塩屋崎灯台

好面長谷寺を出ると既にPM:1:00をまわっていたので昼食をとることにしました。
ちょうど長谷寺から南下する方向で湯本高校を過ぎてしばらくすると右手に「手打ちらーめん」とかかれた看板を見つけました。
家に帰って食べるのも味気ないので、昼食はここで食べることにしました。


「好面」(はうめん)という中華屋です。店の名前の由来は、小麦粉を使った食品を面といい、その面が好きだから「好面」とつけたという実直なお店!?です。
それ程広くは無いように思えたのですが、入ってみると奥があって結構広い店舗です。土曜日のPM1:00過ぎでも結構お客がいるとは、何となく期待してもいいかもしれません。

とりあえずこの店の屋号のついた一押しの「好面ラーメン」を注文することにしましたが、その時「手打ちなんですね」と聞いてみると「今はもう手打ちはやっていないのです」いとも簡単に否定されました。だって、看板に・・・ ま、いいでしょう、美味しければよいのですから。
それとなにやら不気味な餃子を発見ました。
「イェロー・ポテト」です。イエローの”エ”が小文字なのが何か心惹かれます。
商品コピーには「今、ハヤリ『ウコン』で皮を」って書かれているのですが、いつ流行った話・・・、随分前のような気がします。そして更に「ソースで食べる餃子、じゃがいも・玉葱・挽肉(カレー風味)」といわれれば・・・コロッケ!? そして一皿5ヶ 250円・・・安い!、リーズナブル!
こんな面白そうなものは絶対に頼まなくてはと1皿注文。そして万が一を考えて確実な安全牌・エビ蒸し餃子も1皿注文しておきました。

好面ラーメン注文したものが出てきました。
まずは「好面ラーメン」。黄色い(こだわっている?)若干太いちぢれ麺です。ちょうどラーメンに餡かけの薄い八宝菜をかけた感じです。


意外や意外、かなりサッパリしたスープに、若干餡かけのスープが適度なちぢれ麺に絡んでコリャなかなか美味ですよ。
しかも具が筍、人参、キャベツなどなど5.6種類の野菜(嬉しいのが安易にもやしを使わずに水増ししていない!)に小エビやキクラゲ、そして豚肉など盛りだくさん。しかも小エビだって10尾くらいは入っている絶賛ラーメンです。
まあ、800円ですからコストパフォーマンスが驚くほど高いわけではないので賛否両論かもしれませんが、個人的にはすっごく気に入りましたね。

イエローポテトそして「イェロー・ポテト」です。


確かに餃子の中はコロッケです、そう所謂カレーコロッケ。でも意外としっとりしていてパサパサ感はありません。
皮の弾力と中身のさっくり感が、やはりこちらも賛否両論になりそうな雰囲気です。私はあると思いますが、家内は結局1ヶ食べてノーサンキューでした。
かなり満腹で心身ともに満たされた感じです。ここはそのほかにもチャーハン等もいろいろあるらしいので色々食べてみるのも良いでしょうね。

さてお腹も満たされたところで、一旦家で小休止の後「塩屋崎灯台」へ向かいます。 家内は一度来ていたようですが、私は初めてです。
一旦小名浜方面に向かって海岸沿いを走ります。さすがに海水浴シーズンは終わってますので、より寂しい雰囲気がありますが「稲村ジェーン」みたいでいいじゃないですか。あ、そうそう、ここ”いわき”は東北の湘南って呼ばれているそうですから・・・
メジャーな観光地ですから案内標識ですんなり到着しました。ちょうどPM3:00少し前です。

