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浅草寺・境内東側

昼近くになってから大分人通りが少なくなってきました。
浅草神社をでた浅草寺東側の境内はかなり広く、多くの方がベンチで休む姿が見られます。 天気も良く比較的暖かなので、境内を散策するにはもってこいの天気です。
浅草神社鳥居からすぐ左手に門が見えます。あれが「二天門」でしょう。

旧浅草公園1区

二天門近づいてみると綺麗に塗装された門に、立ち入り禁止の柵がめぐらされています。


「五重塔」であった説明の通りこの「二天門」は工事中です。しかし塗装等はおわったのでしょうか、覆いがかかっていないので見ることはできます。
旧二天門以前の「二天門」がどのような門なのか分りませんので、浅草寺オフィシャルサイトの写真で比べてみます。
【(c)浅草寺オフィシャルサイト】
やはり大変色彩が綺麗になり、赤から朱に戻ったというイメージです。完成後、文字通り二天が安置されるのです。そうなるとまた違った表情がでるのでしょう。

二天門(国指定重要文化財)   
台東区浅草2丁目3番  浅草寺
元和4年(1618)浅草寺観音堂の西南に東照宮が建ち、この門はその随身門であった。その東照宮は寛永8年(1631)と同19年の再度の火災に、浅草寺の他の諸堂と共に焼失して、江戸城内の紅葉山に移されたが、随身門のみは炎上を免れた。明治初年、神仏分離令によって、随神像は、仏教を守護する四天王のうち東方と南方の守護者である持国天・増長天二天に変わり、門の名も二天門と改称された。
現在安置の像は昭和32年、寛永寺の厳有院(四代将軍徳川家綱)霊廟の勅額問から移したもので、慶安年間(1648~52)の作である。
この門は昭和21年国宝、同25年重要文化財に指定された。
平成8年3月  台東区教育委員会』(現地案内板説明文より)

「二天門」の扁額は最後の太政大臣・三条実美筆だそうですが、写真で見る限る扁額もまた新しくなっているようです。
当時の東照宮で残っているのはこの「二天門」と影向堂前の「石橋」だけだそうです。そしてもともとは明治初年の神仏分離令によって鎌倉鶴岡八幡宮にあった二天を奉安し「二天門」と改称したのですが、このときの二天像は戦時中、修理に出していた先で焼失したため、寛永寺の厳有院から拝領したのが現在の二天像となるそうです。
こまごまとした歴史があるものです。

浅草寺の神木・いちょう境内をぶらぶらと南に向かって歩くと大きな木があり、その周りで休憩している人がいます。


浅草寺の神木・いちょう
浅草寺本堂東南に位置するこのいちょうは、源頼朝公が浅草寺参拝の折、挿した枝から発芽したと伝えられる。
昭和5年の当時の文部省より天然記念物に指定されたが、昭和20年3月10日の戦災で大半を焼失した。今は天然記念物の指定は取り消されたが、あの戦災をくぐり抜けた神木として、今も多くの人々に慕われている。』(現地案内板説明文より)

天然記念物碑?それで思い出しましたが、「五重塔」の近くで妙な石碑がありました。
石碑がなぜか樹皮で覆われているような石碑で、「天然記念物 浅草公園…」と後は読めませんでしたが、もしかするとこのいちょうが天然記念物に指定されていたときに造られたものかもしれませんね。ということで浅草公園とやらを調べてみました。


明治16年1月15日に公園設立に関する大政官布告が示達され、当時の東京府はこれに基づき同年3月25日、浅草寺、寛永寺、増上寺、富岡八幡、飛鳥山の五公園を指定し公園としての整備を始めました。これが現在に伝わる恩賜公園です。
浅草公園地については以下のように指定されました。

浅草公園1区:浅草寺本堂周囲、浅草神社、二天門、仁王門(現在の宝蔵門)、五重塔(旧五重塔)、淡島堂
浅草公園2区:仲見世
浅草公園3区:浅草寺本堂と伝法院の敷地
浅草公園4区:公園中の林泉池、大池、ひょうたん池のあった附近(現JRA)
浅草公園5区:俗に奥山と呼ばれたところで、公園の北側。(花屋敷付近)
浅草公園6区:見世物の中心地。(当時の映画街、現在の浅草演芸ホール付近)
浅草公園7区:公園の東南部。浅草馬道一から四、五丁目等

