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大間木散策

本来なら盆も過ぎた8月25日ですから、そろそろ日差しも弱まり日中は暑いながら夜は大分涼しくなるといった気候のはずですが、今年は容赦ない猛暑が続いています。8月25日でも35度程度まで気温も上昇し、夜も熱帯夜の連続です。
そんな猛暑の中、涼しいうちにと訳のわからない理由でAM8:00過ぎには自宅を出発です。車で向かった大間木は40分程度で到着です。 今回の「通船堀」実演は10:00からなので、まずは大間木の社寺を訪ねることにしました。
かつてすぐ近くに住んでいながら、存在すら知らなかった寺院から散策します。

清泰寺

清泰寺は浦和明の星女子高校の近くなのですが、当時明の星女子高校の存在は知っていましたが、「清泰寺」については全く知識がありませんでした。最も当時30代でしたから、よほどその趣味が無ければ寺院めぐりはしないでしょう。
その清泰寺は路地の更に奥まったところの意外と分かりにくい場所にありましたが何とか到着です。
清泰寺山門
まずは清泰寺の由緒です。

清泰寺
清泰寺は、天台宗の寺で慈了山覚源院といい、平安時代初期の高僧慈覚大師円仁(延暦寺三世座主)によって開かれたと伝えられている。本尊は十一面観音立像(秘仏)で、江戸時代初期の作とされている(市指定有形文化財)。
境内に並ぶ351基の庚申塔は、天明3年(1783)と万延元年(1860)に建てられたもので、一括して市指定有形民俗文化財になっている。また、ここにある武田信玄の娘見性院の墓は県の旧跡に指定されている。
見性院は、穴山梅雪(武田の武将)の妻であったが夫の死後、徳川家康の知遇を得、大牧村を采地として与えられていたが、元和8年(1622)没して清泰寺に葬られた。見性院が養育した二代将軍秀忠の子幸松丸(後の会津23万石の城主保科肥後守正之)は三代将軍家光を補佐し幕政で活躍した。
また、本堂須弥檀に安置されている有泉勝長木牌も市指定有形文化財である。有泉家は勝長の弟五兵衛が大牧村に居住し、子孫累代見性院の墓所に奉仕したといわれている。
昭和58年3月 さいたま市』(現地案内板説明文より)

全くもってこのような由緒ある寺院を知らないとは、若気の至り(何が・・・)とはいいながらも、実に残念な日々を送っていたのですね、当時は。
本尊はともかくとして、山門の手前にはその351基の庚申塔のホンの一部が並んでいます。
清泰寺庚申塔 その前にある石柱には慈覚大師御作 足立坂東第六番目十一面観音菩薩と刻まれているそうです。これだけでも歴史の重みを感じます。

山門をはいって右側には数多くある文化財の説明があります。

清泰寺の有形文化財

市指定有形文化財(彫刻) 木造十一面観音立像 
昭和36年3月31日指定
木造十一面観音立像は清泰寺の本尊で、12年に一度の午年にご開帳されます。座高122cmで、台座と円形の光背がつき、左手に水瓶を持っています。寄木造り、彫眼で、古色仕上げですが、両眼などに後世の彩色が施してあります。大きめの変化面を載せた頭部は小さめで、腰を絞った引き締まった体躯と膝まで届く長めの腕を持つ観音像です。
緊張感のある写実的な表情、バランスの良い体躯、複雑で陰影のある装飾的な衣文構成などに、鎌倉時代後期以来流行した宋風彫刻の特色を顕著に見せる秀作といえます。様式技法的に見て、室町時代前半より以前に東国仏師が制作したものと考えられます。

市指定有形文化財(工芸品) 半鐘
昭和62年3月31日指定
この半鐘は銅製で、総高64.5cm、口径37.6cmです。毛彫りされた銘文から、宝永7年(1710)に清泰寺の納められたもので、江戸神田の鋳物師粉河市正が鋳造したものであることがわかります。
総高に対して口径がやや広めですが、形の整った仕上がりのよい半鐘です。製作年、鋳物師名の明らかな近世工芸品として貴重なものです。

