第2章 鉄道の発展

第一次民営化

順調にスタートした鉄道でしたが、1877(明治10)年の西南の役後、早くも転機を迎え、新規の鉄道路線建設は東海道線等を除いて殆どが一旦停止いたしました。
全ては政府の財政難が原因ですが、当時の政府内では官営(国営)による建設続行を主張しましたが、結局、国が援助する形で民営(私鉄)による鉄道網の整備となりました。 なお、各私鉄に対する援助の内容は建設する地域事情に応じて大幅に違っており、援助に当たって政府の判断が慎重に行われたと推察されるのです。

多くの私鉄が誕生しましたが、大雑把に分類すると、まず大手私鉄と呼ばれる会社が17社ありました。
北から、北海道炭礦鉄道・北海道鉄道・岩越鉄道・北越鉄道・日本鉄道・総武鉄道・房総鉄道・甲武鉄道・七尾鉄道・参宮鉄道・京都鉄道・関西鉄道・西成鉄道・阪鶴鉄道・山陽鉄道・徳島鉄道・九州鉄道です。
この内の北海道炭礦鉄道、日本鉄道、関西鉄道、山陽鉄道、九州鉄道が五大私鉄と言われていました。
そして東京と関西を結ぶ東海道線を官営(国営)路線と定めたのでした。

南北に伸びる鉄路

1872(明治5)年の鉄道開通以来、南(実際の最終方角は関西なので西が正しいのであるが、ここでは横浜方面の概念として南としている)は官営鉄道が、北は日本鉄道がそれぞれ建設を始めています。

1874年(明治7年)5月11日大阪 - 神戸間が旅客線として開業(三ノ宮 - 神戸間複線)し、大阪駅、西ノ宮駅(現在の西宮駅)、三ノ宮駅、神戸駅がそれぞれ開業、1877(明治10)年までに京浜・京阪神地区の建設が順調に進みいよいよ新橋~神戸間を結ぶ東海道線の建設を始める段となってが大きな問題が浮上しました。
当初、東海道筋は海運が盛んな一方、海に近いこともあり外国の攻撃を受けやすいとして、東京と関西を結ぶ路線は中山道経由とされていました。
そして、1883(明治16)年「中山道鉄道公債証書条例」が交付され高崎駅~大垣駅間の建設が始まったのですが、山岳地帯のため難所が多く工事は難航しました。
そこで、1886(明治19)年、鉄道局長の井上勝と総理大臣の伊藤博文、陸軍の山縣有朋らにより東海道へのルート変更となり、1889(明治22)年7月1日、新橋~神戸間全線がやっと開通したのでした。

一方、北ルートは日本鉄道の管轄ですが、そもそも「日本鉄道」は岩倉具視を初めとする華族などが参加して1881(明治14)年8月1日に設立され、所謂半官半民の私鉄であるため、その社名もゆくゆくは『いずれ日本全国の鉄道をこの会社に敷設させる』という目標から付けられたそうです。
そして路線も、1.東京~高崎~青森、2.高崎~(中仙道経由)越前敦賀、3.~(中仙道経由)~新潟~羽州、4.門司~小倉~長崎~熊本、以上の日本全域に及ぶ4路線の建設を目的としていたそうです。

1882(明治15)年に川口-前橋間から建設を開始し、1883(明治16)年7月28日には、現在の高崎線(の一部)にあたる上野~熊谷が開業しました。
開業時の上野駅熊谷駅【Ph:開業時の上野駅〔左〕と熊谷駅〔右〕】
この時点で、上野駅、王子駅、浦和駅、上尾駅、鴻巣駅、熊谷駅が新設され、1885(明治18)年3月1日には上野~熊谷線の支線として品川~赤羽間の品川線が開業され、同時に渋谷、新宿、板橋、赤羽駅等の現在の主要ターミナル駅がこの時点で作られていたのです。
この品川線は現在で言う赤羽線と山手線の約半周程度の路線ですが、当時上野駅止まりの日本鉄道・東北本線(現在の高崎線部分)と、新橋駅止まりだった官営鉄道・東海道本線とを連絡するために建設された路線です。
本来、上野駅-新橋駅間を結べば距離も時間もずっと短いのですが、既にその区間は住宅密集地であったため建設を断念し、変わりに遠回りにはなるが、当時は民家が殆ど無く林と草原が広がっていた武蔵野台地の山の手側で建をすることになったと言う、今では考えられない路線だったのです。

