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平城址

飯野八幡宮を後にして次は平城の旧城址に向かいます。駅の裏程度の知識しかないので近くなはずなのに結構迷いました。とくに道が狭いので車で行くには無理があるような、無いような。

龍ヶ城美術館ということで何とかたどり着いたのが地図にも掲載されていた「龍ヶ城美術館」です。


この美術館は毛利輝元の長男・秀就の遺品や、毛利家旧蔵馬寮馬具一具などの、磐城平城に関連する美術品を収蔵展示しているそうで・・・ って、何故にシャッターが降りているのでしょうか。
今日は30日の日曜日で、休館日は月曜日と建物の前の案内板には書かれているのに。選挙だから休み? まさかね。それとも閉館、財政難とかで。
さすがにここまで来るとポジティブシンキングなどと言っている余裕は無いですね。せめて何故今日は開いていないのか位、教えておいて欲しいですよね、観光客なのだから、一応。
何か、ムラムラと原辰徳・・・古いオヤジギャグ・・・的な気持ちですが、ここは切り替え切り替え。

「龍ヶ城美術館」のホンの10mくらい先にはなにやら広い土地があり、遠くに石碑と社寺が見えます。ここが旧城址なのでしょうか。

平城址のゲート立派なゲートがあるのでここから入るのでしょうが・・・チェーンで封鎖されている! な、何なのでしょう、まったく。


平城址 旧城址も休み・・・って、ことは無いですよね。
とりあえず写真だけとりましたが、別な入口があるのかと周辺を歩いてみましたが、住宅ばかりで判りませんでした。


結局のところ何が何だか判らないままなので、平とかいわきとか平城とか調べてみるとしますか。
まずはこの磐城地方に関する歴史から紐解くと、どうやら岩城氏の歴史から始まるようです。

岩城氏は、陸奥国の浜通り南部を支配した大身であったそうで、大身とは室町時代中期から戦国時代にかけて、国人領主の中で数郡以上を領有し大名並の勢力を持った領主のうち、鎌倉時代から連綿と続くの氏族のことだそうなので、先祖は鎌倉時代前まで遡れるということです。
岩城氏とはそもそも桓武平氏国香の後裔のうち常陸国を本拠とした一族、所謂、常陸平氏の血の流れを汲む名族で、その子孫が奥州に土着したことが岩城氏の始まりと言われています。
平安時代には清原氏や奥州藤原氏(このあたりは前回のいわきルポの【勿来の関】で調べました)と関係が深かったようで、岩城氏の祖と言われる岩城則道の正室は奥州藤原氏出身といわれており、清原氏の出自自体も岩城氏の流れとする見方もあるようです。
さて、鎌倉時代になると岩城氏は単なる地頭職に留まり、この周辺の勢力は伊賀氏が握っていたようです。しかし南北朝時代となると伊賀氏が衰退をし始め代わって岩城隆泰が台頭し、磐城一帯の領国を支配しました。
その後一族の内紛が発生し、最終的に岩城隆忠の系統が当主になったと見られています。そして岩城親隆・常隆・由隆の時代では佐竹氏や白河結城氏の内紛に介入し、軍事的にも外交的にも成果を収め常陸国から南東北にかけて勢力を伸ばし、岩城氏は全盛期を迎えました。この頃築かれたのが大館城(飯野平城)だそうで、その後相次いで館が建てられるのですが、それが岩城四十八館といわれる48の建物だそうです。

-岩城四十八館-
磯見館、外城、高見館、荒川館、植田館、白水館、小松館、関小館、高森館、矢田館、船尾館、住吉館、磐出館、関内屋舗、持留館、片寄館、西郷館、林館、冨岡館、朝日館、小館、狐塚館、幕之内館、神谷館、汐見館、中島館、高部館、愛谷館、鯨岡館、白土館、小松館、高崎館、東山古館、大森館、中島館、絹谷館、小松館、内屋舗、中塩小館、玉山館、上船尾館、鎌田館、外城、内城、中山館、中山館、水野谷城

しかし、戦国時代に入ると様相は一変します。相馬氏や田村氏といった近隣国人との抗争が激化し、さらに伊達氏や佐竹氏などの勢力が強まってきた為、岩城氏の影響力は次第に減退していきました。
この間岩城氏は伊達晴宗の嫡男である親隆を養嗣子として迎えたり、その親隆とその子の常隆の時代には佐竹氏から苦しめられ、一時的に佐竹氏に家中の主導権を握られる状況になったようです。
1590年秀吉の小田原征伐が勃発し、常隆は小田原に参陣することで所領を安堵されたのですが、征伐直後常隆は病死し、その子(政隆)が幼少であったため、常隆の後継には佐竹義重の三男・岩城貞隆が継いだそうです。
1600年の関が原の戦いで当初は東軍方であったのですが、実兄の佐竹義宣の命により上杉景勝征伐に参加しなかったため、戦後、磐城12万石は没収され、磐城地方での岩城氏の支配が終わったのです。
ここまでが江戸以前の岩城氏と磐城地方の歴史です。ちなみに岩城氏はその後、一族の一部が紀伊半島の白浜へ移住し最初に開拓したようで、士族として明治維新をむかえたそうです。

