見沼通船堀

のんびり散策をしたのですが、まだAM9:30少し前です。通船堀での閘門開閉実演はAM10:00からですが、多少早くてもよいかということで見沼通船堀へ向かいました。
とりあえず駐車場が無いので、東浦和駅前のパーキングに駐車して通船堀に向かいます。

久々に見る東浦和駅は、カルチャーショックを受けるほど変ってはいませんでした。移転す頃の15年前とそれほど変っていなかったのが逆に驚きでしたが。
東浦和駅東浦和駅前伊勢丹 背の低い駅舎に駐輪場、そして駅前の伊勢丹アイプラザも健在でした。パチンコ店などはありませんでしたから、その辺りが変っているかもしれません。

その先に見覚えのある建物がありました。
東浦和駅前 当時からこの周辺の大地主でお名前は忘れましたが、手前にある建物もなく全部駐車場でした。当時は車で駅まで通っていましたので、この駐車場を借りていました。
御殿のような建物も実に懐かしい限りです。

そしてここから「見沼通船堀」に向かいます。

見沼代用水

歩いて5.6分いくと「見沼通船堀 歴史の道」なる道標が現れます。
見沼通船堀・歴史の道 ここからが通船堀の始まりです。

とりあえず「見沼通船堀」とは何かを知るところから始まましょう。

『国指定史跡 見沼通船堀 昭和57年7月3日指定
見沼通船堀は、我が国最古といわれる閘門式運河です。徳川幕府の命を受けて見沼新田開発を行なった幕府勘定方井沢弥惣兵衛為永によって、享保16年(1731)、東西の見沼代用水路と排水である芝川の間に開かれたのが見沼通船堀です。3メートルの水位差を調整するために、東西とも2ヶ所ずつの閘門が設けられていました。
通船堀の開通によって、見沼代用水縁辺の村々と江戸との間の内陸水運が発達しました。この運河は、大正末年に使われなくなりましたが、その遺構は、我が国の土木技術や産業交通の発達を知るうえで、きわめて貴重なものといえます。
平成元年3月1日 文化庁・埼玉県教育委員会・浦和市教育委員会』(現地案内板説明文より)

ここからはまず見沼代用水路という背景を知らないといけないようです。
見沼代用水路地図 いただいたパンフレットに詳しく説明されていました。

見沼溜井と新田
かつてさいたま市の東郊に見沼という大きな沼がありました。江戸時代初期の寛永6年(1629)、関東軍代伊奈忠治はこれを、灌漑用水池として造成することにしました。忠治は八丁(約900メートル)の堤を築き、見沼を溜井としました。現在この堤上を県道吉場・安行・東京線が通っています。
伊奈氏は主に河川の改修や用水池造成、溜井方式の灌漑を行いました。それは上流地域の排水を溜井に集め、この水を下流で使い、またその排水を集めて溜井とする方法です。見沼もその溜井の一つで、伊奈流とか関東流と呼んでいます。この堤によってできた溜井の面積は、1200ヘクタールもあります。
この溜井の完成によって八丁堤より南の地域では開発が進められましたが、反面、見沼沿岸の地域では水没田ができるなど弊害もでました。
やがて、八代将軍徳川吉宗の時代になると、幕府財政再建のために新田開発を進めました。これに伴い、見沼も新田化されることになり、井沢弥惣兵衛為永がこれにあたりました。享保12年(1727)の秋に着手し、まず八丁堤を切って見沼の水を排し、現在の芝川をつくりました。排水が完了した旧溜井は、新田に造成されました。為永はこの新田をうるおすため、利根川から水を引くことにしました。現在の行田市下中条から利根川の水を引き入れ、延々60キロメートルにわたって用水路がつくられました。この用水路は在来の見沼に代わる用水路という意味で見沼代用水路と呼ばれました。
見沼代用水路から引いた水は新田で使用され、芝川に排水されます。このように用水と排水を分離する方法を紀州流と呼んでいます。
見沼の干拓、新田の造成、それに東西の代用水路は着手してから半年後の享保13年(1728)の春に完成しました。
次に、代用水路沿いの村々と江戸とを結ぶことを考えた為永は、代用水路と芝川とを結ぶ運河をつくることにしました。享保16年(1731)、東西の代用水路と芝川が最も近い八丁堤付近を開削し、見沼通船堀をつくりました。
通船堀は東縁側と西縁側とに分かれ、東縁側が約390メートル、西縁側が約650メートルあります。
代用水路と芝川の水位差が3メートルもあったため、ここの東西2ヶ所ずつの関を設け、水位を調節し、船を上下させることにしました。』(見沼通船堀パンフレットより)

