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浅草寺・五重塔周辺

「新奥山」をツラッと見てから再び五重塔の方に向かいます。
奥山門「五重塔」に突き当たった右側には「奥山門」と書かれた赤と緑の門があります。
この門は浅草寺の門ではなく「奥山おまいりまち商店街」の門のようで、浅草寺から行くと「出る」のではなく「入る」ようになっている門です。

五重塔ここは左側に曲がって「五重塔」の正面を目指します。
ここまで近くに来ると「五重塔」の迫力に気圧されます。


五重塔周辺

正観世音菩薩碑まずは比較的大きな石碑があります。「正観世音菩薩碑」です。


正観世音菩薩碑
「正観世音菩薩」と碑の正面に刻まれている。当寺には観音さまを表した金石が多く奉安されているが、その中でもひときわ大きい碑である。
この石碑の銘文は長年の風雪により摩滅が進んでいるが、「文」や「窪世」とわかる所が残されていることから、江戸時代の有名な石工の大窪世祥が、文化・文政年間(1804~29)頃に文字を彫ったと思われる。
他にも世祥の金石は三基、境内に残されており、当寺にも関わりの深い人であった。江戸町人の信仰を載せた金石が運ばれ、活気付く境内の様子が目に浮かぶようである。
南無観世音菩薩』(現地案内板説明文より)

「金石」という言葉は始めて耳にしましたが、石や金属等でできた碑をいうのですね。中国では古代の金属器・石刻に刻まれた銘文や画像を研究する学問のことを「金石学」というようです。
さてこの大窪世祥なる石工は、当時は「窪世祥」と名乗っています。これは屋号で、江戸時代から昭和の初期にかけて活躍した石工は苗字から1字を取り、更に吉祥句も織り込んで中華風に漢字3字で通称(屋号)としたからです。
そしてこの「窪世祥」は「廣群鶴」「井亀泉」とともに江戸の3大石匠といわれ、隅田川のそばに工房を構えていたようです。
他の三基はどれのことでしょうかね。

鳩ぽっぽの歌碑その先には新しそうな現代風の碑があります。「鳩ぽっぽの歌碑」です。


作詞・東くめ、作詞・滝廉太郎の「鳩ぽっぽ」を記念した碑です。てっきり♪ぽっぽっぽっ、はとぽっぽ。まめがほしいか~と思ったら違う歌だったのです。
一般的に知っている♪ぽっぽっぽっ、…の童謡の正式なタイトルは「鳩」というそうで、作詞、作曲ともに不詳の文部省唱歌でした。
ただそれも意外と面倒な経緯があったようで、最初は1911年(明治44年)5月8日に刊行された『尋常小学唱歌 第一学年用』に初めて「鳩」が掲載されました。しかし、1941年国民学校用(戦時中)の教科書『ウタノホン』では曲名が『ハトポッポ』に変更され、また歌詞も一部修正されたようです。その後の経過は推測ですが、戦後「鳩」に戻されたのではないかと思います。
ですので、この「♪はとぽっぽ~」のタイトルを「ハトポッポ」といっても無理からぬことかもしれません。
一方、こちらの「鳩ぽっぽ」は明らかに浅草寺本堂前の広場で群れをなす鳩を歌ったといわれており、それは歌詞からもわかります。
歌詞の著作権が2019年まで存続しているそうなので、本来掲載してはいけないのですが一部だけ抜粋します。
♪鳩ぽっぽ 鳩ぽっぽ…お寺の屋根から下りて来い…~
というように「鳩」にあった鳩・豆・みんな・食べる・ぽっぽ、等の語句は同じですが、「お寺の屋根」だけが「鳩」にはないのです。ここからこの「鳩ぽっぽ」が浅草寺にて歌われた歌詞であると言われているようです。
現在、和歌山県新宮市の紀勢本線新宮駅前に東くめの生誕地として「鳩ぽっぽ」の歌碑があるそうです。
因みに浅草寺の歌碑は昭和37年に建立されたそうですが、以前はこの碑のとなりに鳩豆を売る店があったそうです。当然考えられる自然のなりゆきでしょう。

迷子しるべ石更にそのすぐ先には「迷子しるべ石」があります。


『昔、迷子が出た時には、この石碑でその旨を知らせた。
石碑の正面に「南無大慈悲観世音菩薩」と刻み、一方に「志らする方」、一方に「たづぬる方」とし、それぞれに用件を記した貼紙で情報を交換した。情報未発達の時代には重宝され、「江戸」市内の繁華な地に建てられたものの一つ。
安政7年(1860)3月、新吉原の松田屋嘉兵衛が、仁王門(現宝蔵門)前に造立したが昭和20年の空襲で倒壊したため、昭和32年に再建された。』(現地案内板説明文より)

