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浅草神社

「被官稲荷社」から南に向かうとちょうど「浅草神社」の裏手から横に出ます。
どうやらここも社務所の建て直しらしく社殿の周辺は覆いで囲われています。その囲いの裏側が浅草神社社殿です。
こちらもさすがに正月とあってかなり参拝客が多いようです。

浅草神社社殿

浅草神社社殿の前に縁起書があります。


浅草神社
台東区浅草2丁目3番
明治初年の文書によると、祭神は土師真中知命・桧前浜成命・桧前竹成命・東照宮である。浜成と竹成は隅田川で漁猟中、浅草寺本尊の観音像を網で拾い上げた人物、真中知はその像の奉安者といわれている。三神を祀る神社なので、「三社様」とよばれた。しかし鎮座年代は不詳。東照宮は権現様すなわち徳川家康のことで、慶安2年(1649)に合祀された。以来、三社大権現といい、明治元年(1868)三社明神、同6年浅草神社と改称した。
現在の社殿は慶安2年12月、徳川家光が再建したもの。建築様式は、本殿との間に「石の間」(幣殿・相の間ともいう)を設け、屋根の棟数の多いことを特徴とする権現造。この社殿は江戸時代初期の代表的権現造として評価が高く、国の重要文化財に指定されている。毎年5月に行われる例祭は「三社祭」の名で知られ、都指定無形民俗文化財「びんざさら」の奉演、百体近い町神輿の渡御があって、人々が群集し、賑やかである。
平成6年3月 台東区教育委員会』(現地案内板説明文より)

ここがあの「三社祭」の神社だったのですか。勿論「三社祭」は知っていましたが、浅草神社の例祭だったことは初めて知りました。
もっと端的にいえば「浅草神社」という存在すら知りませんでしたから。

浅草神社神輿庫そういえば先ほど「被官稲荷社」から来る途中に「神輿庫」がありましたが、あれが「三社祭」の神輿が納められているところなのですね。


さて、このご本尊拾い上げについては、この案内板では単に漁猟中としか書かれていませんが、浅草神社オフィシャルサイトにもう少し詳しく説明がありました。
浜成・竹成兄弟はいつもの漁で、一匹の魚も獲れない日があったそうです。そしてその日に限って魚の変わりに人型の像が網に掛かっていたのですが、当然のように兄弟はその像を水中に捨て漁を続けたのでした。
しかし、一向に魚は獲れないのにその人型の像だけがまた網に掛かっているという始末です。何度も水中に捨ててもまた網に掛かってくるという不思議な現象から、とりあえず兄弟はその人型の像をもって帰り、「槐」の切り株に安置したそうです。
その不思議な体験を伝え聞いた土地の文化人である土師真中知が実際に像を見たところ、これこそ聖観世音菩薩像であると判断し、大変ありがたい像であることを浜成・竹成の兄弟に説明したそうです。
説明を聞いた兄弟はこの像に大漁の願いをしたところ、翌日見事に大漁を得ることができたそうです。これでこの像が聖観世音菩薩像で間違いないと判断した土師真中知は僧となり自宅を寺に改装してこの観音像を奉安したそうです。これが浅草寺の起源となったのです。
そして土師真中知死後、その嫡子が観世音のお告げを受けて三社権現と称して、浜成・竹成の兄弟と土師真中知を祀ったのが浅草神社の始まりということなのです。
なかなかストーリーとして興味深いものがあります。

一方、建築物としてみた場合もまた興味深い点があるようです。
この浅草神社の社殿というのは拝殿・幣殿・本殿という権現造の形式ですが、浅草神社は本殿と幣殿は接続しているのですが、拝殿と幣殿は分離されていて、その間に渡り廊下がある点が一般的な権現造と異なっていることが非常に珍しい形式なのです。
案内文にもあるとおり、この社殿は慶安2年12月徳川家光によって再建された後、「被官稲荷社」と同様、度重なる火災や戦争、関東大震災などの被害を免れたのですが、さすがに老朽化したため重文指定後、昭和38年に修理されたそうです。 しかし、その後建物全体の彩色と漆の劣化が激しいため、平成8年総工費3億5000万円で補修され、昭和の修繕から色彩がよみがえりました。確かに鮮やかな色を残しています。 浅草神社社殿霊獣・麒麟また、その社殿には数多くの霊獣が描かれています。鳳凰・麒麟・飛龍といった架空(伝説)の動物ですが、いずれも平和の象徴であったり、人々の幸福を願う存在の霊獣であるというありがたい絵画だそうです。