この状況を地図で表すとこのようになります。
見沼通船堀地図 赤い線が八丁堤ですね。
《イラスト:見沼通船堀パンフレットより》

まるで小川のように水が流れているさまは、春の小川ならぬ、夏の一服の清涼剤とでもいえるでしょう。
見沼通船堀 良く見れば堀はV字型に掘られていて、水量が少なくても船が浮かぶようにと考えられた堀です。

歩いているところが西縁側の通船堀となります。
しかしながら、近くを歩いている人曰く、いつもは水は流れておらずどんよりしているそうです。使用されていないので当たり前でしょうが、今日は特別ということですね。

見沼通船堀 暫くいくと「史跡 見沼通船堀 西縁 仮締め切り」なる標柱が立っています。

基本的に見沼通船の運行は冬期のみで、灌漑期は出来るだけ田んぼ用に水が使用できるよう通船堀に通水されなかったのです。そのため灌漑期にはこの仮締め切りに土俵を積んで通船堀に水が流れないようせき止めた場所のことです。また、この仮締め切りは本来の目的以外にも洪水時の非常時や保守・点検などのときにも使われたようです。色々考えられているのですね。

先に進んで少し堀の幅が広くなったところが関の址です。
見沼通船堀 もともとはここに第二の関があった場所だそうで、そのために堀の幅が広くなっているのです。現在はあくまで址です。

この関についても若干の説明があります。

通船堀のしくみ
見沼通船堀の特徴は、上下2ヶ所の関を利用した閘門状の施設を持つという土木技術の高さにあります。
閘門は水位差の大きいところに関を作って水位を調節し、船を通す施設のことです。閘門的な施設を備えた運河としては、我が国有数の古さのもので、技術的にもすぐれています。
世界的にその例をみると、中国で1284年に閘門を用いた大運河がつくられたといわれ、15世紀にはイタリアやドイツなどでもつくられました。』(見沼通船堀パンフレットより)

人間の考えることですから、遅かれ早かれの差はあるでしょうが、さまざまな技術革新には江戸時代なりに目を見張るものがあるものですね。
見沼通船堀 見沼通船堀 そしてその先には第一の関があり、これは復元されたもので近くには石碑も立っています。

閘門の構造
東西の通船堀には、それぞれ2つの関があり、その間を閘室としています。これが閘門式運河と呼ばれる理由です。この4つの関は、だいたい同じ寸法です。関の見取図は表紙に示したようになり、板張りの全長は5間半から6間半(約9.9から11.7メートル)あり、底面には太い松材を使用しました。また、底張りの幅はせまいところで9尺(約273センチ)です。
側面の高さは大体12尺(約364センチ)で、関枠がつくられ、これを鳥居柱といいケヤキの角材を用いています。この門に板を付けたりはずしたりして水位を調整します。この板を角落板といい、幅6寸(約18センチ)、長さ11尺(約333センチ)、厚さ2寸(約6センチ)の長い板です。』(見沼通船堀パンフレットより)

