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第1章 文明開化の波の中で

はじめに・・・

明治時代の鉄道と新橋について本書ではこう書かれている。
汐留復元駅【Ph:現在の汐留復元駅】


『時は明治5年「汽笛一声、新橋」で有名な新橋-横浜間の鉄道発祥からずっと新橋(旧新橋駅)は常に終着駅であり続けた。確かに鉄道発祥以来、鉄路は西へ西へと延伸していった。しかし新橋から東海道方面が全通しても 東京の終着は新橋。さらに下関までつながってもまだ新橋。九州鉄道が熊本まで開通してもまだまだ新橋であり 続け、新橋終着は明治43年までの38年間も続いたのである。言い方を変えれば明治という時代を通じて新橋は 「東京の玄関口」すなわち、明治東京の顔が新橋だったのである。』

終着駅が新橋と言っても、現在の上野駅のような常磐線、高崎線などの終着駅とは意味が違うのです・・・そう、 その先の汽車が無いって言うことです。
その理由は、簡単に言ってしまえば過密都市だったということです。
江戸時代に100万人都市だった東京のさらに中心部ですから、簡単に線路を引けるわけもありません。更に、日 本縦貫優先と先進諸国並の立体交差など政府要望によるものなどで新橋から先が無かったのです。
そして、こ れらを一気に解決しようとしたのが「東京中央駅」と連動した現在の高架アーチ群構想で、ここから日本の首都と しての美観と威信をかけた赤煉瓦アーチの物語が始まるのです。

鉄道の夜明け

まずは、赤煉瓦アーチ構想を語る前に鉄道の歴史、所謂、赤レンガ以前をとりあえず知っておく必要がありますね。
そもそも鉄道は蒸気機関の申し子みたいなもので、多くの方がご存知の通り1825(文政8)年イギリスで蒸気機関車による鉄道が開通したのが始まりでした。
その鉄道(蒸気機関車)が日本に伝わったのが1853(嘉永6)年~1854(嘉永7)年にかけてで、嘉永6年と言えば『黒船』来航の年であり、鉄道は『黒船』と共に渡来したのです。
勿論、模型ではあるのですが、現代で想像する様なHOやNゲージでは無く、実際に人や物を運搬することが可能なものだったのです。

これを契機に、1867(慶応3)年になると、諸外国の使節団や領事館から鉄道建設の申請が相次ぐようになり、アメリカやイギリスなど様々な利権絡みを含めて我先にと申請されたのです。
その間、国内でも政府、長州藩、佐賀藩などが建議をおこしたり、技術習得などに奔走していましたが、1869(明治2)年11月5日、大納言・岩倉具視、大蔵大臣・大隈重信らの政府首脳部は、イギリス公使ハリー・スミス・パークス借款契約及び鉄道建設に関する意見を交換し、イギリスの後ろ盾を得、ついに1869(明治2)年11月10日、基本方針として東西両京を結ぶ東京~京都間鉄道を幹線とし、東京~横浜間と京都~神戸間、琵琶湖~敦賀港間をそれぞれ支線として建設する旨が廟議決定されたのです。

鉄道開通前夜

廟議決定後の動きは早かったようです。
1870(明治3)年3月にはイギリス人技師エドモンド・モレルが横浜に到着し、東京・横浜間の測量を開始、そして用地買収と鉄道建設が急ピッチではじまりました。
だが、半ば強制的な用地買収は地権者の反発もあり決して容易ではなかったようですが、この難しい用地買収を解決させたのが海中築堤工事です。
これは50m沖合に高さ4mの石垣を組み、その上に線路を敷くもので、これにより実に全長29kmのうち10kmが海の上を走るという世界で例もない鉄道が生まれたのです。
築堤【Ph:高輪付近の築堤工事】

こうして、日本最初の鉄道建設は、幾多の困難を乗り越え1871(明治4)年8月には、横浜から品川(東海寺裏)までの試運転を始め、同年11月に条約改正予備協議や欧米の文物・制度の視察などのため、岩倉具視や久米邦武らの岩倉遣米欧使節団一行が欧米に出発する際、その一部は品川から試運転中の蒸気車で旅立つこととなったと言われています。このときは、品川駅はまだ完成していなかったため、ホームもなく、乗客は地上から直接客車に乗ったと記録されており、乗車した場所は東海寺裏付近と推定されています。
井上勝墓地【Ph:東海寺の井上勝の墓と裏手を通る新幹線】

鉄道開通

1872(明治5)年5月7日、いよいよ品川・横浜間の仮営業が開始されましたが、途中駅が完成していなかったため無停車で、距離23.8㎞を所要時間35分、一日6往復の運転が行われました。
仮営業開始後、最後まで残っていた汐留・高輪間の築堤工事も同年9月には完成して、正式に新橋・横浜間が開業できるようになり、1872(明治5)年9月12日に明治天皇が出席して開業式が行われる運びとなりました。
駅には、鉄道を見に来ようと大勢の見物客でにぎわっていました。午前10時、天皇陛下を乗せた1号列車は、新橋駅を出発。わずか53分で、横浜駅に着いたのです。
新橋開通式【Ph:新橋駅での開業式】

当時は1日9往復で、新橋は現在の汐留で、最初の横浜駅のあった場所は現在のJR桜木町駅です。歩いて10時間、馬車で4時間かかっていたのが、1時間で行けたのですから、その速さが人々を驚嘆させたのも当然でした。

これを期に交通手段は当時の乗合馬車から鉄道へと移っていくのですが、当時のかけソバが1杯5厘と言う時代に一番安い下等の料金が100倍の50銭ですから如何に高いかがうかがい知れます。
また、乗客は15分前集合など規則も煩く随分と新聞で叩かれたそうです。まだまだ庶民にとっては高嶺の花だったことでしょう。

1号機関車【Ph:鉄道博物館に保存されている1号機関車 (C)鉄道博物館】


このような鉄道ですから、履物をぬいで乗ったり、機関車の出す火の粉で火事になったり等、数え上げればキリが無い程エピソードがあったようですが、この鉄道という文明は多くに人々に受け入れられ、人々は汽車が走るのを大いに楽しんでいたのは、鉄道開通後の数年間が鉄道錦絵の全盛であったことからも伺うことができ、それら(描かれたもの)からは西洋文明との出会いに興奮する人びとの息吹が感じられるのです。

蒸気機関車を発明したスチ-ブンソンが蒸気機関車の営業を始めて、わずか47年で日本は追い付いたのです。
そして、このことは日本がヨ-ロッパの国と肩を並べることができるということを世界に見せつけた記念すべき日でもあるのです。

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