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詩歌の古道

詩歌の古道関所を見立てた門をくぐった、ここからの道は「詩歌の古道」と名付けられた石畳の遊歩道で、両側に歌碑が建っています。


源義家の和歌碑まず先ほどの「勿来の関」碑の前には「源義家の和歌碑」があります。


源義家の和歌
《吹(ふく)風(かぜ)遠(を)那(な)古(こ)曽(そ)能(の)關(せき)登(と)思(おも)?(へ)登(ど)裳(も) 美(み)遲(ち)毛(も)勢(せ)耳(に)散(ちる)山(やま)櫻(さくら)可(か)難(な)》
千載集に撰(ふみ)入れられし義家朝臣の金玉を、石文に残すついでに我が蜂越をも一首と、懇ろに乞うを伊那比がたくてなむ。
文政五年三月十一日に記す  正四位下賀茂懸主季鷹
《千萬の仇に迎えるもののふも 花誘う風はすべなかりけり》』-現地案内板-

注:上記の案内板はすべて漢文で記載されていますが、振り仮名があったので多分こうだろう勝手に振り仮名をつけました。

文政五年ですから1822年、正四位下賀茂懸主季鷹という人が、千載和歌集にあった素晴らしい義家の歌を石文に残すにあたって私の一首も添えておこう・・・的な意味ではないかと思います。
正四位下賀茂懸主季鷹という人(・・・賀茂季鷹というそうですが)は、江戸時代後期の国学者で、有栖川宮職仁親王に和歌の手ほどきを受けたあと、江戸で文人墨客と交わったあと京都に戻り、上賀茂神社で神職となり、「雲錦亭」と名付けた文化サロンを主宰し多くの歌集を出したそうです。
この和歌で興味深いのがここに記載されている義家の和歌の「なこそ」は「勿来」ではなく「那古曽」であるという点でしょう。
当時「なこそ」の漢字表記は万葉仮名あるいは平仮名の真名を用いて「名古曾」「名古曽」「奈古曽」と書かれる例と、訓であてて「名社」と書かれる例があるそうで、これは「名古曽」の一種と考えるべきなようです。

実はこの現地案内板の裏側には、(恐らく)この石碑を建てた由来が書かれているのだと思うのですが、漢文で振り仮名もないのでギブアップです。
いずれにしても義家の歌は和歌としても優れているのでしょうが、それよりも現在の「勿来」の由来となった歌でもあり、かつこの「勿来」の地を全国的に知らしめたという、とても地元にとっては貢献度の高い歌といえるでしょう。

「源義家の和歌碑」の反対側に「斉藤茂吉の句碑」があります。

斉藤茂吉歌碑■斉藤茂吉:みちのくの勿来へ入らむ山がひに 梅干ふくむあれとあがつま
(陸奥の勿来の関に行く山間の道で梅干を口に含む私と私の妻)


『茂吉は一八八二年山形県南村山郡金瓶村の守谷家に生まれた。父熊次郎(のちに襲名して伝右衛門)、母いくの三男。一八九六年、親戚の医師斉藤紀一に招かれて上京、のち一九〇五年に同家の人となった。一九〇六年伊藤左千夫に入門、以降短歌雑誌「馬酔木」から「アララギ」にかけて次第に頭角をあらわした。一九一〇年東京帝国大学医科を卒業、ひきつづき副手、助手として付属病院に勤務した。一九一三年、第一歌集「赤光」を出して一躍歌人的声価を得た。翌一九一四年、紀一次女輝子と結婚、一九二一年にはオーストリアおよびドイツに留学。帰国後は焼失した養父経営の青山脳病院の再建に力を傾ける一方、翌年から島木赤彦没後の「アララギ」発行人となり、作歌のほか随筆・評論などでも旺盛な活動をつづけた。一九二七年、青山脳病院長に就任。以降歌壇の中心にあって重きを占め、一九五一年、文化勲章を授与された。一九五三年七十歳で没。
冒頭の歌は一九一五年八月十三日、三十三歳の茂吉が新婚間もない輝子夫人(当時十九歳)と共に故長塚節を偲ぶ旅の途中に勿来関で詠んだものである。』-現地案内板-

長塚節をほとんど知らないのですが、正岡子規の正当な後継者であると言われている俳人で、『アララギ』の創刊に携わった事などから1915年長塚節の亡くなった年(月日は4月3日)に旅に出なければいられなかったのでしょうね。

