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勿来の関

結果として遅めに出たことが幸いして渋滞につかまることは皆無でした。いつものように外環を利用し、三郷JCT経由で常磐自動道へ。PM1:00すこし前には福島県に入りました。
今回は観光もかねているので、福島県の玄関口ともいうべき「勿来の関」へ向います。勿論存在は良く知っていましたが高速を途中で降りるというのは結構勇気のいることで、明確な目的(ちょっと寄ってみようか等という曖昧な目的ではなく)が無いために大抵は四ツ倉ICまで直行でした。
今回は寄ろうと決めていましたし、一つ手前のICとなるのでさほどの勇気は必要ありません。「いわき勿来」ICを降りて2~30分くらいでしょうか「いわき市勿来の関公園」に到着しました。さすがに観光に力を入れている県でもあり標識も判りやすく、全く迷うことなく行き着くことができました。

弓掛けの松ここ「勿来の関」は「いわき市勿来の関公園」として整備されていて、現在でも整備が進行中でもあるようです。
まずは「勿来の関」跡へむかいますが、途中に「弓掛けの松」がありました。


弓掛けの松の由来
源義家公がこの地で休息をとった時に一本の松に弓を掛け、隣の松に鞍を掛けたと言い伝えられ、弓掛けの松、鞍掛けの松と一対をなし、長い年月その威容を誇っていたがついに枯死し、平成九年(一九九七)十二月四日下部を残し切断する。
明治四十三年当地を訪れた徳富蘆花は「八幡太郎弓かけの松、鞍かけの松、など言う老大な赤松黒松が十四、五本太平洋の風に吹かれて、翠の梢に颯々の音を立てている。
五六百年のものでは無い」と記している。(「熊の足跡」勿来より)』-現地案内板より-

弓掛けの松恐らく案内板を挟んで一対の松なのでしょうが、右側の弓掛けの松の断面のはカバーが掛けられています。
松はかなりの大木ですが実際の樹齢はいくつなのでしょう、徳富蘆花は5~600年のものでは無いといっていますが。

勿来の関4点セットその先に「勿来の関」跡がありますが、ここは観光撮影スポットだそうです。
左に石碑、そして関の門、記念碑、そして源義家像と並んでいます。確かにここで撮らなきゃどこで撮る、といった具合でしょう。
まさに「勿来の関」4点セットです。

かつて家内は子供の頃この地を訪れていたそうですが、当然このようなものは皆無だったそうです。
何となく理解できますね。

勿来関
勿来関は、もと菊多(いわき市南部の古名)?と呼ばれ今を去る千五百有余年前に設置されたといわれ、白川関、念珠関と並んで奥州三古関の一つとして名高い関所である。
これを「勿来」すなわち「来るなかれ」と呼んだのは平安中期ごろからであり、北方の蝦夷の南下をせきとめるためであったといわれている。
人平安初期の弘仁二年、いわき地方の駅路(官道)の廃止にともなう通行止めを監視する関とする説もある。
平安時代も終わりに近い後三年の役のとき陸奥守源義家が、その平定の為奥州に下向する途中ここにさしかかる。
折りしも盛りの山桜が春の山風に舞いながら路上に散りしいていた。
行く春をおしむかのように、武将の鉄衣に舞いかかる桜の花にさすがの義家も今はただ余りの美しさに駒をとどめ、
《吹く風を 勿来の関と 思えども 道もせに散る 山桜かな》
と詠じたのが、勅撰の千載和歌集に載せられ勿来関の名を今の世に伝えている。
いわき市』-現地案内碑- 

根本的に「勿来関」と言いながらも「勿来の関所」であるかどうかは不明で、しかも所在地自体も不明なのが現状らしいですね。したがって”関”といわれると有名なところでは「箱根の関所」、近くでは「栗橋の関所」などがイメージできるのですが、現実にはそれと意味合いが多少違うようですね。
元々はこの案内碑にも記載されている通り、5世紀頃に「菊多白川セキ」というものが設置されていたようで、これは8~9世紀頃の政令文書に「セキを設置してから400年以上・・・」という記述があることから推定されるようです。
その後、「白川セキ」は白川関として残るのですが、「菊多セキ」は消滅します。それは菊多から多賀城までを結ぶ幹線道路が整理された為「菊多セキ」は廃止になったという推察からです。
これが古代にあった「菊多セキ」で、古代から8世紀頃までこのあたりは常陸国に属しており、その後「菊多セキ」は消滅しますが菊多郡は残り、14世紀頃には菊多(田)は皇室領荘園として運営されて、後醍醐天皇へと相続されたため南朝の軍事拠点として合戦の舞台ともなったようです。
そしてこの菊多(田)の地に「なこそ」の地名を当てるようになったのが17世紀初頭です。現在の勿来町字九面の海辺で、当時の俳諧人、飛鳥井雅宣が「ここをなこそのせきといふらん」と詠んだのに始まり、その後、西山宗因の宗因奥州紀行に「なこその関」という記述もされたそうです。また吉田松陰の「東北遊日記抄」にも、現在のいわき市勿来町関田関山付近を「なこそ故関」と記録しているそうですが、この時代には「勿来」という地名はこの周辺には存在していませんでした。
いずれにしても、このようにして一躍有名になったこの「なこそ」の地は、この地を領していた磐城平藩によって桜の植樹をするなど関跡に見立てた整備事業が盛んに行なわれ、既にこの江戸時代から観光地化され始めたようです。