この後、延伸は続けられ、1890(明治23)年11月1日秋葉原 - 上野(これは旅客ではなく貨物線として) 開通、1891(明治24)年9月1日現在の東北本線全線(上野 - 青森間)が開業、1896(明治29)年12月25日田端 - 土浦の常磐線開業、そして1903(明治36)年4月1日、田端 - 池袋が開業し、「日本鉄道」の当初の目的の1つである東京~高崎~青森の建設目的が達成されたのでした。

東西に伸びる鉄路

官営の東海道、半官半民の東北道と南北は政府と政府の手厚い援助で実に順調に建設が進んでいたようですが、東西、ことに西からの建設を担う甲武鉄道は弱小ながら純粋な私鉄として大いなる野望を持っていたようです。
13号機関車【Ph:八王子駅に停車中の甲武鉄道13号機関車 (c)交通博物館】


そもそも甲武鉄道は玉川上水の通船(所謂、船荷)の代わりに誕生した私鉄です。
玉川上水の通船が不可になり、その代わりに羽村~四谷大木戸(現在の新宿区)間を玉川上水に沿った馬車鉄道が発想の原点で、事実、1884(明治17)年4月22日に甲武馬車鉄道会社が設立され、1886(明治19)年11月13日には新宿~八王子までの馬車鉄道敷設が許可されているのです。
ですが、時代は「馬車から蒸気機関車の時代」であったため、この許可を見て武甲鉄道会社が設立されたのですが、ルートが重複するため両社は合体し甲武鉄道となったのでした。
甲武とは文字通り甲斐の国(山梨)と武蔵の国(東京)を意味しています。

1887(明治20)年 3月5日の閣議が甲武鉄道を動かします。閣議決定の内容は、川崎~八王子間(現在の南武線)の建設より新宿~八王子間(現在の中央線)を優先して許可すると言うものです。
もともと中央線(新宿~甲府方面)は日本鉄道が建設することになっていたが、この決定と甲武鉄道設立によりに、甲武鉄道は日本鉄道の傘下(或いは下請け)として中央線の支線として甲武鉄道会社線・新宿-八王子を敷設することになったのです。(八王子以西は日本鉄道が建設)

当初は甲州街道及び青梅街道沿いのルートが考えられていたそうですが、高井戸、調布、府中、田無等での激しい反対運動に手を焼いた甲武鉄道はこのルートでの敷設を断念したそうです。
そして切羽詰った甲武鉄道は「路線はどこを通ってもいいから、とにかく何が何でも敷設しろ」の方針に計画変更し、甲武鉄道の工事担当者が中野~立川間の地図上に「エイヤッ」と、やけ気味に『一直線の赤い線』をぐっと引っ張った(旧国鉄内の伝承話)結果が、現在の高円寺・阿佐ヶ谷・荻窪・西荻窪を通過し、中野~立川間を真っ直ぐに走る線路になったと言われています。
ですが、そこは原野と桑畑が一面に広がっているだけの場所で、集落は少なく、とても採算が採れそうなルートではなかったと言われていました。

そしてついに1889(明治22)年 4月11日 甲武鉄道会社線・新宿-立川間(27.2km)が開業し、さらに同年8月11日 甲武鉄道会社線・立川-八王子間が開業(9.7km)したことにより新宿・八王子間が全通したのです。
開業当初の新宿・八王子間は4往復運転で、うち1往復は新橋・八王子間(新宿~品川線経由で新橋着ルート)の直通列車を運転し、新宿・八王子間の時間は、1時間14~17分、新橋・八王子間は、1時間55分だったと言うことです。

八王子駅【Ph:電化前の八王子駅 (c)交通博物館】
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