飯野八幡宮

30日の日曜日は朝から台風の影響なのかどんより曇った天気です。予報では夕方から降雨とのことなので何とか日中降らないように祈るのみです。
ちょうどAM10:00過ぎの出発間際に大雨。これは1日ダメかなと思っていると3~40分で雨も上がりうっすら明るくもなってきました。まあ、何とか今日は1日持ってくれるでしょう。

今日はまず、いわき駅方面に向かい飯野八幡宮に向かいました。飯野八幡宮の縁起です。

飯野八幡宮
福島県いわき市平八幡小路84
祭神:品陀別命 ほんだわけのみこと(応神天皇) 、息長帯姫命 おきながたらしひめのみこと(神功皇后) 、比賣神 ひめがみ(仲姫)
社伝によれば、康平6年(1063)源頼義が奥州合戦(前九年の役)出征の時、京都石清水八幡宮を必勝祈願のため勧請したという。しかし、文治2年(1186)関東御領好嶋荘の総社として、源頼朝の命により本社石清水より御正躰を奉じて、赤目崎見物岡(現いわき駅北の高台)へ祭祀したとの別伝も記録に見られる。建永元年(1247)時の執権北條時頼は、幕府政所執事伊賀光宗(宮司飯野家の祖)を好嶋荘の預所に任命した。以後代々預所職と神主職を兼ね、現宮司飯野光世にいたる。

爾来星霜を経て、南北朝の騒乱は当社にも及び、兵火の災にあい社殿を焼失。建武2年(1335)足利尊氏に訴願して、好嶋荘地頭衆に命じ修復させた。この間、建暦元年(1211)御浜出の神事(潮垢離)、貞和2年(1346)放生会における流鏑馬の神事が行われるなど、数多くの祭礼行事がととのった。室町時代には神領の減少が見られたが、菊田・磐崎・磐城・楢葉・標葉の岩城五郡の総社として、岩城氏を始め一般庶民からも厚い信仰を受けた。特に岩城氏は数度にわたって所領を寄進し、天文20年(1551)岩城重隆は梵鐘を奉納した。

慶長7年(1602)鳥居忠政が岩城平領主となり、新たに築城するにあたり、旧地を離れ、現在地に遷座したとされる。慶長19年火災に遭い、元和2年(1616)再建された。当初は前殿付き流れ造りであったが、延宝2年(1674)の大改修で桁行三間梁間三間のこけら葺入母屋造りとなり、幣殿・拝殿も造立された。幕府から神領として四百石の朱印地が与えられ、歴代の磐城平藩主も五十石の土地を寄進するなど、篤い崇敬によって護持されてきた。本地垂迹の説によれば、八幡大菩薩の本地仏は阿弥陀如来という。そのため、境内には武内社、春日社、白旗社などの末社の他、阿弥陀堂、釈迦堂、地蔵堂、十王堂、鐘楼などの佛堂が立ち並んでいた。さらに境域を取り囲むように、周辺には16の供僧寺が軒を並べて連なり、ひときわ荘厳さを加えていた。

宮司飯野家のもとで、社家32人、神子8人、真言宗16ヶ寺の供僧たちが奉仕していた。明治初年の神仏分離令により、供僧寺とともに佛堂施設も除かれた。
明治12年県社に列せられた。明治6年、宮号の使用が禁止された後は飯野八幡神社と称していたが、昭和36年飯野八幡宮の古称に復した。』(飯野八幡宮オフィシャルサイトより)

相当な勢力を持っていた社寺といえるでしょう。まさに歴史の宝庫かもしれません。

飯野八幡宮鳥居と社号標赤い鳥居の見える前に到着すると、今日は何とラッキーな日なのでしょう。
鳥居の後ろに見える楼門が保存修理工事の為、囲われていてすべてを見ることができません。
このような滅多に無い光景を見られるとは何と運が良いのでしょうか、といういきなりポジティブシンキングの見せ所です。
鳥居の横にはしっかりと「飯野八幡宮」の社号標があります。鳥居の先には「円月橋」という名の小さな橋があるのですが、大正時代に改修され石造りになったのですが、擬宝珠には1679(元禄10)年(1697)の銘があるそうです。


