浅草寺・淡島堂周辺

謹賀新年

「橋本薬師堂」からさらに西側には道を挟んで別のお堂があります。
かなり様々なお堂、諸碑がある境内ですが、ここは「淡島堂境内」だそうです。
さすがに正月といえどもここまで来る人はそれほど多くなく(といっても普段の人ごみがわからない)静かな落ち着いた雰囲気です。

淡島堂境内

淡島堂境内域に入って正面に「淡島堂」があります。


淡島堂
淡島堂は、元禄年間(1688-1703)紀伊国(現在の和歌山県)の加太神社を勧請したものである。加太神社は、淡島と呼ぶ小島に鎮座し、淡島明神の俗称があるため、この堂も淡島堂と呼ばれている。祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)、堂内には両手で宝珠を持つ坐形の神像を安置する。
淡島明神は、江戸時代より女性の守り神として信仰を集めた。現在も毎年2月8日、ここで針供養が行われ、女性の参詣人が群集する。針供養は、日頃使いなれた針に感謝し、柔らかな豆腐にさし、供養する行事。かつては、この日に限り女性は針仕事をしない風習があった。
平成8年3月 台東区教育委員会』(現地案内板説明文より)

針供養のことなら以前からTVニュースなどでも取り上げられていたので知ってはいましたが、淡島明神が女性の守り神だとは知りませんでした。

魂針供養之塔そして本堂に向かって境内の右手に針供養を行う「魂針供養之塔」があります。


建立の記
この針供養之搭は、大東京和服裁縫教師会が50周年記念事業として発願し、全国和裁団体連合会の御協賛と裁縫をたしなまれる多くの方々の御助勢とにより、昭和57年10月17日に建立されました。
省みますれば昭和10年2月8日「折れ針」への感謝と裁縫関係者にお呼びかけし、古来の伝承に従い浅草寺淡島様の御宝前で、供養の法会を営ませて頂いてより、次第に同じ志の方々が増え都内をはじめ近県からも「折れ針」を持って参詣され、懇ろに御供養なさる方々が、年々多くなりつつありますことは報恩の美風を普く世に伝へるためにも誠に有難く喜びに堪ヘません。
大東京和服裁縫教師会 針供養之搭保存会会長  鈴木 昇造 針供養之搭担当責任者  山崎 章司』(現地案内板説明文より)

以降毎年2月8日に針供養が行われているそうです。
今年も来月に行われるのですが、身近にそういった関係者がいないので様子はわかりませんが、何となく華やいだものを想像してしまうのですが… また、罰があたるな。

大平和塔「魂針供養之塔」のとなりには「大平和塔」という現代的な記念碑が立っています。


建設趣意書
思い出づる調べも哀し昭和20年3月9日の夜、B29百五十機の大空襲により浅草一帯は火の海となる。地をなめるようにして這う火焔と秒速30mをこす烈風にあぶられ、親は子を呼び、子は親を求むけれど、なすすべもなし。おののき叫び逃げまどい、悪夢の如き夜が去れば…眼にうつるものは一面の焦土にて、一木一草の生ずるもなく、あわれ身を焼かれ路傍に臥す無辜の犠牲者は一万余柱を数う。
当時その凄惨な状況は一片の新聞だに報道されることなく、敗戦後に生まれた子供達は戦争の惨禍を知るよしもない。いたましく悲しい夜もいつしか歴史の一駒として消えて行くであろう。
よって我々はここに当時を偲び、不幸散華された御霊の安らけく鎮まりまさんことを祈り、二度とあやまちを繰返すことなく永遠に世界の平和を守らんことを誓い、浅草観音の浄域にこの碑を建立する。
以って瞑せられよ。
昭和38年8月15日 浅草大平和塔維持会』(現地案内板説明文より)

