箱根駅伝と骨董市

時間は12:30ころです。
食事をと思ったのですが、さすがに正月の昼時はどこも一杯のようなので、一旦有楽町に行ってから昼食をとることにしました。
浅草駅から銀座線で神田駅へ、そしてそこからJRで有楽町駅に向かいます。
有楽町の駅を降りるとすぐ駅前が「東京国際フォーラム」です。

箱根駅伝

国際フォーラムの1階地上広場まずは骨董市を一渡り見ようと国際フォーラムの1階地上広場を右から左へ移動してみます。
かなり多くの店が出展しているようです。


有楽町駅前から国際フォーラム1階地上広場を抜けると、フォーラム沿いの道路に結構人がたくさん集まっています。
よくよく見るとここは箱根駅伝のコースです。そして正月3日のこのあたりは最後の10区の区間ではないですか。
これは何としても見なければいかんと、沿道に駆け寄り並んで待つことにしました。

「国際フォーラム」の交差点ちょうど「国際フォーラム」の交差点の角には昨年オープンした三菱1号館が見えます。
そちらの沿道に廻ってしばし待機です。


1998年の第74回大会までの第10区は日比谷通りをそのまま直進し、読売新聞社前で右折してゴールとなっていましたが、翌第75回大会からは日比谷通りの馬場先門交差点を右折し、国際フォーラム前をとおり京橋の交差点を左折して中央通りを進み日本橋を渡り、三越前を左折して読売新聞社へと進むコースに変更されたのでした。
これは、当時日本橋周辺の商工会からの要請と、東海道の始点である日本橋を通るということが箱根駅伝のクライマックスに相応しいという判断からコース変更なされたのでした。
こう言ったものは利権とまではいいませんが、どうしても胡散臭い話が付いて回りますよね。

駅伝の「広報車」そうこうしていると最初に駅伝の「広報車」がやってきて、まもなく選手が来ることと、旗の振り方とか応援の要請とか街宣車さながらに走り抜けていきました。徐々に期待感が上がってきます。


日テレの中継車ここから待つこと15分くらいでしょうか、大会関係者の車両が見え、その後にお馴染みの日テレの中継車がやってきます。


東洋大学の高見諒選手すると当然ながらその後ろからトップの選手が見えました。東洋大学の高見諒選手です。


昨日の往路は新山の神が光臨して東洋大学がトップでゴールしましたが、今日の復路もこれで決定なのでしょうか、タイムが分らないのでなんとも言えませんが。
ある程度想像してはいましたが、とにかく早い。かなり前からシャッター切っても、連写で無いのでもう一回シャッター切るのが精一杯でした。
あっという間に飛んで行きました(…という感覚)。

駒澤大学の藤山修一選手後には暫して2番手の駒澤大学の藤山修一選手がやってきました。


朝出かける前に見たときには5.6番手だったような気がするのですが、すごい追い上げです。復路を制してあわよくば総合もというところでしょうか。
ですが東洋大学とのタイム差がかなりある感じなので、総合は難しいでしょうね。

山梨学院大学の大谷健太選手そして駒沢大学の後には少しして山梨学院大学の大谷健太選手がやってきました。
6区スタートでは2位だったのですが、残念ながら順位を落としてしまったようです。


山梨学院大学の伴走車今まではとにかく選手を見て、そして写真をと気がせいていたのですが、3走者目となってややゆとりができたので、山梨学院の伴走車も写真に収めることができました。


隣にいた子供が盛んに「アシモ君」と呼んでいるので、良く見れば各校の伴走車はホンダ「ステップワゴン」でサイドに「アシモ君」が描かれていました。
よくよく見るとこの伴走車は各校のシンボルカラーと同じ色になっています。東洋大学は茄子紺、駒澤大学は紫、そしてこの山梨学院大学はペルシャンブルーといった具合です。

