みろく沢石炭の道

白水阿弥陀堂を後にして車でホンの10分ほど進むと「常磐炭田発祥の地」に到着します。本来は阿弥陀堂から続く「みろく沢石炭の道」を歩いていくのが本筋でしょうが、今回は車でササッと直行してしまいました。
この「みろく沢石炭の道」は、1.つるし観音(文化財)→2.片寄り平蔵と石炭発見の碑(石炭遺跡)→3.常磐炭業の祖先・加納作平翁碑(石炭遺跡)→4.石炭発見の地(石炭遺跡)→5.みろく沢炭鉱資料館(石炭の遺産)→6.その他、旧炭鉱跡の遺跡など→7.常磐神社(文化財)→8.国宝「白水阿弥陀堂」というスポットを巡る2.5Kmの遊歩道です。

もともとこの遊歩道は常磐炭田発祥の地である「弥勒沢」と国宝白水阿弥陀堂を結ぶ昔石炭の搬出に使われていた道を、平成13年度に「みろく沢石炭(すみ)の道」と名付けて開通させた遊歩道です。以下それまでの経緯を挙げると、
平成11年12月3日
「内郷の未来を考えるシンポジウム」において「白水阿弥陀堂周辺整備事業」の一部として自然と親しめる遊歩道計画が提案される
平成12年5月21日
内郷ふるさと振興協議会総会において「弥勒沢周辺遊歩道整備計画」の検討を決定
平成12年6月19日
協議会会員による現地視察
平成13年4月3日
遊歩道愛称募集にかかる「応募ちらし」の配布
平成13年5 月1日
遊歩道の開通にむけた看板設置、補修作業の実施
平成13年5月14日
遊歩道の愛称を「みろく沢石炭(すみ)の道」に決定
平成13年5月27日
遊歩道完成記念式典開催
というような経緯でもって完成されたのでした。
7.8年も前に出来ていたものを今更なんで新観光地の誕生などと・・・詐欺!? とも思えるような所作ですが、実はやはりちゃんとオチがあったようです。

福島民報の2009年3月10日のネットによると、
『国宝・白水阿弥陀堂と常磐炭田発祥の地「みろく沢」を結ぶ遊歩道のうち、今回、傾斜が急で歩きづらい道が整備されたことから、市民への周知のためイベントを実施する。』と報道されています。
ということで、完成した当時はとりあえず作れば的なことで作ってはみたものの、マニアを除いて余り利用されていなかったのではないかと推測できます。 そこで昨今流行のウォーキングと結びつける為に歩きやすいように整備し直し、町興しの一助とでもしようと(阿弥陀堂の前のお土産屋の例にもあるとおり)考えられたものなのでしょう。まあ、それはそれで大変結構なことだと思います。

そうは言っても時間も無いので私たちは車で向かったのは前述の通りです。
阿弥陀堂を出発したので、ちょうど遊歩道を反対に向かうと思えば大間違いで、遊歩道はループになっているので、8.国宝「白水阿弥陀堂」→1.つるし観音(文化財)→2.片寄平蔵と石炭発見の碑(石炭遺跡)→、というルートになるのです。
しかし残念ながら車ですと一旦遊歩道をはずれてしまうので、1.つるし観音(文化財)はショートカットしてしまい立ち寄れませんでした。更に2.の片寄り平蔵と石炭発見の碑(石炭遺跡)は道沿いだったのでしょうが、気が付かず通り過ぎてしまいました。

加納作平翁碑そんなこんなではじめに立寄ったのが、3.常磐炭業の祖先・加納作平翁碑(石炭遺跡)でした。加納作平の略歴があります。


磐城炭業の祖 加納作平翁の略歴
1830年 泉藩領滝尻村、吉田佐次衛門の三子として生まれ、幼少は恵好と名のる。
成長して渡辺五郎衛門の養子となり、その家の妹リセと結婚し朝蔵と名のる。
1855年 安政2年、加納作次郎、片寄平蔵などと共に、弥勒沢で石炭採掘に着手する。
1857年 安政4年、朝蔵湯長谷藩に仕え、廻米船の仕事をし、同年同藩藩士御用達人加納作次郎の養子となり作平と名のる。
1860年 廻米及び財用支度の功を賞され、かたわら養父作次郎の仕事を手伝う。
1863年 白水村石炭下取締役を命ぜられ、養父作次郎の石炭業の後を継ぐ。
1867年 磐城地方の凶作により、藩に多大の物資援助をし忠孝に励む。
1868年 慶応4年5月小役人となる。同年進駐軍大総督府小名浜石炭取締局より、石炭御用達の任を受ける。
1870年 明治3年10月鉄道御用達人高島嘉右衛門氏と、売渡の特約を結び、剣の浜より積出す。
1871年 ロシヤ商船石炭燃料不足のため、小名浜港に寄港し、船長の要望により1500俵を売る。
同年需要が増加し、月22,000俵の注文を受け白水山、宮村山、小野田山、藤原山併せて十数箇所に坑口を増し、諸坑合わせて1000頭の馬で運送する。 その後老の身となって倅五郎に後を継がせ、明治25年(1892)62才を持ってこの世を去る。
(後略)』(碑文より)