飯野八幡宮楼門石橋の先の工事中の楼門ですが、これは重要文化財に指定されています。


『国指定重要文化財(建造物) 飯野八幡宮 楼門
江戸時代初期:初層桁行 六.三六m、初層梁間 三.六三m、二層桁行 五.九m、二層梁間 三.二七m
この楼門は三間一戸楼門の入母屋造りで、境内入口の門である。明治初めまで正面に仁王像が収められていたが、神仏分離令により改められた後は、随身像が安置されている。
建立は万治元年(一六五八)で、大工儀左衛門が普請に携った銘文が、上層内部の柱に墨書で記録されている。また元禄十年(一六九七)に平沢清兵衛が、享保十年(一七二八)には平沢利右衛門が修理に携わっている。
白御影石造出基礎上に南面して建つ。屋根は銅板一文字葺き(元は柿葺)で、妻飾りは二層入母屋台輪に豕扠首を組み、拝みに蕪懸魚を吊る。二層の軒は、三手先の出組で斗支輪が付き、床は総板張りで、四周縁に高欄が付く。
柱間装置は間斗束が,板壁には青が用いられ、縁腰組は四手先出組斗となる。主柱は八角柱であるが、二層柱は円柱である。初層は地貫・腰貫・頭貫・冠木・虹梁・水平隅木で組まれ、中の間には戸がなく吹き放して蹴放しの唐居敷で受ける。両側の前後一間は阿迫板壁である。
屋根修復の柿葺きの墨書銘から分かるように、数度の修理を経て現在に至っている。平成の大修理で内法長押の菱繋ぎ四つ花文や、蟇股に等極彩色が施され、総朱漆塗りの秀美な楼門が再現された。
近世初頭の楼門建築遺構として貴重である。
いわき市教育委員会』(いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」より)

専門用語が多くてほとんど理解不能。しかも後から調べたものなので凡その様子もすっかり忘れてしまって、更に解読不能。まあ、一つ づつ用語を調べていけば多少は理解できるのでしょうが、ここのところは「そうなんだ・・・」と判った振りだけしておきましょう。
付け加えておくと、この楼門の見どころは、「八幡宮」の社号額が後陽成天皇の皇子で、後水尾天皇の弟にあたる聖護院門跡道晃法親王(1612~1679)の染筆で、和歌の指導を受けていた藩主・内藤義概(ないとうよしむね)が、延宝2年(1674)の社殿大改修の際に寄進したものだという由緒や、楼門の周囲を巡って、彩色された十二面の蟇股彫刻を眺めるのがこの楼門の見どころのようです。

こういった次第で楼門をくぐって参道を歩くことはできませんが、楼門の脇を通って参道を進むと案内板がありました。

飯野八幡宮所蔵指定文化財
所在地:いわき市平字八幡小路八十四番地
所有者:宗教法人 飯野八幡宮
国指定 重要文化財
「飯野八幡宮」
本殿 昭和五十八年一月七日指定
若宮八幡神社本殿、仮殿、神楽殿、唐門、楼門、宝蔵 平成十四年十二月二十六日指定
「大薙刀(銘 備州長船住盛景)」 昭和四十九年六月八日指定
福島県指定 重要文化財
「常滑大壺」 昭和六十二年三月二十七日指定
福島県指定 重要有形民族文化財
「絵馬双鷹図」 昭和五十五年三月二十八日指定
「絵馬引馬図」 昭和五十五年三月二十八日指定
福島県指定 重要無形民俗文化財
「飯野八幡宮の流鏑馬と献饌」 昭和五十八年三月二十五日指定
いわき市指定 有形文化財
「飯野八幡宮幣殿拝殿 昭和五十七年三月二十六日指定
「源為朝の図額」 昭和五十二年五月四日指定
「絵馬 渡辺綱の図」 平成十一年四月三十日指定
「飯野八幡宮神輿」 平成6年三月二十五日指定
いわき市指定 有形民俗文化財
「飯野八幡宮流鏑馬の用具類及び献膳の祭器」 昭和五十六年四月二十三日指定
いわき市教育委員会』(境内案内板より)

