第4章 小さな救世主

馬車鉄道の開通

1872(明治5)年9月12日、日本初の鉄道開通以来、東西南北鉄路は延伸し急発展していくのですが、終着駅・新橋は33年も変わらなかったのは前述した通りで、新橋で汽車を降りた人は新橋駅にたむろする人力車を頼むか乗合馬車に乗るか、はたまた徒歩か。
江戸時代すでに百万都市となっていた東京では、明治に入っても一時的な減少はあったものの、人口の増加が著しく、より便利で効率的な交通機関が求められていたのでした。
復元馬車鉄道【Ph:北海道開拓村で復元された馬車鉄道】

ことの始まりは欧米です。欧米視察後には必ずと言って良いほど、その必要性を痛感してくる人がいるもので、第三十三国立銀行の種田支配人という人が東京馬車鉄道と言う会社を設立させました。
当時(明治13年頃)、一般の鉄道路線は官営が主で、民間資本の鉄道会社もいくつか成立していましたが、開業に至った私鉄はこの東京馬車鉄道が最初でした。

東京馬車鉄道は、当初から多くの需要を見込んだ都市交通としての意識が高く、全線複線で建設されていました。しかし、浅草橋~本町間、上野~田原町間などは道路幅が狭いため、上下線を別の道路に分けて敷設することも行われました。
線路の幅(軌間)は先に開業していた官営鉄道よりも1フィート広い4フィート6インチ(1372mm)となっており、これはニューヨークの馬車鉄道を模したもので、二頭立てで馬車を牽かせるには車両も含めて適当な線路幅だったと言われています。
また、東京馬車鉄道の車両は20人前後が乗れる大きさで、アメリカ製(ジョン・ステフェンソン社)、イギリス製(スターバック社)、国産のものがあったようです。当初から1等および2等の区別があり、運賃は2等の場合で1区2銭、全線では6銭となっていました。ちなみに当時はかけ蕎麦が1杯1銭で、現在のタクシー代に近い運賃感覚と言えるでしょう。

そして1880(明治13)年には新橋~本町~上野~浅草~本町間というP字形の路線について許可を得、工事は順調に進み、新橋-日本橋間がまず竣工し、1882(明治15)年6月25日一般乗客輸送を開始いたしました。
次いで9月に日本橋-上野、上野-浅草、浅草-日本橋が相次いで竣工し12月3日に盛大な開業式が執り行われました。
日本橋からの馬車鉄道【Ph:日本橋から上野に向かう馬車鉄道】

馬車鉄道のある風景

この頃の馬車鉄道時代の申し子が樋口一葉です。

樋口一葉『につ記2』に、「万世橋より鉄道馬車、それより車にて行く」と言う一節があります。
これは明治25年2月16日大風の吹くとても寒い日に一葉は芝の兄を見舞うために神田万世橋から鉄道馬車に乗った情景だそうです。この頃の「万世橋」は馬車鉄道の吹きさらしの小さな停留所だったようです。
また、「・・・それより車」とは、「そこから人力車」の意味で、鉄道馬車の経路は万世橋から日本橋を経て新橋駅が終点で、新橋から芝へ人力車を頼んだのがうかがい知ることができます。
眼鏡橋停車場【Ph:眼鏡橋(現万世橋付近)馬車鉄道停車場】
さらに『別れ霜』では「万世橋に来し頃には馬車鉄道の喇叭の声はやく絶て京屋が時計の十時を報ずる響き空に高し」とあります。
京屋の時計とは現在の秋葉原近くの、当時「外神田の大時計」と呼ばれ近辺のランドマークにもなっていた京屋時計店の時計塔のことを描いていました。

また、明治35年9月発行の『文芸界』第七号の無名氏の「夜の東京」というコラムでは、

「上野行の馬車は新橋より万世橋までは可成込合ふが、万世橋ではゲッソリと人が減る。万世橋は流石は中央停車場だけあって、家へ帰るに此処まで馬車の便を籍る人は多いが、上野までゆく人は少ないのである」

と書かれています。
明治もこの頃では、銀座、日本橋と比肩される東京一、二の繁華街が万世橋近辺でもあったということでしょう。
すなわち、東京駅が誕生する以前、万世橋は路面馬車鉄道の中央駅とも言うべき交通の要衝として、すでに知らぬ人のいない地名として定着していたことを表しているのです。

親しまれた馬車鉄道

鉄道馬車は格段に乗り心地が良く、人気もあがり、それに伴って輸送力も大きくなりました。
東京馬車鉄道は好調で、新橋~八ツ山間で開業した品川馬車鉄道を合併するなど、東京馬車鉄道の路線は延びていきました。
最盛期の1902(明治35)年には、路線延長は21マイル(約34㎞)、保有車両は300両、馬は2,000頭、1分間に1台の超過密とも言うべきダイヤ運行で年間運賃収入は140万円となり超優良企業となりました。 ですが、その裏側には1日18時間労働や低賃金などの労働条件の劣悪さや「馬糞と格闘する東京中心部」と言われるくらいの環境問題を抱えており、それらを解消すべく1903(明治36)年に品川~新橋間が電化されるに至って東京電車鉄道となり路面電車を運行しました。

その後、東京電車鉄道は東京鉄道を経て、東京市電気局に統合され、さらには東京都交通局にかわり、馬車鉄道は後々、都電となって親しまれていったのです。
現在、荒川線として唯一残っている東京都電の軌間が他の鉄道に比べて特殊(1372mm)なのは、馬車鉄道の時代から引き継いで来たことが理由です。

この様に、明治東京市民に親しまれた東京馬車鉄道は、路面電車にとってかわられる明治36年まで、約21年の長きにわたって都心に機能し続けたのでした。

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コメント

  1. vさん | -

    幻の

    東京赤煉瓦駅シリーズ、大変勉強になりました。

    丁寧な研究に敬意を表します。

    時間を掛けて、他シリーズも愉しみに拝見させて頂きます。

    ( 08:36 )

  2. お寄り頂ありがとうございます。

    お読み頂ありがとうございました。
    この記事だけはいまだ未完で恥ずかしい限りですが、これからも色々と書かせていただきます。
    よろしければまたお立ち寄りください^^

    ( 06:26 )

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