話は横道にそれますが(いつものことですが…)、この伴走車についても当然ながら歴史があります。
最も古い伴走車は大正13年の第5回大会のレース写真に「サイドカー」が伴走車として写っているそうです。したがって恐らく第1回の大会開始から伴走車としては「サイドカー」が使用されていたものと推測できます。
「サイドカー」が作られたのは第一次世界大戦が始まった1914(大正3)年頃、軍用として開発され製造されたのでした。
そして日本でも大正9年に始まった箱根駅伝では「軍用サイドカー」にメガホン片手にコーチが乗り込み、応援と報告を行っていたようです。
そして時代と共に「軍用サイドカー」は「軍用ジープ」に替わります。どうやら昭和34年(1959年)の第35回大会ごろから、各チームの伴走用に自衛隊のジープが使われた記録があるようです。
「レースを円滑に進めるために」という主催者の要請に対して、自衛隊が訓練の一環にと隊員とジープの提供をしてくれたのでした。
以降、長年にわたってこの伴走車であるジープに乗り込んだ監督やコーチの独特な掛け声が駅伝の名物となった時代でした。
しかし、1980年代からの交通事情が悪化し、警察庁の指導もあって平成元年(1989)年の第65回大会から伴走そのものが禁止となりました。
その後は各チームの監督、コーチが3台の「監察車」に分乗する形式に変わりましたが、途中棄権などのアクシデントが相次いだこともあって、2003年の第79回大会から1チームに1台の車の随行が再び認められ、選手の体調急変に対応するシステムとなったのです。
確かに「ジープ」の映像は記憶ある世代です。

こうしてみると箱根駅伝自体歴史と伝統のあるイベントですから、それに纏わる話もそれなりに興味深いものになるのは当然でしょう。伴走車一つをとってもこれだけの歴史があるのですが、この伴走車については、まだ話は終っていないのです。
J-CASTニュースの2008/2/15付けに興味をそそる記事が掲載されていましたので、そのまま引用します。

09年大会ではホンダの燃料電池車「FCXクラリティ」が活躍する見通しだ
正月に開催される知名度の高いスポーツのなかで、車の宣伝効果が高い大会と位置付けられているのが、群馬県で行われる実業団対抗男子駅伝大会「全日本実業団対抗駅伝大会(ニューイヤー駅伝)」と箱根駅伝だ。このうち箱根駅伝では、テレビに映る機会の多い先導車や伴走車などのメーン車両をホンダ、その他の車はトヨタが提供してきた。
ホンダが箱根駅伝への車両提供を始めたのは2004年の大会から。先導車の燃料電池車をはじめ、ミニバンや新型車など20台以上の車両を毎回提供してきた。
2003年大会以前に車両提供を行ってきたのは三菱自動車。自動車メーカー各社の宣伝担当者たちには、箱根駅伝は三菱自動車の神聖領域だ、という考えが浸透していた。
ところが三菱自動車は、車両提供契約の更新時期とリコール隠しの不祥事発覚で社内が揺れていた時期が重なった。それまで、車両提供企業の募集は大会前年の10月頃に決まっていたが、三菱自動車は社内のごたごたが続いて応募に間に合わなくなり、その間隙を縫ってホンダは2003年10月に応募して2004~2008年の5年間にわたる車両提供契約を結んだ。
当時、このホンダの車両提供契約について、箱根駅伝への車両提供で長期間の実績があった三菱自動車に同情する学生や学生OBも多かった。ホンダは三菱自動車から契約を奪った悪者とされ、ホンダの契約終了後の2009年大会からは、車両提供を三菱自動車に戻そうという声もあった。また2004年大会の番組スポンサーに三菱自動車が付いたこともあり、テレビ中継ではできるだけホンダ車を映さないようにすることが内々に取り決められた。
その後、三菱自動車は2009年以降の車両提供を目指していたが、経営再建から再生へと向かう道筋のなかで、経費削減の観点から箱根駅伝の協賛企業復帰に消極的になってきた。そこで2009年大会以降のメーン車両の提供企業の座を獲得しようと動いたのがトヨタだ。

