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八丁堤

閘門開閉実演を終ってから、通船堀東縁を遡ります。
見沼通船堀東縁 東縁はほぼ一直線で、突き当たったところが代用水路の東縁で、代用水路を越えた先にこんもりとした小高い丘があります。

これが「木曽呂の富士塚」だそうです。

木曽呂の富士塚

近づいてみると意外と大きな塚でした。
木曽呂の富士塚
まずは麓をグルッと廻ってみると上に登る階段があったのですが、とりあえずここはまず麓を散策です。
木曽呂の富士塚 途中に一部コンクリートで固められた小さな穴(入口?)があります。防空壕か何かだったのでしょうかね。

ちょうど来たところの反対側付近に来ると案内板があります。

『国指定有形民俗文化財 木曽呂の富士塚 昭和55年4月24日指定
富士塚は、富士山を模して築造した塚で、江戸高田の行者藤四郎が、老若男女だれでも心やすく、富士に登山できるようにと、安永9年(1780)高田水稲荷の境内にこれを築いたのが始まりである。
木曽呂の富士塚は、地元で「ふじやま」または「木曽呂浅間」と呼ばれ、寛政12年(1800)に、富士講の一派である丸参講の信者蓮見知重の発願によって、見沼代用水と通船堀の連結点の縁に築造されたもので、高さ5.4m、直径20m、塚全体が盛土で築かれている。頂上には、お鉢めぐりができるよう火口が掘ってあり、又、今日では入口が埋没しているが、塚を貫いて胎内くぐりの穴を設けている。
富士塚の麓には、文化2年(1805)造立の蓮見知重の碑があり、富士塚築造の由緒が刻まれている。
このほか、塚ならびに周囲には、享和4年(1804)の石燈籠、天保4年(1833)の石鳥居等、参講によって造立された石像物が多く残されている。富士塚の中でも古い築造で、特に埼玉県下のものでは最も古く、庶民信仰の様相を示すもので、貴重である。
文化庁・埼玉県教育委員会・川口市教育委員会・蓮見武夫』(現地案内板説明文より)

してみると先ほどの穴は胎内くぐりの穴だったのでしょうかね。マルコビッチではないことは確かなようですが・・・。
富士塚とは文字通り富士信仰に基づき、富士山に模して造営された人工の山や塚で、造営の方法として主に、1. 富士山の溶岩を積み上げたもの 2. すでに存在した丘や古墳を利用したもの、の2通りがあるそうで、富士講が盛んになった江戸時代につくられ関東地方を中心に分布しているようです。
富士山の山開きの日に富士講が富士塚に登山する習慣があり、基本的に富士塚の上から富士山をのぞむことができるように築造されているそうですが、現在では直接富士山を見れるものは殆どないそうです。
現在、確認されている富士塚は600とも800とも言われているそうですが、そのうちこの木曽呂以外の江古田(東京都練馬区)、豊島長崎(同豊島区)、下谷坂本(同台東区)、のあわせて4つの富士塚が重要有形民俗文化財に指定されている大変貴重なものなのです。
木曽呂の富士塚 そして、案内板の近辺にはたくさんの石碑や石仏、そして社があります。

当時の信仰の篤さをうかがい知る事ができます。

ここから上に登ってみることにします。
木曽呂の富士塚
残念ながら火口がどれなのかはわかりません。自然に埋まってしまったのでしょうか。
さらに眺望も殆ど期待できるものはありません。夏という季節的な理由もあって樹木で風景はさえぎられています。
基本的には信仰のためのものですから、あまり眺望のことをとやかく言うものではありませんから。
それでもいつでも登れるというのは重文でもなかなか粋な計らい、というか無神経!・・・なのでしょうか。いや、埼玉県人はマナーがよいということでしょう。

水神社

富士塚を下山して代用水路東縁沿いに歩くと県道103号線に突き当たります。
見沼代用水路
この辺りが八丁堤の東端です。
帰りはここから県道沿いを歩きます。何百年前の堤であると思うと感慨もひとしおなのでしょうが、この道路は何十回、いや何百回も通ってましたので、今更ながら今までの無知無学を恥じるのみです。

この旧八丁堤を何十回、何百回と通ったうちの数十回は、この通り沿いの通船堀とは反対方向に見える埼玉協同病院です。
埼玉協同病院
この埼玉協同病院は、24年前に長女が誕生した病院です。実に十数年振りに見る病院で、長女も無事大きく育ったことを考えると感慨もひとしおです。

水神社 その先に少し進んだ道の右側に「水神社」なる小さな神社があります。

水神社 
所在地 さいたま市大字大間木
水神社は、見沼通船堀が開通した翌年の享保17年(1732)6月の創建と伝えられている。祭神は罔象姫命である。本殿は大正12年9月1日の大地震により全壊し、同13年に再建されたものである。
享保16年、井沢弥惣兵衛為永によって開削された見沼通船堀が開通し、江戸と見沼代用水路縁辺の村々との物資輸送が可能になった。船は代用水路縁辺の河岸で荷物(江戸時代においては年貢米が主であった)を積んで江戸へ行き、帰りは肥料、塩、酒などの商品を積んできた。荷物の積みおろしをする河岸場は、芝川と東西縁用水路沿いに59か所あった。八丁の河岸場もその一つであり、この付近には河川輸送にたずさわる人たちが住んでいた。
水神社はそのような仕事につく人たちが水難防止を祈願して祀ったものです。
昭和58年3月 さいたま市』(現地案内板説明文より)