この後7区は除外されるが、この時点で浅草寺境内は公収されたわけです。しかしその後、昭和22年に公園地から解除され再び浅草寺の所有になりました。したがって現在浅草公園という呼び名はなくなっているのですが、その名残が現在の浅草6区です。
ということから浅草神社~五重塔周辺は浅草公園1区となっていたのです。それ故その中にあったいちょうの木が指定を受けた際、浅草公園…と刻まれたのでしょう。

「旧五重塔跡」碑いちょうの木から先に進むと「旧五重塔跡」碑が立っています。


旧五重塔跡
五重塔とは、仏舎利(釈迦の遺骨)を奉安する仏塔の一つで、古くから寺院に建立されてきた。
この場所は、江戸時代の慶安元年(1648)、徳川家光によって再建された旧国宝の五重塔(木造高さ33メートル)が建立されていた場所で、現在の五重塔とは反対側に位置していた。
浅草寺の五重塔は、天慶5年(942)平公雅により創建され、その後いく度か炎上するもその都度再建されている。
江戸時代、家光再建の五重塔は、上野の寛永寺・谷中の天王寺・芝の増上寺の塔とともに「江戸四塔」として親しまれていた。
また、歌川広重・歌川国芳などの浮世絵の格好の画題としても全国に知られ、朱塗り・碧瓦(未申にあたる裏鬼門の方角の第三層には、羊角猿面の鬼瓦が葺かれる)の美しい姿を見せていたが、昭和20年(1945)の戦災で惜しくも焼失した。』(現地碑文より)

石碑から見た現在の五重塔ちょうどここから現在の五重塔を見るとこんな感じです。
「宝蔵門」の反対側にあるのがわかります。

東都金龍山浅草寺図ウィキペディアに文政3年に書かれた「東都金龍山浅草寺図」がありますが、これを見ると確かに五重塔は「雷門」から見て宝蔵門の右手にあります。
特にこれを見ると当時は宝蔵門(仁王門)から塀で囲われていて境内域が整理されていたようです。

現在「江戸四塔」の内、谷中の天王寺の五重塔は昭和32年に心中放火事件で全焼したので現在はありませんが、地元では再建に向けて運動をおこなっているそうです。
簡単にことが運ぶわけでもないでしょうが、復活すればまた「江戸四塔」として観光資源として価値の高いものになるかもしれません。

旧仁王門礎石「旧五重塔」の先の左側に何やら大きな岩が置かれています。


『旧仁王門礎石 慶安2年(1649)12月23日旧本堂と共に三代将軍徳川家光公により再建落慶した旧仁王門(国指定・現宝蔵門と同規模)は、300年間浅草寺山門として江戸・明治・大正・昭和と時代の変遷を見つめ、文学、絵画、芸能など往時の文化にたびたび登場してまいりましたが、残念ながら昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲により本堂・五重塔(家光公建立・国宝)と共に炎上焼失いたしました。
その後、現本堂に続き昭和39年(1964)4月1日仁王門を宝蔵門と改めて同跡地に再建されました。
この3つの大石は宝蔵門再建に際して旧仁王門の跡地より昭和37年2月6日に掘出された礎石です。
旧仁王門には18本の大木柱があり、それぞれに基礎石がありましたが、戦火に遭いひび割れ破損し、原型をとどめる大礎石3個を選び保存しました。
石材は「本小松石」で上端の仕上げ面は約1.2m角、柱受けのホゾ穴があり、最大幅は約1.4m角、高さ約1m。この礎石の下部と周囲は10~15cm径の玉石と粘土で突き固められていました。
江戸の人々の息吹を感じると共に、平和を祈る記念碑として受け継ぎたいと存じます。
浅草寺』(現地案内板説明文より)

ここら辺りまでがどうやら旧浅草公園1区だったところでしょう。
今は整備されて公園ではないにしろ人々の安らぎの場、或いは癒しの場として存在しているようです。

二尊仏と時の鐘

「旧仁王門礎石」からそのまま南下すると、浅草寺境内の東南の隅になります。ちょうど仲見世の裏手といったほうが分りやすいかもしれません。
「久米平内堂」の東側(裏側)でもあります。

阿弥陀如来像そこに比較的大きな「阿弥陀如来像」があります。


阿弥陀如来像
阿弥陀如来とは、無量の慈悲と智彗の光で世界を照らし、西方極楽浄土にあって我々を救済してくださる仏さま。
江戸時代前期の承応3年(1654)に、江戸の人々の願いで造立された。なお、この年には浅草寺が江戸で初めての御開帳を行い、多くの人々で賑わった。
本像は、後の文化10年(1813)に編纂された「浅草寺志」にも載せられており、江戸時代より我々を見守られている。
南無阿弥陀仏』(現地案内板説明文より)

