見沼田圃 #1

見沼通船堀を後にして、次は見沼田圃周辺を散策します。
見沼田圃の成り立ちは先に見てきたとおりですが、現在あるような埼玉県の最も開発の進んださいたま市で、首都圏最大級の緑地帯をのこしてきたのは、1965年の「見沼三原則」の制定が根本のようです。
この三原則は見沼地区の農地転用を制限し、原則として開発行為を不可能としたことです。そして1969年は三原則の一部修正を行い、1995年には三原則に変わる見沼田圃の保全・活用・創造の基本方針を策定して現在に至っているのです。
これにより見沼地区は保全地区として、大宮駅の僅か2km程度の場所でも農地が残っており、一部市街化、公園化されているのですが、ほぼ原型を保っているのです。
その見沼田圃の中を散策します。

浦和くらしの博物館民家園

東浦和駅から国道463号線に向かい北上します。
浦和くらしの博物館民家園 東浦和駅入口交差点を右折して東に向うと右側に「浦和くらしの博物館民家園」があります。

大崎焼却炉 浦和中央自動車教習所 私が住んでいた約15年前までは無かった施設ですが、入口から国道沿いの右方向にはグリーンセンター大崎の焼却施設があり、左側には浦和中央自動車教習所があります。

これらは15年前からあった施設で、特にこの教習所で家内が免許を取得したので実に憶えのある施設です。
早速この民家園に入ります。
この民家園は、市内に伝わる伝統的な建造物を移築復原し、その保存をはかり、過去の生産・生活用具を中心とした民俗資料を収集・保存、展示公開している野外博物館で1995年に作られたようです。

園内にそれらの建造物が点々と設置されていますが、まずは企画展が行われている展示・収蔵棟に向います。
この日は「よみがえる昭和のくらし 昭和30年代のくらしと文化」と題された企画展示がされており、特に盛りだくさんというわけでは無いのですが、リアル世代としては懐かしいものばかりでした。
浦和くらしの博物館民家園 これはたしか私の地元・川口市では「かっこめ」と言われ、縁起物で年末のおかめ市で盛んに売られていました。

当時自宅では商売をしていたので、毎年この「かっこめ」を買っていたのを憶えています。
そのほかには、鉄腕アトムや鉄人28号のブリキのロボットや、初期のプラモデルが展示されていて、実に懐かしさ満杯です。
浦和くらしの博物館民家園 浦和くらしの博物館民家園

浦和くらしの博物館民家園 また、一角にはブロマイドもあり、まさに昭和30年代にタイムスリップしてきました。

ここから園内を見て廻ります。
浦和くらしの博物館民家園 まずはこの企画展が行われていた棟自体が文化財の建造物です。

旧浦和市農業協同組合三室支所倉庫
登録有形文化財
平成9年7月30日登録 旧所在地:さいたま市三室 寄贈者:旧浦和市農業協同組合
この倉庫は、栃木県小山市内で大正8年にかんぴょう問屋の倉庫として建築され、昭和31年の旧浦和市農業協同組合三室支所(現さいたま市農業協同組合三室支店)に移築され、政府指定米穀倉庫として使用されていたものです。これを旧浦和市が寄贈を受け平成6年度に移築復元しました。
大谷石土蔵造りで、間口27.27m、奥行き7.27m、高さ9.0mで、トラス小屋組の寄棟で屋根が瓦葺きとなっています。内部は中央で仕切られ二部屋となり、それぞれ均整の取れたアーチ形の入り口が設けられています。市内では農業協同組合の倉庫として数棟知られていますが、この倉庫は年代も古く建築技術も立派であり、登録有形文化財に登録されました。』(現地案内板説明文より)

アーチ型の入口に確かにインパクトがあります。この園を代表する建造物といえるでしょう。
この倉庫の右手側に2つの民家があります。ここは中山道にあった商家を復元したエリアです。

一つはは旧綿貫家住宅で、常盤2丁目の旧中山道沿いにあった明治時代の荒物商で砂糖・米穀なども扱っていたようです。
浦和くらしの博物館民家園
綿貫家初代は当時の浦和町の町政の要職を務めた所謂名家です。
この建造物は店舗を復元したものなので蔵つくりのなっていて、特徴的なのは虫籠に似ていることから虫籠窓とよばれた格子窓だそうです。
浦和くらしの博物館民家園 建物内には荒物商ならではの秤などが展示されています。

