浅草寺・影向堂周辺

初詣も無事に終わって本堂を出るとさすがに由緒ある浅草寺だけに、境内にはお堂やら石碑やら多くの貴重な史跡があるようです。
こちらは比較的人も少ないので、のんびりと境内を散策することにします。
何が見られるのか楽しみです。

影向堂境内

阿弥陀如来像「宝蔵門」を背にして本堂を左手に出ると仏像と石塔が並んで立っています。
仏像は「阿弥陀如来」像です。


阿弥陀如来像
阿弥陀如来さまは、極楽浄土にあって法を説き無量の光明と寿命をもって永遠の生命を与えてくださる仏さま。
この像は唐銅製で、阿弥陀三尊像として元禄6年(1693)に千人近い信徒によって建立された。もとは本堂裏にあったものを、平成6年にこの地に奉安した。
総高7.5メートル。極楽往生の諸霊の頓証菩提を祈る。』(現地案内板説明文より)

宝篋印塔そしてそのとなりの塔が「宝篋印塔」です。


宝篋印塔
宝暦11年(1761)、浅草寺信徒約千人によって建立され、明治40年(1907)に改修再建されたもの。
唐銅製。
宝篋印塔とは、塔内に『宝篋印陀羅尼』を納めた塔のことで、参拝諸人は計り知れない功徳を得るといわれる。』(現地案内板説明文より)

ということで2倍のパワーを授かっ(たかどうかは判りませんが)て元気に先に進みます。

石橋ここから左手のほうに向かうと綺麗に整備された庭園に石橋がかけられています。


石橋
現存する都内最古とされるこの石橋は、元和4年(1618)浅草寺に東照宮(現存せず)が造営された祭、参詣のための神橋として作られたものである。寄進者は、徳川家康の娘振姫の婿、紀伊国和歌山藩主浅野長晟(広島浅野家藩祖)である。
この石橋は昭和23年、文部省より重要美術品に認定されている。』(現地案内板説明文より)

振姫は家康の三女で、最初は秀吉の命により蒲生秀行と結婚し、蒲生忠郷、忠知の2男1女をもうけるも時代の流れもあり、今度は家康の命により浅野長晟と再婚させられたそうである。この浅野長晟の父が豊臣政権の五奉行の一人であった浅野長政で、更にこの浅野家の子孫があの赤穂事件の浅野内匠頭長矩です。
石橋ひとつでも大きな歴史の流れや所以が一通り語られるものだとプチ感動しました。

西仏板碑石橋の横には比較的大きな碑が立っており「西仏板碑」案内板に書かれています。


『東京都指定有形文化財(歴史資料) 西仏板碑
所在地 台東区浅草2丁目3番1号 浅草寺
指定  昭和17年9月 旧跡  昭和56年3月12日 種別変更
建立者の西仏については明かではないが、この板碑は彼が妻子の後世安楽を祈って建立したものと推測される。建立の年代も不詳であるが、鎌倉末から室町初期かと思われる。
上部が破損しているが、制作時には3メートル近くあったものと思われる。寛保2年(1742)暴風雨によって倒れ破損、文化11年(1814)に有志が側柱を立てて支えたという。材質は秩父粘板岩(青石)。
現存の板碑の大きさは高さ217.9センチメートル、幅48.0センチメートル、厚さ4.7センチメートル。
中世の信仰を知る上で貴重な遺品であり、かつ巨大板碑の典型例である。
平成8年3月25日  建設 東京都教育委員会』(現地案内板説明文より)

埼玉県にはよくある青石塔婆といわれるものでしょうが、自立できなくなっているのか支えられているのが痛々しいです。

影向堂「西仏板碑」の右手側に「影向堂」があります。


影向堂
影向堂はもと本堂南東にあったものを、平成6年に浅草寺中興開山慈覚大師円仁さまのご誕生1200年を記念して、現在地に再建されたもので、観音さまのお説法やご活躍に不断に讃嘆協力されている仏さまの方「影向衆」をおまつりしているお堂である。
堂内には、中央に聖観世音菩薩さま、その左右に十二支に応じた生まれ年の守り本尊様八体がおまつりされている。
お堂の上、棟飾りには、火伏せの咒とされる金箔押しの鴟尾を置く。鴟尾を取り付ける際は不思議と雨を呼ぶといわれており、平成6年夏の建立時も記録的な日照りであったが、鴟尾を取り付けると突如として雨が降り、人々を感動させた。』(現地案内板説明文より)

影向堂の鴟尾屋根の上に燦然と輝いているのが鴟尾でしょう。
それにしても鴟尾を取り付けて雨が降るという伝説なら眉唾ですが、平成6年にそのようなことがあったということでは信じないわけにはいかないでしょう。


