沼之内弁財天

社号標と参道塩屋崎灯台から薄磯海岸沿いを北上し20分ほど行くと左側に「沼之内弁財天」あります。
社号標の前は広い駐車場になっているようでPM5:00近くですが数台車が停められています。


天然記念物うなぎ生息地碑社号標の横には「天然記念物 賢沼ウナギ生息地」という碑が建っています。


山門鬱蒼とした参道を抜けると「天光山」と書かれた山門が左手にあります。
山門前にはさび付いたパイプが巡らされていて、恐らくお土産屋でも開くのかもしれませんが、何とも廃墟風で見るに耐えない感じです(廃墟マニアではないので)。


良く判らない塔山門をくぐって右側に良くわからないが何となく由緒ありそうな塔がいくつか立っています。その向かいに本堂があります。


本堂古そうな感じですが、なかなかしっかりした本堂です。一旦参拝を済ませました。


樹齢推定500年の椎の木本堂の右手側に弁財天への道標があったので行ってみます。
沼が見えてくると同時に右側に大木があります。「樹齢推定500年」と書かれた椎の木です。分かれた太い枝が坂道に沿って斜め下に延びています。実に生命力の強そうな椎の木です。


弁財天社殿椎の木の先に「弁財天堂」が見えます。ちょうど拝殿・幣殿・本殿を本殿側から見る恰好になります。


弁財天本殿彫刻 朱色に塗られた本殿の彫刻はなかなか見事なもののようで、色が剥げてしまっていますが、元々は極彩色の美しい彫刻だったことを思わせるような色がところどころ僅かにのこされています。
ちょうど【白水阿弥陀堂】と同じような感じではないでしょうかね。


弁財天本殿本殿をぐるりと回ると「弁財天堂」の縁起書があります。


賢沼辧財天縁起
この辧財天堂は真言宗天光山密蔵院賢沼寺の附属仏堂として管理されています。
沿革は大同二年徳一大師の創建にして、磐城城主海東小太郎清衛の開基です。
その後、永亨三年大和国より光蔵律師来?し現在地に移座す。
その頃より代々の領主の尊信篤く、建造物及び寺領の寄進あり、奥の院は延亨四年平城主内藤備後守の御造営、山門は仁安三年、浮見堂は文化六年に完成されました。
辧財天は印度が発祥地で仏教の天等部に属し福徳円満を恩念する天であり、ここでは海上航海の守護神として遠国にまでその名が響いております。
祭日は正月十五日、五月四日に執行しております。
沼に生息している鯉、鰻等は代々の領主より殺生禁断となっており、民衆の愛護を受けております。また、この沼は干したり、干上がった事がなく昔から底なし沼と申しており数々の伝説が伝えられております。
辧財天別当所 賢沼寺』(境内案内板より)

どうも元号では時代がわかりにくいので西暦に直すと、大同二年が807年(平安時代)、永亨三年:1431年(室町時代)、延亨四年:1747年(江戸時代)、仁安三年:1168年(平安時代)、文化六年:1809年(江戸時代)となります。
このように見ると歴史ある寺といえるでしょうが、ここで一つ面白い符号があります。
午前中に訪れた長谷寺も807年徳一大師創建なんですね、これが。勿論、伝承でしょうから事実とは異なっているのかもしれませんが、それにしても全く同じということに何か意味があるのか、単なる偶然なのか、実に不可思議です。

まずは徳一大師について知らなくてはなりません。
徳一(とくいつ)は奈良時代から平安時代前期にかけての法相宗の僧です。
当時の権力者・太政大臣藤原仲麻呂の十一男ともいわれていますが、あくまで推測です。いわばエリートとして京での修行は興福寺の修円により法相教宗を学んだといわれています。
しかし764年に起こった藤原仲麻呂の乱により仲麻呂の一族はことごとく殺されたのですが、六男・刷雄は死刑を免れて隠岐国に流され、十一男と伝わる徳一も処刑されず東大寺に預けられて出家したそうです。
このような経緯により京に留まる事はできずに、20歳の頃に東国へ下ったといわれています。そして筑波山等で厳しい修行をしていました。
会津の象徴である磐梯山が大爆発を起こしたのが806年(大同元年)で、このとき猪苗代湖が出来たといわれています。この大爆発で耕地は跡形も無くなり、住む家や食物えお失った人々が道端に屍を晒しているような惨状だったようです。
この惨状を伝え聞いたのが徳一で、徳一は人々の苦しみを救うため、仏教を広め仏の都を造ろうと会津に入ったのです。
そして翌年の807年(大同2年)、会津東方の磐梯山麓に根本寺として「慧日寺」を創建しました。これが仏都会津の始まりでした。
そして越後への要所野沢に会津西方浄土としての鳥追観音如法寺、会津盆地の中央に勝常寺、奥会津只見への要所柳津に円蔵寺、会津北方の要所熱塩に慈眼寺(現在は示現寺)を相次いで開創し、会津の仏都化と民衆布教により「徳一菩薩」と称されたそうです。
その後、会津仏教の根本寺である「慧日寺」は会津四郡を支配し、最盛期には寺院3800坊、18万石に寺領を持ち6000人を越える僧兵を要する大寺院となり、この「慧日寺」による荘園政治が平安末期迄続き、会津仏教文化の黄金時代を築いたのです。