見沼通船堀 これが表紙にあった見取図です。いまひとつ良く分かりませんが、やはり何かすごいことなのでしょう。
《イラスト:見沼通船堀パンフレットより》

こうして通船堀西縁を歩いていくと芝川に合流します。
見沼通船堀西縁 見沼通船堀・芝川 西縁に架かる橋の先が芝川です。

見沼通船堀東縁 そして芝川の向こう岸にある小さな橋の下が通船堀東縁の合流口となり、これから芝川を渡ってその東縁にむかいます。

見沼通船堀閘門開閉実演

東縁口のあたりで、パンフレットや団扇をいただきました。
見沼通船堀 かなりの暑さなので団扇はありがたいですね。

東縁の場合は下流から上流へ遡ることになり、東縁沿いを進むともうすでに多くのギャラリーが集まっています。
見沼通船堀一の関 ここが通船堀東縁の一の関です。

見沼通船堀二の関 見沼通船堀二の関 そしてこちらが通船堀東縁の二の関です。

二の関から一の関を眺めるとこのような光景で、現状水はかなり少ない状態です。
見沼通船堀 この水位を良く覚えておきましょう。

まずは通船の方法です。

通船のしかた
江戸から荷物を積んだ船は隅田川から荒川をさかのぼり、芝川に入ります。船が八丁河岸につくと、船頭は船をつないで、近所の人々に声をかけ、これに応えて20人ぐらいの人が土手から綱を引いて一の関まできます。一の関では勢いよく流れ出る水の上をいっきに引き上げ通過します。すると「枠抜き」の人が角落板を入れはじめます。10枚くらい入れると、水位が十分あがり、船は二の関まで引かれます。この関でも一の関と同じようにして船を引き上げ、水位があがると船は代用水路まで引かれて通船が終わります。
代用水路から芝川へ船が下る場合は、これらと逆の手順で行ないます。船が関に着くと、角落板が1枚ずつはずされて、落差を少なくして通過します。
このように、見沼通船堀に船を通すのには大勢の人々と、手馴れた船頭さんの力が必要でした。』(見沼通船堀パンフレットより)

これを図式にするとこのようになります。
見沼通船堀 まあ、所謂、運河の閘門ですが、人力で処理するところがすごいところでしょう。
《イラスト:見沼通船堀パンフレットより》

いよいよ閘門開閉実演が始まるようです。
見沼通船堀解説 さいたま市教育委員会の方がマイクで説明しながらの実演です。

挨拶もそこそこに説明の冒頭、昨日の8月24日掲載の朝日新聞の記事についての言及がありました。
偶然のなせるわざなのか、意図的なのかはわかりませんが、朝日新聞の記事には「見沼通船堀は日本最古の閘門式運河ではない」との記事が掲載されていたそうです。

これはパンフレットにも記載されていたのですが、昭和3(1928)年に工学博士の中川吉造氏が発表した「日本最古の閘門運河に就いて」という論文に基づいて日本最古としていた経緯で、数年前からは「日本最古」は使用していないと声を大にして述べられていました。
いずれにしても些細な利権でこのようなことが起きているので、我々庶民としては別段迷惑を蒙るわけでもないので、笑っていられますが、本来それどころではないのが宮内庁かもしれません。
平成18年ですからまだホンの4年前ですが、皇太子殿下が第4回世界水フォーラム全体会合での基調講演でこのことに触れているのです。
一部抜粋します。

『・・・しかも,我が国最古の閘門は,日本の首都,東京の北に隣接する埼玉県にあったことが分かり,驚きました。調べを進めるうちに、この閘門が造られた背景には,現在の東京,当時の江戸に,幕府が開かれるにあたって,長い水との闘いの歴史が秘められていたこと,そして,日本最古の閘門のついた運河である「見沼通船堀」が,いわばその象徴ともいうべき存在であることに気付きました。・・・』(宮内庁オフィシャルサイトより)

そう皇太子殿下がはっきり言ってしまっているのですよ。さらに、さらに。

『・・・すなわち,「見沼通船堀」は,東西の代用水路とそのほぼ中間に位置する芝川を舟運で結ぶために,享保16年(1731年)に掘削されたものです。そこには,東西の代用水路と芝川の間の3メートルの水位差を克服するために,木製の二段式閘門が我が国で初めて設置されました(図8)。すなわち,見沼通船堀は日本最古の閘門式運河といえます。残念ながら,当時の閘門はすでに朽ち果ててしまい,現在見られる閘門は新しく再現されたものです。』(宮内庁オフィシャルサイトより)