残念ながら堂内は撮影禁止だったので写真はありませんが、「影向衆」と呼ばれる仏様が並んでいます。
子年:千手観世音菩薩、丑・寅年:虚空蔵菩薩、夘年:文殊菩薩、辰・巳年:普賢菩薩、午年:勢至菩薩、未・申年:大日如来、酉年:不動明王、戌・亥年:阿弥陀如来という8体で、未申年の大日如来に今年一年の無事をまたまた祈念してきました。

浅草寺六角堂「影向堂」の左手には「浅草寺六角堂」があります。
「都重宝 浅草寺六角堂」と刻まれた石碑もあり歴史を感じさせられます。


『東京都指定有形文化財(建造物) 浅草寺六角堂 1棟 
所在地 台東区浅草2丁目3番1号  浅草寺
指定 昭和2711月3日
六角堂は「浅草寺誌」(文化10年編)に元和4年(1618)の建立とあり、江戸時代初期の建立と考えられ、浅草寺内では最古の遺構である。
木造で単層の六角造り瓦ぶき形式で、建物中央の直径は1.82メートルあり、一面の柱真々は0.91メートルである。
建物の基礎は、六角形状に廻した土台を布石の基礎で支え、その下部に11段の石積みをした1.5メートル余りの井戸状の穴が掘られている。
六角堂という特異な形式であり、都内においては遺例の少ない建造物で、貴重な文化財である。
もとは東方21.8メートルの場所(現・影向堂の南基壇上に元位置の表示あり)に建っていたが、平成6年10月境内整備のためにここに移された。
東京都文化財保護条例(昭和51年3月31日改正)により文化財の指定種別を都重宝から東京都指定有形文化財に変更したので、石造標識については、このように読み替えてください。
平成8年3月25日 建設 東京都教育委員会』(現地案内板説明文より)

確かに日本文化では四角形、朝鮮・中国文化では八角形、そして印度文化では十六角形となるようですから、六角形の屋根というのはアジアの文化としても珍しいでしょう。
六角形で有名なのはクイズ…じゃなくて蜂の巣です。蜂の巣から派生して頑丈な構造として用いられるハニカム構造などという言葉は実に一般的です。また、ボルトナットのボルトの頭部も六角形で、どうやら構造的に強度という意味が強い形状といえるでしょう。
そういった意味では、建造物として理にかなった形状なのでしょうが、そのような意図で建立されたかどうかは知るよしもありません。因みにアメリカで有名なのは五角形ですね、余談ながら。
そういえば影向堂の南基壇上の元位置の表示を見るのをすっかり忘れました。また、今度…

浅草寺六角堂建物の形状以外に、ここに祀られている本尊についても説明があります。


日限地蔵尊
六角堂のご本尊。
地蔵菩薩様は、慈悲のお心で、この娑婆世界だけでなく地獄や餓鬼道にもおもむき、衆生を救われる仏さま。
特にこの日限地蔵尊は、何かのお願い事に対し、日数を定めて祈願すれば、古来より霊験があるとされる。
造立年代は不明。 木造』(現地案内板説明文より)

日数を定めないとご利益はないということですか… へそ曲りの論理です。

後に知ったのですが、「阿弥陀如来」からこの「六角堂」までが「影向堂」の境内域なのだそうです。
ここだけでも随分と色々なものを見て廻れますので、この先に何があるか期待は高まる一方です。

浅草寺境内西側

花やしき通り「六角堂」の左側はもう浅草寺の境内外で、「花やしき通り」というアーケードがあり、その先には「花やしき」のタワーが見えます。「花やしき」へはかつて娘達が小さかった頃、そう15.6年前でしょうか、いやに娘達がが好きで何度か遊びに来ました。
素朴な遊園地としてディズニーランドと両極端、ある意味においては双璧といっても良いと思うくらいの遊園地です。
ちょっと懐かしい思い出がよみがえります。


三峰神社「六角堂」の反対側には「三峰神社」があります。
どのような意味で勧請されたのかはわかりませんが、所謂秩父の三峰神社でしょう。


金龍権現と九頭龍権現一旦「影向堂」へ戻りそこから南に向かいます。
左側に小さな社が2つ並んでいます。 手前の社が「金龍権現」です。


金龍権現
寺伝の縁起によれば、浅草寺ご本尊観音さまのご示現にあたり、天より百尺ばかりの金龍が舞い降りて、その功徳を讃え観音さまをお守りしたとされることから、浅草寺の山号を「金龍山」という。これにより奉安されたのが、この「金龍権現」である。
このことに因み、現在、3月18日と10月18日の二回、浅草寺境内にて寺舞「金龍の舞」が奉演されている。』(現地案内板説明文より)

寺の名称については【いわき散策記vol.6】で調べたようにかつて寺は山の中にあったことからその山の名前をいわば住所の意味で山号として付けたとのことでしたが、平地でもその流れで山号が付けられているということでした。
確かにここは山ではないので山の名前の変わりに、この霊験ある金龍を山号としたのでしょう、実に由緒ある山号です。

