第3章 都心串刺し構想

甲武鉄道の野望

東急電鉄総帥・五島慶太氏が随筆集『七十年の人生』の中でこう語っています。

「東京郊外の交通機関で都心に乗り入れている電車と言うものは一本も無い。これでは都会のこの混雑、雑踏するところの交通をさばいていくことは出来ない。何と言っても都心に乗り入れ、都心を貫いて串刺しにしなければならないと思う。
・・・東京都の交通機関は山手線に全部阻止されて都心に入ることが出来ない」

と。

つまり昭和の時代の戦前から戦後にかけて、山手線が「万里の長城」にたとえられた所以です。
だが、明治の鉄道拡張初期に果敢にも都心串刺し、所謂、都心市街線構想を計ったのが甲武鉄道なんです。

前述したようにこの当時、半官半民の日本鉄道でさえ、当時の都会(新橋・日本橋・万世橋界隈)をさけて渋谷、新宿という田園地帯にやむなく敷設した時代に、弱小私鉄の甲武鉄道が都心部乗り入れを画策していたのが、新宿~八王子間開通以前だったと言いいますので、如何に先進的な戦略をもっていたかが伺われます。
実際、1889(明治22)年 8月11日の新宿・八王子間全通の二ヶ月前には、新宿~神田区三崎町(現在の千代区神田三崎町)間までの免許を出願していたそうですから。

初期の基本ルートは立川方面から新宿、四谷そして三崎町へのルートで、これを基本にした実際のコース計画は、立川方面から直進してきた線路が東中野からゆるく半円を描いて南下して新宿駅に滑り込み、そのまま南下しないで(現在の中央線はそのまま南下する逆S字コース)逆の北向きに向きを変え、V字を描いて現在の花園神社の北を迂回して富久町、坂町から市ヶ谷の本村町に向かうコースでした。
現実にV字コースでは新宿で折り返さなければならないため効率が悪いのですが、当時は都心部の中心が新橋・品川方面であるため、そちらへの乗り入れ、連絡を視野に入れたためと考えられるのです。

そして、このコースを元に具体的な建設計画が検討されました。
明治と言えども首都・東京はすでに大都市。更に、その都心部といえば交通の拡大と共に公害・災害が問題視されていた時代でした。その様な状況の中で列車(当然、蒸気機関車)を走らせるのですから課題は山積みです。
勿論、欧米のように高架鉄道や地下鉄などはまだ、技術や予算的に弱小私鉄では途方も無い話です。
そこで考え出されたのが『見附』駅という発想でした。
見附枡形門【Ph:見附枡形門】

四ツ谷から三崎町間は外濠沿いに線路を建設することによって、自然の立体交差が可能になったのです。
現在の四ツ谷駅、市ヶ谷駅、飯田橋駅がすべて、嘗て見附のあった場所から『見附』駅という発想が生まれたそうです。 これによって八王子~新宿までは水源と生活地帯を避けて台地上を突っ走り、新宿~三崎町までは車影を濠端に写しながら低地を驀進するのです。まさに現実可能な都心串刺し構想だったのです。

軍部と甲武鉄道

そもそも都心串刺し構想のことの起こりは陸軍でした。
当時、神田区三崎町には東京砲兵工廠という所謂、兵器工場があり、陸軍の大山巌が新宿~東京砲兵工廠までの線路を日本鉄道に依頼したのですが、日本鉄道がこれを断わりました。
この情報を掴んだ甲武鉄道は都心串刺し構想にとっては渡りに船とばかりに新宿~東京砲兵工廠路線を構想し、終着駅を東京砲兵工廠のある三崎町としたのが甲武鉄道・新宿~三崎町間市街線計画具体化の始まりでした。

そして、先の通りの計画が練られ申請も許可され具体化すべく動き出下のですが、最初の問題が終着駅の問題でした。
計画にある神田区三崎町の終着駅予定地は、東京砲兵工廠も勿論、陸軍の三崎町練兵場もある広大な更地を陸軍は1890(明治23)年三菱財閥岩崎家に払い下げたのです。
三崎町
結果として終着地点の定まらぬ迷子のような路線となってしまったのです。

更に追い討ちをかけたのが1892(明治25)年6月21日に制定された「鉄道施設法」です。
これは正式に甲武鉄道が日本鉄道の下請けではなく立派な中央線(八王子~新宿間)の経営者として認められたことを意味し大層結構な話なのですが、裏を返せば「終着駅が決まらないから、この線路は止めよう」などと軽々しく計画を中止できない重い重い責任を負わされたのも同然でした。

行くも、戻るも出来ない切羽詰った状況で結局頼るのは軍部だけでした。
もともと陸軍の言い出した話に乗った形で進められ、気が付けば二回まで上がって梯子を下ろされたようなもの。その割には何とかしろと責任だけは重い・・・何という貧乏くじ、でも、もともと実から出た錆!?
そんな事で甲武鉄道は陸軍参謀次長・川上操六に相談を持ちかけたのです。
川上の回答は現状V字ルートを変更し(現在の)逆S字ルートにすることでした。陸軍としては前出の三崎練兵場の代替地としての青山練兵場(現在の国立競技場周辺)を中核にしたい構想があり、そこに路線を作りたい意向があったのです。
甲武鉄道としても当初のV字は新橋を見据えたもので、1890(明治23)年には東京中央駅計画は可決されていたため、効率の悪いV字より逆S字の将来性を考えたのでした。

