です。若干古びた感じながら圧倒的な歴史と伝統の迫力を持った山車や、重厚さは多少薄らいでいるものの華麗さを誇るような山車等、迫力と華麗さを併せ持った美を感じます。
そして、定位置についた後で、鉾、および人形が出てくる様は見事の一言でしょう。確かに川越まつり全体を通じての見所ポイントの一つというのも頷けます。

例によって、市長や来賓のうんざりする挨拶がありました。盛んに市長から言われていたのがNHKのドラマです。
来年3月から川越を舞台とした朝の連続ドラマが始まるそうです。

『2009年3月30日から放送予定の連続テレビ小説「つばさ」。江戸の風情が残る埼玉県川越市を舞台に、「娘が母」で「母が娘」のあべこべ親子が巻き起こす切なくも笑え、おかしくも泣ける、ねじれた絆の物語です。』NHK

恐らく市役所の斜め前のビルの屋上から撮影していたスタッフがNHK撮影班でしょう。6.7人居て、一般の人は居なかったので、特別な計らいで屋上を陣取ったのでしょう。
4月から放映で、朝の連ドラは2クールですから、今撮影しておかないと川越まつりが撮影できないと。いづれにしても連ドラの中で沢山川越の風情が放映されることでしょう。経済効果は・・・などと野暮な話はやめておきましょう。

一通り挨拶、祝辞、お祝い電報の披露が終わって、お囃子の披露です。
まずは並んだ順に1基づつお囃子を披露します。

1.猩々の山車:川越市-囃子は山車参加のない囃子連が乗演。
2.頼光の山車:三久保町-囃子は芝金杉流で石田囃子連。
3.重頼の山車:中原町-囃子は木ノ下流で月鉾囃子連。
4.鈿女(うずめ)の山車:大手町-囃子は堤崎流で鈿女会囃子連。
5.小狐丸(小鍛治)の山車:幸町-囃子は堤崎流で幸町囃子会。
6.牛若丸の山車:元町一丁目-囃子は小村井流で牛若囃子連。
7.家康の山車:脇田町-囃子は王蔵流で葵囃子連。
8.秀郷の山車:喜多町-囃子は芝金杉流で藤間囃子保存会。

残念ながらPAが無いのか、拾えなったのか最初の2基ほどはあまりよく聞こえませんでした。3基目は回りり舞台を使用したので良く聞こえ、またPAもお囃子を拾うようになったようです。

回り舞台

回り舞台を使用したお囃子演奏風景

回り舞台はなかなか効果的で、市役所ビル側にいる、所謂後ろ側の虐げられた観客にとって、なかなか小憎らしいほどの咄嗟の(恐らく・・・回さない山車もあったので)演出で、思わず後ろ側観客より、拍手が沸きあがるという微笑ましい光景も見られました。たぶん回さなかった山車にはブーイングでも浴びせたかったのかもしれませんが。(笑)

全山車の一斉お囃子

全山車の一斉お囃子

そして最後に8基がいっせいにお囃子を奏でます。
この頃は、多少移動する人も居て道灌像前から山車の斜め前に移動して、より美しい山車の姿と8基共演のお囃子を堪能しました。

お囃子が終わると「山車揃い」も終了です。
1基づつ町へ繰り出します。最後の1基は青い法被を来た外国人の方が曳いていました。
たしか、案内放送でドイツからの来賓といってましたので、おそらく姉妹都市のドイツ連邦共和国・オッフェンバッハ市の方を呼ばれたのではないかと思われます。
国際的な祭りとしてのアピールにはもってこいかも知れませんが・・・

こうして一つの山場である「山車揃い」を見て素直に感動しました。(若干余計なものもありましたが)やはり歴史、伝統のなせる技なのでしょう。これからも何十年、何百年続くのか判りませんが、確かに良いものは良いのですね。一度は見ておいても損は無いかもしてませんね。

こうして時刻は午後3:30を過ぎた頃、感動で満ち溢れてはいましたが、空腹感が一気に襲ってきました。
とりあえず何か食べようと、やっと市役所前を離れました。

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