そして、この地が「勿来」という地名になったのは、現在のJR常磐線「勿来駅」が1897(明治30)年に開設され、その駅名にちなんで1925(大正14)年、関田・四沢・窪田の3か村が合併した際に「勿来町」という町名になったのが始まりで、古来から存在しなかった「来るなかれ」の意味を持つ「勿来」の名が地名として現代に残ることになったそうです。
従って、「勿来の関」が現在でいうところの”関所”であったかどうかは不明で、更にその「菊多セキ」が現在の「勿来の関」(この地)に存在したかどうかも正式な発掘調査をしたわけではないので不明なのが現状です。

源義家像 このように歴史的な事実の裏づけがないのにもかかわらず、このような経緯となったきっかけが義家の詠んだ歌や飛鳥井雅宣の歌だったため、義家の歌はこの地にあって非常に重要な歌であことから、銅像を建てシンボル化を図ったと考えられます。。


源義家は以前【ミステリーウォーク2009】で訪れた東京都北区にある平塚神社が義家を祀っていました。これもちょうど奥州遠征の凱旋時に義家が立寄った地であったのです。歴史の時間でも習った「前九年の役(1051~1062年)」「後三年の役(1083~1087年)」という奥州を舞台とした大きな合戦ですが、これに関わったのが源義家です。

「前九年の役」は多賀国府(現在の仙台市)にいた将軍源頼義、義家親子が出羽の豪族・清原氏の助けを借りて、陸奥の豪族・安倍氏を滅亡に追い込んだ”北方の王者”の交代劇ともいえる戦いです。
この戦いの結果、義家は従五位下出羽守となり武名を上げ、清原氏は、安倍氏の領地をあわせ奥羽に強大な支配力をうちたてました。
ところが20年後この清原一族に内紛が勃発しました。領土を巡って家衡、清衡の異父兄弟が争い、妻子を弟家衡に殺された清衡は、源義家に助けを求めたことで源義家が介入し、「後三年の役」が始まったのです。ちょうど義家が陸奥守兼鎮守府将軍となった1083年のことです。
長い戦乱の結果、清衡・義家軍が勝利し戦乱は清原氏の滅亡で幕を閉じ、清衡は清原氏の旧領すべてを手に入れることとなったことから、清衡は、実父である藤原経清の姓・藤原に改め、以後、百年にわたる平泉黄金文化の礎を築いたのです。
一方、義家は凱旋将軍として京都に戻ったのですが、時の朝廷はこの「後三年の役」が私戦であるとして恩賞を与えなかったのはもとより戦費の支払いも拒否し、更に陸奥守を解任したそうです。
このような中で義家は、主に関東から出征してきた将士に私財から恩賞を出さざるを得なくなったのですが、このことが却って関東における源氏の名声を高め、後の頼朝による鎌倉幕府創建の礎となったともいわれているのです。

旧「勿来関跡」碑関所の入口に見立てた門をくぐると右側に「勿来関跡」という石碑が建っています。云わば旧「勿来関跡」碑でしょうかね。
家内はこの石碑には見覚えがあるらしいので、かつてはこの石碑だけがポツンと置かれていたのでしょうかねえ。


関東の宮奥州の宮この石碑をはさんで両側に小さな社があります。
向かって左側が「関東の宮」で、右側が「奥州の宮」です。
二体の石造りのお宮で、関東と奥州(東北)の国境の守り神として祀られたと説明されていました。
関東・奥州の宮の間に国境である「勿来関」があるという意味でしょうか・・・それともやはりこれも後付なのでしょうか。

源義家に「勿来の関」、そして奥州征伐の基点、このような意味で現実にここが”関所”であったかどうかは別としても、歴史的には重要な場所であるといえるのでしょう。様々な角度で歴史を見て取れる場所といっても良いかも知れませんね。

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