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歴史と文化を巡る

白根神社社号標と一の鳥居丁度、湯畑の東側を散策しましたので、今度は北側を散策します。
西の河原通りの1本北側の道(といっても先に進むと合流するのですが)を西に向かって歩いていくと、右手に結構長い階段と階段脇に「白根神社」と刻まれた社号標が立っていました。


白根神社参道と二の鳥居白根神社拝殿「朝からきついなあ・・・」などと思いながら階段を上がると参道になります。
二の鳥居をくぐってまずは社殿で参拝をすませました。


特に由緒書きなどがなかったので少し調べてみました。
ここの草津温泉を発見したといわれる日本武尊を祀った神社で、もともと白根山の従1位白根明神と本白根山の従2位小白根明神を明治に入ってから合祀したものだそうです。
白根山はその昔は修験の山で女人禁制の霊山でもあり、その麓に位置する草津は白根山修験の根拠地だったことから、草津に鎮座する白根神社は白根山を信仰の対象にしていて、草津温泉の鎮守としての役割を果たしていて、毎年7月17.18日(丁度来週です)には10数基の神輿が町を練り歩く白根神社祭礼が行なわれ、草津には欠かせない神社のようです。

芭蕉句碑境内はかなり広く(・・・というより山一体が境内? というくらい広そう)様々な文化が見れる場所でもあるようです。
まず目に付くのが社殿の左手の大きな碑で、芭蕉の句碑のようです。


芭蕉句碑 草津町指定文化財
夏の夜や谺にあくる下駄の音
天保13年(1842)、俳聖芭蕉の150回忌を修めた草津の俳人一夏庵坂上竹烟によって建てられました。
「夏の夜や谺にあくる下駄の音」の句は、芭蕉が元禄4年(1691)京都嵯峨に、いた、門人去来の落柿舎でつくったもので、芭蕉「嵯峨日記」に収められています。
竹烟は湯治場草津温泉の夜の賑わいをこの句に感じたのでしょうか。書は竹烟の師田川鳳朗によるもので、碑背は碑建立の趣旨が、同じく鳳朗の書で刻まれています。通称「夏の夜塚」と呼ばれています。
草津町教育委員会』

芭蕉が京都で詠んだ句ですが、草津温泉のことを詠んだものだと言っても良いじゃないかと竹烟なる人が決めて、実にこの句は草津温泉に相応しいと云うことで句碑を建てたという、ある意味身勝手な句碑のように思えますが。
単に身勝手などといっては失礼なので、竹烟なる俳人を調べてみました。
「坂上竹烟」とは江戸時代後期の俳人で、寛政7年生まれで草津で温泉宿を営んでおり、田川鳳朗にまなび、諸国の俳人とまじわりながら竹烟社をつくったそうです。
そのような経歴の竹烟は、100年以上前に没した芭蕉の「正風の俳諧」(・・・芭蕉スタイルとでも言うのでしょうか)を伝えたいが為に、敢えてこうした句碑を建てたようです。
「奥の細道」などで有名な芭蕉は全国各地を行脚遍歴したのですが、残念なことに群馬県内には来遊したことが無かったこともあり、かえってそれにより句碑を作る機運が強いのかもしれません。ちなみに群馬県内の句碑は200基以上あるそうですから。
こういった所以を知ると”身勝手”などといっては大変失礼になるでしょう。訂正して、自分の身勝手さをお詫びします。

草津鷲湯碑芭蕉句碑の斜め前には、「草津鷲湯碑」という碑があり、案内が横にあります。


草津鷲湯碑 草津町指定文化財
鷲乃湯は、草津温泉で最も古い共同浴場で、滝下通りにあって、昭和44年(1969)まで時間湯の浴場として多くの湯治客に利用されていました。この碑は明治37年(1904)に湯治客たちが温泉の効能に感謝して建てたもので、碑文は当時の日本皮膚科学の指導者土肥慶蔵博士が、草津温泉の発展を予見し、傷ついた鷲によって発見されたといわれる鷲乃湯の由来と効能をたたえたものです。
また、筆跡は明治の三筆といわれた巌谷一六先生の作で、碑の側面には鷲乃湯の湯長小松原勝蔵の偉徳記が刻まれています。
草津町教育委員会』

滝下通りといえば先ほど歩いてきた古久長や大阪屋の間の通りのことで、あのあたりに「鷲乃湯」があったのですね(後に調べたら古久長の隣だったそうです)。でもって「鷲乃湯」は草津温泉発祥の湯といわれているようです。
でも、その碑が何故白根神社の境内なんでしょうかね。