飯野八幡宮儀式殿実に文化財が多いですね。しかも国指定が多いのには驚かされますね。
ちょうどこの案内板の左手にも建物があります。「儀式殿」と書かれていますが、これは重文では無いようです。でもこれすらも歴史のありそうな建造物のような感じです。


飯野八幡宮唐門そのまま参道を進むと正面に「唐門」があります。


『国指定重要文化財(建造物) 飯野八幡宮 唐門
江戸時代 高さ 三.七五m、桁行 二.四二m、梁行・控柱間 一.七五m
この唐門は境内の中門で、神楽殿と並び玉垣で本殿と楼門を仕切る一間一戸の水門である。
屋根は銅板本瓦葺き(元は柿葺)、基礎は造出し花崗岩で、二本の円柱を四本の角控柱で支える。円柱は頂部を細めるいわゆる綜とし、それに虹梁を架け渡し木鼻が付き、藤二つ巴紋の半肉彫板の蟇股で斗?を受け、主柱二本を蹴放しで連絡する。
軒は一軒本繁垂木で化粧屋根裏の造作は極めて技巧的であり、妻側の平唐破風には兎毛通しが付き、円柱頭部に笈形を飾る。柱には方立、藁座を付け、内両開きの八双金具飾桟唐戸を吊る。
『八幡宮御造営之帳』には「寛永八年(一六三一)…八幡宮之御門建申事云々…」とあるが、この御門は本殿前の門と考えられ、元禄十六年(一七○三)拝殿建設と、宝永二年(一七○五)幣殿建設の際に、水門玉垣が造られたと考えられる。記録には延享三年(一七四六)唐門と具体的に表現され、近世初期から中期にかけて造られたと思われる。宝暦十一年(一七六一)の修理記録には「唐門」と有り、文政九年(一八二六)には「表八尺、妻六尺唐破風柿葺」と記録がある。
この建物は神社の神籬の出入口であり、屋根付き玉垣で仕切った中門で、卓越した技法を見ることが出来る唯一の唐門である。』(いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」より)

卓越した技法が理解できないのは素人の悲しさですが、江戸時代に建立されたとは言え、意外としっかりした建物ばかりのような気がします。メンテナンスと保存が良いのでしょうかね。

飯野八幡宮神楽殿唐門をくぐって180度回れ右をすると左手に「神楽殿」があります。


『国指定重要文化財(建造物) 飯野八幡宮 神楽殿
江戸時代初期 桁行 四.五四m、梁間 四.五四m、床面積 二〇.六一㎡
この神楽殿は、『八幡宮御造営之帳』(慶長十九年-寛永十九年(一六一四-四二))に「元和九年(一六ニ三)ちこまい堂すたて造作まで大工之作料金子弐分二しきる也」と記載がある。規模は柱間二.二七m、高さ七.一mの方二間である。屋根は入母屋造りで、鉄板葺き(元は柿葺き)。四方吹き抜けの舞殿である。
唐門と接し拝殿の左前方に北面して位置する。自然石の基礎に沓建て地覆を四周に廻す。栗材の面取り角柱に梁桁でつなぎ、腰長押と貫で固める。正面に虹梁を渡し吹放す。床は板張り、格天井とし、天井鏡板に彩色の痕跡をのこす。
背側三方の腰長押の位置に框を入れ、床下廻りを腰板張り、妻破風板に懸魚六葉を飾る。平面裏側に控え室らしい空間の穴が見うけられる。
寛永十三年(一六三六)、宝暦十一年(一七六一)など度々屋根修理が繰り返され、『磐城志』(文政九年(一八二七))によると「二間四面、入母屋作七尺五寸間神楽殿」の記録があり、当初の形態を引き継ぐ貴重な建物である。』(いわき市文化財サイトより)

