道の駅・草津運動茶屋公園

関越道渋川・伊香保ICで降りて、のんびりとした風景の県道35号線を走り、吾妻郡東吾妻町あたりで国道145号線に乗り換え、吾妻渓谷をホンのちょっと車窓で楽しみ、長野原草津口駅を過ぎてしばらくしてから、国道292号線・草津道路に入って草津を目指します。
出発してから3時間近く経過したでしょうか。草津温泉に入る前に国道292号線沿いの「道の駅・草津運動茶屋公園」に立ち寄りました。
この道の駅は国道292号線をはさんで両側に施設が位置しています。とりあえず道の左側に入ったのですが駐車場が満杯だったので、右側に駐車しました。

ベルツ記念館右側にある建物は「ベルツ博物館」で、1階がボヘミアグラスを中心としたガラスミュージアムショップとなっていて、2階が博物館となっています。到着してすぐお土産もないものですので、ここはやはり草津に所縁の深い「ベルツ記念館」を見学します。


「カルロヴィ・ヴァリ市 クアハウス(カイザーバード)の人物壁画」2階に上がって博物館入口のすぐ左手に大きな絵画が展示されています。「カルロヴィ・ヴァリ市 クアハウス(カイザーバード)の人物壁画」という絵画で、隣に解説があります。


カルロヴィ・ヴァリ市・クアハウス(カイザーバード)の人物壁画について
作者 ヴィルヘルム・シュナイダー
ベルツ博士は専門の内科医のみでなく、広く温泉医学を推奨し、積極的に温泉場の開発にも助言した。
博士は「ベルツの日記」の中で、「草津には、無比の温泉以外に、日本で最上の山の空気と、全く理想的な飲料水がある。このような土地が、もしヨーロッパに有ったとしたら、カールスバードより賑わうことだろう」と記して、草津の温泉地として環境・温泉の優秀さを述べております。
それでは”カールスバード”とはどのような温泉観光地でしょうか。現在はチェコ共和国で一番大きな温泉観光地で、カルロヴィ・ヴァリと呼ばれております。1349年のことローマ帝国皇帝カール四世は、西ボヘミアのエルボーゲン城に滞在中、この辺りで狩に興じて、獲物の鹿を追って、猟犬が熱いお湯の中に落ち温泉のあることを知りました。皇帝はこの地に狩の館を建て、1370年8月この地に都市権を与え「カールスバード」と命名しました。17世紀以降飲泉が盛んになり、バッハのクアー音楽が開かれ、ベートーベンとゲーテとが出会い、ワグナーが訪れ、ドボルザークの「新世界交響曲」のヨーロッパ初演が行われたのもこの温泉地でした。
また、マリア・テレーザーが軍用浴場を作り、メッテルニッヒがカールスバード決議を行い、ビスマルクがドイツの統一について、オーストリア皇帝やその他の国の王と会談を行い、トルストイやフロイドもマルクス等も保養に来ました。
壁画には1700年代初頭から、1900年代初めまで、この地を訪れた、王侯貴族や芸術家等の多くの著名な方々が、訪れた年代を問わず画かれております。
この町ほど「温泉と文化」の深い関係を感じさせる温泉地も少なく、語り尽くせないほどのエピソードを秘めたヨーロッパ随一の高級保養地として栄えました。
ベルツ博士は、この地のような温泉観光地を造りたいと熱望して、草津町に12,000坪の土地を購入しましたが、夢ならず帰国の途に着きました。
1992年(平成4)5月20日、草津町は温泉観光地の範とすべく、友好姉妹都市を締結して、交流を重ねております。』

おそらくこのイメージを草津のイメージとして持っているのでしょうね。所謂、日本の「温泉と文化」の町・草津・・・ではないでしょうかね。そいいった意味で入口すぐにこの絵画が掛けられているのではないでしょうか。

ベルツ記念館内の展示館の中央付近にはさまざまな展示品や写真などがところ狭しと掲げられています。


ベルツ記念館内の展示一番奥には2体の胸像と額、資料などが展示されています。館内にあるさまざまな案内から「ベルツ博士」を知ろうと思います。


エルウィン・フォン・ベルツ博士
ベルツ博士が祖国ドイツを離れて来日したのは、維新まもない明治9年のこと、そして東大を退官して日本を去ったのが日本海海戦の翌月、明治38年6月のことでした。博士の29年間に及ぶ滞在期間は、日本が東洋の一小国から世界の強国に列するようになった、まさに飛躍と波瀾の時代だったのです。
国際社会に漕ぎ出したばかりの日本に27歳で降り立ち、我が国の文化に多大な影響を及ぼした。「日本の近代医学の父」ベルツ博士。日本女性と結婚し、日本の温泉を世界へ紹介し、医学に留まらず、人類学・民俗学の面でも日本の先駆者たる博士の熱いまなざしは、今なお鮮烈な光をともなって日本人の姿を浮き彫りにします。
ベルツ博士とゆかりの深いこの草津の地を通して、あらためて明治の偉人の視点を探ってください。