雲雀の苑灯台に上がる前にまずは「美空ひばり」でしょう。ここは「雲雀乃苑」(ひばりのその)という碑があります。


雲雀乃苑
故ひばりさんとかもめ舞う塩屋崎との由来
昭和62年3月9日:美空ひばりさんの復帰第一作作詞のため、星野哲郎先生塩屋崎に立ち、筆を執った。
昭和62年10月9日:船村徹先生が曲を付し、「みだれ髪」「塩屋崎」の両曲をレコーディングした。
昭和62年10月下旬 :ひばりさんのいわき市表敬訪問期日を11月26・27日と決定、諸準備に入った。
昭和62年10月19日:本市表敬訪問をドクターストップにより延期したい旨、ひばりさんから市長宛書簡が届いた。
昭和63年2月11日:「熱唱いわきカラオケ大会」を開催、ひばりさんから届けられた”激励メッセージ”のビデオを紹介した。
昭和63年10月1日:民間会社主催による「美空ひばりインいわき」を開催、いわき市民に再起の姿を披露した。
昭和63年10月2日:「歌碑」の除幕式を行なったが、天皇陛下が病に伏していたためひばりさんが出席を自粛された。
平成元年6月24日:午前零時28分、美空ひばりさんは間質性肺炎による呼吸不全で逝去された。(享年52歳)
平成元年7月20日:歌碑建立地にて「みだれ髪・哀悼のつどい」を開催、約3,000人のひばりファンと共に永遠の別れを惜しんだ。
平成元年7月22日:青山斎場にて故美空ひばりさんの本葬が執り行われ、いわき市長・いわき観光協会町名で生花を献じた。
元年~2年・年末年始:テレビ各局が、国民栄誉賞に輝かれたひばりさんの逝去を悼む特別番組を企画、広く本市を紹介された。
平成2年5月26日:歌碑建立以来、本市観光のメッカとして脚光を浴びるに至り、全国の多くのひばりファンの要望に応えて「遺影碑」を建立し、「遺影碑披露・感謝のつどい」を開催した。「歌碑」と「遺影碑」が一対となった同地を「雲雀乃苑」と愛称することとした。
平成2年5月 いわき市観光協会』(現地「雲雀乃苑碑」文より)

歌碑まさにドキュメンタリーですね。美空ひばりの晩年に関係したとして観光資源としての価値はかなり高いのでしょう。
「歌碑」はもちろん”みだれ髪”です。塩屋崎を見渡す絶好のロケーションですね。


遺影碑隣が「遺影碑」で、おなじみの歌が流れる仕掛けの碑です。素朴な疑問でやはり夜は電源切っておくのでしょうね、恐らく。


解説板さらにその隣には「いわき市とひばりさんとの縁」と題された写真つき看板が建っています。
何となくこれからも発展していくような風情ですが・・・


この後、平成14年にはこの「雲雀乃苑」から北、約200メートル先に「永遠のひばり像」も建てられ(気が付かなかった)たそうで、現在年間70万人以上の観光客が訪れているようですから、死してなお強力な影響力を誇っているようです。確かにこの日も大勢の観光客がいましたからね。

雲雀の苑から見た塩屋崎灯台ここから「塩屋崎灯台」に向かいます。
灯台は海抜73mにあるそうなので、少なくても5~60mはまず登らなければならないようです。


灯台登り口灯台登り口記念碑ちょうど登り口に碑が建っています。


『この記念碑は、海を守る燈台守の妻として幾多の苦難の道をのりこえた田中きよ さん(小名浜在住)の手記が昭和31年の婦人雑誌に載った「海を守る夫と共に20年」に心うたれた木下恵介監督により「喜びも悲しみも幾年月」と題して映画化されたものを記念して建立されたものです。
平成元年11月吉日』(現地記念碑より)