かつてはお堂に安置されていたということから、御開帳されたのでしょう。現在は誰でも拝顔できるのはありがたいことなのですね、きっと。

二尊仏その左側に大きな像が2体並んでいます。「二尊仏」というそうです。


二尊仏(浅草寺)
台東区浅草2丁目3番  浅草寺
「濡れ仏」の名で世に知られるこの二尊仏は、観音(右)、勢至(左)二菩薩の金銅坐像で、像の高さは共に2.36メートル、蓮台を含めれば4.54メートルにおよぶ。基壇の組み石は、長さ約12メートル、幅6.21メートル、高さ1.5メートルとなっている。
蓮弁台座銘によれば、願主は上野国(群馬県)館林在大久保村の高瀬善兵衛。かって奉公した日本橋伊勢町の米問屋成井家より受けた恩を謝し、観音像は、旧主善三郎の菩提を弔うため、勢至像はその子次郎助の繁栄を祈るため、貞享4年(1687)8月に造立した。
江戸時代初期の優秀な鋳造仏の一つで神田鍋町の太田久衛門正儀の作。
安永6年(1777)2月高瀬仙右衛門が施主、千住の高瀬奥右衛門が願主となり、修理したことが観音像銘に追刻されている。
平成10年3月 台東区教育委員会』(現地案内板説明文より)

「濡れ仏」とは妙に艶っぽい呼び名ですが、調べてみれば「濡れ仏」とは単に雨風に直接あたっているという、文字通り「ずぶ濡れ仏」ということです。
何となく興味深い謂れを期待したのですが…

弁天山ここまでがちょうど境内の南端です。ここから東に移動すると「弁天山」と呼ばれる一帯があります。
小高い丘に階段があり、左に石碑が、右に鐘楼が、そして中央にお堂がある配置です。


松尾芭蕉の句碑まずは階段の途中にある石碑ですが「松尾芭蕉の句碑」です。


松尾芭蕉の句碑
くわんをんの
  いらかを見やりつ
         花の雲  はせを
俳諧紀行文『奥の細道』などを著した松尾芭蕉は、寛永21年(1644)伊賀上野(現、三重県上野市)に生まれました。
芭蕉という俳号は、深川の小名木川のほとりの俳諧の道場『泊船堂』に、門人が芭蕉一枚を植えたことに由来します。独自の蕉風を開き『俳聖芭蕉』の異名をとった松尾芭蕉は、元禄7年(1694)10月12二日、大阪の旅舎で51年の生涯を閉じました。
この句碑は寛政8年(1796)10月12日、芭蕉の103回忌に建立され、基は浅草寺本堂の北西、銭塚不動の近くにありましたが、戦後この地に移建されました。
83歳翁泰松堂の書に加えて、芭蕉のスケッチを得意とした佐脇嵩世雪が描いた芭蕉の座像の線刻がありますが、碑石も欠損し、碑面の判読も困難となっています。
奥山庭園にある『三匠句碑』(花の雲 鐘は上野か浅草か)と共に、奇しくも『花の雲』という季語が詠みこまれています。
平成2年4月吉日 浅草観光連盟』(現地案内板説明文より)

芭蕉坐像の線刻芭蕉坐像の線刻は、うっすらながら見ることができます。
いずれ完全に見えなくなるのでしょう、残念でしょうが仕方ないことですね。


時の鐘階段の右側には鐘楼があります。これが「時の鐘」です。


時の鐘(浅草寺)
台東区浅草二丁目三番 浅草寺
江戸時代、人々に時刻を知らせる役割を果たしていたのが時の鐘である。当初、江戸城中にあったが、江戸市街地の拡大にともない日本橋本石町にも設置され、さらには浅草寺や寛永寺(上野山内)など、九箇所でも時を知らせた。
 鐘の大きさは、高さ2.12メートル、直経1.52メートル。鐘銘によれば、撰文は浅草寺別当権僧正宣存で、元禄5年(1692)8月、五代将軍徳川綱吉の命により、深川住の太田近江大掾藤原正次が改鋳し、その費用として下総(現、千葉県)関宿藩主牧野備後守成貞が黄金二百両を寄進した。
この鐘は、時の鐘として、あるいは浅草寺の梵鐘として、さまざまな文学作品にも登場しているが、中でも松尾芭蕉の句、
花の雲 鐘は上野か浅草か
は、あまりにも著名である。
昭和20年3月の東京大空襲で火を浴びたが無事に残り、今なお昔のままの姿を見せている。なお、鐘楼は同空襲で焼け落ち、昭和25年5月に再建されたものである。
平成11年3月 台東区教育委員会』(現地案内板説明文より)