飯野八幡宮神楽殿「神楽殿」の上にはなにやら人形が2体鎮座しています。蝋人形的な意味合いなのでしょうか、それとも何か儀式的な意味なのでしょうか判りませんが、どちらにしても凝った趣向かも知れません。


飯野八幡宮宝蔵「神楽殿」と反対側に石の鳥居がありその先に「宝蔵」があるのですが、これもまた修復工事中で見ることはできませんでした。


『国指定重要文化財(建造物) 飯野八幡宮 宝蔵
江戸時代初期 桁行 五.四五m、梁間 二.七二m、床面積 一四.八七㎡
飯野八幡宮宝蔵は、拝殿西側の玉垣の外に東面して建てられている。高さ四.八mの平屋建で、寄棟造りの本瓦葺き土蔵である。外側は全面本漆喰塗込みの大壁で、腰に平瓦貼りの海鼠目地漆喰塗りで固めている。入口は眉付き虹梁漆喰い仕上げに、石階は煙返しで、基礎は御影石の布基礎となっている。
内部は角柱を立て、床・壁共に板張りになっており、天井は竿縁天井である。屋根は丸瓦を青海波状に積んで大棟とし、鬼瓦は風鎮形に下り藤の紋を入れ、軒丸瓦は巴紋の土瓦、軒平は唐草紋の陶器瓦で、軒丸の数枚には藤二つ巴紋が使われている。これは宮司飯野家の紋で、唐門の蟇股や諸道具にも、この紋様が使用されている。
この建物は防火を目的として、化粧垂木まで本漆喰塗にした本造りの土蔵である。
建築年代の、具体的な記録はないが、宝蔵の屋根内部隅木の墨書銘に「寛文四年五月(一六六四)葺きがい」と書かれており延宝五年八月(一六七六)の『射具記』には「八幡宮神庫」と記されている。また寛政二年(一七九○)に「神庫但し瓦葺表三間妻九尺」の記述がある。』(いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」より)

これもまた修復が終わってから再び見ることができれば良いのですが。それにしても何かめぐり合わせですかね。
とりあえず運が良いと思っておきましょう。

飯野八幡宮仮殿「宝蔵」の右奥にあるのが「仮殿」です。


『国指定重要文化財(建造物) 飯野八幡宮 仮殿
江戸時代初期 身舎桁行 二.四二m、身舎梁間 二.一八m、床面積 一六.四七㎡
この建物は『八幡宮萬御造営之帳』の記載から、慶長十九年(一六一四)正月二十八日に隣家の火災から類焼した本殿の仮殿として建てられたことが知られる。大工四二人、京銭一貫六二文を費やして翌月の二月二十三日に仕上がった。大工は本殿の造営に当たった平沢内匠助である。本殿の西、玉垣の外に南面し、現在は神輿(しんよ)を収めている。
素木造りの一間社流造で、屋根はトタン板葺(元板葺き)、柱は自然礎石上に建つ。背面をのぞく三面に高欄付切目縁を廻らし、脇障子を立てている。正面に木階四段と石階をおき、柱はすべて面取り角柱で、繋虹梁で向拝柱と連結する。向拝柱上には舟肘木で軒桁を支える。
身舎の角柱は頭貫、腰貫、地貫を通し、内法長押、地覆長押を廻して固める。軒は疎垂木で向拝垂木は打越とする。妻飾りは、虹梁に角の大瓶束を立て舟肘木で棟木を受ける。内部は竿縁天井、床は板張り、正面に両開きの板扉、右側に板貼片引戸を建て、外壁は竪板目板貼りとする。
小屋裏内側の大瓶束に寛文十三年(一六七三)の修理銘があり、修理した大工は楼門造営に関与した平沢儀左衛門であることが判る。彼は寛文五年(一六六五)に、楢葉町に現存する木戸八幡神社の本殿造営に関わっており、その本殿板壁に「平飯野八幡宮宮大工平沢儀左衛門清貞」の墨書銘を残している。
建築様式の明らかな近世初頭の神社建築の遺例として貴重である。』(いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」より)