また、この間に徳一は当時平安時代のリーダー、真言宗の空海、天台宗の最澄に宗論を挑んでいるようです。
815年空海から密教経典などの書写・布教を依頼されたことに対して、真言密教への疑義を記した11か条の「真言宗未決文」を空海に送り真言宗を批判しています。これに対して空海はあえて反応を示さなかったようで、真言宗側からこの「未決文」に対して反論がなされたのは500年後だったそうです。
また最澄に対しては816年「仏性抄」を著して、法相三乗説の立場から法華一乗説を批判し、これに対して最澄は翌817年「照権実鏡」を著して反論したのをきっかけに5年間にわたり論争が繰り広げられました。これを「三一権実諍論」というそうです。
このあたりは平安新都のリーダーに対する、かつての京でのエリートとして、そして東国のリーダーとしての自負心からくるものなのでしょう。但し、空海と最澄の場合は若干意味が違っているようで、どうやら空海は徳一を尊敬している点が最澄とは異なるようです。それゆえに反応を示さなかったのではないかとも考えられるようですが・・・
こういった経緯で福島県、特に会津地方における徳一は、まさに地元の偉大なる祖師として考えられているのでしょう。

徳一については理解できたとして、それが何ゆえ寺院開基が807年となるのでしょうか。これは大同2年の謎として色々な説があるようですが、概して空海に端を発しているようです。

この807(大同2)年の寺院の開基は福島県のみならず全国的に多いということが前提です。
この年、807年にかつて奈良時代にあった「国分寺建立の詔」のようなものが勅令されていれば、この年に多くの寺院の開基があっても何ら不思議は無いのですが、そういった類のものが一切無いにもかかわらず・・・といったことが謎となるのです。
これには2つの解釈があるようです。
1.京都の清水寺に代表されるような坂上田村麻呂による伝承です。
坂上田村麻呂が蝦夷征伐に関連した建立という説で、その征服証拠として寺社を寄進したというものです。
これは関東にこの種の寺社が多いことから考えられていますが、四国などにも建立されている為、決め手にかけています。
2.空海が806(大同元)年帰国したことによるという伝承。
807(大同2)年は空海が帰国した翌年で、唐からたくさんの仏具や仏像と共に密教を持ち帰り、その教えを携えて多くの修験者が日本各地で活動したことや、或いは空海が無事に帰国したことを喜び建立したという説です。
これについても空海の帰国は命令違反で、帰国後謹慎の見であったことから翌年の動きでは早すぎるという疑問が残るようです。

参考:【MIPSWORLD】(日本を変えた大同二年の謎) http://www.mipsworld.com/mizukuki/mizu023.htm

いずれにしても結局のところ、この807(大同2)年の謎は解明できない(当たり前といえば当たり前ですが)ようですが、先に訪れた長谷寺の「寺子屋日曜講座」の前説に興味深い記述が記載されています。

『一大師開基伝承の寺々の大部分は、弘法大師開基縁起を伝えて、真言寺院になっています。
この実情からしますと、一・弘法両大師の関係は、一・伝教両大師のそれよりも一層奥深いとも言えます。一・弘法両大師出会いの書が「真言宗未決文」という本です。
むずかしい本です。でもこの門をくぐって、両大師の交渉ははじめて歴史になるしそう考えて、この「やさしい未決文」開講になりました。』
(長谷寺オフィシャルサイトより)