「浅草神社」は歴史としても建築物としても実に貴重な存在の神社で、まさに江戸時代の香りなのでしょう。

神木「槐」(えんじゅ)の木「浅草神社」社殿の左前には案内板のある木が植えられています。


神木「槐」(えんじゅ)の木の由来
槐は中国原産のマメ科の落葉喬木で、葉は藤に似て、夏、黄白色の花をつけ、高さ10メートルに及ぶ。古来中国では宮廷の庭に3本の槐を植え三公のつく位置を示したといわれる通り、高貴の木として珍重された樹木である。
浅草寺のご本尊の聖観音菩薩は推古天皇36年(628)3月18日、隅田川で漁をしていた檜前浜成・竹成の二兄弟によって網得され川辺の槐の木の切株に安置されたが、その主、土師仲知の教導により、三人共々深く観世音に帰依し、草堂を結び自邸を寺にかえたのが浅草寺の始まりと伝えられている。その後この三人が浅草観音示現の功労者として、三社権現の尊称を奉られ、神として祭祀されたが、これが当浅草神社であるから、槐は浅草寺にとっても当社にとっても非常に因縁の深い木である。
その故か、当境内には槐の木が自生し、枯れては生え、枯れては生え、連綿として絶える事がない。
まことに不思議な縁を感じさせる木である。
昭和62年9月 浅草神社奉賛会 浅草観光連盟』(現地案内板説明文より)

これが先ほど縁起にもあった聖観世音菩薩像を切り株に安置したという「槐」の木ですか。
ご神木としふさわしいということでしょう。

浅草神社境内西側

「槐」の木とは参道をはさんで反対側(社殿を背にして境内の右側)にいくつもの石碑が並んでいます。

花柳壽輔の句碑一番手前には「花柳壽輔の句碑」があります。


初代花柳壽輔略傳
出生:文化4年2月19日、芝・新明にて出生。
6才:文化9年、4世西川扇蔵の許に入門し舞踊修業の道に入る。
8才:文政11年、7世市川團十郎の鑑識に叶い市川鯉吉の芸名にて舞台を踏む。
19才:天保10年、旧師西川扇蔵の許に復帰し、西川芳次郎として振付師の第一歩を踏みだす。
25才:吉原の玉屋子三郎より俳号の「花柳」なる二字を与えられ、以降花柳芳次郎と称す。
その後、7世市川團十郎が嘉永2年、当時市川海老蔵を名乗り、その俳名「寿海」に因みて「壽」の字を贈られ、29才にして初めて花柳壽助を名乗り、後に「助」を「輔」に改め、と共に、諸流に冠絶して振付の第一人者として謳われる事、実に半世紀。その作品は1500種類を超え、就中「土蜘」「茨木」「戻橋」「舟辯慶」の如きは不滅の傑作と讃えられる。
83才:明治36年1月28日、花柳流の祖としての偉業を樹て、門弟、縁者に見守られ其の生涯を終る。
浅草観光連盟』(現地案内板説明文より)

花柳流といえば名前くらいは聞いたことのある著名な舞踊の流派ですね。その祖がここに顕彰されていたとはびっくりしましたが、思えば江戸時代から歌舞伎などの一大エンターテーメントとしての浅草ですからそれほどの不思議も無いもかもしれません。
現在の花柳壽輔は4世だそうで、特に2世は日本舞踊協会の初代会長を務め、1960年には人間国宝に選ばれた方だそうです。
碑には「雷は田町をよけて鳴りわたる」と刻まれています。

扇塚古扇納め箱その「花柳壽輔の句碑」と対を成すように「扇塚」があり、その隣には「古扇納め箱」なるものがあります。


『わたくし達日本舞踊を志すものにとりまして扇は欠くことのできない品でございます。
使い古された扇はどうぞこの箱にお納め下さい。
毎年4月8日にご祈祷の上、扇に感謝のご供養をいたします。花柳流花柳会』(現地案内板説明文より)