ホンダは2008年秋に発売する燃料電池車を先導車に使用?
車両提供のメーン企業がホンダに切り替わったことをみて、トヨタは大会の運営協力会社となった。ホンダの国内販売車種にトラックが無かったこともあり、トヨタはカメラマンが乗るハイブリッド車などの車両提供を行ってきた。さらにトヨタの子会社が運営する東京・池袋の大型展示場であるアムラックス東京で、箱根駅伝の写真展を開催して関東学生陸上競技連盟との関係強化を進めてきた。
2009年大会以降のメーン車両の提供は、三菱自動車が断念する見通しであったことやトヨタの動きの活発化などにより、トヨタがメーン車両の提供契約を結ぶとの予測が高まっていた。そうした中で、ホンダは契約延長に向けて活発に動いていた。2009~2013年大会の車両提供企業の募集は2008年 10月頃と思われていたが、2008年大会が開催される前の2007年12月に2009年大会以降の契約を結んだのだ。
ホンダの契約更新はトヨタにとっては寝耳に水の話。視聴率が高く、環境性能の高い車を訴えるには格好の場である箱根駅伝で、トヨタはメーン車両にハイブリッド車を揃えてトヨタ車の環境性能をPRするつもりだった。その夢は2014年大会以降へと持ち越された。
トヨタをライバル視するホンダの関係者たちの喜びようはものすごい。ホンダは2009年大会で、2008年秋に発売する燃料電池車「FCXクラリティ」を先導車に使用することを考えている。FCXクラリティのテレビでの露出を増やし、ホンダの環境イメージを高める狙い。ハイブリッド車の販売でトヨタに敗れたホンダだが、ハイブリッド車の先にある燃料電池車を強力にアピールする場は、引き続き確保したわけだ。』
(J-CASTニュース・2008/2/15付記事)

ということで企業協賛についても様々な思惑・駆け引きがあり、それがまた一つのスピンオフとして歴史に残っていくのでしょう。
ちなみに2009年のホンダの車両提供車は「フリード」で、2010年は「ステップワゴン・第4世代」でした。
こう言ったことから各監督車には「アシモ君」が描かれていたのです。

「上田誠仁」監督さてその伴走車を眺めていたら、偶然にも山梨学院大学の駅伝の顔ともいうべき「上田誠仁」監督が乗って(当然でしょう)いるではないですか。
いやあこれは超ド級の感動モノですね、選手には申し訳ありませんが。


山梨学院大学は1987年の第63回大会以来、今年2010年まで実に24年連続24回目の出場を果たしているのです。しかもその間、総合優勝を3回し、そのうち第70回大会の総合優勝記録が10時間59分13秒で、現在2010年の大会が終了している段階で11時間の壁を破ったのは、この山梨学院大学のこの記録だけなのです(現在のコースとは異なっていますが)。
勿論、他の伝統校もそれなりの歴史と記録を持っているのでしょうが、駅伝では歴史の無い大学がこれだけの成績を残し続けているのですから、驚嘆に値するといっても過言ではないでしょう。
そしてこの歴史を作り上げたのが「上田誠仁」監督(きっと選手達だと言うでしょうが)なのです。

山梨学院大学の前身は山梨実践女子高等学院だそうで、1946(昭和21)年ですから戦後すぐ山梨実践女子高等学院が創立したのです。
その後、山梨学院短期大学となった後、1962(昭和37)年に山梨学院大学として開学したのです。したがってかれこれ50年近くになろうという、今や歴史ある大学なのです。私の母校が1964年ですから、それより2年早いのです。
しかし残念ながら、そのような歴史ある大学も恐らく当時(1980年代まで)はほとんど知られていなかったのではないでしょうか。(あくまで個人的な感想です)
しかしそれを一躍知らしめたのが「駅伝」ではなかったでしょうか。すくなくとも私は(基準にするのはおかしいが)それで知りましたので。
そういった意味では単に「陸上部」のみならず「山梨学院大学」を知らしめた偉人といっても良いかもしれません。そして「箱根駅伝」にとっても人気を高めた原動力の一つでもあります。
山梨学院大学が初出場した1987年の第63回大会は、日本テレビによる生放送が開始された大会でもあり、一般的にも非常に注目を浴びるイベントとなりました。
その中で先の総合優勝をはじめとした快挙とともに、1989年の第65回に史上初めて出場した留学生ランナーの「ジョセフ・オツオリ」の7人抜きの快走や、その後、ステファン・マヤカ(現・真也加ステファン)などの留学生ランナーがクローズアップされ、更にオツオリ卒業後の「中村祐二」の涙の棄権劇と翌年の快走によるリベンジなどなど、それまで「箱根駅伝」にあまり関心の無かった人達にも興味を植え付けたのではないでしょうか。
これらを演出したのが「上田誠仁」監督といってしまうと、まさに「箱根駅伝」の申し子とはこの人のためにある言葉でしょう。
その監督をちらり見られたのですから、個人的に興奮度はマックスなのですね。