仮殿までもが文化財とは天晴れな気もしますが、一時でも本殿扱いされたわけですから、それなりの建築がされていて、それなりの記録がはっきり残っていたということですね。ちなみに楼門のほか、この八幡宮の神輿も平沢儀左衛門作だそうです。

飯野八幡宮拝殿「唐門」の前には立派な社殿があります。「本殿」が国指定の重文で、「幣殿拝殿」が市指定の有形文化財です。
ということで文字通り拝殿で参拝です。


『市指定有形文化財(建造物) 飯野八幡宮幣殿拝殿 一棟
指定 昭和五十七年三月二十六日
所在地 いわき市平字八幡小路八四
所有者 飯野八幡宮
江戸時代元禄十六年(一七〇三)
幣殿は本殿と拝殿の中間にある幣吊を手向けるための社殿で、切妻屋根妻入造りである。拝殿は切妻屋根平入造りで、幣殿とT字形に一棟をなし、屋根は柿葺きである。正面中央は小さな千鳥破風、そして向拝部分は一間の向唐破風である。幣殿の両側は神饒所と神職控室となり、拝殿三方の差掛け屋根は、廻縁保護のために付加された。柱は全て面取り角柱で、床は中央通り一間と幣殿は板敷であるが、拝殿両脇は畳敷である。また、刎高欄が矩形廻縁に付設する。
拝殿の特徴は、中央の間の鏡天井一面に龍の薄肉彫、欄間は正面幣殿に二頭の唐獅子と牡丹、両側面には鷹と浪の彫刻があって黒漆地に極彩色をほどこし、天井には宝永二年(一七〇五)、両側面には元禄十六年(一七〇三)の銘がある。幣殿の格天井には、宝輪などが極彩色で描いている。拝殿の柱間には、正面両側面とも二枚の縦桟の板戸を蔀風に上下に重ね、必要に応じて取り外して部屋を開放することができるが、東側面後方の下部はくぐり戸になって閉鎖のとき唯一の出入口になる。現在は正面桁行が引違ガラス障子に改造されている。
大きく目立つ向拝の大唐破風は、上部の頭貫と組物、正面大瓶束と両側面の蟇股、吹寄せの輪垂木などは後世の改造と思われるが、四本の柱や正面の頭貫、そして彫刻類は元のままである。即ち柱頭の唐獅子や篭彫の木鼻、頭貫上の龍や軒唐破風幕板の鳳鳳の彫刻、唐破風の破風板や兎毛通し、千鳥破風の破風板と懸魚なども当初のものである。唐破風の形態や彫刻の内容に時代の反映がうかがわれる。』(いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」より)

飯野八幡宮幣殿ほとんどどこの社寺でも幣殿は外から見ても何も判りません。ちょうどこの社殿は幣殿と本殿が同じ朱色で塗装されているので、それなりにイメージを掴むことができそうな気がしますが、やはり中を見なければ何もわからないのは否めませんね。
でも、社殿とか本殿だけの指定はよくあることですが、京都や奈良などと違いローカル地で幣殿拝殿のみの指定は珍しいのではないでしょうかね。
拝殿は見るからに歴史と建造物としての重さを感じます。実に美しい形状だと思います、私的には。