また、貞隆は信濃中村藩(川中島藩)1万石の創設を許され、その息子の岩城吉隆は出羽亀田藩の藩主でしたが、伯父・佐竹義宣の養子に迎えられて秋田藩第2代藩主「佐竹義隆」となったため、貞隆の弟の多賀谷宣家が岩城氏に迎えられて「岩城宣隆」と名乗て亀田藩をついだそうです。
更に貞隆が岩城氏を継いだときに幼少だった政隆は伊達氏の家臣となったのですが、亀田藩における貞隆・宣隆の系統が断絶した結果、伊達氏から迎えた養子は政隆の直系の子孫である岩城隆恭だったそうです。これによって親隆-常隆にわたる岩城氏本流の系統が150年ぶりに岩城氏当主に付くことになったそうです。
この経緯よって宗家の秋田藩との亀裂が生じ、幕末には対立が激化し苦難の歴史を歩んだそうです。
判ったようなわからないような、実に複雑で因縁めいた話ですが、結構好きですねこうゆう因縁話は。

以上のように磐城地方を400年以上支配していた岩城氏が関が原の戦い以降領地を没収され、この地を去った後に浜通り南部を治めたのが徳川家康の側近でもある鳥居元忠の三男・鳥居忠政でした。
この鳥居元忠は秀吉政権下で家康が関東に移封されたときに下総(現在の千葉県)矢作に4万石を与えられ初代矢作藩主となったのです。
鳥居元忠は1600年伏見城守備の総大将として、副将内藤家長と共に4万余の石田勢の猛攻に対し1800の兵で13日間死守して討ち死にし、家康の天下覇権の礎となったそうです。この元忠の戦死により第2代矢作藩主となったのが先の三男・忠政です。
そして家康は壮絶な討ち死にをした鳥居元忠、内藤家長のそれぞれの嫡子を、磐城平藩の初代、2代の領主に任命したのでした。
こうして第2代矢作藩主・忠政は1602年、10万石で磐城に移り、まず岩城氏の居城であった大館城(飯野平城)に入封しました。
このあたりは当時飯野平と呼ばれていたのですが、忠政は岩城の“いわ”の字を変更して「磐城平」に変更したそうです。
そして忠政は大館城の東(現在のいわき駅北側)に新たに大阪城をモデルとした磐城平城を築城しました。この際、治水のため丹後という翁を人柱にしたという話があり、現在でもこの周辺に「丹後沢」とい名前が残っているそうです。
また、これにともなって城下町の再編も行い、現在のの八幡小路付近にあった紺屋町等を移して家臣の屋敷にし、高台に数多くあった寺社を移して、そこを城郭にしたそうです。
こうして「磐城平藩」が誕生したのです。

そういわれてみれば車で迷っている時に、ちょうどいわき駅裏のあたりに石垣のようなものがづっと詰まれていましたが、あれが城の石垣だったのでしょうかね。思ってもいなかったので写真も撮っていませんでしたね。アハハ。。。

その後、忠政は磐城平城に21年間居城し、1622年政治行政両面に良い働きをしたことを将軍家光に認められ、山形20万石の大名として栄転しました。
忠政の後の「磐城平藩」2代目藩主は家康の任命により、内藤家長の嫡子と決まっていましたから、家長の長男である内藤政長が藩主となりました。
このとき政長の嫡子忠長(忠興)に2万石、政長の女婿・土方雄重に1万石が与えられ、磐城平藩は7万石となりました。
政長没後、継いだ忠興は1638(寛永15)年から約10年に渡って領内の総検地をおこない2万石を増収させました。また、1649(慶安2)年には平藩にとって最初の成文法である「家中法度」「諸代官郷中取扱之定」「郷中御壁書」を制定したそうです。
更に新田開発も盛んで用水路などの普請が行なわれ、代表的なものに小川江があり、小川から四倉まで30km、31ヶ村にわたる用水路だそうです。
忠興が隠居後の藩主が義概ですが、若い頃から和歌や俳諧に傾倒していた為、藩政をまかせっきりにしていたそうです。
その後、義孝、義稠、政樹の代まで天災や普請のため財政が圧迫し、1738(元文3)年起こった百姓一揆の処罰的な理由で1747(延享4)年、内藤家は延岡に移封され、6代120年つづいた内藤家の藩主時代が終焉したのです。

その内藤家に代わって1747年、藩主となったのが井上正経です。もとは常陸笠間第3代藩主だったのですが、結局1756年大阪城代の栄転してしまい磐城平藩主としては10年間のみのため史料が少なく実態が把握できないそうです。
ちなみに井上正経の時代は3万7000石だったようです。