その「上田誠仁」監督のこれまでの監督人生を「箱根駅伝」オフィシャルサイトに記載されていますので、触りだけ引用しておきます。

山梨学院大学~雑草軍団の挑戦~(1)
昭和60年4月、26歳の上田誠仁は、ある挑戦のため新天地に降り立った。それは、恩師からの思いがけない誘いがきっかけだった。
上田の母校、順天堂大学の沢木監督から大学の陸上競技部の監督に推薦されたのだ。その大学とは「山梨学院大学」。まだ陸上競技部が存在していない地方の無名校。
「近い将来、箱根を走れる選手を育てて欲しい。」そんな言葉をかけられたが、上田は半信半疑だった。先ず、山梨の大学が箱根駅伝を走れるのか?上田は、山梨の大学が関東学連に所属していることさえ知らなかった。
まさにゼロからのスタート。しかし目標は高く持っていた。3年での箱根駅伝本戦出場。厳しい戦いがここから始まった。(以下省略)』(箱根駅伝オフィシャルサイトより)

参考:【箱根駅伝・悲願の物語】http://www.ntv.co.jp/hakone/86/info/story.html

ということで山梨学院大学と上田監督の栄光はこれからもきっと続き、新たな歴史と伝統が更に積み重なっていくことでしょう。

名門校・中央大学山梨学院大学のすぐ後には「C」のマークが印象的な名門校・中央大学が迫っています。


東京農業大学そして久しぶりに見た「大根踊り」で有名な東京農業大学もすぐ後から追いかけているようです。
このあたりはあまり差がない様で、ゴールまで目が離せないのではないでしょうかね、TVでは。


新鋭・城西大学そして少し間があって第6位でやってきたのが新鋭・城西大学です。


伝統校・早稲田大学更にその後、第7位で走り抜けてきたのが、伝統校・早稲田大学です。


きしくも6位・城西、7位・早稲田というワクワクどきどきの2校です。
それというのも個人的に駅伝では「早稲田大学」のファン(特に母校でもなければ、何かの縁がある訳でもない1個人ファン)だからなのです。

そもそも駅伝に関して「早稲田大学」のファンになったのは、あの瀬古利彦氏の出現です。ちょうど同じ大学生で同年代という中での大学陸上界のスーパースターです。当時、野球界では江川卓や掛布雅之、芸能界では野口五郎などの新・御三家や桑田佳祐、そして放送作家の秋元康や、あのアグネス・ラムが一世風靡したころで、それと並んでも引けをとらない超有名人でしたね。
その瀬古氏が早稲田にいたのですから自然と応援にも力が入ろうというものです。ちなみに私の母校では陸上部があったかどうかも疑わしい位の記憶しかありません。
期待通り瀬古氏が活躍し、やがて社会人となり再びコーチとして早稲田大学に戻ってきたのが1990年で、1993年の第69回箱根駅伝では総合優勝を果たしたのでした。
このときの「早稲田大学」は実に記録にも記憶にも残るメンバーで、当時、早大三羽烏と呼ばれた櫛部静二、武井隆次、花田勝彦、そしてその後輩の渡辺康幸らと共に記録を作ったのでした。
その前々年では櫛部静二は1年ながら抜擢されながら、脱水症状によるあのフラフラになりながらも襷を伝えたという光景を忘れることができません。
このように記録でも記憶でも印象を残した総帥があの瀬古氏だったのです。