これも主題歌「喜びも悲しみも幾年月」の歌碑として建てられたもののようです。
この映画の概要はをウィキから拾ってみました。

『海の安全を守るため、日本各地の辺地に点在する灯台を転々としながら厳しい駐在生活を送る燈台守夫婦の、戦前から戦後に至る25年間を描いた長編ドラマである。
1956年に雑誌掲載された福島県塩屋埼灯台長(当時)田中績の妻・きよの手記から題材を得て、木下監督自身が脚本を執筆した。全編に渡りカラー映像で撮影され、単なるホームドラマの枠を超えて日本各地の美しく厳しい風景を活写した大作で、公開当時大ヒット作となり、同年の芸術祭賞を受賞した。
若山彰の歌唱による同名主題歌の『喜びも悲しみも幾歳月』も大ヒットし、後世でも過去の著名なヒット曲としてしばしば紹介されている。
観音崎、御前崎、安乗崎、野寒布岬、三原山、五島列島、瀬戸内海の男木島、女木島など全国でロケーション撮影を敢行し、ロードムービーの一種としても楽しめる作品である。』

ポスター現実に日本全国30ヵ所以上(内、灯台だけでも15ヵ所)をロケした映画は現在においても日本映画史上屈指のスケールだそうです。
主演は中井貴一の父・佐田啓二と高峰秀子という当時の大スターを起用しているのもいかに力が入っているかが伺えます。
1957年に公開されましたが、後、1986年木下監督によるリメイク版「新・喜びも悲しみも幾歳月」が映画化されています。また、1965年、1972年、1976年の3回にわたりテレビドラマ化されたそうです。
それにしても「塩屋崎灯台」は出てこないのですね、この映画には・・・


楽曲も劇場映画版が公開された1957年9月にコロムビアレコードよりリリースされましたが、作詞・作曲の木下忠司は木下恵介監督の実弟です。
これを唄った歌手の若山彰とは、どうやらこの歌が最大のヒット曲のようで、紅白歌合戦にも4回出場しているそうです。軍歌などが多かったようですが、意外なのは巨人軍「闘魂こめて」、「阪神タイガースの歌(通称:六甲おろし)」などを唄っていたそうです。

「塩屋崎灯台」内部に入るのはPM3:30までのようで、現在がもう3:30を少し過ぎていますから残念ながら灯台内には入れ無いようですね。
それでも近くで灯台を見ようと階段を上がり始めました。家内は結構一杯一杯だったのですが、引っ張りながら何とか上がり切りました(って、程の坂でもないのですが)。

領域内フェンス展示物灯台領域のフェンスの門近くに展示物がありました。
「霧信号用ラッパ」と「浮標用ベル装置」だそうです。


霧信号用ラッパ
霧信号とは灯台に併設され、霧等で視界が悪く灯台が見えないときにも音響によって航海者に灯台の位置、方位を知らせる装置です。
このラッパは、圧縮空気を細孔から噴出させ、その空気を断続させることによって音響を発する装置に使用した共振器部分で、昭和29年から昭和63年まで宮城県牡鹿郡金華山灯台に設置されていました。

浮標用ベル装置
この装置は、海上のみちしるべである浮標に取り付け、霧などで視界が悪く浮標が見えないときにも、航海者に波浪の動揺で鳴る鐘の音で浮標の位置、方向を知らせるものです。
この鐘は、昭和28年から昭和48年まで宮城県塩釜港沖合いの洞掛根という暗礁を標示していた浮標に取り付けられていました。』
(現地解説板より)

だから何っていわれればそれまでですが、灯台のモニュメントと考えれば雰囲気でるでしょうし、まあ、こういったものを間近に見ることもそう 無いでしょうから、貴重な経験ですね。

ミュージアムと灯台フェンス内の灯台エリアに入るとミュージアムがあり、その先に白亜(という言葉が似合う)の灯台が見えます。


チケットとっくに3:30は過ぎているのですが、チケット窓口が開いているので聞いて見るとOKとのこと(後々知ったが見物客がいる間はPM4:00すぎ頃までチケットは販売していました)。
早速参観料200円を払っていざ灯台内部へ。