市指定有形文化財(工芸品) 見性院霊廟三具足
平成元年3月27日指定
三具足とは、香炉、花瓶、燭台からなる仏具です。清泰寺の三具足には三基とも毛彫りの銘文があり、寛政元年(1789)に会津藩主により見性院霊廟に寄進されたものであることがわかります。いずれも真鍮製で、時代を反映して本体は簡素ですが、香炉の蓋に獅子、花瓶と燭台にはそれぞれ一対の揚羽蝶の飾り金具がつきます。
保存状態が良く、製作年などの由来が明らかな金工品として貴重なものです。

市指定有形文化財(歴史資料) 有泉勝長木牌
昭和51年3月30日指定
有泉勝長は会津藩士で、清泰寺ゆかりの藩主保科正之より300石を与えられていました。この木牌は、勝長の37回忌にあたる元禄16年(1703)に、勝長の娘婿勝隆が清泰寺に納めたものです。ケヤキ製で総高84.6cm、正面に勝長の法名などが刻まれています。また他の三面には、武田信玄、穴山梅雪、見性院、徳川家康、秀忠、保科正光、正之、勝長などの事績を記す牌後譜が刻まれています。
平成14年10月 宗教法人清泰寺 さいたま市教育委員会』(現地案内板説明文より)

この左側には先ほどの庚申塔が石垣のように連なっていて、その中に十三重塔や石碑が立っています。
清泰寺庚申塔
案内板の先、境内の右側を先に進むと境内の境界に沿ってこちらにも夥しい数の庚申塔が並んでいます。
清泰寺庚申塔 ま、確かに351基あるのですから、夥しいことは間違いないのですが、ここまであると何となくありがたみが・・・。

この反対側が本堂なので、後先になりましたが参拝を済ませます。
清泰寺本堂 植木が綺麗に刈り込まれていて気持ちのよい境内です。

本堂から左手に進むと鐘楼がありますが、ここにある鉦は文化寺の半鐘ではないようです。
半鐘
さらに文化財の説明があります。

清泰寺の文化財

県指定旧跡 見性院の墓 昭和36年9月1日指定
見性院は武田信玄の娘で、穴山梅雪の妻でしたが、梅雪の死後、徳川家康に養われました。そして2代将軍秀忠に男子幸松丸が誕生すると、その養育を頼まれ、7才まで育てました。幸松丸は、後に信州高遠の城主保科正光の養子に迎えられ、保科正之と称しました。正之は高遠から最上へ、そして会津へと移り、23万石の大名となり、幕政にも参画しています。
見性院は元和8年(1622)に没しました。大牧村が所領であったことから、ここ清泰寺に葬られましたが、見性院に受けた恩を忘れなかった正之は、その冥福を祈るため清泰寺に霊廟を建てました。なお、安政5年(1858)建立の現在の墓石は、会津藩により建てられたものです。会津の人々も、名君を育てた見性院を慕っていたことがわかります。

市指定有形民俗文化財 清泰寺の庚申塔  昭和36年3月31日指定
清泰寺の境内には、垣根のように並ぶ庚申塔349基と、青面金剛像浮彫りの庚申塔1基、自然石の庚申塔1基があります。一箇所にこれだけの庚申塔がまとまって存在しているのは、非常に珍しいことです。
349基には、正面に「庚申塔」の文字と寄進者の住所氏名が陰刻されているのみです。しかし、青面金剛像の庚申塔には、右側面に「更新五拾ケ度供養塔」、左側面に「天明三」などの陰刻銘があります。また、自然石の庚申塔には、正面に「三百 庚申塔」、台座裏面に「万延元」などの陰刻銘があります。これらにより、349基は天明3年(1783)と万延元年(1860)とに奉納されたものであることがわかります。ただし、349基はほとんど同寸同形状のため、五十庚申と三百庚申の区別はつきません。
庚申塔の寄進の範囲を見ると、市域はもとより、県南の各地から遠く東京、千葉まで及び、当時の庚申信仰がいかに盛んであったかがよく分かります。

◎清泰寺にはこの他にも次の4件の市指定文化財があります。
市指定文化財(彫刻)木造十一面観音立 昭和36年3月31日指定
市指定文化財(工芸品)半鐘 昭和62年3月31日指定
市指定文化財(工芸品)見性院霊廟三具 平成元年3月27日指定
市指定文化財(歴史資料)有泉勝長木脾 昭和51年3月31日指定
平成14年10月  宗教法人清泰寺 さいたま市教育委員会』(現地案内板説明文より)