明治のお雇い外国人、ベルツ
エルウィン・ベルツは1849年(嘉永2年)南ドイツのシュワーベンの小都市、ビューティハイムで、建築士である父カール・ベルツと、母カロリーネの次男として生まれました。医学を志したベルツは同郷の有名な内科教授ヴンダーリッヒに師事し、優秀な成績でライプチヒ大学を卒業後、同校の講師となりました。
そして1876年(明治9年)日本政府から招かれ、東京医学校の教師となり、以降半生を日本の医学の近代化に尽くしたのです。
ベルツ博士は異国の地での生活のなかで、鋭い見識を持って、明治の世相の表裏を日記に綴っています。ベルツの視点は時に厳しく批判を加えながら、徹底したヒューマニストとしての愛情にあふれています。
1905年(明治38年)ベルツ博士は帰国の年に、多年の功労に対し勲一等旭日大綬章を授与されました。博士は生涯の大半を日本で送り、帰独後わずか8年で1913年(大正2年)8月31日、シュツットガルトで64才の生涯を閉じました。

ベルツ博士、侍医として
「お雇い外国人」として東京医学校教師となったベルツ博士は、内科学・生理学・産婦人科・精神病学等を担当して、実に800名以上の医師を育成しました。ベルツ博士の同僚であり親友であったスクリバ博士と共に、博士が日本医学界の近代化に果たした功績は大きく、多くの日本の弟子が感謝と敬意を表わしています。
医師ベルツの名は当時の日本に於いて広く知られ、多くの高位・高官がベルツ博士の往診を受けました。
1902年(明治35年)に東京大学医学部を満期退官後は、宮内省御用係、侍医局顧問としてさらに3年間、皇太子殿下(大正天皇)の健康管理を任せられ、沼津御用邸や葉山御用邸の御造営から、皇太子妃選定の審議に至るまで、力を尽くしました。
ドイツに帰国してからもベルツ博士の力を望む声は強く、1908年(明治41年)には伊藤博文候の依頼で再来日し、皇太子殿下の健康状態を診断しています。』

このように人生の約半分を日本で過ごし、日本の医学界に寄与した人で、侍医としての待遇もあったことから、かなり信望・信頼の厚い人だったことが伺えます。
エピソードとして明治16年、咽頭癌に侵されていた岩倉具視の症状が悪化したことを聞いた明治天皇は、勅命によってベルツ博士に診断させ、ここで岩倉卿はベルツ博士から癌告知を受けたのですが、この岩倉卿が史上初めて「癌告知」を受けた日本人だったそうです。
また、家族については以下のように解説されていました。

花・ベルツ
異国の地でベルツ博士の支えとなったのは、婦人の花(荒井はつ)でした。花は、医師として病気と戦うベルツ博士を献身的に助け、また美術品の鑑識眼のある点でも、夫の力となりました。花はベルツ博士との間に一男一女をもうけますが、長女ウタは3歳にして夭折し、夫妻を深く悲しませます。毅然とした態度で悲しみに耐える花の姿を、ベルツ博士は日記の中に「まるで古代ローマの女性のようだ」と記しています。
ドイツに帰国して間もなくベルツ博士が他界し、花は息子トク(徳之助)とともに、未亡人として暮らします。折りしも第一次世界大戦の中、敵国人としてドイツに暮らす花の力強い姿は、ドイツの人々にも感銘を与えたとのことです。
晩年の花は日本に戻り、ベルツ博士の親友であったスクリバ家との親交の中で、落ち着いた生活を送りました。』

ベルツ博士は親友であるシーボルトの影響を強く受け蒐集活動にも取り組むだようです。江戸時代中後期から明治時代前半にかけての日本美術・工芸品約6000点を収集しました。
現在これ等はシュトゥットガルトのリンデン民族学博物館にベルツ・コレクションとして収蔵されていて、2008~09年にかけて「江戸と明治の華-皇室侍医ベルツ博士の眼」展として日本各地で公開されたそうです。
また、文化の面でもシーボルトの影響を強く受け、歌舞伎の鑑賞に出かけたり、フェンシングの達人でもあったシーボルトと共に当時随一の剣豪、榊原健吉に弟子入りしたそうです。

また、花とのエピソードにも「ベルツ水」があります。
これは1883年箱根富士屋ホテルに滞在中、女中の手がヒビやアカギレで苦しんでいるのを見て、花から日本では良いスキンケア用品がなく、日本中女性が苦しんでいると聞かされ、植物油から「石鹸」の製造を指導し、その製造過程で生成されるグリセリン(保湿)と日本酒(殺菌:現在は消毒用エタノール)を主原料として、誰もが簡単に作れるものとして「ベルツ水」を考案したそうです。現在でもこの「ベルツ水」はグリセリンカリ液として日本薬局方・薬価基準に収載されています。