水神社 小さな小さな社殿ですが、通船堀には無くてはならない神社なのでしょう。

当時は全く気がつきませんでしたね。

その「水神社」前にある橋が八丁橋です。
八丁橋 八丁橋
この橋の下を流れる川が芝川で、現在では八丁の名の付く唯一のものかもしれませんので、現在では貴重な橋といえるでしょう。

旧鈴木家住宅 その先の右側にある古民家が文化財である「鈴木家住宅」です。

鈴木家住宅
国指定史跡見沼通船堀のうち
昭和57年7月3日指定
享保12年(1727)、鈴木家は高田家とともに井沢弥惣兵衛為永に従って、見沼干拓事業に参加しました。享保16年の見沼通船堀の完成と同時に鈴木・高田領家は幕府から差配役に任じられ、江戸の通船屋敷で通船業務をつかさどり、八丁堤などには通船会所を持っていました。
鈴木家は、各船に対する積荷や船頭の割り振りなどの船割りを行い、文政年間以降は八丁会所において船割りにあたり、住まいも八丁に移しました。
現在残る鈴木家住宅は、この頃の建立となり、見沼通船の船割り業務を担っていた住宅として貴重な建物です。
平成9年3月 さいたま市教育委員会』(現地案内板説明文より)

この住宅は良く覚えています。文化財として知っていたわけではなく、当時この道路はもっとせまい道路で、この辺りから西にかけてはバスが来るとすれ違い出来ないくらい狭い道路に、無防備に立っている古民家風の住宅ということで、記憶があります。
これについても無学無知を恥じ入るのみです。
旧八丁堤 そしてこの前の道が旧「八丁堤」なのです。

それにしても「通船堀」と「水神社」「八丁橋」「鈴木家住宅」はセットで更なる貴重な財産だといえるでしょう。

附島女体神社

「鈴木家住宅」から更に県道沿いに歩くと右側に「附島女体神社」があります。
附島女体神社 階段の上に朱の鳥居が構えています。

『市指定有形文化財(建造物) 附島女体神社本殿 一棟
昭和56年4月4日指定
一間社流造りの小本殿です。身舎の間口が69.0cm、奥行きが61.0cm、向拝の出が51.0cmあります。土台上に建ち、身舎柱は円柱で、長押で固められています。柱上は舟肘木造出しの桁がのります。妻飾りは豕扠首です。向拝杜は角杜の大面取りで、柱上は出三斗で桁を受けています。身舎とは繋虹梁で結ばれていますが、左右の向拝柱を結ぶ虹梁は省略されています。身舎の正面は板唐戸で、縁板は正面のみに向拝柱まで張られていて、「見世柵造り」となっています。木階はその前面につきます。軒は二重繁垂木で、屋根はこけら葺きとなっています。
この建物には建立年代を伝えるものは残っていませんが、江戸時代初期と考えられます。
平成11年2月 宗教法人 氷川女体社・浦和市教育委員会』(現地案内板説明文より)

またまた建築用語は判りにくいことばかりなので、例によって判った振りをしておけばよいでしょう。
附島女体神社 基本的に見世棚造りは境内社や祠などの小規模な建築で、流造や春日造の階を省略して棚を付けた神社建築の原形と考えればよいようです。

見沼周辺にはこの「附島女体神社」以外に、柳崎氷川神社本殿(江戸時代・川口市指定)、前川神社本殿(桃山時代・川口市指定)、大牧氷川女体社本殿(寛永13年・埼玉県指定)、太田窪氷川神社本殿(桃山時代・さいたま市指定)、大谷場氷川神社本殿(寛文6年・さいたま市指定)、本太氷川神社本殿(慶安3年・さいたま市指定)、片柳弁天社本殿(桃山時代・さいたま市指定)があるそうです。
また、一方、見沼のほとりには、この「附島女体神社」のほかに2つの女体神社があります。
1つは三室の「氷川女體神社」で、2つ目は大牧の「氷川女体神社」です。
三室の「氷川女體神社」は武蔵国有数の古社で、武蔵国一宮でもあり見沼とは一体の神社といわれています。そしてこの三室の「氷川女體神社」の対して大牧の「氷川女体神社」、「附島女体神社」は次女、三女の関係にあるといわれているほど、見沼との関わりは深いといわれているのです。
このように見沼周辺には、見沼の成り立ちと同時に様々な信仰、文化が生まれてきたのだといえるようです。

「附島女体神社」を参拝した後は、県道沿いではなく通船堀西縁沿いに戻って進みます。
女体新橋 戻った西堀に架かっている小さな橋には女体新橋と刻まれています。

左手に西堀沿いを進むと、再び西縁の二の関跡を見ることができます。
見沼通船堀公園 そしてその先は涼しげな竹林の遊歩道になっています。

竹林を抜けると広い場所に出ますが、この辺りは先ほどの竹林を含めて見沼通船堀公園になっています。

公園を出て東浦和駅方面に向うのですが、途中懐かしいお店を発見しました。
得得 外観 得得うどんです。

25年前この町に越してきたときに駅前にあった数少ない(というかこの他には立ち食い蕎麦屋しか無かったような気がします)飲食店でした。未だに健在だったようで、お昼もとうに過ぎていたこともあり、ここで昼食をとることにしました。
かつて何度か訪れた【得得うどん】ですが、味のほうはトンと忘れてしまいましたが、システムはそのままで実に懐かしい時間を過ごすことができました。

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