二つ目は旧高野家住宅で、岸町7丁目にあった煎餅を製造販売する商家だそうです。
浦和くらしの博物館民家園
移転当時は瓦葺き立ったようですが、解体調査の結果、建築当初は茅葺だったことから移築時に茅葺に復元したそうです。
正確に裏付ける資料は無いようですが、推定では江戸時代末期の安政年間の建築と考えれているようで、そういった意味では現存する中山道商家としては最も古い建物と貴重な建物なのだそうです。
建物内はまさしく煎餅屋そのものの展示がされています。
浦和くらしの博物館民家園 煎餅入れのガラスケースは極々現在でも見ることがあります。

2つの民家の前の丸く広い広場を挟んで反対側には、いくつかの古民家が並んでいます。

浦和くらしの博物館民家園 左側のどっしりとした古民家が旧蓮見家住宅です。

江戸時代中期(18世紀前半)くらい建築で、寄せ棟のかや葺き農家で、広間型三間取りというこの地方の典型的な古民家なのだそうです。現存するさいたま市に残されている民家では最も古いものと考えられているようです。

浦和くらしの博物館民家園 その右側にある小さな建物は旧中島家穀櫃で、穀類を保存する板倉、間口2.94m、奥行き1.16mほどの寄棟、茅葺きの小建築です。

この地域の貯蔵方法を知る貴重な建物なのだそうです。

浦和くらしの博物館民家園 更にその右側にあるのが旧武笠家表門です。

寄棟、茅葺きの長屋門ですが、通例の長屋門とは若干造りが違うようで、武笠家では、正規にこの門を開くのは婚礼や葬儀など特別の日に限られ、日常は別にあった通用門を用いたといわれています。
特徴は長屋門ながら作業場となる広い土間を持っている点で、農家の生活の即した機能性の高い建築なのだそうで、江戸時代後期の建築と見られ、市内にあるこの形式の長屋門の代表例です。

浦和くらしの博物館民家園 浦和くらしの博物館民家園 この3つの建物と一区画離れたエリアにあるのが旧野口家住宅です。

野口家は代々安楽寺という寺の住職を勤めていた家柄で、この建造物は寺の庫裏として使用されたもので、明治初年に安楽寺が廃寺になると野口家の母屋として移築使用されたものだそうで、墨書名から安政5年とあるので、ほぼこの辺りの建立と考えられています。
そしてこの家の大きな特徴は、屋根が大きく背が高いことで、軒は梁の先端部分を造りだし化粧材として見せる「せがい造り」にあり、歴史的背景が分かる資料価値の高い建造物なのだそうです。

以上のような民家のほかに、このような当時としてはつき物のような建造物があります。

浦和くらしの博物館民家園 その一つが稲荷社です。

『農業の神から商売の神へ お稲荷さん
古い農家の庭先や神社の境内には「お稲荷さん」が見られます。
お稲荷さんは「いねなり」から転化した名前です。本来の神像は、稲を荷った農民の姿で現されています。赤い鳥居は雷の稲穂に宿り豊作をもたらす炎(エネルギー)を意味するといわれます。
その後、仏教の荼枳尼天と合体したため、「狐」がお使いとなりました。江戸時代の中頃には、農業の神から殖産興業の神、商売繁盛の神、屋敷神(家神)へと信仰が広がり、街中のあちこちでみられるようになりました。当時の普及ぶりを、江戸の街中に数多くあるものをあげ「伊勢屋・稲荷に犬の糞」と揶揄した「うた」が残されています。』(現地案内説明文より)

特に当時の江戸、現在の東京には確かに稲荷社が数多くありますから、非常に身近な信仰として広まったのでしょうね。

浦和くらしの博物館民家園 更にもう一つが庚申塔です

健康長寿を願う庚申塔
庚申塔は「庚申信仰」により、地域で結び付いた人達(庚申講)が講中の健康長寿を願いつくり立てたものです。庚申信仰とは、昔(明治時代以前)、月日(カレンダー)を十干十二支で表していましたが、60日に一度めぐってくる庚申の日の夜は、体の中にいる三尸虫(上尸・中尸・下尸)が抜け出し天に昇り、その人の暮らしぶりの中で悪いことを訴え命を縮めるという信仰にしたがい、庚申の夜は講中が集まり寝ずに楽しくすごし、三尸虫が昇ることを妨げ健康長寿を願う民間信仰です。
また、村境で疫病神の侵入を阻止する役割も与えられ、村人の出入りを守る神としても信仰され、村境の(辻)に立てられました。さらに、村境に立てられたものには道標の役割をはたしている石塔もあります。
いつの時代でも庶民の健康願望はつきません。身近な庚申塔の伝承、庚申信仰の由来を調べ、昔の人の健康長寿への願いと現代の人健康長寿への願いを比べると興味深いと思います。』(現地案内説明文より)