永野修身句碑■永野修身:山桜 われも日本の 武士にして
(山桜よ、私も源義家とゝ日本の武士であるのだから)-現地案内板-


案内板にはプロフィールなどは掲載されていませんですが、永野修身は大日本帝国海軍の軍人で、採集階級は元帥海軍大将・正三位・勲一等・功五級よいうかなり当時としては偉い軍人だったようで、東京裁判中に巣鴨プリズンにて獄中死したそうです。
高知県生まれで東京都在住だったようなので、特に「勿来」の地とは所縁があるわけではないので、あくまで軍人(武将)のシンボル的存在の義家(八幡太郎)にあやかって詠ったものでしょうね。

海上比佐子歌碑■海上比佐子:桜木の 石にもなりて くちぬなを 関のこなたに とどめけるかも
(桜の木の化石になっても、その名は廃れることなくここ勿来関にとどめることだよ)-現地案内板-
この人は日本画の画家のようですがそれ以上のことはわかりません。


飛鳥井宗勝歌碑■飛鳥井宗勝:九面や 潮満ちくれば 道もなし ここを勿来の 関といふらん
(九浦は、満潮になると道がなくなってしまう。道を閉ざすここを勿来関というのだろうよ)
飛鳥井雅宣(難波 宗勝)-現地案内板-


前章でも記載されたとおり、この人なくて現在の勿来はないといっても過言ではないような勿来にとって恩人のような人。
この歌によって一躍「なこそ」の名が脚光を浴びるようになったのですから。

室桜関詩碑■室桜関詩碑


室桜関詩碑(漢詩部分は省略)
昔を考えるに、陸奥の辺境は、朝廷に従わず、怪物が荒れ狂い、妖気さえ発していた。
天詔が下り、源氏からこの人を出した。都から東方に千里のかなたを征するのに、前後十三年かかり、草も木もようやく朝廷に頭をさげて服属し、人々は王の民になった。山も海も見た目も形も変えて、妖気は二度とおきなくなった。
西に帰るその年に、勿来関を通過する。東風が海を越えて、桜の花を吹き落とし、過ぎてしまいそうな春を引きとめようとする。
あの騒ぎをふと思い出す。大将の銀のくつわや鞍などの馬具も馬を進ませやしない。名将の叱咤の舌は、名歌を吐いた。
風雅があいまっておのずから燦然と輝いた。千年も経つが、古い関跡には、今日もこの気風を残している。
御覧なさい。下々の者までもが、
「吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山桜かな」と暗誦しているのです。』-現地案内板-

勿来関冠題詩碑■勿来関冠題詩碑


勿来関冠題詩碑(漢詩部分は省略)
東北の名所をたずねて勿来関の堅にいたる。
常磐両国の境の山道に万条の煙。広大だ、むかしの奥州は遠く、地勢は偏っていた。
国賊が王師に抵抗すること前後十二年。辺境に猛威を奮っていた。源義家が夷を討って還ると、勿来は春の暮れ、桜の落花が風にひるがえった。
そこに来て、馬をとめて、花の中に英雄は和歌を詠む。仙関の跡は、多くの人々が集まり、にぎやかだ。八百年がたって今、懐旧の年がしきりにこみ上げてきて、なかなかこの場を立ち去れない。
古い碑が記した顛末を永久に人々の声として伝えよう。
一九二五年七月四日勿来関にて、小柳通義選文、東京本郷孔子会がこれを建てました。』-現地案内板-

上記2編の詩については建立の所以が良くわかりませんが、いずれにしても遠い歴史に強い思いを感じたゆえの詩なのでしょうね、所謂、歴史ロマン・・・(かな!?)

源師賢歌碑■源師賢:東路は なこその関も あるものを いかでか春の 越えて来つらん
(春は東から来るというけれど、東路には「来るな」という勿来関があるのに、春はどうやって来るのだろうか)
源師賢(1035年- 1081年)は郢曲・管弦を相承した源氏の一人だそうで、いわば源氏の音楽部・・・ですかね!?

和泉式部歌碑■和泉式部:なこそとは 誰が云ひし いはねとも 心にすうる 関とこそみれ
(来ないでなんて誰が言ったというの。いいえ誰も言っていないわ。あなたが勿来関みたいな心の隔てを作って、私に会いに来ないだけでしょう。)


小野小町歌碑■小野小町:みるめ刈る 海女の往来の 湊路に 勿来関を われすえなくに
(海松布刈る海人が往来する湊路に「勿来(来ないで)」なんていう関は据えていないのに、見る目(会う機会)離れてるじゃない。<最近会いに来てくれないのね>)


二首ともに「勿来」という言葉の持つ意味から作られた、典型的な句なんでしょう。
何となく女心を読んだ句として名高いのかもしれませんが、一歩間違えれば”ウザイ”ということになりませんかね・・・無いか!