何かの時代小説で読みましたが、迷子になるとこの時代生き別れになるケースもかなりあったそうです。そういった意味でこのような迷子情報を発信する石碑はかなり多くあったのも頷けます。江戸は当時では大都市、そして浅草界隈はその中でも指折りの繁華街とあっては迷子も多かったことでしょうから。現在では湯島天神の境内にも残っているそうです。

されここから「五重塔」に向かいます。

五重塔と二天像

五重塔先ほどからどこにいてもちらちらと視界に入る「五重塔」を目の当たりにすると、その荘厳さと迫力に圧倒されます。
確かに歴史的な重厚さは薄れますが、その分美観的には華麗です。俯瞰で見ることができれば、浅草寺の伽藍は恐らく江戸文化の復元といった趣を感じとることができるでしょう。


五重塔
そもそも仏塔とは、遠くインドで釈尊の遺骨(仏舎利)を起塔供養したのがはじまり。アジア東斬を経て、さまざまな形となった。五重塔もその一形態。
浅草寺五重塔は、天慶5年(942)、平公雅によって創建されたのをはじめとする。その後、数度倒壊に遭うも、その都度再建された。徳川家光によって再建された国宝五重塔も、昭和20年3月の戦災によって惜しくも焼失した。(戦前までの五重塔は、今と反対側の本堂向かって右側にあった)
以来、浅草寺は十方各位のご信助を得て、また新たにスリランカ国の王立寺院より「聖仏舎利」を勧請(五重塔最上層に奉安)し、昭和48年に現在の五重塔を再建するに至った。
地上からの高さは約53メートルある。
(塔内非公開)』(現地案内板説明文より)

現在の仏舎利は釈迦の遺骨や灰塵などの真性仏舎利や宝石などの代替仏舎利が混在しているので、現在スリランカ政府が調査し回収などをして管理しているそうですが、21世紀初頭において世界に現存する「仏舎利」と称するするものの重量を合計すると、ほぼ2トンに近い重量といわれており、これらが凡て釈迦の遺骨なら、釈迦はインド象に近い体型だと揶揄されているようです。
何となく仏舎利、仏舎利と騒ぐと胡散臭く感じるのは私だけですかね。

その仏舎利である五重塔について紐解いてみました。
五重塔は様々な種類のある仏塔の形式のなかの「層塔」と呼ばれる楼閣形式のもののうち、文字通り五重の屋根を持つものです。
そもそも仏塔とは古代インドで仏舎利を祀るために紀元前3世紀頃からつくり始められた「ストゥーパ」という謂わばインド式墓が起源とされています。
この「ストゥーパ」は饅頭型ですが、これが中国に伝わると楼閣形式となり高層化するようになったそうです。そしてこの楼閣形式の層塔が朝鮮半島を経て日本に伝わったのでした。そして日本では楼閣形式の層塔の多くが木造で造られ、現在日本ではこの木造の層塔が多くのこっているのですが、逆に層塔の起こりである中国や朝鮮半島での木造の遺例は少ないそうです。
「層塔」は日本各地の仏教寺院や神社などにあり、木造塔のほかに石、瓦、鉄製、そして近代以降コンクリート製もあります。また「多層塔」としては「三重塔」「五重塔」のほかに「九重塔」「十三重塔」(基本的に奇数に限定されています)などがありますが、木造の「九重塔」で現存するものはないようです。
このように塔が高層化したのは、境内に入れない一般の人々が離れた場所から参拝できるように配慮した結果なのだそうです。
浅草寺の五重塔も何度かの倒壊・焼失、そして再建を繰り返し、現在は鉄骨・鉄筋コンクリート、土瓦風アルミ合金瓦など現代の技術で再建された層塔なのです。

現在、日本に現存する著名な五重塔は以下の通りです。

法隆寺(奈良県):奈良時代(7世紀末~8世紀初)、31.5m 世界遺産・国宝、世界最古の木造五重塔
東寺(京都府):江戸時代(1644年)、54.8m、国宝、近世以前では日本一の高さ
醍醐寺(京都府):平安時代(951年)、38.2m、国宝、京都府下最古の木造建築
日光東照宮(栃木県):江戸時代(1818年)、重要文化財、心柱懸垂式の構造
旧寛永寺(台東区):江戸時代(1639年)、36.4m、重要文化財、上野動物園の構内
などがあり、このほか羽黒山・海住山寺・興福寺・室生寺・明王院・瑠璃光寺・元興寺・海龍王寺が国宝に指定されています。