この場合チケットは、入場料とはいわずに参観料という名目になるようで神社仏閣と同じ意味なのでしょう。
このように内部が一般公開されている灯台のことを「参観灯台」と呼ぶそうで、(社)燈光会というところが委託をうけて事業をおこなっていて、どこでも参観料は一律200円だそうです。
現在、この参観灯台は全国で15ヵ所で、灯台資料展示室は10ヵ所あるそうです。

参考:【燈光会】 http://www.tokokai.org/index.html

塩屋崎灯台美しいが迫力のある塩屋崎灯台が間近に見えます。
さあ、これから100段くらいの螺旋階段をひたすら登ります。


登りきると360度の大パノラマ(古い!)の絶景です。

薄磯海岸北方向には「いわき市考古資料館」にあったあの「薄磯貝塚・貝層剥ぎ取り断面」のあった薄磯海岸の海水浴場です。


西側の山間部東側の大海原東西はいわき市の山間部と大海原が広がっています。


南側の豊間海岸南側は豊間海岸の海水浴場です。


多少、肌寒さはあるものの暫し絶景に見とれていたのですが、気づくとそこには脚が震えている私がいあました。そう、結構高所恐怖症なんですね、実は。灯台の壁に背をぴったりつけて、思いっきり手を伸ばして手すりに掴まっていないとめまいを起こしそうです。ですから人が前を通り時は手すりの手を離さないとならないので、その場合は手も足もぴったり灯台の壁に張り付いたようにしていないと何とも居心地が悪いのですね、これが。
それでもひたすら絶景を楽しみ結構写真も撮り(手ぶれ補正が付いていながらぶれているのが何枚かあった)、下に降りることにしました。
降りるときには比較的早足で階段を下りれるのですが、今度は家内が急ぎ降りると目が回るということで、ゆっくり階段を下りてきたという、どうにもこうにも居たたまれない夫婦でした。

降りてきてからミュージアムに立寄りました。様々な展示がなされていますがやはり「塩屋崎灯台」の歴史を見ないわけにはいかないでしょう。

しおやざき灯台物語
塩屋崎の近海は昔からの難所で岩場が多く、海が荒れたときは操船が難しく漁民は困っていました。
平安時代に京都から来た僧は漁民の話を聞き、夜通し灯りをつけておくことができる常夜灯を建てることにしました。
苦労のすえ、治安元年(1021年)に常夜灯は完成し、岩場の多い海を夜も安全に船が通れるようになりました。
この僧が亡くなると常夜灯を守る人がいなくなりましたが、安政2年(1855年)に再び立派な常夜灯が建てられました。
(注:安政2年の常夜灯再建に努めたのが上平亮範という人です)

平安時代の常夜灯建設から834年後の明治32年(1899年)12月15日、近代的なレンガ造りの灯台が塩屋崎に完成しました。
塩屋崎灯台の建設主任は日本の代表的な灯台をいくつも手がけてきた山本哉三郎航路標識技手でした。
完成当時の塩屋崎灯台は、レンガ造りとしては日本一高い大灯台でした。
(注:基礎から灯頂までの高さは35.3mです)
しかし、詳細な図面等の記録が残っていないため、初代の塩屋崎灯台は幻の大灯台と呼ばれています。』(現地展示パネルより)

「本物のレンガ」と「石油二重芯灯器」ここに当時初代塩屋崎灯台でつかわれた「本物のレンガ」と「石油二重芯灯器」が展示されています。
「石油二重芯灯器」とは初期の灯台の光源には石油灯器(なたね油)が使われていましたが、植物油は燃焼力が弱く、これを補うために二重・三重の芯により効力を補強したものです。塩屋崎灯台の初代の灯器は「石油四重芯灯器」だったそうです。