どちらも渡りに船ではあったのですが、現実的に甲武鉄道としては”人家の無いところでは何の利益も得られない”と一度は突っぱねたのですが、川上も軍での立場もあり、さらに三崎町の約束反故の後ろめたさもあり、アメとムチで迫ってきたのでした。

1.公用地と軍用地を通す『見附』駅構想については了解し、使用の便宜を図る。
2.その代わり逆S字ルートを承認せよ。
3.更に「砲兵本廠付属生徒舎」(現在のホテルエドモンド一帯)の軍用地を終着駅代替地として提供する。
練兵場代替地【Ph:三崎町練兵場代替地】

このような条件の下で両者が合意し、南回りで青山練兵場経由終着飯田町の現在のルート案が浮上し、1892(明治25)年3月「路線一部変更願」が提出されたのでした。
青山軍用停車場

紆余曲折の末、1894(明治27)年10月9日信濃町、四ツ谷、牛込駅(現在の飯田橋駅の少し手前)が開業し新宿~牛込間が開通しました。ですが、実際に開通(乗車通過)したのは、それよりも2週間ほど前のことでした。
1894(明治27)年8月1日の清との宣戦布告に先立ち青山練兵場に甲武鉄道乗り入れを図るため、現在の千駄ヶ谷駅と信濃町駅の間の神宮外苑辺りに突貫作業で1894(明治27)年9月17日青山軍用停車場を開業させ9月23日から軍隊輸送を開始したのです。
そして翌1895(明治28)年4月3日、ついに飯田町駅が営業を開業すると共に牛込駅は廃止となったのです。


更に甲武鉄道と軍部との結びつきを表すエピソードがあります。
当時、牛込~市ケ谷間に四番町隧道(トンネル)、市ケ谷~四ツ谷間に三番町隧道、四ツ谷隧道、四ツ谷~信濃町間に御所隧道の4箇所のトンネルがあったそうです。
現在も残っているのは御所トンネルだけですが、ここも当時、御所(現在の迎賓館)の下にトンネルなど以ての外と言う意見があったものの軍部の力で押し通したと言われています。
旧御所トンネル【Ph:現在の旧御所トンネル (c)鉄道博物館】


さらに四ツ谷トンネルの兜の装飾は有名で、新宿側に兜の正面、東京側に兜の裏面が飾られていました。これは一つには都心部進入への凱旋門的発想、もう一つには軍部の後ろ盾を誇示した象徴などと言われているそうです。
兜【Ph:甲武鉄道シンボルの兜 (c)鉄道博物館】


いずれにしても市街線開業は最初から最後まで陸軍と甲武鉄道の持ちつ持たれつの強行突破開業であったと言えるのではないでしょうか。

更なる野望に向かって

1892(明治25)年3月「路線一部変更願」が提出された一年後の1893(明治26)年7月に甲武鉄道から「市内循環鉄道敷設願」と言う新たな野望である鉄道計画申請書が提出されました。
この計画は都心串刺し構想の総仕上げとも言うべき蒸気機関車で皇居をぐるりと一周する皇居外周循環線計画でした。山手線誕生の33年前のことです。
このミニ・ループ計画は、終点・飯田町駅に皇居方面への引込み線が予め敷かれており、そのルートは既に建設中の甲武鉄道市街線「四ツ谷停車場で分岐し」~赤坂見附~虎ノ門~幸橋~中央停車場予定地(現東京駅)~神田橋~一の橋~飯田町、そして四ツ谷に戻ってくると言うユニークな発想の東京環状線でした。
皇居内堀外濠を一周する正にゴールデンルートではあったのですが、公害などの問題で最終的には当然のように廃案になった幻のミニ・ループ案でした。
ミニループ線【Map:ミニループ計画図】

その後、飯田町~新宿間が開業すると旅客は開業前の3倍近く増加しました。特に市街線完成後の輸送形態の変化、路面電車から鉄道への転移が著しかったためですが、明治33年当時の甲武鉄道は飯田町~新宿間列車本数が1日66本、それぞれ5~8輌を連結していましたが乗客は3分の1ほどで効率が悪い状況です。
そこで何とか連結を少なくし列車本数を増やす方法としては、蒸気よりも電車の方が経済的ではないだろうか、しかも公害も少ないという結論に達したようです。これは当時、路面交通が馬車鉄道から「東京電車鉄道」のように電化されていたことに刺激された結果でした。

そして、1904(明治37)年8月21日、中野~飯田町間の電化が完成し、電車・汽車併用運転を開始しました。
この区間が最初の電車運転区間になっています。車両は車体長10mほどの二軸車でしたが、総括制御を採用し重連運転も可能で、郊外電車として十分な性能を備えていました。
甲武鉄道電気・汽車併用初めての電車【Ph:〔左〕電車・汽車併用運行 〔右〕国電の元祖】
この車両は、国有鉄道最初の電車(国電の元祖)として特筆すべき存在で、現在、埼玉県さいたま市大宮区の鉄道博物館で展示されています。

その後、甲武鉄道はさらに市街線を延長、1904年12月31日に飯田町~御茶ノ水間が開業しました。
そしてさらに御茶ノ水~万世橋間の工事に着手しましたが、1906年10月1日に甲武鉄道は国有化されたため、未完成のまま政府に引き継がれ、私鉄甲武鉄道、野望の歴史に終止符が打たれたのでした。

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