今日は何かあるのでしょうか、順番に何か祈祷される方がいらっしゃっているようです。

飯野八幡宮本殿 裏のに回ると綺麗な朱色に控えめに彫刻がなされたシンプルながら重厚感のある「本殿」を目にします。


『国指定重要文化財(建造物) 飯野八幡宮 飯野八幡宮本殿
指定 昭和五十八年一月七日
所在地 いわき市平字八幡小路八四
所有者 飯野八幡宮
江戸時代初期 桁行 六.三六m、梁間 六.二○m、床面積 三九.四六㎡
飯野八幡宮の縁起によれば、文治二年(一一八六)に御正体を京都の石清水八幡宮より勧請して、見物岡に社殿を建立したという。慶長八年(一六〇三)に鳥居忠政が平城築城のとき現在地に遷座したとされる。現在の本殿は元和元年(一六一五)に着工し、翌二年に上棟したことが床下の柱に記された墨書銘から明らかである。また、延宝三年(一六七五)には増改築が行われた。
屋根は入母屋造(いりもやづく)り平入りの柿茸きになっているが、当初は前室付三間社流造りであった。平面は内々陣、内陣、外陣の三室よりなり、円柱と角柱の組み合わせになる。
床は高く、三方廻縁に刎組高欄、脇障子を付けている。組物は柱上に台輪を回した和様三手先組、外陣は正面の角柱を短くして台輪、頭貫を二重に、その中間に三斗を置き、木鼻は三段に重なっている。その中備は正面が肩にひれ付きの中世風蟇股で、側面は近世風である。
軒は格組天井に蛇腹支輪で、二軒繁垂木の地垂木には強い反りがある。
柱間は正面中央が桟唐戸で、内陣と外陣境は黒漆塗りに金箔押の板唐戸である。両脇と両側面の前端は引違いの吹寄せ舞良戸、内陣の東側は板遣戸で他は板壁である。外陣の格天井の格間には花が描いてある。正面階段の擬宝珠には延宝三年の銘がみられる。
平成五年、半解体修理工事を行い現在にいたる。福島県浜通りの建立年代の明確な近世初期の壮大な祉殿であり、磐城地方における貴重な神社建築である。』(いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」より)

1,616年に上棟とはまさに関が原の戦いのあとで、ちょうど初代征夷大将軍・徳川家康が亡くなった年でもあり、実に歴史的といえるでしょうね。

若宮八幡神社この社殿の右側に「若宮八幡神社」があります。


『国指定重要文化財(建造物) 飯野八幡宮 若宮八幡神社本殿
江戸時代 床面積 一六.四七㎡
本殿玉垣の外、向かって左側に仮殿、右側に若宮八幡神社が位置する。仮殿創建に引き続いて、平澤内匠助が元和五年(一六一九)に完成した記録がある。仮殿と同規模の建物で、仮殿は角柱を使うのに対して円柱を使っていることや、前殿が付いていたことでも一間社流造り前殿付きの本格的な建物であることが分かる。
様式は素木造りの建物で、妻飾りは虹梁に大瓶束を建て、木鼻がつき、大斗、肘木で棟木を受け、拝みに蕪懸魚、二軒繁垂木、向拝柱上斗と実肘木と蟇股で桁を受け、破風に猪目懸魚が付く。
向拝柱角柱面子木鼻付き、身舎本柱は円柱、天井は棹縁天井、軸部は柱下礎石に地貫、腰貫、内法貫で組み、地覆長押、内法長押付となる。
平面は一間社流れに脇障子が付き、拭板床張り、木階七段に石段が一段付き、正面本扉軸板扉付内側に彩色絵、小脇羽目、幣軸方立付き、三方刎高欄付切目縁、向かって右側に遣戸が付く。妻側横板貼内側より目板打ち、床下周囲は竪板目板貼りとなる。
正保二年(一六四五)、宝暦九年(一七五九)などに屋根替えの記録があり、近年向切妻屋根(流し板葺き)の前殿が復元された。』
(いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」より)