なかなかこう言ったことが後世伝承されては行きながらも、その精神が薄れていくことは仕方がないことかもしれません。様々な不穏な国家もある昨今、何が起こってもおかしくはありません。ただそのときに最終的な武力行使を押しとどめられるかどうかが、現代人に課せられた良心であり義務であることを忘れないことが大切なのでしょう。
この碑の台座の銘にはノーベル物理学賞の湯川秀樹博士の直筆で「みたまよ、とこしえに、安らかに、われら守らん、世界の和」と刻まれています。戦後間もない1949(昭和24)年、ノーベル賞を日本人として始めて受賞したのですが、これは戦後打ちひしがれていた日本人が再び世界的に認められた第一歩としての意味合いもあって、刻まれたのではないでしょうか。
何となく考えされられる記念碑です。

天水桶境内の反対側に目を転じると本堂の近くに「天水桶」というものがあります。


天水桶
太平洋戦争が激しくなってきた、昭和18年(1943)11月18日、浅草寺僧侶らによって夜儀が執り行われ、この天水桶内にご本尊の観音さまをお厨子ごと奉安し、本堂の地中深くに納めたため、ご本尊さまは戦火を逃れたという。
戦後の昭和22年(1947)3月7日、ご本尊さまは再び地中より掘り上げられ、その無事が確認された。
明和7年(1770)造立』(現地案内板説明文より)

東京の場合は京都や奈良と違って、東京大空襲といったように米軍も文化財や史蹟などは一切考えずに攻撃したようですから、神社仏閣などは大変だったのでしょうね。
その結果、本堂をはじめとする多くの建造物が失われたのですが、ご本尊だけでも無事でいてくれればその寺社の存在意義は残りますから、必死だったのでしょう、きっと。なにか生々しい歴史の証人として実に貴重な桶ですね。
オフィシャルサイトによれば「淡島堂」自体が戦火で本堂が焼けた際、「仮本堂」として現在の本堂の前にあったそうで、平成6年ここに移されたと記載されているので、この桶もそれと一緒にここに移ってきたのかもしれません。

胎内くぐりの灯籠また、この桶の隣に妙な表情の「石灯籠」があります。


胎内くぐりの灯籠
この石灯籠は「胎内くぐりの灯籠」として江戸時代から有名であったもので、この灯籠の下をくぐることで、子供の虫封じや疱瘡のおまじないとされている。
お子様をお連れでご参拝の折には、お子様にくぐらせてみてはいかがでしょうか。
造立年代は不明』(現地案内板説明文より)

我々の頃は”肝油ドロップ”でしたが、結構喜んでくぐるかも知れませんね、子供なら。
それにしてもこの灯籠の表情はなんと言ったらよいのでしょうか、実に個性的で、灯籠にして置くにはもったいないアートです。

写経供養塔そしてその左側に「写経供養塔」と呼ばれるものがあります。


『浅草寺では、昭和33年の本堂落慶を記念して、「観音経写経運動」を発願しご信徒各位にお写経をお勧めしており、ご奉納いただいたお写経は、毎年10月の写経供養会にてご本尊観音さまの御宝前に奉安され、供養されている。
平成6年に造立されたこの宝塔型の写経供養塔には、その年にご奉納されたお写経の経題と巻数とを記した「目録」をご奉安し、ご信徒各位のお写経の功徳を後世に伝え讃嘆している。』(現地案内板説明文より)

江戸から昭和までをグルッと巡ったような境内でした。様々な思いで巡った「淡路堂」を出て南に向かいます。

新奥山

新奥山「淡路堂」から南側の隣に公園のような、庭園のような場所があります。
「新奥山」と呼ぶそうです。


奥山(新奥山)
江戸の昔、今の浅草寺本堂の西北一帯は、俗に「奥山」と呼ばれ、江戸の盛り場として大道芸人や見世物小屋で大いに賑わう、著名な場所であった。
奥山の名の由来は記録にないが、おそらくその位置が本堂の奥にあることから名付けられたと思われる。
明治以後、その賑わいは浅草寺西側の浅草公園六区へと移り、六区は日本一の興行街・映画のメッカとして栄えたが、その前身が奥山だったといわれる。
現在は、この地を「新奥山」として整備し、諸碑が建立されている。この中には、往時の浅草の賑わいを伝える記念碑も建てられている。』(現地案内板説明文より)