なるほどこの納め箱に古扇を納め、供養の後に扇塚に納められるという寸法ですね。なにか粋を感じます。

初代 中村吉右衛門 句碑「扇塚」の左手には「初代 中村吉右衛門」の句碑があります。


初代中村吉右衛門句碑
「女房も 同じ氏子や 除夜詣」吉右衛門
建碑 昭和28年4月21日
初代中村吉右衛門 歌舞伎俳優 日本芸術院会員 文化勲章受賞
明治19年3月24日 浅草象潟町に生まれ、幼少から舞台に立って名声を得、長じて大成し大正・昭和期を代表する歌舞伎俳優となった。高浜虚子に師事して『ホトトギス』の同人となり、句集も三冊に及ぶ。初め“秀山”と号したが、後に“吉右衛門” の名前を用いた。妻千代もまた浅草生まれ。この句の由縁である、昭和14年冬の作。この碑は自詠自筆である。
実名 波野辰次郎
昭和29年9月5日没 享年68歳
浅草観光連盟』(現地案内板説明文より)

先の団十郎と同様、歌舞伎の世界(梨園だな、所謂)は基本的に世襲制なので、初代、二代目とかが付く名前は一緒となることから、誰が誰だかわからない場合が多いです。
確かに初代中村吉右衛門といわれても全くピンと来ないので、少し血縁を整理します。

「初代中村吉右衛門」の父は「三代目・中村歌六」という人です。
この「三代目・中村歌六」には子供が4人おり二代目中村時蔵、初代中村吉右衛門、三代目中村時蔵、十七代目中村勘三郎でした。
二、三代目の中村時蔵は置いといて、「十七代目・中村勘三郎」の子供が新派女優の波乃久里子と「十八代目・中村勘三郎」です。そしてこの「十八代目・中村勘三郎」が現在のあのニューヨーク歌舞伎や、マックカフェでお馴染みの勘三郎です。勿論、その子供は「二代目・中村勘太郎」「二代目・中村七之助」ということになります。
現在の勘三郎の伯父さんとなりのです。 本流に話を戻すと、この初代中村吉右衛門には跡継ぎの男性がいなかったため一人娘の正子が「八代目・松本幸四郎」に嫁ぐ際、子供は二人産み、そのうちの一人に吉右衛門を継がせると約束し、そのとおり「八代目・松本幸四郎」と正子の次男を「二代目・中村吉右衛門」として養子にしたのです。この「二代目・中村吉右衛門」がかの有名な鬼平犯科帳の長谷川平蔵です。
因みに実の兄である「八代目・松本幸四郎」は「ラ・マンチャの男」や各TVドラマなどにも出演していて、その息子が「七代目・市川染五郎」で、娘が「松たか子」といえばすぐわかるでしょう。
「市川團十郎」家などの大家ではないが、「中村吉右衛門」「中村勘三郎」や「松本幸四郎」の流れは、一般人に歌舞伎役者を身近な存在として認識させ、歌舞伎界の人気をあげた名家といえるのかもしれません。

その隣には「檜前の馬牧」という妙な案内板がありました。

江戸・東京の農業 檜前の馬牧(ひのくまのうままき)
大宝元年(701)、大宝律令で厩牧令が出され、全国に国営の牛馬を育てる牧場(官牧)が39ヶ所と、皇室に馬を供給するため、天皇の命により32ヶ所の牧場(勅旨牧)が設置されました。
東京には「檜前の馬牧」「浮嶋の牛牧」「神崎の牛牧」が置かれたと記録にあって「檜前の馬牧」は、ここ浅草に置かれたのではないかと考えられています。
浅草神社の祭神で浅草寺本尊の発見者である、檜前浜成、竹成兄弟の説話から、檜前牧は浅草付近であったと「東京市史稿」では推定していて、「浮島の牛牧」は本所に、「神崎の牛牧」は牛込に置かれたとされています。
時代は変わり江戸時代、徳川綱吉の逝去で「生類憐みの令」が解かれたり、ペーリー来航で「鎖国令」が解けた事などから、江戸に欧米の文化が流れ込み、牛乳の需要が増え、明治19年の東京府牛乳搾取販売業組合の資料によると、浅草区の永住町、小島町、森下町、馬道と、浅草でもたくさんの乳牛が飼われるようになりました。
平成9年度JA東京グループ 農業協同組合法施工五十周年記念事業』(現地案内板説明文より)

所謂奈良時代の前に浅草に牧場があっても何も不思議はありません。しいて言えばそのような記録が残っていることが驚きです。
逆に明治初期の東京では、勿論乳牛もそうなのでしょうが、鉄道馬車が全盛の頃はあちこちで馬が飼われ糞害がひどかったといわれていますから、東京といっても僅か100年で世界的な都市となっただけのことですし、23区とその周辺だけで東京都といえども郊外はいまだ牧歌的ですから、牧場の一つや二ツや…あってもおかしなことは無いということです。