「仮殿」なら意味は理解できるのですが、何故「若宮八幡」が存在しなければならないかがよく判りません。
そもそも八幡神を祀る神社を八幡神社といい、その呼び方が単に八幡社、八幡宮、若宮神社であるだけで、八幡宮も若宮八幡も全く同じものということです。そこでこの2つがある理由が判らないのですね。
仮殿に引き続いてとあるので、ここが最初の本殿だったのでしょうかね。よくわかりませんが、実に重文の宝庫たる所以が理解できます。

その他、県指定や市指定の文化財も案内板の通り沢山あるのですが、すべてを見ることはできませんのでここはこれにて終了としました。
かなり広い境内に中で建造物も含めてこれだけの文化財が残っているということは、実に火災に注意していたのではないかと推測します。多くの文化財となるべきものが戦火や災害などで多くのものが失われているのが現状ですから。
江戸時代のものがこれだけ残っているのですから、それだけでも十分に必見の価値があります。
最後に先の案内板に記載されていない重文があるので記述しておきます。

『国指定重要文化財(古文書) 飯野家文書 一、六八三通
指定 平成六年六月二十八日
所在地 いわき市平字高月一
所有者 飯野盛男
鎌倉時代~明治時代
飯野家文書は、鎌倉幕府政所執事の伊賀光宗を祖とする飯野八幡宮宮司・飯野家に伝来する鎌倉期から明治初期にいたる文書で、総数一六八三通で構成される。
このうち中世文書は二一○通。国学者大国隆正の言を容れた飯野盛容によって、明治四年(一八七一)ころ一七八通が九巻の巻子に装丁され、そのほかは未成巻のまま秘蔵された。
その内容は、関東下知状など好島荘の相論に関するもの、南北朝期の足利尊氏・同直義感状など武将としての伊賀氏の動向に関するもの、飯野八幡宮縁起注進状案・飯野八幡宮鳥居造立配分状など八幡宮に関する文書に大別される。
これらは、鎌倉期の好島荘の状況を明らかにし、南北朝の動乱期における伊賀氏の活躍を伝えており、あわせて奥州管領の権限をもうかがわせる。また室町期から戦国期にかけての、岩城氏の大名化の過程を示す資料でもある。江戸時代には、新井白石がその著『藩翰譜』に引用している。
近世以降の文書は、八幡宮の縁起や由緒、祭礼、飯野家の家譜や系図、日記、将軍家からの朱印状、磐城平藩歴代藩主の寄進状、所領や年貢、神社経営と供社寺、書状、絵図、内藤家時代に奉納された和歌や俳諧など、広範囲にわたっており内容も多彩である。また、明治初期に置かれた磐前県中教院関係の辞令や御触書、通達、願書、社寺明細なども含まれている。』
(いわき市教育委員会発行「いわき市の文化財」より)

よく徳川家からの御朱印状が残されている例は関東では多いのですが、鎌倉期からとなるとそう多くは無いのではないでしょうか。こういったものが残っているのも、実に飯野家の保存がしっかりしていたということでしょうね。
かなり興味をそそられた飯野八幡宮でした。

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コメント

  1. AzTak | -

    初めまして。
    中学を卒業するまでいわきにいました。この飯野八幡宮の現在の宮司さんに、わが中学時分のマドンナだった級友が嫁いでいます。そんなご縁で帰省すると、参拝に行きます。
    尤も、2011年までは縁が切れた故郷だったのですが、何かあると、放ってはおけなくなるようです。11年以降、1年に1度は顔を出し、故郷寄付を行うようにしました。

    ( 13:20 )

  2. 薄荷脳70 | -

    AzTakさん、ありがとうござます。

    AzTakさん、コメントありがとうござます。
    懐かしく思い出をお持ちですね^^ 思い出と未来を訪ねて1年1回は素晴らしい事です。
    私も年に1~2回しか行かなくなりましたが、1年1年少しづつ復興している姿は嬉しいものですね!

    ( 07:13 )

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