浅草寺・境内北側

一旦「影向堂」方面に戻り、「淡島堂」前を通り進み本堂の裏手にあたる境内に向かいます。
少し先に何やら赤い幟がたくさん立っています。

浅草寺境内北

銭塚地蔵尊赤い幟には「銭塚地蔵尊」と染め抜かれています。


銭塚地蔵堂
昭和39年に再建されたこのお堂には、石造の「六地蔵尊」が安置されており、その下に「寛永通宝」が埋められているといわれることから「銭塚」の名がある。
江戸時代、摂州有馬郡に山口なる者がおり、その妻がある日、庭先で寛永通宝が沢山入った壷を掘り当てた。だがこれに頼って働かずにいては、家は滅びてしまうと考え、誰にもいわず再び土中に埋め戻した。
この心掛けによって一家は繁栄したので、その壷の上に地蔵尊を祀ったという。
お堂のご本尊は、そのご分身を勧請したもので、商売繁昌のご利益があるといわれる。
毎月「4の日」と正・5・9の各月24日に法要がいとなわれ営まれ、参拝者は塩と線香とローソクをお供えする。特に塩をお供えするので「塩なめ地蔵」の名もある。』(現地案内板説明文より)

銭塚地蔵尊俗物の私にはとても出来ない心掛けで、濡れ手に粟とばかりに使いまくるでしょうね、きっと。
お堂に寄ってみると確かに「寛永通宝」が掲げられています。いかにも商売繁盛に効きそうな地蔵尊です。


カンカン地蔵尊お堂の横には妙な形の地蔵が祀られています。


カンカン地蔵尊
このお地蔵さまは、お姿の原形をほとんど残していない。古来よりお参りの方が、付随の「小石」で御身をごく軽く「たたき」お願いごとをする。
石で軽く打ち祈ると「カンカン」という音が鳴るので俗にこのように称されている。
(刃物や他の石などで御身を「削る」事は、固くお断りしている)』(現地案内板説明文より)

珍しいお地蔵様があったものです。浅草なのに「カンカン」とはこれ如何に…って言っている場合ではないですね。
こう言ったものがあると必ずマナーの悪い人が出てきるんですね。逆にそういった人たちに罰が当たればより霊験あらたかなのでしょうけれど。
素朴な疑問ですが、まあ、私の生きているうちは大丈夫でしょうが、100年後くらいにはこの地蔵は消滅してしまうのでしょうかねえ。ちょっと心配になりますが、ボタンを押すと「カンカン」と音だけ鳴るシステムとか考えて…、いやいや余計なお世話でした。
因みに、もともとは大日如来だったそうですが、身を粉にして働くとは、まさしくこのことでしょう。
兎にも角にも切迫的な地蔵尊にはじっくり願をかけて参拝し、「銭塚地蔵堂」を後にしました。

となりに「浅草公園史蹟めぐり 第1番札所」と書かれた案内板がありましたが、どうやら浅草界隈に7番札所まであるコースらしいです。
機会があれば巡ってみたいものです。

「暫」の銅像ここから「銭塚地蔵堂」を背にして本堂の裏側を東に歩くと、左側に歌舞伎の碑があります。



大正8年江戸歌舞伎ゆかりの地、浅草の浅草寺境内に、劇聖と謳われた明治の名優九代目市川團十郎の歌舞伎18番「暫」の銅像が作られました。この銅像は、近代彫塑の先駆者新海竹太郎氏の傑作であり、歌舞伎の象徴として全国の人々から親しまれておりました。ところが第二次世界大戦中の昭和19年11月30日金属類回収のため、この「暫」の銅像も供出の命を受け、40余年を経てまいりました。