井上家の後に1756年美濃国(岐阜県)加納から加納藩主安藤信成が入封しました。この時点では5万石と言われています。
信成は入封後、藩校施政堂を八幡小路に創設し藩士の子弟を教育したそうです。その後信成は幕府内では寺社奉行、若年寄を経て、1793(寛政5)年に老中に就任したそうです。これ等の功績により6万7000石となったそうです。
2代、3代は病などで隠居し、4代信由は江戸城西ノ丸の普請などを行なったようです。そして歴代藩主の中で最も有名なのが5代藩主、安藤信正です。
桜田門外の変で井伊直弼亡き後、老中として幕政を主導しましたが1862(文久2)年の坂下門外の変で失脚、強制隠居処分に処されて、所領も4万石に削減されました。

1868年戊辰戦争が始まると、幕府側として官軍を迎えうちますが、7月平城は落城し信正は仙台領へ逃れました。
この後、7代信勇は1869(明治2)年磐城平藩知事となりますが、1871(明治4)年の廃藩置県により平藩は消滅し、磐城平県、平県、磐前県を経て、現在の福島県になったそうです。

以上が岩城氏と平藩の歴史の一端です。ま、安藤信正が平藩主だったことは意外でしたね。
こうして調べてみると、この廃藩置県の際に城跡は民間に払い下げられたそうです。それゆえに私有地として柵によって囲まれてゲート内に入れなかったのですね。
ここで磐城平城について多少の補足。

磐城平城は旧陸奥国磐前郡にあった磐城平藩の藩庁の城で、壕の形が草書体の『龍』の形に似ていた事から別名『龍ヶ城』とも呼ばれ、天守閣の代わりに本丸の三層櫓を持ったその姿は『磐城名物三階櫓、竜のお堀に浮いて立つ』と詠われ天下の名城を誇っていたそうです。
前述の鳥居忠政が1603年から12年かけて造り上げた城で、1868年の戊辰戦争において旧・幕府側についた当時の老中・上坂助太夫が明治政府軍に攻められたため自ら城に火を放ち逃走し、磐城平城の歴史の幕を閉じた、約250年の歴史を持つ城だったのです。

現在の城跡はほとんど当時の面影がないようで、遺構は石垣・土塁・水掘などを残すのみとなっているようです。この一部が「丹後沢公園」となっていろそうです。
また、水堀は1897(明治30)年に常磐線を開通させる際に一部埋め立てられたようです。
建築物としては、掻槌門が市内平藤間の民家に、長橋門が市内平新川町の民家に、どこの門か定かではないが城門が市内平沼ノ内賢沼寺に、それぞれ移築され現存するそうです。賢沼寺には昨日行きましたが、山門のことですかね?

明治天皇像ちょうど「龍が城美術館」の左手に何やら銅像があったので登ってみると明治天皇の銅像でした。珍しいといえば珍しいでしょう。私も始めてみましたからね。


丹後沢公園結局この銅像のある場所に上がった階段が城の石垣だったのですね。
石垣を降りてホンのちょっと道沿いを行くと「丹後沢公園」と刻まれた銘石がありました。なるほどここ人柱・丹後を命名した公園ですか。


丹後沢公園立ち入り禁止鬱蒼とした奥に続いているようなので行ってみると、またしても立ち入り禁止でした。


ちょうどこの場所が石垣の上に当たるので、ここから元本丸や二の丸跡の公園はだいぶ下がって行くようですが、そのために木の階段が造られていますが、その階段が崩れかけているようなので立ち入り禁止となっているようです。まあ、実にポジティブシンキングを強いる場所ですね。
美術館・・・入れない、城址・・・入れない、公園・・・入れない、の「入れない三兄弟」の攻撃で精神的に参ってしまいますね、これでは。
恐らく公園は別のところから入れるのでしょうが、実際のところいつ雨が降ってくるかもわからない空模様なので今日はこれで終了することにしました。

市内の眺望でもなかなか眺望は良いようで、いわき市街がよく見える場所でした。


歴史を振り返って現在を思うと随分と不憫な城であり、且つ運の悪い城であったのかなあと思わされます。当然、官軍側だったら現在でも残っていたかもしれませんね。また、歴史のように焼き払われても払い下げられなければとか、払い下げられてもこんなに駅に近くなかった、などなど思えば不運ですね。
払い下げられたものは宅地や工場などになっても仕方がないことで、これを責めることは誰にもできないでしょう。まあ、せめて一部でも公園として残っているのですから、それで良しとしてもいいのでしょうね。
まあ、あまり見ることができなかった磐城平城址でした、これを機会に岩城氏、磐城平藩、磐城平城を知るきっかけとなったことが有意義だったのではないかと思っています。
また、別の機会にじっくり見ることにしましょう。まだまだ、何回も行く機会がありそうですから。

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