まさに常磐炭田の歴史といっていいほどの人なのが伺えます。ちょうど江戸時代末期から明治時代にかけて常磐炭田が始まったということですが、意外に古い歴史なんですね。西洋文化の影響で石炭ストーブとかが一般的になったからでしょうかね。
いずれにしてもこの後、加納家は5代にわたり常磐炭田に関わったそうですので、いわきでは名士なのかもしれませんね。ちょうど碑の隣には石炭のモニュメントが置かれていたのは好演出ですね。

石炭発見の地加納作平翁碑のホンの10メートル先の右手の小高いところに唐突に案内板があります。
「石炭発見の地」です、ここが。何かもう少し仰々しくしてもよろしいのではないでしょうか、折角の場所なんですから。
まあ、ここで作次郎と平蔵が石炭を見つけたのでしょうかね。ロマン、ロマン・・・っと。


矢郷 磐城神奈川炭鉱 山神坑そして道標の通りしばらく進むと広い空き地に出ます。「みろく沢炭鉱資料館」です。
結構広い駐車場というか空き地に車を停めると、左手になにやら坑口のようなものがあるので行ってみました。


「矢郷 磐城神奈川炭鉱 山神坑」と書かれていて、嘗ての坑口を再現しているようです。そして石炭の地層がはっきりとわかル用になっています。
係りの方が説明してくれましたが、ちょうどこの時は家内の母も一緒で、母は当然いわき市で育っていますので坑道に入ったことがあるらしく話がかみ合っており長話になっていました。
こういった自然のものはなかなか見られるものではないので、非常に貴重だと思いますね。ジオラマとかならあるのでしょうが。

稲荷神社その隣の小高い山の上には稲荷神社があります。
『明治初期からの各炭鉱山神社跡と稲荷神社参道入口』と書かれており、山神社とは炭鉱の人々が信仰した守り神だそうです。そういった意味も含めて先ほどの復元口が山神坑と名付けられていたのでしょうかね。


上層石炭の路頭稲荷神社までは結構急できつそうなので登るのは辞退させていただきましたが、その階段の途中には「上層石炭の路頭」と案内板があり、まさに自然の石炭層を見ることが出来ました。


トロッコ車の方に戻ると目の前にトロッコが漫然と廃物のように置かれています。何気に見ていると展示とは思えない唐突さなのが実にユニークです。


みろく沢炭鉱資料館そしてその右手に当時の坑口や建物をイメージしたバラック建築の「資料館」があります。
ここは「炭鉱の生産用具類」が市指定の有形民俗文化財に指定されているようです。


みろく沢炭鉱資料館入口同じように坑口を模した入口を入ると展示品の数々に圧倒されます。
中では係りの方から説明していただきました。


みろく沢炭鉱資料館内部そもそもこの資料館は個人の方が作られたそうで、昭和38年の炭鉱閉山で炭鉱生活を止め、養鶏を始めたそうです。
養鶏をしながら石炭発祥の地ということで、様々な写真や工具を収集していたそうですが、老いの身となってからは養鶏を縮小し、鶏舎だったところに様々な収集品を展示することになり資料館が作られたそうです。
これを作った方が山神坑にいらしたご老人だったのですね。


しばらく展示品を眺めていると、石炭発祥の地としての発端を教えていただきました。
先ほどの加納作平翁の略歴とは若干違っている部分があるようで、発端は現在のいわき市四ツ倉町にあたる大森村出身の材木商人だった片寄平蔵が、現在の内郷白水町において石炭の路頭を探し当てたところから始まるそうです。
この時石炭は特に自給自足としての燃料としか使用していなかったようです。
しかし、この「片寄平蔵」が秋田の桐材を江戸で販売していたこともあって江戸を訪れていたときに偶然出会ったのが黒船でした。 1853(嘉永6)年の有名なペリー提督艦隊のあの黒船です。
当時の人たちは驚きや興味でいっぱいだったようですが、片寄平蔵の視点は一般人と異なり、黒船の動力源である蒸気に石炭が使われていることを知り、故郷で見つけた石炭が商売になるのではと考えたそうです。
ふるさとに戻った平蔵は石炭鉱脈を捜し求め、当時「湯長谷藩」領であった白水の弥勒沢で石炭を探し当てました。これが1856 (安政三) 年ですからペリー来航の2~3年後ですね。
そして友人でもあった白水の里の庄屋・大越甚六の仲介で石炭採掘の許可を受け、石炭の採掘を大々的に行い、自ら石炭販売会社を興して軍艦操練所の石炭納入で幕府御用達になるなどし、幕府からは名字帯刀を許されたそうです。