花塚の碑と河竹黙阿弥顕彰碑更にそこから左手には「花塚」という綺麗な名称の碑があります。


花塚の碑
「濁流」の花道の師、笠翁斉乱鳥の死を悲しんだ弟子達によって建てられた。
笠翁乱鳥は、享和3年(1803)7月晦日死去。
享年88歳。浅草本然寺(曹洞宗・現、浅草3-25-3)に埋葬。悲しんだ弟子達が、瓶に花を挿したが、衰える花を惜しんで地中に埋め塚とした。
戦後の昭和31年観音堂裏手東北より移転。
建碑 文化元年(1804)3月17日
(以下省略) 浅草観光連盟』(現地案内板説明文より)

「花塚」の隣に「河竹黙阿弥顕彰碑」があります。
河竹黙阿弥は江戸時代後期から明治中期にかけての歌舞伎の狂言作者で東京百年記念に台東区が建立したそうですが、ここまで来るとかなりディープな世界で良く分かりません。いずれにしても、その道では偉大な人たちだったのでしょう。

浅草神社鳥居周辺

川口松太郎 句碑ここから鳥居周辺に移ります。鳥居の両側にも多くの碑が残されているようです。
社殿を背にして鳥居の左側に「川口松太郎 句碑」があります。


『川口松太郎ハ明治三十二年十月一日今戸ニ生レル、昭和十年第一回直本質受質ノ「鶴人鶴次郎」ヲ初メトシテ小説脚本二名作多ク文壇劇壇二多大ナ足跡ヲシルス 特二新派俳優花柳章太郎水谷八重子等ニヨツテ演ジラレタ情緒豊カナ諸作品ハ観客ヲ魅了ス 這般ノ功績ニヨり三十八年菊池寛賞受賞 四十年芸術院会員 更四十四年「しぐれ茶屋おりく」ノ一編ニヨり吉川英治文学賞受賞 四十八年文化功労賞二釵七ラレル 最晩年渾身ノ筆デ連載小説「一休さんの門」ヲ脱稿後昭和六十年六月九日永眠ス 行年八十五才 三回忌二因ミ故人ノ終世ノ師久保田万太郎ノ傍ラニ同ジク句碑ヲ建テテ逝者ヲ偲プ
「生きると いうこと むずかしき 夜寒かな」
昭和六十二年六月九日
松竹株式会社、文芸春秋社 劇団新派 講談社 明治座 読売新聞社
浅草観光連盟』(現地案内板説明文より)

名前は知っているのですが業績が良く分かりません。しかし句碑建立に名を連ねた企業を見れば、その偉業は推し量れるというものです。
我々の世代では、松太郎氏の息子で長男の川口探検隊隊長の浩、次男・恒、三男・厚の俳優と、元女優の娘、晶が有名でしょう。一時期は映画やTVでは売れっ子でしたから。

久保田万太郎 句碑その隣にあるのが、「川口松太郎 句碑」の案内板にあった「久保田万太郎 句碑」です。


「竹馬や いろはにほへと ちりぢりに」と刻まれています。
「久保田万太郎」とは浅草生まれの小説家・劇作家・俳人だそうです。美食家としても知られていて、死因は宴席で出された赤貝のにぎり寿司を食べたところ喉につかえた窒息死だったようです。

粧太夫碑更にその隣にあるのが「粧太夫碑」です。


粧太夫碑 (蕋雲女史書の柿本人麻呂歌碑)
台東区浅草2丁目3番  浅草神社
ほのぼのと明石の浦の朝霧に
         島かくれゆく船をしぞ思う
有名な万葉歌人柿本人麻呂の和歌を万葉仮名で刻んだもので、骨太な文字を認めたのは、碑文にあるように蕋雲女史である。
蕋雲は文化年間(1804-17)、遊里新吉原の半松楼に抱えられていた遊女で、源氏名を粧太夫といい、蕋雲はその号である。粧太夫として当時の錦絵にも描かれており、書を中山敬義に学び、和歌もたしなむ教養ある女性で、江戸時代の代表的な文人、亀田鵬斎から蕋雲の号を贈られたほどの人物であった。
この歌碑は人麻呂を慕う太夫が、文化13年(1816)8月、人丸社に献納したものである。人丸社は幕末の絵図によると、三社権現(現在の浅草神社)の裏手にあったが、明治維新後に廃され、碑のみが被官稲荷社のかたわらに移され、昭和29年11月、現在地に移された。
平成8年3月 台東区教育委員会』(現地案内板説明文より)

