長谷寺

「いわき市考古資料館」を出て次は「長谷寺」に向かいます。車で10分くらいです。
ちょうど「いわき市考古資料館」の前の県14号線を東方向の湯本駅方面に向った途中です。

この通りは通称、「御斎所街道」というなにやら由緒ありそうな名前がついていますが、その由来は、この街道の難所の峠、標高600mの御斎所山の下を通ることによるそうで、茨城県平潟港・植田からと、小名浜・湯本からの道が遠野町根岸で交わり、御斎所峠を経て白河・須賀川・会津に至る海と山を結ぶ重要な街道でした。
街道は谷壁を通るので難所は連続しており、根岸と才鉢の間は何回も上り下りがあり、曲がりに曲がった道で、幅を広くとれず、曲がり角で対向する牛と牛が衝突して100m以上の急崖を転落したこともあったので、牛方は曲がり角では笛を吹いて警鳴したといいます。
現在の街道は1891(明治二十四)年に改修したおりにできた道を改良して使用しており、現在、御斎所峠には熊野神社遙拝所があって、境内には馬頭観音・牛頭観音・道路改修記念碑・茶屋跡などがあり、貝屋では夫婦の道祖神、旧洞門のあった七曲がりには木樵像の浮彫の山の神など、信州の石工によるみごとな石塔が散見されるそうです。

グリーン・プラザ途中道の右手に何か山のある公園風な施設があり、ちょっと気になったので寄ってみました。ちょうど道の反対側はFDKという企業の工場があるところです。
行ってみると確かに公園です。四阿等が設置してあり、中央には山がありますね。


グリーン・プラザ
グリーン・プラザとは市街地周辺の道路遊休地を利用したバス停、歩道、小規模公園を一体化したもので、みなさんにひろく利用してもらうために建設したものです。この広場が”みんなの広場”としていつまでも気持ちよく利用できるよう、大事にかわいがって下さい。』(現地案内板より)

グリーン・プラザと呼ばれる公園のようで、案内図によればこの山は「ボタ山」というものです。「ボタ山」とは石炭を採った後の石を積み上げた山のことで、かつての常磐炭鉱の名残として作られたそうです。

『道路とは、町と町や、家と学校などを結ぶもので必ず無くてはならないものです。道路には川をまたぐ橋や、山に穴を開けたトンネルなどがあり、完成までに長い時をかけ、多くの人々の努力によってやっと通れるようになるのです。広くなった道路は、歩道ができたり見通しが良くなり安全になります。』(現地案内板より)

というのが、どうやらコンセプトで道ができるまでの要素を盛りいれたミニロードモデルとも言うべきものでしょう。確かに橋、トンネル、家、水のみ場等が揃っていて、そのシンボルとして先の「ボタ山」が中心に添えられているのです。
意外と休憩されている方や本を読んでいる方など、結構利用しているのには驚きですが、それだけ有効活用されているということでしょうね。

ちょうど良いので10分ほど休憩してから「長谷寺」に向かいます。沿道に大きな看板があるのですがそこからが若干判りにくいのですが、迷いながらもなんとか到着しました。ここは結構高台にあって湯本温泉方面が見渡せる、眺めの良いお寺で、境内も広いようです。

長谷寺手水舎まずは参拝と本堂に向かいますが、途中手水舎があり観音様でしょうか、そこから水が流れている珍しい手水舎です。


長谷寺本堂本堂もなかなか立派でそれなりの歴史も感じます。全体としてはかなり整備された境内と言ってよいでしょうね。
由緒を調べてみました。


『いわきの宇治山・長谷寺は、平安初期の大同2年(807)に法相宗の高僧、徳一大師さまによってお観音さまを本尊として開かれました。続群書類従(しょくぐんしょるいじゅう)の神明鏡に記されているように平城(へいぜい)天皇の勅願によって創建されたことから舊平城御願(きゅうへいぜいごがん)・長谷寺と称されております。
現在のお観音さまは鎌倉時代後期の作で文保2年(1318)いわきの豪族岩崎氏が同家の先祖菩提を念じて大仏師能慶をしてカヤ材寄木造りの総丈約270センチの檀像を寄進されました。更に難陀龍王、雨寶童子を両脇侍とする長谷観音三尊仏として多くの参詣者にお拝まれています。
お観音さまは右手に錫杖を持ち岩座の台座に立つ典型的な長谷式の十一面観音さまですがこのお観音さまのみ名をただ一心にお唱えされる方がこの世にいるかぎりお観音さまはその苦悩の声を聞きつけて即座に台座より飛び降りどんな困難なところであってもたとえ、それが地獄の底であっても杖をついて衆生に救いの掌をさしのべようと誓いをたてて慈悲心溢れるお姿で本堂中央に立っておられます。
■大同二年(807) 長谷寺、徳一大師によって開山される(法相宗)
■承和九年(842) 十一月九日 徳一大師ご遷化 六十二歳 毎年十一月九日開山忌厳修
■文保二年(1318) 豪族岩崎氏、長谷寺を再興し現本尊を寄進 (天台宗)
■応永十七年(1410) 豪族岩崎氏滅亡(長谷寺衰退)
■天文年間(1532~1554) 好間町竜雲寺三世一谿元舸(いっけいげんか)大和尚により長谷寺再々興「曹洞宗」として現在に至る 』 (長谷寺オフィシャルサイトより)