「五重塔」以外の「層塔」「多層塔」で著名なもの。
●多宝塔
石山寺多宝塔(滋賀県):鎌倉時代初頭、国宝、日本最古の木造多宝塔
根来寺大塔(和歌山県):室町時代後期、国宝、日本最大の木造多宝大塔
●三重塔
法起寺三重塔(奈良県):飛鳥時代建立、高さ約24m、国宝、現存最古の三重塔
薬師寺東塔(奈良県):奈良時代、高さ約34m、国宝、奈良時代の特異な形式の塔で一見して六重塔に見える
●上記以外の多層塔
談山神社十三重塔(奈良県):重要文化財

様々な多層塔の写真を見ると、まさに絵になる建造物です。

持国天像増長天像この「五重塔」の入口の両側に大きな仏像があります。


持国天像・増長天像     
この二つの像は、上野の寛永寺から拝領したもので、本堂東側の二天門内の左右に立つ増長天・持国天(二天)である。二天門の修復が完了(平成21年12月完了予定)するまで、現在の位置に安置される。
持国天と増長天は、広目天・多聞天(毘沙門天)とともに四天王に数えられる。四天王は仏教の守護神であることから武装した姿に造られる。持国天は東方、増長天は南方を守護するとされ、仏舎利(釈迦の遺骨)を収める仏塔や釈迦如来の周囲に安置される例が多い。
向かって右の持国天は、左手を上げて独鈷杵という密教法具を持ち、右手を腰にあてる姿勢をとる。向かって左の増長天は持国天とは対照的な姿勢をとり、右手に三鈷杵を掲げ、左手は腰に当てる。
元来は全身に華やかな彩色が施されており、今でも顔や鎧に古来の鮮やかさが残されている。どちらも「寄木造」という、鎌倉時代以降に流行した複数の木材を組み合わせる技術で造られている。
二天門に併せて本像も修復され、発見された銘文より法橋吉田と名乗る仏師が造ったことが判明した。この人物の詳細は不明であるが、江戸時代初期以前に遡る優れた技量の仏師であることは確かであろう。
この二天の見るべきポイントは多いが、力感あふれる造作のみならず、目に入れられた美しい玉眼(水晶やガラスの玉)や踏みつけられたユーモラスな邪鬼などは特筆に値する。』(現地案内板説明文より)

意外なところで見られるものですね。二天門が工事中というなかでのラッキーチャンスでした。
仏像の美術的見地や価値は良く分かりませんが、仏像のもつ力強い迫力を受けると共に、やはり歴史的な重厚感を感じさせられます。

話はそれますが、この四天王が「○○四天王」のもととなったのですが、興味深い「○○四天王」を挙げてみます。

●信長四天王 … 織田信長の重臣の中でも特に活躍が著しかった以下の家臣4人を顕彰して呼んだもの。明智光秀・柴田勝家・滝川一益・丹羽長秀とされる。なお、羽柴秀吉を含めた場合は織田五大将と称す。
●徳川四天王 … 徳川家康の功臣。酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の4人。
●F1四天王 … 80年代~90年代前半にF1で活躍したネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセル、アラン・プロスト、アイルトン・セナの4人。
●1968年生女子長距離代表四天王 … 陸上競技の日本女子長距離走・マラソン代表で活躍した、松野明美、真木和、鈴木博美、弘山晴美の4人。
●サスペンス四天王 … 船越英一郎、片平なぎさ、萬田久子、高橋英樹だが高橋英樹を除いて山村紅葉か名取裕子を挙げる場合もある。
●落語四天王 … 5代目春風亭柳朝、3代目古今亭志ん朝、5代目三遊亭圓楽、7代目立川談志
●ものまね四天王 … ビジーフォースペシャル、栗田貫一、清水アキラ、コロッケ
●デブタレ四天王 … 石塚英彦、松村邦洋、伊集院光、内山信二
●一発屋四天王 … 有吉弘行、つぶやきシロー、ダンディ坂野、ムーディ勝山
●歌謡界四天王 … 。1960年代の歌謡界御三家(橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦)に三田明を加えたもの。その後1970年代に入ると新御三家(郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎)と沢田研二が相当。
●プログレ四天王 … キング・クリムゾン、ピンク・フロイド、イエス、エマーソン・レイク・アンド・パーマー
●財界四天王 … 池田勇人内閣時を経済界で支えた小林中、水野成夫、永野重雄、櫻田武の4人
●暴力団四天王 … 山口組、住吉会、稲川会、極東会
●芸能事務所四天王 … 吉本興業、ジャニーズ事務所、バーニングプロダクション、渡辺プロダクションの4社。
●サスペンス作家四天王 … サスペンスドラマにおいて原作とされることが多い作家。内田康夫、山村美紗、西村京太郎、赤川次郎

探せばまだまだあるでしょうが、日本人は「三大○○」などを含めてくくるのが好きですよね。
「五重塔」をすっかり堪能して、またここから北に向かいます。

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