なかなかイメージとして遊女=教養人・文人という図式が浮かばないのですね、煩悩人には。世俗に取り付かれた思考を取り除かなければなりませんね。 

中村吉右衛門」ときざまれた石柱その脇の「中村吉右衛門」ときざまれた石柱があります。
きっと二代目が奉納したのでしょう。


初代市川猿翁句碑ここから鳥居の右側に移ります。
手前に「初代市川猿翁句碑」があります。


初代 市川猿翁句碑
「翁の文字まだ身にそはず衣がえ」 猿翁
建碑  昭和42年5月17日
撰文  市川猿翁 
孫団子に三代目猿之助を譲り、自らは猿翁を襲名。
昭和38年5月、歌舞伎座に於いて襲名興業。
(浅草寺の襲名お練りは4月16日)
「猿翁」(昭和39年6月東京書房刊)には、「翁の文字まだ身にそはず 衣がへ 猿翁 昭和37年5月猿翁襲名のとき」とある。
明治21年5月10日、浅草千束町2丁目に生れる。
父、喜熨斗亀次郎(初代市川猿之助-段四郎)、母古登の長男。(弟妹は10人)兵役を終えたのち明治43年10月(22才)で二代目市川猿之助を襲名。
昭和38年6月聖路加病院(心不全)にて死去。
享年75才。
昭和36年3月28日浅草3丁目39番地に生家に因みて「猿之助横丁碑」を建てる。
浅草観光連盟』(現地案内板説明文より)

またまた歌舞伎の世界ですから分りやすい家系をたどります。
この「市川猿翁」の息子が「三代目・市川段四郎」という人で、女優の「高杉早苗」と結婚し長男が「三代目・市川猿之助」で次男が 「四代目・市川段四郎」です。この長男の「三代目・市川猿之助」があの有名なスーパー歌舞伎を創造した人です。
そして「三代目・市川猿之助」の最初の夫人が「浜木綿子」で、その息子が「香川照之」ですね。
「浜木綿子」と離婚後「藤間紫」と再婚しました。したがって「香川照之」から見ると「市川猿翁」は曾祖父ということです。

両さんの碑「初代市川猿翁句碑」のずっと手前にあの両さんの碑があります。


友情は いつも宝物
1976年に「週刊少年ジャンプ」で連載を開始して以来、多くの人々に愛されてきた「こちら葛飾区亀有公園前派出所」。
物語の舞台となるここ浅草は、主人公である両津勘吉を育み、また多くの感動を生み出してきました。
この碑は、両津勘吉の少年時代の友情を描いた、「浅草物語」にちなみ、人を思いやる気持ちの大切さ、そして子供たちが夢や遊び心を忘れず、健全に成長してくれるよう願いを込めて建てられました。
平成17年8月6日建立

「浅草物語」概略
ある日、浅草で一緒に遊んだ同級生が偶然再会。かつての悪ガキ両津勘吉は警察官に、かつての優等生は、逃亡犯になっていました。
両津は、子供の頃にここ浅草神社(三社様)の神木、槐の木の下に一緒に埋めたベーゴマの話を持ち出して二人の友情を確かめ合いました。
そして、逃亡犯は自首することとなったのです。
ジャンプ・コミックス「こちら葛飾区亀有公園前派出所」57巻「浅草物語の巻」より』(現地碑文より)

1976年は昭和51年で30数年経過しています。しかし、その長きに渡り人気を持つ漫画もまた珍しいでしょう。
私自身まだ学生でしたから当然のように「こち亀」は毎週読んでいました。
そしていつの頃からは漫画を読まなくなってしまいましたが、「こち亀」だけは娘達が愛読しており、我が家の本棚にも140~150巻位まであります。親子二代で読み続けられる漫画も大変めずらしいでしょうね。これからも更に続けて欲しいものです。

まあ、実に様々な碑があったものです。きっとこまめに探すともっとあるかもしれませんが、いずれにしてもどちらかと言えば、文化・芸術関連が多く、更に比較的一般的庶民にとっても馴染みのある方などが多いのは、やはり浅草という土地柄なのでしょう。
これにて浅草神社を後にして、浅草寺境内に戻ります。

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