あくまで福島県だけで推測するものとして、基本的に正確な開基がわかる寺院もあるでしょうが、正確に判らない寺院については弘法大師(空海)開基を807年とする京都の寺院に合わせて807年としたといってもよいのでしょう。
更に徳一開祖の寺院としても弘法大師との関係(徳一を尊敬していたという点からも)から、807年として弘法大師との縁を匂わせていると考えても良いかもしれません。
まさにこの弁財天は徳一開祖ですが、奥の院としての密蔵院賢沼寺は真言宗智山派の寺院ですから、徳一と空海の関係が多少とも理解できると共に、法相宗と真言宗の力のバランスもまた理解できるというものです。これが福島県における807年徳一開基の解釈に一つと考えています。

もう一方のの殺生禁断の伝説とは、昔、この沼には沢山のカモが住んでいて、ある時一人の猟師がカモを撃ち落したが岸に引き寄せられない。そこで猟師は自ら泳いでカモを引きあげようとしたが、水がベタベタと絡み付いて上手く泳ぐことができない。
命からがらようやく岸に這い上がったが、このことから沼の生き物を獲ると沼の主の祟りがあるとの噂が広がり、誰もカモは勿論のこと、魚を獲るものもいなくなったという伝説です。
まあ、良く密漁などが起きる場合にこういった噂話を流す場合がありますが、伝説とは得てしてそういったことでしょうね。

弁財天拝殿そこから拝殿の方に回ります。やはり歴史のありそうな拝殿です。


浮見堂と賢沼拝殿の前には賢沼があり、そこに突き出るように浮見堂がありますが、随分と風流なものです。


浮見堂の天井画浮見堂の天井には極彩色の絵が書かれています。といっても明らかに数年前に書かれた絵でしょう。でもこれがあと200年くらい経つと文化財となるかもしれませんね。


しばらく浮見堂から賢沼を眺めていると、確かに風景は水面に映って大層綺麗なのですが、意外と水自体はかなり澱んでいそうで余り美しくは無いようです。まあ、沼ですしウナギが生息するくらいですか仕方が無いでしょうが・・・

賢沼とブイ沼を見ると所々にブイのようなものが浮いています。
これは「賢沼再生プロジェクト」で行なわれているものだそうです。


みんなで取り組む水環境の修復活動
賢沼は緑色の沼になっていますが、昔は青く澄んだきれいな沼で、大きなウナギやコイがたくさんいたそうです。きれいな賢沼に戻す活動に参加してみませんか。
福島高専といわき市教育委員会は、賢沼をきれいな状態に戻すための活動に取り組んでいます。水質分析キットを使って現在の沼の状態を調べ、汚れの原因を探ります。』(パンフレットより)

ということでこのプロジェクトは主催:福島高専・いわき市総合教育センター 、後援:いわき市教育委員会で行なわれている実験で、そもそもは独立行政法人科学技術振興機構・地域の科学舎推進事業の一つとして実施されているもののようです。
この地域の科学舎推進事業には、「地域活動支援」と「地域ネットワーク支援」があり、この場合はどうやら「地域活動支援」で、機関・団体、個人等が国民に対して身近な場で実施する体験型・対話型の科学技術理解増進活動をいうようです。

そしてこの「賢沼再生プロジェクト」の具体的な活動は以下の通りです。
平成21年5月30日 第1回「調べてみよう 賢沼」
内容:沼の状態について(説明)・沼の水質を調べてみよう(実験)
平成21年6月27日 第2回 「賢沼にプレゼント」
内容:水温が上がると、賢沼では酸素がなくなり、沼 が濁ってきます。そこで、沼に酸素を送り、沼の 浄化を助ける装置を組み立て沼に設置します。
平成21年7月25日 第3回 「賢沼の水を動かそう」
内容:太陽電池から水中ポンプに電気を送ります。 ポンプは水を動かしてくれるでしょうか?
平成21年8月22日 第4回 「賢沼でプランクトンを探そう」
内容:賢沼にプランクトンはいるのでしょうか? プランクトンって聞くけど、どんな“いきもの“なのか?賢沼のプランクトンを調べてみましょう。
平成21年9月26日 第5回「プランクトンを捕まえよう」(予定)
というように、とっくに地元の方は賢沼の水質については気になっていたのでしょうね。水が綺麗になるとそれだけでまた観光資源としても十分活用できそうですからね。