ストーリーは続きます。

『かつて灯台には「灯台守」といわれた人々が住んでいました。
灯台は不便な場所にあり、職員や家族が助け合って、船を安全に導くという誇り高い仕事を遣り遂げていました。ちなみに昭和25年(1950年)の塩屋崎灯台には8人の職員とその家族が生活をしていました。
当時塩屋崎灯台では学校の遠足など灯台を見学に来られる方々には灯台の職員が案内をしていました。その後見学にこられる方が急増し、本来の業務に支障をきたすようになったため、昭和33年から(社)燈光会が、その管理にあたるようになりました。

塩屋崎灯台の下にある豊間の海は、あわび、うに、海藻の宝庫でした。
大正時代、その豊かな海に目をつけた新潟の船頭・阿部彦次郎は故郷から10隻の船と120人の漁夫を引き連れて豊間港で漁をし、大漁旗をひるがえしました。
昭和14年(1939年)11月には1本約300Kgの本まぐろが1,500本という大豊漁に豊間の浜は大にぎわいとなりました。』(現地展示パネルより)

恐らく様々な苦労をされた灯台守の方々だったのでしょうが、1993(平成5)年2月にこの塩屋崎灯台は無人化されたようです。
一方、漁に関連する話で昔は大金が必要な場合「マグロ漁船に乗せる」などという言い回しが使われたほど、マグロ漁船は重労働・高収入の代名詞だったそうです。
たまに青森県大間のマグロ一本釣などがTV等で話題になりこともあるのですが、近年では輸入が増加したり、養殖モノの流通により必ずしも高収入ではなくなっているそうですが、昭和14年当時では大変な収入だったのでしょう。思わずニンマリでしょうかね。
さらにストーリーは続きます。

『昭和30年代の大ヒット映画「喜びも悲しみも幾年月」の原作者・田中きよさんは、塩屋崎灯台の第20代灯台長・田中績さんの奥様です。績さんが塩屋崎灯台に灯台長として勤務していたとき、きよさんは雑誌に「海を守る夫と共に二十年」と題した手記を発表し、それが巨匠・木下恵介監督の目にとまり映画になりました。
田中さんご夫妻は退職後の永住の地にいわき市を選ばれました。その理由として、気候が良く、新鮮な魚介類が豊富で、人々の人情味が厚いことなどをあげています。

初代の塩屋崎灯台は昭和13年(1938年)11月福島県東方沖を震源とするマグニチュード7.7の地震で被害を受け、昭和15年(1940年)に現在の鉄筋コンクリート造りの灯台に生まれ変わりました。
昔から見学もできる灯台として多くの人が訪れています』(現地展示パネルより)

様々なエピソードに彩られた灯台とでも言うのでしょうね。

このように灯台を見たり知ったりしているうちに、どうでもいいようなことですが灯台内部の見学時間について、ふと思いつきました。 この灯台は業務として使用されているので夜になれば当然のあかりを灯すので、当たり前のことながら、そのときは見学などできるわけがありませんよね。
ということは、日の入り時間によって参観時間を調整できるということですね。ですからPM3:30までというのは日の入りが一番早い冬至に合わせて設定した時間といえるのではないでしょうか。
そう考えて昨年(2008年)の福島県の日の入り時間を調べてみると、冬至に日の入りが16:23ですから、日の入り前の約1時間前には閉館するという原則だと思えます。その点から考えると日の入りが一番遅い夏至では、やはり2008年6月21日の日の入りが19:03ですから、この法則によればPM6:00ころまで参観できるということになります。
したがって2009年8月29日の今日は日の入りが18:12なので、基本的にはPM5:00くらいまでは大丈夫だということですね。
となればPM3:30を過ぎても入れたのも不思議ではないということですね。
まあ、ちょっと考えれば誰でもわかることだろう、と言われそうですが、私的には大発見的な・・・(汗)

灯台光源レンズミュージアム内には他に灯台自体の歴史をパネル展示されたり、灯台の光源レンズが実際に稼動する模型などももあり、結構多面的に灯台を知ることができました。


景色も楽しめ知識も得られ、なかなか見ごたえのある塩屋崎灯台でした。

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