「時の鐘」については【蔵造りの町並と時の鐘】で訪れた川越市の「時の鐘」や、【岩槻のひな人形】で訪れたさいたま市岩槻区の「時の鐘」が埼玉県で現存する「時の鐘」でした。
「時の鐘」には、城で使われた城鐘、市中で使われた町鐘、寺で撞かれた寺鐘三種類あり、この弁天山の「時の鐘」は浅草寺ではなく市中用の町鐘だそうで、現在でも毎朝6時に鐘が撞かれています。
ちなみに現存する東京都の「時の鐘」は、この「時の鐘」のほかに、日本橋石町(現在の小伝馬町)・十思公園の町鐘、上野寛永寺 上野公園の町鐘、新宿天龍寺・天龍寺の町鐘、八王子市・念仏院の町鐘が残っています。

さてここでも何度目であろう東京大空襲の惨事が登場しますが、さすがにここまで繰り返しでてくるのであれば、東京大空襲についてアウトラインを知っていなければならないでしょう。ということで概要を調べてみました。

東京に初めて空襲があったのが1942年だそうです。しかしその当時の空襲は散発的であったのですが、1944年7月サイパン島などのマリアナ群島をアメリカ軍が制圧し、ここが日本本土空襲の基地となってから東京への空襲が極端に増えました。
実際、1944年11月14日以降終戦まで106回の空襲を受けたそうですが、そのうち特に1945年3月10日、4月13日、4月15日、5月25日の空襲が大規模で、そのうち特に民間人に被害を与えた空襲ということで、3月10日を「東京大空襲」と呼んでいます。
この3月10日の「東京大空襲」は、日本の中小企業が軍需産業の拠点となっていると理由付けし、町工場のある下町の市街地を工場のみならず市民をも攻撃するという理由で、それまでのレーダー照準を用いた高度精密爆撃から、低高度夜間焼夷弾攻撃に変更されて実施されたものです。
運命の日はその前日の1945年3月9日の夜、アメリカ軍編隊が首都圏上空に飛来したことからはじまります。これを受けて22時30分空襲警報が発動されるが、一旦アメリカ軍が退去したため空襲警報が解除されます。
その隙にアメリカ軍は3月10日午前0時7分に爆撃が開始されたのです。この間敵機来襲に気がつかなかった理由は良く分かりませんが、何かの情報漏れとか油断とか様々考えられます。
いずれにしてもこのときB-29爆撃機325機により空襲が始まり、0時7分の時点で最初に攻撃されたのが深川地区でした。その後、葛飾・墨田・江戸川区の城東地区に広がり、0時20分には浅草地区、芝地区でも爆撃が開始されたようです。
そして投下弾量は38万1300発、1783tにのぼり、午前2時37分アメリカ軍は退去し、空襲警報が解除されました。
この大規模な低高度夜間焼夷弾攻撃により、火災の煙は高度15000mの成層圏にまで達し、秒速25m以上、台風並みの暴風が吹き荒れ、当日の強い北西の季節風ともあいまって大規模な被害がでたのです。
その被害は、死亡:8万3793人、負傷者:4万918人、被災者:100万8005人、被災家屋:26万8358戸というとてつもない惨事で、当時の空襲で東京市街地の東半分が焼失しました。
このような大惨劇のなか、逆に「二天門」や「六角堂」などの木造建築物が残ったほうが不思議なくらいです。こう言った事実を知れば知るほど戦争の悲惨さを身近に感じます。

弁天堂階段の正面には「弁天堂」が建っています。


弁天堂
弁天山と呼ばれる小丘の上に立つこのお堂は、昭和58年に再建されたもの。
ご本尊は白髪のため「老女弁財天」といわれる。関東三弁天(神奈川江ノ島・千葉県柏市布施と合わせ)の一つとされ、小田原北条氏の信仰が篤かった。
境内の鐘楼の鐘は、元禄5年(1692)五代将軍徳川綱吉公改鋳の江戸時代の「時の鐘」として、芭蕉の句「花の雲 鐘は上野か浅草か」で有名。現在は、毎朝6時に役僧が撞き鳴らし、大晦日には「除夜の鐘」が点打される。
弁財天さまのご縁日は「巳の日」で、堂内にてお参りができる。』(現地案内板説明文より)

関東三弁天とは初めて知りました。江ノ島の弁財天は行ったことがありますが、柏市の弁財天は無いですね。今度福島いわき市への途中ででも寄ってみたいものです。
弁天堂をお参りして浅草寺境内を後にしました。

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