江戸時代の賑わいはどうやら歌舞伎が、当時の奥山に集まったことから一大娯楽地となったようです。
もともと江戸時代の歌舞伎は江戸四座とか三座と呼ばれた決められた座だけが興行できたそうです。この三座(四座)はもとは木挽町(現在の銀座周辺=現在の歌舞伎座周辺)に集まっていたそうです。
しかし、度重なる大火や治安の悪化などにより当時猿若町と呼ばれていた「奥山」に移転させられたのが始まりだったそうです。
そんな江戸の香りを残す石碑・記念碑などが集まっているところから、ここを「新奥山」と命名したようです。

瓜生岩子女史の銅像■瓜生岩子女史の銅像


瓜生岩子女史の銅像 台東区浅草2丁目7番
岩子は通称。正しくは”岩”という。文政12年(1829)2月15日、岩代耶麻郡(現在の福島県耶麻郡)熱塩村渡辺家に生れたが、9才の時、父を失い、母は岩を連れて生家へ帰った。そのため、岩は母方の姓瓜生氏を称した。14才の時、若松(現福島県会津若松市)の叔母に預けられ、その夫で会津藩侍医を勤める山内春瓏の薫陶を受け、堕胎間引きの防止に関心を持つに至る。17才で佐瀬茂助を婿に迎え、若松で呉服屋を営み、一男三女を生んだが、早くに夫を亡くした。明治元年会津戦争で孤児となった幼童の教育に尽力したほか、堕胎等、当時のさまざまな悪習を正し、明治22年貧民孤児救済のため福島救済所を設立するなど、社会事業の推進に努めた。
明治30年4月19日、福島で没す。享年69。生涯を慈善事業に捧げた岩の善行を賞揚し、同34年4月、篤志家によって、浅草寺境内にこの銅像が造立された。
台石正面には、下田歌子女史の撰文を刻む。
平成8年7月 台東区教育委員会』(現地案内板説明文より)

ここで初めて知った人です。
日本のナイチンゲールとも賞賛され、女性初の藍綬褒章を受賞した偉人です。
野口英世の母も岩子の協力で産婆の資格をとったそうです。

三匠句碑■三匠句碑


三匠句碑 台東区浅草2丁目3番 浅草寺
 ながむとて花にもいたし頸の骨   宗因
 花の雲鐘は上野か浅草か      芭蕉
 ゆく水や何にとどまるのりの味   其角
江戸時代前期を代表する俳人三匠の句が刻まれている。
西山宗因 慶長10年(1605)肥後(熊本県)の生まれ。
後、大阪に住み談林の俳風を開く。この句は「新古今集」にある西行法師の和歌「ながむとて花にもいたく…」からとった句。天和2年(1682)没。
松尾芭蕉 正保元年(1644)伊賀(三重県)の生まれ。
数次の漂白の旅に出て作品集や紀行文を残し、「おくのほそ道」は世に知られている。蕉風俳諧を樹立。元禄7年(1694)大阪で没。
榎本其角 寛文元年(1661)江戸に生まれる。蕉門十哲の一人。のち蕉風を脱し、その一派の傾向は、洒脱風などともいわれた。宝永4年(1707)の没。
碑は文化6年(1809)の建立。台石には明治27年春(1894)の移築の由来が記されている。
平成8年3月 台東区教育委員会』(現地案内板説明文より)

正岡子規の碑■正岡子規の碑


「観音で雨に逢いけり花盛」子規
正岡子規の没後100年を記念して、台東区俳句連盟が平成11年に建立したものです。

和算学者の顕彰と和歌の碑■和算学者の顕彰と和歌の碑


手前の碑は「五瀬・植松先生明数」碑といわれ、関孝和の教えを受けた和算学者を検証した碑で、1858年に造立されたそうですが、実は自分が依頼して作ったそうです。結構びっくり。
中央は「狂歌三十六歌仙」碑で、四季を詠み込んだ36首の狂歌が彫られています。1817年建立されました。
和算学者の顕彰と和歌の碑亀が石碑を背負っているのがユーモラスです。像が踏んでも壊れない筆箱と同じ発想…な、わけないでしょう。