ところで、ここに刻まれている三筆とは文字通り三人の優れた書道家のことですが、巌谷一六以外の他の二人を調べると、「中林梧竹」「日下部鳴鶴」という書道家だそうで、3人とも始めて聞く名前です。それぞれのプロフィールは置いといて、ここは三筆について調べてみました。
そもそも三筆とは、平安時代に活躍した「空海」「橘逸勢」「嵯峨天皇」の三人のことを指すのだそうです。その後時代によって寛永の三筆とか、幕末三筆、昭和三筆など所謂、日本人の好きな”三大○○”と同じ意味合いのものでしょうが、各時代時代によって称されていたのですね。
ちなみにややこしいのは、三筆のほかに「書の三聖」という3人の書の名人もいたそうで、これは「空海」「菅原道真」「小野道風」のことを言うらしいです。更にややこしいのは「三跡」というのもあって、これは書道の大御所三人のことで、三筆は各時代にいるのですが、後世にまで影響を与えた人は3人しかいないといわれ、これを称して「三跡」というそうです。
栄えある「三跡」となったのは「藤原行成」「藤原佐理」「小野道風」です。「小野道風」は「書の三聖」に選ばれているのですが、他の二人は他の何にも選ばれていないのは何故でしょうかね、謎は深まりますが、昔から字の綺麗な人はそれだけで賞賛されていたのですね。

お化け燈篭この碑の横に随分とスタイルの悪い燈籠があります。案内板によれば「お化け燈籠」というそうです。


これについては何の説明も無いので推測するしかないのですが、ヒントを求めて他のお化け燈籠といわれるところを探ってみました。
一つは東京・上野公園にある「お化け燈籠」で、これは高さ6.06m、周囲3.63mもあるというばかでかい燈籠故に呼ばれているそうです。更にもう一つは同じ東京の東京大学構内にある「お化け燈籠」で、こちらは伝説ではあるのですが、東大敷地が加賀藩邸の時代、ここで刑死した御殿女中を弔うため建てられたといわれ、塚をいじると祟りがあるといわれ、お祓いまでしたことがあったらしい燈籠で、形態と謂れの2通りがあるようです。
神社境内ということも考えると祟り説もあながち否定できませんが、特に曰くが残っているわけでもないし、大きさも特に大きくはありません。故にしいて考えれば不恰好な形が夜見ると人のように見え・・・的な意味合いが相応しいかもしれませんね。

皇太子御結婚記念樹更に境内には「皇太子御結婚記念樹」が植えられているようですが、年代的に現在の皇太子のことでしょうね、きっと。


この境内にはまだまだ様々な碑などがあるようですが、時間の都合も有るので、これで白根神社を後にすることにしました。
参道を戻ると参道から左手に進む舗装されていない道があるので、そちらに進んで見ました。

高村光太郎碑この道自体も白根神社の参道のようですが、左手側の一体は「囲山公園」となっているようです。
そして参道に沿った公園内に碑が建っています。「高村光太郎碑」です。


高村光太郎碑
東京に生まれる(1883-1956)。彫刻家高村光雲の子で彫刻家。渡欧してロダンに学ぶ。詩人としても優れた業績を残した。
彫刻の代表作に、十和田湖畔の『女子像』や『手』などがある。また、詩集「道程」、晩年の「智恵子抄」は特に有名である。
草津へは、何回か訪れているが、昭和二年七月には十数日滞在した。このとき「草津」という詩を作った。昭和八年五月には夫人智恵子とともに入湯し「智恵子には草津の湯がいいようだ」と手紙の中に書き残している。
草津町・草津町教育委員会』

碑文にはこう書かれています。

『時間湯のラッパが午前六時を吹くよ。
朝霧ははれても湯けむりははなれない。
湯ばたけの硫気がさっとなびけば、草津の町はただ一心に脱衣する。 』

これは湯畑の荘厳さに感動して書かれた「草津」の詩の全文で、この碑は、その「草津」原稿全文を光太郎の自筆の原稿用紙をパネルにし、平成2年(1990年)に建てられたものです。
さて、この高村光太郎来訪の説明には2度訪れていることが伺われます。この2回の来訪の際には2回とも当時の「望雲館」に宿泊したそうですが、昭和6年(1931年)に智恵子に精神分裂の兆候が現われだしていたことから考えると、昭和8年に訪れた二度目来訪の際にこのような手紙が書かれたようで、非常に智恵子が喜んでいたのをこのように著したものだそうです。
この「望雲館」には他に小林一茶、十返舎一九、斎藤茂吉らの文人も訪れていたそうで、現在は草津温泉「望雲」となっています。
ここにもまた歴史ある宿があったのですね。

参考:【望雲】http://www.hotelboun.com/index.html#HOME

十返舎一九碑「高村光太郎碑」の先には「十返舎一九碑」がありました。


『一九(1765-1831)は、駿河の国の人で、元は武士だった。江戸時代、文化・文政の町人文化爛熟期の代表的な戯作者。弥次郎兵衛・北八コンビの活躍する『東海道中膝栗毛』など、道中ものを二十二年間にわたって書き、全国の有名な観光ルートを挿絵入りで面白可笑しく紹介した絶妙の珍道中記はあまりにも有名。草津へは文政年間(1818-1830)二度も訪れ、「続膝栗毛第十編・上州草津温泉道中・上下」「方言修行善光寺草津温泉道中金草鞋」「上州草津温泉往来」などに書き残した。
草津町・草津町教育委員会』