ということで、この清泰寺には6つの文化財があることになります。
庚申塔351基のうち、青面金剛像浮彫りの庚申塔1基、自然石の庚申塔1基はどこにあるのでしょうか。
庚申塔 青面金剛像浮彫りの庚申塔1基は、もしかするとこれかもしれませんが、刻まれた文字を良く見なかったので分かりませんが、まあ、そうゆうことにしておきましょう。

残念ながら文化財のうち今のところ庚申塔しか見ることはできませんでしたが、最後に見性院の墓に向かいます。これは見学できそうですね
見性院墓所 墓地の中にある道標を辿って進むと正面に門らしきものがあります。

『埼玉県指定旧跡 見性院の墓 指定年月日 昭和36年9月1日
(前略・・・先ほどの文化財案内板と重複する部分は割愛します)
・・・保科正之は会津松平家の祖となりました。元和8年(1622)5月9日、見性院は没し、采地であったここ大牧村清泰寺に葬られ、一本のケヤキが植えられました。また、正之は養母の死をいたみ、寺境内に霊廟をつくりました。
元禄期になり、保科正容のとき松平の性と三つ葉葵の紋が許されました。霊廟はこわれてしまったので門扉のみがここに移され、また、墓標のケヤキも倒れてしまったので安政4年(1857)会津藩により墓石が建てられました。
昭和59年10月 清泰寺 浦和市教育委員会』(現地案内板説明文より)

残念ながら手前にある門で奥まで近づけないようなので、少し遠目から見ることになりますが、奥の門扉についている紋がまさしく三つ葉葵の紋所です。
見性院墓所 まさしく戦国から江戸時初期における歴史を感じさせる旧跡です。

もともと二代将軍・徳川秀忠の愛妾御静の方が懐妊したのに対して、正室である御江与の方(淀君の妹)の嫉妬を避けるために、その秀忠の子、幸松丸を見性院に預けたいう経緯もあって、すぐには三つ葉葵は使わせることは出来なかったのでしょうね。
ちなみに来年の大河ドラマはこの御江与の方が主役ですから、多少は出演があるかもしれませんね、見性院の。
綺羅星のごとく煌く文化財を数々知って清泰寺を後にしました。

大間木氷川神社

清泰寺を跡にして、ここから程近い「大間木氷川神社」に向かいます。
ちょうど道路が合流するデルタ区域に神社はありました。
駐車場の前に案内板があります。

赤山街道
所在地 浦和市大字大間木
赤山街道は、関東郡代の伊奈氏が寛永6年(1629)に陣屋を構えた赤山(川口市赤山)に向かう街道であった。街道の起点は与野市あたりと考えられ、浦和市内の木崎・三室・尾間木地区から八丁堤を通って赤山に通じていた。
伊奈氏は、清和源氏の流れを汲む武人で、信州伊奈に住んだことから伊奈氏を称した。その後三河に移り松平氏、徳川家康に仕え、家康の関東入国後、伊奈氏は小室(伊奈町)、鴻巣などに一万石を領し、小室や土屋(大宮市)などに陣屋をおいて累代治水事業に力を注いだ。
三代目半十郎忠治は、関東郡代となり、また勘定奉行も兼ね、赤山領七千石を拝領し、赤山に陣屋を移した。忠治は治水、灌漑、新田開発に力を入れ、特に利根川、荒川の大改修を行い、寛永六年には八丁堤を築き見沼溜井造成に着手した。
現在、赤山街道は与野市や浦和市内で赤山横町とか赤山通りと呼ばれ、歴史と生活が結びついた道路となっている。
昭和58年3月 埼玉県』(現地案内板説明文より)