そのとなりは「九頭龍権現」です。

九頭龍権現
龍神さまは、仏教をお守りし、雨を操り、われわれに五穀豊穣や福徳を授けてくださる。
この九頭龍権現は長野県戸隠山の地主神で、昭和33年の本堂再建にあたって、その成就を祈るべく勧請された。現在も浅草寺の伽藍安隠の守護神である。』(現地案内板説明文より)

この「金龍」「九頭龍」によって浅草寺全域が守られているといった意味だとすれば、浅草寺にとっては非常に重要な守護神といえるのでしょう。

銭塚弁財天「金龍」「九頭龍」権現の先には朱い社が見えましたので行ってみました。


銭塚弁財天
弁財天さまは、七福神のお一人で仏教をお守りする善神である。芸能や学問の上達、財宝や福徳の神とされる。
この銭塚弁財天さまは、福徳財運の弁財天さまとして、特に信仰が篤い。』(現地案内板説明文より)

ということで特に強く願ったのはいうまでもありません、打算的人格ですから。

めぐみ地蔵尊恵比寿・大黒天弁財天の右手に小さな小さな「めぐみ地蔵尊」があり、更にその右手には「恵比寿・大黒天」が祀られています。


「出世地蔵尊」「商徳地蔵尊」「子育て地蔵尊」道を挟んだ反対側には「出世地蔵尊」「商徳地蔵尊」「子育て地蔵尊」が並んでいます。


さしずめ「招福ストリート」ととでも言いましょうか、ここをズラッと参拝すればたちどころに福が来る…的な場所です。
ここも再配置されたのでしょうかね。

六地蔵石幢「金龍権現」「九頭龍権現」に戻り、今度は西に向かいます。角に「六地蔵石幢」という石塔があります。


六地蔵石幢
石幢とは石塔の一つで、龕部(仏像を納める厨子のこと)の六面にお地蔵さまが刻まれている。
造立年代は不明だが、一説に、源義朝参拝の折に鎌田正清によって建立されたといわれる。
しかしながら、石幢造立が流行した室町時代の可能性が高い。
もとは雷門の東方にあったもので、後に花川戸、明治になってこの地に移された。』(現地案内板説明文より)

六地蔵石幢金網越しなので写真では良くわかりませんが、確かにうっすらと地蔵が掘られているようです。
よくよく六面に関係するところですね。


聖観音菩薩像「六地蔵石幢」の前には「聖観音菩薩像」が立っています。


聖観音菩薩像
観音さまは、われわれの苦しみをとり除き、お願いをきいて、「慈悲の心(あたたかい心)」を与えてくださる仏さま。
この像は、尾張国の孝山義道の発願により、享保5年(1720)に建立された。
台座に「千日参供養佛」と刻まれている。銅製。』(現地案内板説明文より)

まさに浅草寺の本尊を具現化したものでしょうが、何気に享保5年といっていますが、よくよく考えてみればすでに300年経過している訳で、恐るべし浅草寺です。

一言不動尊更に、「六地蔵石幢」の左横には「一言不動尊」があります。


一言不動尊
怒りのお姿をした不動明王さまは、そのお姿をして教化し難い者を導き、その力でわれわれの迷いの心を打ち切ってくださる仏さま。
この一言不動尊は、何か願い事を一つに限って祈願すると、その願いがかなうとされ、古来より霊験が著しいといわれている。
享保10年(1725)造立』(現地案内板説明文より)

一言とか日限とか、なかなか規律にうるさい仏もいるようで実にバラエティ豊かです。
絶対罰があたるな、これは。

橋本薬師堂そしてそのまたとなりにあるのが「橋本薬師堂」です。
何となく薬屋のような名前です。


橋本薬師堂
台東区浅草2丁目3番 浅草寺
当初は観音堂の北方にあって、北薬師と呼ばれた。
慶安2年(1649)三代将軍徳川家光が観音堂の北西に再建し、堀にかかる橋のかたわらにあったので、家光自身が橋本薬師堂と名付けた。平成6年、現在の場所の移転した。
現在の建物は、桁行三間(約5.35メートル)、梁間三間(約5.10メートル)、屋根は入母屋造、瓦葺、外部はかなり改変され、前面にあった三間に一間の向拝は取り除かれているが、浅草寺境内に遺存する堂宇のうち、浅草神社の社殿と同時代で、二天門や影向堂脇の六角堂に次ぐ古建築である。薬師如来坐像を本尊とし、他に前立の薬師如来と十二神将像が安置されている。
平成8年3月 台東区教育委員会』(現地案内板説明文より)

江戸の大火や昭和の戦争を生き残った建造物は非常に少ないということでしょう。それゆれに二天門、六角堂そしてこの橋本薬師堂は江戸の香りを残す貴重な遺構であるということです。
精々江戸の匂いを味わっておきましょう。

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