杉孫七郎 漢詩■杉孫七郎 漢詩(漢詩部分は省略)


『味方から遠く離れた軍は東方千里のかなたに戦闘していた。
この戦闘が私闘とみなされた事に、 嘆きたくなるのを耐え、古い関に歌を詠もうとしたが、春はまだ浅く、肌をなでる厳しい寒風は、まるで雪花のようだった。
一八八一年四月6日、勿来関跡によって、自荘で作詩した。』-現地案内板-

杉孫七郎は元・長州藩士で明治・大正期の官僚。1887年子爵、1906年枢密顧問官で書にも優れていたそうです。
こちらは義家のこと、合戦のことなどを偲んで作られたのでしょう。

源信明歌碑■源信明 詠む:名こそ世に なこその関は 行きかふと 人もとがめず 名のみなりけり
(名前こそ「来るな」などという勿来関だが、往来する人をとがめたりしない。なんだ、名前だけの関だったのだ。)
源 信明(910年 - 970年)は、平安時代中期の官人・歌人で三十六歌仙の一人にも選ばれている人。人をおちょくったような句ですが、情報伝達の発達していない頃としては有なのかもしれません。

桜山広場からの展望この碑の先の左手には四阿があり桜山(展望)広場というところですが、展望はよくありませんでした。あとで考えてみるときっとここから桜が綺麗に見える意味だったのだと思います。やはり一度桜の季節に訪れるのもまた風流なのでしょうね。
そしてその先の右手には大先生の句碑があります。

松尾芭蕉句碑■松尾芭蕉:風流の はしめやおくの 田植うた
(俳句のはじまりだったんだ、奥州の田植え歌は。)
大先生の句ですが「勿来」と関係あるんでしょうか!? 今一理解が出来かねないかも・・・

義家神社そしてその先に小さな祠の「義家神社」があります。若干中途半端さは否めませんが、無いよりあったほうが的なことでしょうが兎に角参拝はしておきました。
そして古道の最後にはまた、義家の句碑があります。

勿来植桜記念碑■源義家:吹く風を なこその関と おもへとも 道もせに散る やま桜かな
(花を散らし吹く風は「来るな」という勿来関には来ないと思っていたが、道いっぱいに散る山桜だなあ)


『勿来の関はこの歌で有名になったが後には桜も絶えたので義家の遠孫田中智学(巴之助)が大正十四年(一九二五年)数百本の桜を植えて古跡を顕彰した。以来地元各位の深き愛護により今日の美観を成すに至った。銘してここに謝意を記す。
昭和五十一年(一九七六年)五月六日
智学女 田中望子、大窪梅子、岩永道代 建之』

これは「勿来植桜記念碑」で田中智学の娘さんたちが感謝の意を込めて建てられた碑です。恐らく後ろにあるのが本来の「勿来植桜記念碑」なのかも知れませんね。(近くに寄れないので良くわかりません)
どちらにしても江戸時代から行なわれた観光地化のための植桜が絶えてしまってから、大正時代に復活したことを顕彰したものでしょう。やはりこのような人がいるからこそ現在があるのでしょうが、お金持ちだったのでしょうね。

短時間でしたが「詩歌の古道」を歩いて如何に「なこそ」を詠んだ歌が多いのかをちょっと実感しました。実際、平安時代から近代前までに125首ほどの短歌形式の和歌に詠みこまれているそうです。
これは「なこその関」が歌枕として詠まれている所以で、そのイメージは「義家」の持つ魅力(武将や合戦という意味も含めて)と、「なこそ」という言葉時代の持つ”来るな”という意味の面白さであって、近代写実主義に拘束されていない近代以前の和歌においては歌枕を詠むにあたってはその地に臨む必要はないといわれているからこそ、この地とは所縁の無い、或いはこの地で読まれたとは思えない歌が多いのでしょうね。

このように「勿来の関」は歴史的にも、文学的にもロマンの地なのかもしれませんね。そういった場所が桜や遊歩道で整備されているのも嬉しいことです。
更にこれ等の歌を知るには絶好の場所が、この先にあるので行ってみました。

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