これを読んでいて何となくぼやけた記憶が甦ってきます。 恐らく25年前、しばらくの間この氷川神社前を毎日通勤で往復していたような気がします。
当時私が住んでいたところは、現在の東浦和駅前の道を北上して、国道463号線と交差する東浦和駅入口の交差点をさらに北上して、現在のTSUTAYAのあるあたりの道路を隔てた反対側に住んでいました。
25年前に引越した当時は、JR東浦和駅前の路を進むと現在在る最初の信号(角に書店がある)の交差点から先にはまだ工事中で道がなかったので、この交差点を右折して、この赤山街道を進み(当然氷川神社横を通るわけです)、清泰寺を過ぎてしばらく行き左折すると交差点にでます。その角にあるのが現在でもある澤利喜商店というお米屋です。
そして澤利喜商店から現在ある駅前通りを真直ぐ進むと、当時のこの道は東浦和駅入口交差点までしかなく、その先はさらに工事中でした。 そこから交番の横の路地を入って・・・、というトンデモな道で、結局当時、東浦和駅前通りの最初の書店のある交差点から、澤利喜商店までの間には真直ぐな道が無かったのです。
そういえば現在その間にある割烹赤坂はもともと赤山街道沿いの氷川神社から清泰寺の間辺りにあったような記憶があります。
その後、恐らく1.2年して澤利喜商店までの工事が完了して、東浦和駅前から東浦和駅入口まで一直線になってから、通らなくなりましたね。割烹赤坂もそれで現在の地に移転してきたはずです。ということで昔は、赤山街道が主要道路だったのでしょうね。
因みに東浦和駅入口からさらに先への道は、結局住んでいた10年間間際で出来上がり、殆どその恩恵を受けないうちに引っ越した記憶があります。
いずれにしても東浦和の歴史の一端を垣間見ていたことになるのかもしれませんね。

実際の赤山街道がこの通りですが、左側の住宅などは皆無だったような気がします。
赤山街道

大間木氷川神社鳥居 鳥居を抜けて境内に進みます。

『浦和市指定有形文化財(建造物)大間木氷川神社本殿
指定年月日 昭和47年4月19日
この本殿は、「神社明細帳」には、寛文7年(1667)、武蔵国一宮氷川神社(大宮市)の造替にあたり、旧本殿を買受けて建立したとある。さらに、平成7年の修理の際、寛文7年2月、氷川大明神一宇を造立した旨が記された棟札が見つかり、この地での建立時期を明らかにすることができた。
本殿は、一間社流造り、屋根、旧・こけら葺き(現・こけら葺き形銅板葺き)で、桁行2.56メートル、梁間2.45メートルの身舎に奥行1.96メートルの向拝がつく。土台上に立ち、身舎柱は円柱(縁より下は八角形)で、長押、頭貫、腰貫で固め、柱上は連三斗組となる。中備は蟇股で、正面は鳳凰、左右は牡丹の彫刻である。柱間は、正面が幣軸に板唐戸、他の三面が横嵌板となる。正面および両側面は浜縁がめぐり、脇障子、高欄がつく。妻飾りは、虹梁・太瓶束式である。向拝柱は、大面取りの角柱で、身舎柱とは海老虹梁で繋がれている。向拝柱には、絵様木鼻のある水引虹梁を架し、柱上連三斗組、中備は蟇股で、竹に虎の彫刻がある。正面に五級の木階を設け、向拝柱の前面に大床を張る。軒は二重の繁垂で、飛軒垂は先端に反り増しが見られる。
平成5年7月、拝殿の火災で罷災し、大きく焼損したが、平成7・8年にかけて浦和市の補助事業として根本修理を施し、寛文期の姿に復した。
この本殿は、武蔵国一宮の旧本殿と考えられる貴重な遺構であり、建立年代を明らかにし、規模大きく、意匠も優れた建築として、きわめて保存価値が高いと言える。
平成8年11月 浦和市教育委員会 氷川神社』(現地案内板説明文より)

拝殿は修復されたようで、何となく屋根が大きく、ちょっとバランスが悪そうな感じがしますが、本殿はさすがに荘厳さを感じさせます。
大間木氷川神社拝殿大間木氷川神社本殿
説明にある内容はほとんど理解できませんが、細かく見れば彫刻など施され、手のかけられた本殿というのがおぼろげながら感じることが出来ます。まして、武蔵国一宮氷川神社の旧本殿であるということは大変貴重な文化財といわざるを得ないでしょう。このあたりは何となく私でも理解できるところです。

それにしても、毎日通っていた道にあった神社のこんな由来を知らないとは、失った日々の大きさに今更ながら悔やまれむ(・・・というほど大げさなものではないでしょうが)かぎりです。
最後にゆっくり参拝して「大間木氷川神社」を離れました。

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