このたび、十二代市川團十郎襲名を機に復元の機運が高まり、浅草寺のご理解のもと多くの方々に御尽力を賜り、ここに「暫」の銅像が再現されました。十一代目並びに十二代市川団十郎父子、地元浅草及び松竹株式会社三者の永年の願いが叶えられたことになります。
この後も、歌舞伎の隆盛とともに、この「暫」の銅像が歌舞伎の象徴として、日本国民はもとより世界の人々からも幾久しく愛されますことを願ってやみません。
昭和61年11月3日  宇野信夫 撰書
九代目市川團十郎「暫」銅像 復元建設委員会
十二代 市川團十郎 浅草観光連盟 松竹株式会社』(現地碑文より)

この12代團十郎はあの小林麻央と婚約した海老蔵のお父さんで、ゆくゆくは海老蔵が13代目となるわけです。
この市川團十郎家は歌舞伎の市川流の家元であり、歌舞伎の市川一門の宗家でもある由緒ある家柄で、その長い歴史と業績から市川團十郎は歌舞伎役者の名跡の中でも最も権威のある名と見なされているそうです。謂わばマックカフェでは本来先頭にいなければならない人です…(TVの見すぎ)
その輝かしい業績の一つがこの碑文にある九代目市川團十郎です。
市川團十郎のオフィシャルサイトで9代目についてプロフィールが書かれています。


演劇改良運動(1838~1903)<9代目市川團十郎>
生まれて7日目に河原崎座<かわらさきざ>の座元<ざもと>河原崎権之助<ごんのすけ>の養子となり、河原崎長十郎と名のった。養家では厳しい教育を受ける。
嘉永5年(1852)9月、河原崎権十郎<ごんじゅうろう>と改名。その前後は、河原崎座の若太夫<わかたゆう>として別格の処遇を受け、子役から立役に進んで役者としての修行を積んだ。
嘉永7年(1854)8月、兄の八代目が自殺(19歳)。
その翌年養家の河原崎座が焼失し、興行権を失ったため、安政4年(1857)養父とともに市村座へ出ることとなり、やがて大役を演ずるようになる(20歳)。
明治元年(1868)9月、養父権之助が強盗に殺害されるという悲惨な事件に遭ったため、養父の河原崎座再興の遺志を継ごうと、翌年3月、七代目河原崎権之助を襲名。市村座の座頭<ざがしら>の地位に座った(32歳)。
明治6年(1873)9月、義弟の蝠次郎<ふくじろう>に八代目河原崎権之助の名を譲り、自身は河原崎三升<さんしょう>と改名(36歳)。
明治7年(1874)7月、芝新堀に河原崎座を建て、これを置き土産にして市川家に戻り、ただちに九代目團十郎を襲名(37歳)。河原崎座の座頭となった。
明治9年(1876)9月より、守田座の座頭となる。
明治11年(1878)6月には、移転、焼失などを経て近代的な大劇場として再建築された新富座(もとの守田座)で、九代目は従来の歌舞伎の演技・演出を大胆に変えたり、写実主義的な「活歴物<かつれきもの>」と呼ばれる新作の芝居を積極的に上演するなど、演劇改良運動に力を注ぎ始める(41 歳)。しかし、長い間江戸歌舞伎に親しんできた庶民大衆からは反発と不評を買う。
明治20年(1887)天覧劇<てんらんげき>として、明治天皇の前で『勧進帳』『高時<たかとき>』を上演。役者の社会的身分の向上を実現した(50歳)。
新歌舞伎十八番(その数は18種に限定せず、実際には32種とも、40種ともいう)を制定。
明治27年(1894)ごろからは、再び古典歌舞伎を盛んに演ずるようになる(57歳)。
九代目が活歴時代に創造した「肚芸<はらげい>」と呼ばれる心理主義的な表現方法は、古典歌舞伎の役の創造法に応用され、近代歌舞伎の体質に大きな影響を与えた。それ以外にも「九代目の型」「成田屋の型」として尊重される数々の狂言の演出を、現代歌舞伎に残した。
明治36年(1903)9月13日没(66歳)。』(成田屋 市川團十郎・市川海老蔵オフィシャルサイトより)