一番奥は「會田先生算子塚」碑で、こちらは「最上流和算」の和算学者・會田算左衛門安明を顕彰した碑です。

力石■力石


『力石、または「さし石」ともいう。江戸後期。
酒屋・米屋の人足たちの間で、酒樽や米俵を曲芸のように持ち上げて、その力を競うことが流行した。この力石は、境内で行われた「力くらべ大会」で競い持ち上げられたものである。
正面の「力石・熊遊の碑」は、明治7年(1874)、熊次郎という男が持ち上げた百貫(約375キロ)ほどの力石であり、新門辰五郎らがその記念として建てたもの』(現地案内板説明文より)

力石碑の周りには「大石」とか「奉納 三川島 60貫」などと刻まれた石が置かれていますが、これらが実際に使用された「力石」なのでしょう。


茂睡の墓■茂睡の墓


『都旧跡 戸田茂睡墓
所在 台東区浅草2丁目7番31号 浅草寺奥山庭苑
指定 大正8年10月
元禄時代の歌人。はじめは渡辺氏と称し、のち戸田茂睡に改めた。名は馮、のちに恭光、通称は茂右衛門。寒露軒などと号していた。徳川氏の家臣渡辺忠の第六男として、寛永6年(1629)5月19日に生まれた。その後は那須黒羽で暮らし、のち本多政長に仕えて三百石を給されていた。延宝年間の末に致仕し浅草寺の近くに居をかまえ、「梨本集」を著わして和歌の制の無用を説き、世に詠歌の派を立てた。宝永3年(1706)年4月14日、 78で没した。「紫の一本」「御當代記」「隠家百首」「鳥の迹」などがある。なお
”塵の世をいとふ心の積りては 身の隠れかの山となるらん”
とよみ、隠れ家の茂睡と時の人々に呼ばれていた。
昭和45年3月1日  建設 東京都教育委員会』(現地案内板説明文より)

一葉観音像と高橋石斉の碑■一葉観音像と高橋石斉の碑


右側が「一葉観音像」で、1826年に建立された上田寉子女の貞節を称する碑だそうです。確かに碑には女性の姿が彫られていました。
左側は「高橋石斉の碑」で尾張藩の剣道指南役で能書家であった石斉が明治5年に亡くなった際に遺族の願いで建立されたものです。

滝沢世古と福地桜痴の碑■滝沢世古と福地桜痴の碑


右、「滝沢世古」の碑で1845年建立され、伊予の国出身で能書家として高名な人だそうです。
左は福「地桜痴」の碑で小説・劇作家として演劇界で活躍、東京日日新聞に移り、社説の創設や西南戦争の現地からの報告記事などでジャーナリストとしての業績も上げ同社社長に就任しました。
浅草地区の街の整備、特に六区地区の開発にも尽力し、明治から大正・昭和に繋がる演劇・映画の街として繁栄することが出来たのは彼の力に負うところが大きいとされています。明治39年死去、66才

浅草観光の碑■浅草観光の碑


浅草観光事業功労者の顕彰碑で、文字通り浅草観光に尽力した人々を讃えている。

石井漠記念碑■石井漠記念碑


石井漠「山を登る」記念碑
日本の創作舞踊の創始者石井漠は明治19年秋田に生まれ昭和37年1月7日に昇天するまで、近代バレエの創造、浅草オペラの旗挙げ、三百数曲の創作舞踊など、芸術活動は誠に偉大でありました。
舞踊生活50年の山坂道を失明にあえぎながら登りつめた不滅の魂を記念するために、実妹栄子と共に踊った「山を登る」の姿を碑に刻み石井漠を愛した多くの人々や八重子未亡人の哀悼の念を永久に伝えようとするものです。
題字 谷崎潤一郎 設計 谷口吉郎 彫刻 舟越保武 施工 清水建設
昭和38年4月8日』(現地碑文より)

現在でも自由が丘に伝統あるバレエスタジオとして「石井漠記念バレエスタジオ/石井早苗:主催」があるそうです。因みに「自由が丘」の地名の名付け親が石井漠で、現在自由が丘駅前ロータリーにある「女神像」は当初、石井漠の胸像になる予定だったそうですが、生前であったので固辞したそうです。しかし関係者の気持ちもあり、台座には石井漠の書が刻まれているそうです。