さて、その賢沼の生物、ウナギについての説明があります。

『国指定天然記念物 賢沼ウナギ生息地
指定 昭和十四年九月七日
所在地 いわき市平沼ノ内字代ノ下一〇二
面積一四八アールの沼は文部省の所有になっており、沼の北岸に密蔵院賢沼寺があり、沼のほとりに弁天堂がある。
その浮見堂の床下から餌をもらうコイにまじってウナギがあらわれる。ここは古くからウナギの群生するところとして知られ、特に、昭和一四年にウナギの生息地として天然記念物の国指定をうけて以来、大型のウナギがよく生息し、観察されている。
ウナギの生活史で、淡水に棲むのはシラスウナギ(幼生体長6糎)以降のもので、成熟すると降海回遊をするのが一般的である。
シラスウナギは水温12度以下で、必要酸素の五分の三を皮膚から吸収し、小さな流れでもよくのぼる能力があることから、弁天川を遡上して沼へ入り保護されたまま巨大化して生息していると考えられる。
いわき市教育委員会』(境内案内板より)

この賢沼以外では、国指定天然記念物のウナギとしては岐阜県郡上市の粥川ウナギ生息地があり、また、オオウナギ(ウナギの大型とは違う、種別としてウナギと異なる別種)としては、和歌山県白浜町、徳島県海陽町、長崎県長崎市の3ヶ所のオオウナギ生息地が国指定となっているそうです。

さてこの賢沼のウナギですが、やはり現在ではかなり数が少なくなっているという問題を通じて、ウナギの生態を検証しようとする展示が、「アクアマリンふくしま」にあるそうです。その名も「うなぎ再生プロジェクト」というコーナーだそうなので、一度見てみたいものですね。

楼門弁天堂の左手にはやはり歴史のありそうな、それでいて重厚感のある門がそびえています。
市指定文化財の密蔵院楼門と標柱があります。


『市指定有形文化財(建造物) 密蔵院楼門 一棟 (附)棟札木簡一枚
指定 昭和六十三年三月二十五日
所在地 いわき市平沼ノ内字代ノ下一〇四
所有者 密蔵院
密蔵院楼門は、密蔵院(賢沼寺)の境内にある弁財天の山門である。延享四年(一七四七)、内藤備後守政樹の代に造営が始まり、翌年完成した。大工棟梁の平鎌田の杢七、木挽の甚三郎によって建築されたことが棟札に明記されている。
この楼門は三間一戸楼門の、入母屋造りで、以前は柿葺きであったが、現在はトタン葺きである。腰組斗・二階斗ともに三手先組で、全体的に形が小さく、特に肘木は和様とも禅宗様とも云い難い地方色豊かな技法が用いられている。斗間には蟇股(かえるまた)と雲・水・鳥・草花などの透し彫りの装飾が施され、木鼻や虹梁なども構造性より意匠的な面が重視され、技法も人胆である。基礎は一六個の基石上に土台を据え、対辺二二㎝の八角形の柱を建て、正面両脇には内藤備後守政樹寄進の風神、雷神二神が安置されている。
壁は板壁で、二階床上には組高欄が設けられている。また、この楼門の垂木の配置は特徴的で、正面は配付垂木〔平行垂木)、その他三面は、放射状に配置された扇垂木になっている。この技法は当地方でも数例しか見られず、特記に値する構造である。建築様式は和様と禅宗様との折衷様式で、背面尾垂木上部に鳥の彫物を置き、その他の彫物装飾も、華美になっている傾向がある。
また棟札には、次のように記載されている。
「延享四年八月七日平城受取渡因茲大工中永引戊辰夏中葺地出来彫物等極彩色江、戸細工棟梁大工、平鎌田町杢七龍澤木挽甚.二郎本社四本槻小川山御拜貮本下高久村而伐石切信州庄内  時延享五龍在戊辰卯日吉祥日棟上目出度相調畢」
いわき市教育委員会』(いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」より)

七福神やはり奥の院の山門よりずっと豪華なのは、力関係と時代によるものでしょうかね。
そして楼門の横手に石で作られた宝船が立っている、いわゆる七福神です。弁財天ですから当然ではあるのですが。


歴史的に見るべきものも多いのですが、環境や自然などについても一考させる寺院でした。

中田横穴中田横穴そして今日最後に訪れたのが、「いわき市考古資料館」で見た「中田横穴」です。
確かに県道沿いにあり、この県道の工事中に発見させたことが何となく理解できます。ただし、残念ながら一般公開は毎月第2日曜日とのことなので今日は見ることができません。
また、近々来ることもあると思うので、その折に中を見学したいと思います。


だいぶ日も暮れてきたので今日はこれにて帰宅しました。明日もまた楽しめると良いですね。
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