参考:【成田屋 市川團十郎・市川海老蔵オフィシャルサイト】http://www.naritaya.jp/

「暫」の銅像さらにオフィシャルサイトには「暫」についての解説もあります。


『罪のない善男善女が悪人に捕らえられ、まさに皆殺しにされようとする危機一髪の時に、「しばらく~」と大声をかけて現れた主人公が超人的な力で荒れて救う物語。江戸時代、江戸の顔見世狂言に入れる約束になっていた局面を独立させたもの。現行の台本は、明治28年(1895)に九代目團十郎が演じた時のものが固定した。公家姿の悪人の役は清原武衛、主人公の役名は、鎌倉権五郎景政になっている。
初演年月:元禄10年(1697)1月、原題名:参会名護屋、初演者:初代市川團十郎、初演劇場:中村座 (江戸)』(成田屋 市川團十郎・市川海老蔵オフィシャルサイトより)

華々しい名家なれど、それなりに重圧もかなりのものがあるのでしょうね。現在の海老蔵もすばらしい役者だそうなので13代目としての襲名に興味を引かれます。

浅草寺病院の前「暫」像の先には様々な石碑やお堂が並んでいます。ちょうどここは浅草寺病院の前になります。


一葉観音東に向かって歩くと作に囲まれた観音さまが祀られています。


一葉観音
埼玉県の秩父34観音札所の第32番法性寺の観音像を模して造られた。蓮の一枚の花びらの上に乗り、楫を持ち、笠をかぶったお姿。
新吉原の「ひで」という女の12歳の息子久次郎が、水難事故によって亡くなったことを偲び、息子の菩提のため、また今後このようなことのないようにとの、「ひで」の願いによって造立された。
寛政9年(1797)に造立。唐銅製』(現地案内板説明文より)

以前、札所28番の石龍山橋立堂に行ったことはありますが、さすがに凡て廻るのは大変でしょうね。でも何故法性寺の観音像を模したのかはわかりませんね。きっと作者が同じとか…ですかね。

宝篋印塔そしてその先には「宝篋印塔」があります。


宝篋印塔
「宝篋印塔」とは、『宝篋印陀羅尼』という経典を納めたことに由来する仏塔で、日本では主に石塔婆の一つの形式として盛んに造立された。
この塔は江戸時代中頃の安永4年(1775)に、境内にかつてあった荒澤不動尊の、實圓を導師として造立され、銘文は江戸深川に住む書家の三井親和によって揮毫された。
塔の四方には、『宝篋印陀羅尼』の経文の一部が刻まれており、「お経を書写して奉安し、礼拝供養するものは、過去の罪障が消滅する」など、計り知れない功徳を得ることが説かれている。
功徳を得ることを願う人々の祈りの声が聞こえる。』(現地案内板説明文より)

確か本堂横にも「宝篋印塔」がありましたが、これも先の「五重塔」と同じ仏塔なんですね。

工事本堂の裏手には工事の内容を記した案内板が掲げられています。やはり大工事なんですね。


山東京伝机塚の碑そのまま東に進み本堂のさきに出ると左側に石碑があります。


山東京伝机塚の碑 
台東区浅草2丁目3番1号  浅草寺内
山東京伝(1761~1816)は、浅草や吉原を題材とする戯作を多く著わし、北尾政演の画号で浮世絵もよくした人物。
この碑は、京伝の弟京山が文化14年(1817)に亡兄を偲んで建立。表面には晩年の京伝撰「書案之紀」を刻む。書案とは机のことで「九歳の時に寺子屋に入った際、親の買ってくれた机を生涯愛用し、この机で百部を越える戯作を書いた。しかし50年近くも使ったので、ゆがみ、老い込んださまは哀れである」という意味の文と、「耳もそこね あし(足)もくしけてもろともに 世にふる机なれも老たり」の歌が記されている。また、裏面には、京伝と親交のあった戯作者太田南畝の撰による京伝の略歴を刻む。
京伝の生涯や人間性を伝える貴重な資料で、平成2年に台東区有形文化財として登載。
平成6年3月 台東区教育委員会』(現地案内板説明文より)