このように日本に多大なる影響を与えながら、日本からも多くの影響を受けた人といえるでしょう。
ちなみにもう一人の胸像は花の晩年親交のあったスクリバ博士です。

ユリウス・スクリバ博士
ドイツ人 医学者 外科医
明治14年(1881)に招聘されて来日し、東京大学医学部教授となる。明治34年(1901)までの20年間、ベルツ博士と共に日本の医学のために貢献した。
特に外科に関する診療にあたり、大津事件にも活躍する。親友ベルツ博士と草津を訪れ、町民にもスクリッパさんとして慕われる。
明治34年大学退職後、築地聖路加病院に就任。明治38年(1905)56歳で日本の地で没す。』

ベルツ博士の親友ということで、スクリバ博士もまた草津に寄与した博士ということで胸像が残されているのでしょうね。
ちなみに大津事件とは、1891年(明治24年)5月11日に日本を訪問中のロシア帝国の皇太子・ニコライ(後のニコライ2世)が、滋賀県大津市で警備にあたっていた巡査・津田三蔵に突然斬りかかられ負傷した、暗殺未遂事件ですが、スクリバ博士がどのように関わったのかは判りませんが。
そこで肝心の草津との関わりを案内から見ます。

温泉地のありかたを指導する
昔より上州の草津の地に湧き出る温泉は、病苦を取り除き、病重い人も日ならず治ることが語り伝えられ、浴客は広く各地より集まり、草津温泉独特の入浴法で療養に利用されていた。来日したベルツ博士は、これを指導する機関の無いことや、科学的な研究が必要なことを訴え、明治13年7月「日本鉱泉論」を内務省中央衛生会より出版して、全国の温泉地に向けて改善すべき事柄を説いた。その主な改良の事項は、温泉地への交通の利便性の必要を訴え、温泉地に対しては、旅館の不備な点を挙げて改良を求め、温泉医を置くことを薦め、温泉委員の任命による温泉総体の利益を確保する為の管理を図り、遊歩道の開設、クーア・ハウスを設け読書や音楽を薦めること等を提言した。
これらの提言を基に、当時の草津の指導者は、明治20年に「草津温泉改良会」を設立して、近代化に向けての基礎造りを始めました。

草津温泉を世界に宣伝
ベルツ博士が始めて草津温泉を訪れたのは、明治11年8月、越後長岡に恙虫病の研究に向う途中のことです。ヨーロッパにない特異な泉質と神秘的な効能に強烈な興味を抱き、その後毎々訪れた。殊に高温泉の独特な入浴法の「時間湯」と、水素イオン濃度1.5~1.7と云う強酸性の温泉の中では、細菌は発生も生存も出来得ぬこと、難病のハンセン病も全治することが有り得る泉質である等をヨーロッパの学会に発表した。博士の意志は直弟子により東京帝国大学医学部物療内科に引き継がれ、草津温泉の科学的研究が行われました。
温泉医学に関する博士の論文
1880年(明治13年)日本鉱泉論
1881年(明治14年)The Baths of Japan
1884年(明治17年)持続温浴ノ説
1887年(明治20年)温浴中ニ於ける皮膚ノ呼吸
1896年(明治29年)熱水浴療論』

草津温泉独特の入浴法である「時間湯」とは簡単にいえば、源泉100%の沸き立ての温泉をそのままの形で取り入れて、湯もみ(六尺から七尺の長板でかき回して温度を下げ成分を均一化、柔らかな湯にする)をして入湯する伝統的な入浴法だそうですが、この入浴法の科学的分析が必要と見抜いたベルツ博士も確かにすごいのでしょうが、特に科学的な根拠もなく「時間湯」を行なっていた草津という風土、あるいは文化もそれなりにすごい土地なのでしょうね。

参考:【時間湯オフィシャルサイト】 http://jikanyu.net/index.html

そもそも草津温泉は江戸時代の温泉番付では当時の最高位の東大関(西大関は有馬温泉)にランクされるほど名実共に日本を代表する名泉の一つであったことから、これ等のベルツの紹介により、より科学的に、そして文化としての草津を再発見させたといったところでしょうかね。

展望通路非常に興味深かった「ベルツ記念館」を出ると、そのまま展望通路によって道路を隔てた反対側の施設に出られます。


こちらには「草津高原植物博物館」「日独ロマンチック街道資料館」「道の駅総合案内所」があり、随分と盛りだくさんの内容だと思いきや、資料館や博物館は名前だけで基本はお土産屋です。
日独ロマンチック街道資料館ドイツのロマンチック街道は有名ですが、それになぞったものがこの日本ロマンチック街道で、栃木県の宇都宮市から長野県上田市までを通じる道をそう名付けられています。

特にお土産を見るわけではないので、ここでこの道の駅を離れます。
ここから一旦草津に向かい、そのまま抜けて白根山に向かいます。

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