参考:【長谷寺】http://www.iwaki-hasedera.or.jp/

本尊が観音様であることから、手水舎も観音様になっていたのですね。
この十一面観音は文化財でもあるようです。

『県指定重要文化財(彫刻) 木造十一面観音立像 一躯
指定 昭和三十六年三月二十二日
所在地 いわき市常磐湯長谷町堀ノ内一三八
所有者 長谷寺
鎌倉時代文保二年(一三一八) 像高 一七二㎝

本像は長谷式十一面観音像で、寄木造りの彫眼、足はさし足で、材質はカヤ材を用いる。口唇に朱を、鼻下のひげと肩にかかる垂髪は墨で描いた、いわゆる檀像彫刻である。
寄木の手法は両肩、腕、及ぴ背面を合せ、頭部も耳の前で前後に張り合わせ、内刳(うちぐ)りを施しさし首になっている。宝冠は三方に二重の菊花が刻まれ、十面の化仏(けぶつ)は当時のままである。腕は豊満で丸みを帯び、上膊部(じょうはくぶ)に腕釧(わんせん)を彫りだし、肩から腰の衣文(えもん)、腰から下の裳(も)はゆるく反転して彫りが深い。天衣(てんね)は仏体と同木であるが、接合部に破損がみられる。
彫刀の冴えは見事で、鎌倉末期の特色である写実的表現に優れている。
像の胎内・足先の裏面に六七三字の墨書銘(ぼくしょめい)があり、その一部は次のとおりである。
「奥州東海道岩崎郡長谷村観音堂徳一大師建立所也」「文保弐年戊午二月十日奉造立始、同戊午三月十七日大願畢」「造立檀那滝山千日大峯一僧祇行人大阿闍梨頼賢慶南房仏師大輔法橋能慶」「祖父隆泰隆時隆綱泰久祖父永真祖母明連比丘尼」
これら長文の墨書銘により、長谷村観音堂は徳一大師の創建で、仏像の造立は文保二年(一三一八)、三十八日で完成し、檀那(だんな)は大峯山で千日修行をした頼賢慶南房で、仏師は能慶であることがわかる。そして、岩崎氏と僧が造立に関与したことが明確になり、岩崎氏系図の欠が補われ、造立の年代、檀那、結縁衆、作者が判明した。
これ程墨書銘の多い類例も少ないことから、仏教文化と歴史的資料の両面から極めて高い評価をうけている。近年、光背・岩座・錫杖(しゃくじょう)が補われ像容を一新した。
いわき市教育委員会』(いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」より)

長松霊神社鳥居と社号標本堂の隣には何故か鳥居があり、横に「長松霊神社」という社号標があります。


長松霊神社社殿古い階段を上がると社殿がありましたが、かなり古びた社殿であまり手入れもされていないようです。
特に由緒などが書かれていないので調べてみました。


江戸時代、この辺りは湯長谷藩があり、その藩士に京都三十三間堂において千二筋の矢を射たことで知られる鈴木吉之丞という日置流弓術の名手がいたそうですが、名手ゆえにねたみややっかみで不遇のまま亡くなったそうです。
その後、湯長谷藩において跡継ぎができないという異変が起こり、藩主はすべて養子が継ぐなどの不幸が続き、それを人々が「吉之丞の祟り」といって恐れた為、第10代湯長谷藩藩主内藤政民によって吉之丞の霊神をまつり「長松神社」を建立したのだそうです。
現在は「長松霊神社」ですが、確かに社殿の脇に「長松神社」と彫られた社号標が無造作に置かれていましたから、どこかの時点で変えたのでしょうね。 曰くありげな神社といってよいのでしょう。ああ、参拝、参拝。

長谷寺 東司ちょっとした歴史を携えて戻ってくると、来る時には気が付かなかったお堂がありました。
「長谷寺 東司」というお堂で、「不染汚」という額が掲げられています。


これは、日本曹洞宗の開祖とされた道元禅師が記した著作「正法眼蔵」の中の言葉で”ふぜんま”と読むそうで、一言でいってしまえば、《どんなものにも染まったり汚れたりしない》ということのようです。
近づいてみると・・・!? 何とトイレです。入口の左右に男女の見慣れたピクトサインが貼り付けられているではありませんか。いやあ、ここまでの堂々としたトイレは初めて見ましたね。
確かに「不染汚」です。長谷寺必見ですね。

最後の最後に洒落の効いたパンチを食らったような気がするのですが、いずれにしてもなかなか興味深い社寺でした。

関連記事
スポンサーサイト


コメント

    コメントの投稿

    (コメントの編集・削除時に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)


    トラックバック

    Trackback URL
    Trackbacks