それにしても「続・膝栗毛・・・」があったとは知りませんでしたね。刻まれているのはまさに「上州草津温泉道中~」の一節です。

『上州草津温泉道中・ 続膝栗毛第十篇下より
上毛の國草津は、寔に海内無双の霊湯にして、湯宿の繁昌いふばかりなく、風流の貴客絶えず、彌次郎・北八も、今日湯宿に着きて、壺ひと間を借りきり、云々
十返舎一九』

六角石憧供養塔十返舎一九もまた2度訪れているようですが、2度共宿泊は「望雲館」だったのでしょうかね、妙に気になりますが先に進みます。
この碑の先には燈籠が2つ並んでいて「六角石憧供養塔」です。


六角石憧供養塔
この塔には、延享3年(1746)湯本治雄の妻恒子が法華経を信仰して、10名の僧侶を呼んで法華経1,000巻を読誦し先祖を供養したと記されています。また、隣に享保16年(1731)に湯本治雄が建てた宝篋印石憧供養塔があります。いずれも、当時の民間信仰を知る貴重な文化財であります。
湯本治雄は草津の名族湯本三家のうち湯本安兵衛の当主で、俳諧をたしなむ文人でした。塔の敷地は明治5年(1872)頃白根神社境内地になりました。
草津市教育委員会』

どちらかといえば「六角石憧供養塔」よりも湯本三家に目が向いてしまいます。
草津温泉の湯本家は1193年(建久4年)に源頼朝から湯本の姓と三日月の家紋を授かったと伝えれれているそうです。当時、 西吾妻に狩り訪れた源頼朝を案内したのが細野御殿介という人で、この人が初代として湯本姓を受け草津周辺を支配する有力者となったそうです。
時代はさがって戦国時代、この頃の湯本家は湯本善太夫という人が当主だったようで、武田家の家臣として草津温泉を守るのですが、残念ながら長篠の合戦で戦死してしまいました。しかし善太夫の跡を継いだ湯本三郎右衛門は真田昌幸に仕えて草津温泉を守ったそうです。
更に時代はさがって江戸時代になると三郎右衛門は真田家の重臣となって活躍しますが、1665年(寛文5年)湯本図書幸宗の代に跡継ぎが無いという理由で湯本家は断絶し、草津温泉は天領となってしまいました。
このように湯本家はなくなってしまいましたが、当時分家の平兵衛、角右衛門、安兵衛の三家は草津温泉での湯守としての特権を相続したそうです。
湯本平兵衛という人は平兵衛池伝説を残した六合にある「平兵衛池」の名となった人だそうです。また、湯本角右衛門は河村瑞賢という江戸時代の豪商で土木関係で財を成した人の物語に登場しています。
そして安兵衛は当時「宿 湯本安兵衛」として湯宿を営み、現在でも「日新館」として代々続けられているそうで、三人とも草津ではやはり大尽だったということが窺われます。
それにしても、またまた歴史ある旅館の登場ですね。

参考:【湯の華会】http://www.yumomi.net/yunohanakai/info.html
参考:【機関紙「建設業界」】 http://www.dokokyo.or.jp/ce/kikanshi0104/novel25_1.htm
参考:【日新館】 http://www.nisshinkan.com/index.htm

この記述にもあるように「六角石憧供養塔」の後ろは公園で、塔の前の道はやはり白根神社の参道なのでしょう、先には参道両側に燈籠が置かれていますから。
昼なお鬱蒼とする囲山公園前の参道を進むと、やがて下る道になります。

日晃寺舗装された道路に出るとそこには「日晃寺」という寺があり、由緒書きがありました。


日蓮宗妙立山日晃寺
当山わ通称祖師堂と称す 
延享三年一字建立記念供養碑あり降って弘化年間一堂建立す
草津町鬼門除の祖師として町民の信仰の中心なり
大正年間身延山説教所となり又草津教会を経て昭和二十二年日晃寺と公称す。
日蓮大上人御眞筆 奉安、仝 御尊像奉安、鬼子母尊神 御尊像奉安、清正公 御尊像奉安、三十番神 御尊像奉安
草津町役場 草津町観光協会』

延享三年とあるので徳川吉宗に頃でしょうか。以来、説教所や教会となっているところなどは実に面白いところです。

浄行菩薩階段を登って境内に上がると、右側に「浄行菩薩」がおります。案内によると怪我によいとか。


浄行菩薩
浄行菩薩さまは本仏お釈迦さまのお使いとして大地の底より湧きでてこられた四菩薩の内の一方です。
この世の中を形成される所の地水火風の内の水火をあらわし真にこの世の中を浄化しすべての人々の罪やけがれを洗い清めて下さる菩薩さまです。
心から信を込めてお水をかけ、けがれた所、痛んでいる身の部分をたわしでこすって念じて下さい。かならず治していただけます。
日晃寺山主』

一応目をこすってみましたが・・・ 

日晃寺本堂その後本堂で参拝して日晃寺を後にしました。


ここから歩道を歩いていくと何のことはない、大阪屋のあたりに出るようです。結局、湯畑の北側で西から東へグルッとまわってきたことになりますね。
ここからまた湯畑に戻るとAM7:30くらいです。随分と長い散歩になってしまいましたが色々興味深いところを見ることができ、非常に楽しませてもらいました。
これからホテルに戻って朝食を頂くことにします。

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