このあたりのことを「常磐炭田開田150年略年史」で整理すると以下の通りです。

『1856 (安政三) 年 片寄平蔵が白水村弥勒沢で石炭層を発見。
1857 (安政四) 年 片寄平蔵が湯長谷藩の許可を得て弥勒沢に開坑。
1858(安政五) 年 加納作平が白水川不動沢に石炭を発見(採掘は慶応3年)。片寄平蔵が石炭御用となり石炭を小名浜へ駄送。(また北茨城でも神永喜八らを中心に石炭採掘・販売が活発に取り組まれる。)
1868(慶応四)年  戊辰戦争が起る。加納作平が大総督府小名浜石炭取締局より石炭御用達を下命。神永喜八、平潟港が政府軍艦に石炭納入。
1873(明治 6)年 浅野総一郎、石炭販売の営業を始める。
1877(明治10)年 西南戦争が起る。筑豊からの石炭が途絶したことから、常磐炭田の重要度が高まる。
1884(明治17)年 磐城炭礦が創業。小野田炭礦で横坑開削に着手。』

みろく沢炭鉱資料館展示品こういった意味で常磐炭田の祖といえば片寄平蔵だとおっしゃられていました。
ちょうど展示物に4人の写真がありましたが、いずれにしてもこの人たちが中心となって常磐炭田を開発したといっても過言ではないのでしょうね。


きしくも現在横浜ではY150と題して横浜開港博が開催されています。
後日談としてこの片寄平蔵は横浜にも出店し、石炭に加えて磐城の特産物(和紙や干ししいたけ)を輸出する貿易商としても活躍し、新しい貿易の町「横浜」のまちづくりに力を尽くしたそうです。嘗ては片寄神社が横浜にあったと言われています。(現在は不明)

そして更なる説明によると常磐炭田はかなり広いエリアで開発されたそうで、実は白水阿弥陀堂もなくなっていたかもしれなかったそうです。
これは「入山採炭専用鉄道高倉線沿線の炭鉱施設配置図」という資料を頂いて見たのですが、明治末期の頃にはちょうど白水阿弥陀堂境域前に石炭輸送の専用線が引かれています。ちょうど現在の観光案内所のあった駐車場あたりを通って西方向(左方向)に向かい、現在の願成寺本坊の南周辺まで続いています。
そしてそこが「三星炭鉱広畑本坑」で、地図によると納屋・付属工場・鉱業所事務所・選炭場・石炭積込場等の施設が設置されています。また阿弥陀堂の裏手(北西方面)にも広畑風井坑」があったようで、石炭全盛期の頃は文化財(勿論明治期・大正期は文化財ではなかった。1952(昭和27)年国宝指定)でもない社寺などは場合によっては、という風潮だったそうなので、まかり間違えば阿弥陀堂は存在していなかった(極端な話と断りの上)かもしれないということです。
同じ地図に昭和30年頃の地図がありますが、ここでは同所は「旧・三星炭鉱広畑坑」「旧・専用軌道(三星炭鉱)」と記載されていて、この時点で残っているのは「鉱業所事務所」が阿弥陀堂参道際に残されているのみのようです。
これはこの頃を境に日本のエネルギー転換が行なわれ、石炭産業の衰退が始まってきた時代だということがうかがえます。

このような常磐炭鉱の歴史を理解すると、阿弥陀堂整備の歴史も理解できます。
明治・大正はもとより昭和の20年代までは、この常磐地域は何をおいても石炭第一だったのでしょう。しかし徐々に石炭のかげりが見え始めかけた頃の昭和27年、阿弥陀堂が国宝に指定されました。
そして採掘がほとんど行なわれなくなった昭和37年に境域が発掘調査され、昭和41年国の史跡に指定されたのです。こうして昭和43年からまずは周辺の土地の公有化が図られ、やっと昭和47年から復元がはじめられたという経緯と思われます。
いかに常磐炭鉱が重要な産業であったかが伺える歴史です。

常磐ハワイアンセンター開業ポスター更に資料館には興味深いポスターが一枚展示されています。
「常磐ハワイアンセンター(現、スパリゾートハワイアンズ)」の開業ポスターです。


昨年の映画「フラガール」で再び脚光を浴びたのですが、現在の経営母体である「常磐興産株式会社」の旧社名が「常磐炭礦株式会社」であることで、これもまた一つのエポックメイキングだったことが理解できます。 細かく見行けば更に色々なことを知ったり出来るでしょう。
いわき市には「いわき市石炭・化石館」があり、本当はそこを訪ねる予定でしたが今回はここだけで十分満たされました。またの機会に訪れたいと思います。

職員住宅資料館の建物をでて車に戻ろうとすると先ほどは何気に気が付かなかった廃屋がトロッコの近くにあります。
これは当時の炭鉱で働く人たちの家だった様です。ジョン・ウェインのポスターが郷愁を誘ってくれると良いのですが。


大黒天岩また、資料館の裏手の小高い山の上には大きい奇岩があります。「大黒天岩」というようですが、そのような形という意味からでしょうね。


手造りの資料館とはいえ、見どころ満載でした。一度見ておくといわき市の歴史の一端を庶民レベルでかいまみることができるでしょうね。

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