そのときの櫛部静二氏が、先ほど6位・城西大学の監督で、現在7位の早稲田大学の監督が渡辺康幸氏といわれれば、かつて早稲田大学駅伝の絶頂期のメンバーなのです。
早大伴走車選手には失礼ながら、先の上田監督同様、そちらに注目が飛んでしまうのですが、残念ながら写真では撮れませんでした。


バイク中継車こうして約20~30分後くらいでしょうか、最終の亜細亜大学が向かってくる頃には道の中央で、黒ずくめの怪しいバイクが…って単にバイク中継車でしょうが、亜細亜大学を待っているようです。


亜細亜大学そして最終の亜細亜大学がやってきました。これで今年の箱根駅伝もフィニッシュを迎えます。


祭りの終わった後亜細亜大学が走り去ると、また街は何事も無かったように平穏を取り戻します。


結局、2010年の第86回箱根駅伝は、往路優勝・東洋大学、復路優勝・駒澤大学、そして総合優勝・東洋大学という結果で幕を下ろしましたようですが、久しぶりに興奮した一幕でした。
今や正月の風物詩とも言える「箱根駅伝」ですが、いつかは芦ノ湖のゴールとスタートを見たいものです。それにしても正月らしい風情を満喫しました。

大江戸骨董市

「箱根駅伝」が終了し、再び国際フォーラム1階広場に戻ってきました。
本来はこの骨董市に来るのが主目的だったのですが、何となく主従逆転となってしまったようです。まあ、それもまた良しでしょう。
一般的に骨董市はよく社寺の境内で開かれているケースが多いようです。かつて訪れた加須市の不動ヶ岡不動尊でも境内で骨董市が開催されていました。
いつの時代でも、否、時代があるからこそアンティークには不動の人気があるのでしょう。

さて東京国際フォーラムでの「大江戸骨董市」は原則毎月第1と第3日曜日の月2回開催されています。
第1日曜日は約150店舗、第3 日曜日は約250店舗の出店があり、「古き良き物の良さを見つめ直し、日本文化を再発見する機会を提供すること、人々の交流の場・文化芸術の交流の場となること」というのがテーマだそうです。
もともとは、2003年に江戸開府400年記念事業の一つとして、丸の内エリアの賑わい作りに始まったイベントだったようですが、毎年来場者も増え続け、日本最大級の露天骨董市となっているようです。

骨董市のイルミネーション実際のところ私自身は特に骨董の趣味は持ち合わせてないので、価値がよく分りません。しかもどちらかと言えば新しい物好きなので、古いものをあえて購入する(集める)といった趣味は、かつて子供の頃の切手収集だけでした。
そんなこともあって確かに眺めているだけでも珍しいものや、貴重(そうな…)モノなどを見るには楽しいものです。
中にはドアノブなどというものも販売されていましたが、一体どうするのでしょうかね。


骨董市のイルミネーションまだ、PM3:00前ですが、若干天気も曇りがちとなったことで、広場内のイルミネーションにも明かりが灯っているようです。

特に何をということも無く3~40分、露天を見て歩いて骨董市を後にすることにしました。
ホンの少しの時間ですが、これもまた正月ののんびりした風情を満喫してみました。

参考:【大江戸骨董市】http://antique-market.jp/jp/index.html

大勝軒 最後の最後にまだ昼食をしていないことから、銀座方面に移動し、銀座INZ内の「大勝軒」で遅い昼食をとりました。


詳細は「美味是好日」の【麺家 大勝軒】をご覧下さい。
さっぱり、あたたかいラーメンで心も身体も満足でした。

2010年最初の旅と歴史は、東京・浅草寺から始まりました。
下町の繁華街・浅草と昭和を代表する繁華街・丸の内、銀座。そんな東京のコアな場所での正月も中々味わえない風情と共に、駅伝や骨董市などの風物詩も味わえて、納得の散策でした。
今年も無事に散策ができることを祈念しつつ、今回のレポートは終了です。

2010.2.5記

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