声高(か、どうかはわかりませんが)に、2度も言い切ってしまっているのです。
まあ、未だオフィシャルサイトに掲載されているのですから、宮内庁としては特に問題視はしていないようですが・・・。

参考:【宮内庁オフィシャルサイト】http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/02/koen/koen-h18az-mizuforum4th.html

それにしても皇太子の基調講演で見沼通船堀が語られていたとは、それの方が埼玉県民やさいたま市民にとっては誇りでしょうね。
因みにこの基調講演の内容は実に代用水路や通船堀のことがわかり易いので、興味のある方は見ておくとよいかもしれません。

いよいよ実演が始まります。
先の通船の模式図によると、2から4の部分を実演するのです。 この一の関から二の関へ船を渡すということです。前提は現状にある通り船は一の関を通過した状態です。
まずは角落板といわれる板を1枚ずつ堀に落とし、一の関の閘門をふさぎます。
見沼通船堀閘門 見沼通船堀閘門 水は二の関から流れていますので、ちょうど一の関と二の関の間に水を溜めて水位を調整するのです。

見沼通船堀閘門 これが角落板で箪笥の取っ手みたいなものは、ここに魚釣りのギャフみたいなものを角落板に掛けて、角落板を閘門に貼り付けるのです。

見沼通船堀閘門 この閘門は溝を切った中に板を入れるのではなく、鳥居のような形の間口に水圧でこの角落板を押し付ける形になるので、その調整のこの取っ手とギャフが必要になるのです。

こうして何枚か角落板を重ねていくうちに水位が徐々にあがってきます。 この日は8枚を入れたところで終了です。
見沼通船堀閘門 水圧だけで締め切っていますので、若干は漏れ出しています。

さらに昔は10枚まで入れたようですが、現在はこの堀の横に排水溝が出来ているため、これ以上締め切っても水位があがらないため8枚までしか入れないようです。
見沼通船堀閘門 一の関では船は一の関をとおり抜けられないほど水位が上がりました。

見沼通船堀閘門 二の関も最初は傾斜があったのですが、現在ではその段差も見えない位、水位が上がっています。

こうして水位が一杯になると、船は二の関を通り上流(代用水路東縁)に向かうのです。
この間約1時間です。これだけの水位を上げるには確かに時間が掛るのでしょう。とするとパナマ運河とかどれだけ時間がかかるのでしょうかね。
見沼通船堀和船見沼通船堀 今回、船を実際に走らせていますが、当時の船は現在の船の半分だそうなので、現在の船では関を通りぬけることは出来ないので、とりあえず風情のみを楽しみます。

そして更なる風情を楽しむために、市指定無形民俗文化財の「見沼通船舟歌」の唄と踊りを保存会の方たちが披露して下さいました。
見沼通船堀舟歌保存会 見沼通船堀舟歌保存会
こういった唄を歌いながら船を引いたのかもしれませんね。

ここからは溜めた水を吐き出します。当然角落板を取り除けばよいことです。
説明によれば一気に流れだすので、一の関の下流から見るのがよいとのことなので移動します。
見沼通船堀閘門 見沼通船堀閘門 途中角落板の取り外しを間近で見学します。

そして角落板を取りはずされた閘門からは一気に水が流れ出します。
見沼通船堀閘門 排水は当然のごとくかなり早い時間で排水され、豪快な光景を楽しめます。

見沼通船堀一の関 見沼通船堀二の関 一の関と二の関を見ると閘門の壁の部分の黒い部分が先ほどまであった水位で、瞬く間に排水されるのが見て取れます。
こうして約1時間半にわたる閘門開閉実演は終了です。

翌日見ると腕の部分が真っ黒に日焼けしていましたが、それだけ日差しの強いところにいたことも確かですが、それだけ興味深かったという表れでしょう。
一度見ておけば十分でしょうが、一度は見ておいたほうがよいかもしれません、埼玉県民やさいたま市民は・・・。

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