映画弁士塚■映画弁士塚


『明治の中葉わが国に初めて映画が渡来するやこれを説明する弁士誕生。幾多の名人天才相次いで現れその人気は映画スターを凌ぎわが国文化の発展に光彩を添えたが 昭和初頭トーキー出現のため姿を消すに至った。ここに往年の名弁士の名を連ねこれを記念する。
建設者 大蔵 貢』(現地碑文より)

無声映画時代の弁士たちを記念し、昭和33年に建てられた記念碑です。104名の名が記載されているのですが、かろうじて名前を聞いたことあるのは徳川夢声、西村小天楽、大辻司郎くらいでしょうか。
碑名は鳩山一郎氏だそうです。

喜劇人の碑■喜劇人の碑


1982年(昭和57年)、逝ける浅草の喜劇人を偲び建立されました。
2001年以降、日本喜劇人協会(代表大村崑)の意向で、浅草の喜劇人のみに限らず、日本を代表する喜劇人をということで、上方を代表する喜劇人・ミヤコ蝶々が加えられたそうです。

●建立当時刻まれた喜劇人
川田晴久・古川ロッパ・八波むと志・清水金一 (シミキン)・堺駿二・ 榎本健一 (エノケン)・山茶花究・森川信・柳家金語楼・木戸新太郎 (キドシン)・大宮デン助 (大宮敏充)・伴淳三郎 (バンジュン)・三波伸介
●その後刻まれた喜劇人
武智豊子 ・トニー谷・有島一郎・東八郎・南利明
●2001年以降刻まれた喜劇人
益田喜頓・渥美清・三木のり平・曾我廼家明蝶・由利徹・ミヤコ蝶々

名前はほとんど知っており(聞いたことがなかったのは清水金一・山茶花究・木戸新太郎の三人)、半分…否、70%はリアルタイムで映画・TVで見たことがある喜劇人、というと実に自分の年齢が悲しい。

ノンキナトウサンと永生の壁■ノンキナトウサンと永生の壁


手前の石碑が昭和38年に建立された初代曾我廼家五九郎こと武智故平の顕彰碑。
初代曾我廼家五九郎とは1876年4月12日生まれの喜劇俳優です。
1907年、曾我廼家五郎の喜劇一座に入門し「曾我廼家五九郎」を名乗り、その後独立して一座を構え、1910年~1912年にかけて横田商会や吉沢商会などの初期サイレント縁がに主演しています。因みに横田商会と吉沢商会は1912年合併して日活を設立しています。
明治・大正を通じて浅草六区を中心に活躍し、一方浅草の通俗教育昆虫館の経営を支援し、建替え資金を供出するなど浅草の繁栄に貢献したようです。
その初代曾我廼家五九郎の当たり役が「ノンキナトウサン」で、原作は1922年(大正12年)に発表された麻生豊の漫画作品で、主人公の「ノンキナトウサン」と相棒の「隣のタイショウ」が織り成す騒動を描いた4コマ漫画です。今で言うところの「サザエさん」でしょうかね、推測ですが。
そしてこの4コマ漫画「ノンキナトウサン」が1925年に映画化され主演を務めたのが初代曾我廼家五九郎であったということです。当然浅草でも上映され人気を博したようです。
そこで、この顕彰碑には五九郎が好きだった「群盲撫象」の文字と「ノンキナトウサン」の像が描かれているのです。

ノンキナトウサンと永生の壁その顕彰碑を覆うように建てられている壁が「永生の壁」で、昭和40年に建立されたものです。
昭和39年日本の芸能団が招かれて訪中し日中友好の端緒をつくったことを記念し、更なる友好と平和を祈ってつくられたものです。
壁の一部に平和のシンボル鳩がとまっています。


何となく顕彰碑と壁が一対に見えるのですが、実は違った意味合いをもっていたのです。まあ、芸人つながりという事で一緒の場所に建てられたのでしょうかね。

それほど広いエリアではない「新奥山」ですが、実にバラエティにとんだ記念碑・銅像の数々があり、江戸から昭和にかけての浅草文化の一端をうかがい知ることのできる浅草ならではの大変ためになる場所でした。

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