戯作者として名を馳せたものの1791(寛政3)年に出した京伝の洒落本と草双紙が寛政の改革の出版取締りにより摘発され、手鎖50日の刑を受けてから、洒落本は止め読本などに転じたそうです。所謂気骨ある反体制派といった類ではなかったようです。
因みにそれまでの戯作者はほとんどが余技として執筆していたので原稿料はほとんど無かったようですが、原稿料が支払われるようになったのは山東京伝に対してが最初のようです。

初代並木五瓶句碑更にそのとなりには「初代並木五瓶句碑」というものがあります。


初代並木五瓶句碑
台東区浅草2丁目3番1号
碑面には、正面に「月花のたわみこころや雪の竹」、右手側面には「なにはづの五瓶、東武に狂言を出してあまねく貴賤の眼目を驚かし、金竜の山中に雪月花の碑を築て、永く繁栄を仰ぐ、つづらん百三十里雪の人普子堂大虎」、左手側面に「寛政八年丙辰十二月十日建之 庭柏子書印」裏面に「篠田金二迂造」と刻んである。
「なにわづの五瓶」は初代並木五瓶のこと。五瓶は大坂に生まれ、歌舞伎狂言者として活躍した。生存年代は延享四年(1747)から文化五年(1808)まで。はじめ五八、のち吾八、呉八、五兵衛と改めついで五瓶という。
寛政六年(1794)江戸へ出て、非凡才能をみせ初代桜田治助とともに、江戸の二大作者と謳われた。時代物、世話物に優れた作品を遺し、四代市川團蔵、四代松本幸四郎らによって演じられた。作品には「金門五山桐」「隅田春奴七容性」「富岡恋山開」「幡随院長兵衛」などがある』(現地案内板説明文より)

明治34年に没した4代目を最後に名跡は途絶えたようです。初代のほか3代目があの名作「勧進帳」の作者として名を残しています。
本堂の裏側の境内を歩いてきましたが、それだけでも実に様々なものが見聞できました。

被官稲荷社

被官稲荷社「初代並木五瓶句碑」からさらに東に歩くと「被官稲荷社」に突き当たります。


被官稲荷社          
台東区浅草2丁目3番1号
安政元年(1854)、新門辰五郎の妻女が重病で床に伏したとき、山城国(現、京都府南部)の伏見稲荷社に祈願した。その効果があって病気全快、同2年、お礼の意味を込め、伏見から祭神を当地に勧請し、小社を創建して被官稲荷社と名付けた。名称の由来は不詳だが、被官は「出世」と解せば良いという。
辰五郎は上野寛永寺住職輪王寺宮の家来、町田仁右衛門の養子。本姓は町田であった。輪王寺宮舜仁法親王が浅草寺伝法院に隠居し、上野へ行くのに便の良い新門を造った。その門の番を命じられたので、新門辰五郎と呼ばれた。辰五郎は町火消十番組の組頭としても、多彩な活躍をした。
社殿は一間社流造、杉皮葺、創建以来のもの。間口約1.5メートル、奥行約1.4メートルと小さいが、覆屋を構えて保護している。覆屋は大正期の建築であろう。社前には、「安政二年九月立之 新門辰五郎」と刻む鳥居ほかがある。
平成四年十一月 台東区教育委員会』(現地案内板説明文より)

「新門辰五郎」といえば個人的には「勝海舟」モノでよく登場しており、男気のある火消しや任侠の元締め的なイメージを思い浮かべます。

被官稲荷社確か社殿はこじんまりとしていますが、鳥居が2本あったり先の記述の覆屋があったりと、小粒でもピリリと辛い(何のこっちゃ!)ような神社です。実はこの社殿浅草寺界隈では関東大震災や東京大空襲にも奇跡的に残った貴重な建築物だそうです。さすがに火消しの創建しただけのことはあったようです。


被官稲荷社鳥居に刻まれた名前はわかりませんでしたが、灯籠にも「新門」と刻まれていました。


正月ということもあって結構多くのお参りの方がおり、一緒に参拝して来ました。

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