様々な歴史を尋ねて見ると確かに何処にでもあるのがこの庚申塔ですね。
当時の医学や薬学などを考えると、こういった信仰に頼るのは極々当たり前のことでしょう。それゆえに各地に庚申塔が存在しているのでしょう。
因みに上尸の虫は道士の姿、中尸の虫は獣の姿、下尸の虫は牛の頭に人の足の姿をしていて大きさはどれも2寸、人間が生れ落ちるときから体内にいるのだそうです。
浦和くらしの博物館民家園 これ自体が道教を由来にしているもので、人間が正しいことをするのを忌み、悪いことをするのを喜ぶのだそうです。

所謂、天使と悪魔で、天使が庚申信仰で、悪魔が三尸虫といったところでしょうか。
稲荷社と庚申塔で少し歴史の知識の幅が広がったような気がします。

最後に旧蓮見家住宅の裏手の遊歩道を散策してみると興味深い案内板がありました。

「四本竹」の竜神伝説
この前方に「四本竹」というところがあります。
その地名はむかし四本の竹を四方に立ててしめ縄を張り、そこを祭祀の場としてお祭りを行っていたことからその名がつきました。その辺り一帯は見沼という大きな沼で、沼の主の竜神が棲んでいたといいます。

〔昔々、宮本の氷川女體神社は、2年に一度、見沼の一番深いところに神輿を舟に乗せていき、沼の主の竜神を祀る「御船祭」というお祭りをおこなっていました。
神主が、舟から四本の竹をしめ縄で囲ったところに向ってお祓いを済ませたあとで、お神酒や供物を沼にささげます。すると、そこはまたたく間に渦を巻き、ささげた供物などを沼の奥底にあっという間に吸い込んでしまったというのです。
見沼の竜神は人々に沼の恵みや、田畑を耕す水を与えて人々を見守ってくれているので、竜神を大切にするお祭りが昔からつづいているのです。〕

四本竹遺跡の発掘調査
四本竹遺跡の発掘調査では790本の竹が出てきたといいます。「御船祭」は2年に一度のお祭りで見沼の干拓工事が始まる(1727年)頃までおこなわれていたといいます。一度のお祭りで4本の竹を使い、発掘された本数が790本です。この本数から単純に計算すると何年分で最初は何年ということになるでしょう。
※答はこの看板の右側面にあります。ただし、その時代がたしかとはいえません。』(現地案内板説明文より)

浦和くらしの博物館民家園 答はこれです。

『790本÷4本=197.5回分 2年に一度なので197.5×2=395年分 1727年-395年=1332年(鎌倉時代)』となるのです。

それだけでかなり古い歴史を持っていることがおぼろげながら垣間見えます。
浦和くらしの博物館民家園 それにしても竜神伝説とは、水あるところ必ずある伝説ですが、それだけ見沼が重要な地域だったということでしょう。

先の案内板にはさいたま市の竜神伝説の一覧も掲載されていました。

さいたま市の主な竜神伝説
1.左甚五郎の竜、釘付けの竜、開かずの門 2.竜神の決意、竜神灯 3.見沼のイモリ 4.蛍の御殿 5.竜神の森 6.人身御供 7.見沼の笛 8.井沢為永と竜 9.おしゃもじ様 10.水呑み竜 11.弁天様の使い 12.竜神村 13.美女と馬子 14.左甚五郎の竜 15.蓮を作らない 16.四本竹 17.御沼の手毬 18.御船祭 19.見沼のゴイ』(現地案内板説明文より)

随分と沢山あるようです。一つずつ調べてみると面白いのでしょうね、きっと。
最後に見沼の竜神伝説を知って民家園を後にしました。

民家園後にはすぐ前にある「大崎公園」に寄ってみました。
大崎公園 大崎公園
綺麗に整備された公園です。何度か当時来た記憶はあるのですが、当時の記憶にこの光景は浮かんできません。
それでも懐かしい場所でした。

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